誰のために魚は泳ぐ 1

 午前中の授業がようやく終わり、教室移動から戻ったら、自分の椅子に見知った人物が座っていた。背もたれを抱え込んで後ろ向きに座り、退屈さを滲ませた瞳で流川を見上げてきたのは三井だ。
「おせーよ流川」
 目が合うなり、何故か文句を云われた。
「なにやってんすか?」
 三井と約束をしていたわけじゃない。怒られる謂われはこれっぽっちもないのだが、もうこの理不尽さに流川は慣れてしまっているので、反論はしない。
「あのさあ、おまえのチャリちょっと貸せ。鍵くれ」
「なんで……?」
「歩くのが嫌だからに決まってんだろうが」
「どっか行くんすか?」
 尋ねながら、昼飯を買いに校外へ出るのかと答えを思いついた。疑問は解消しかけたが、三井が答える。
「駅前のさぁ──」
 そこで彼は何故か少し逡巡したそぶりを見せ、続けて云った。
「ペットショップに行きてえんだわ」
 流川は無言で目を見張る。教室内は、次々に戻ってきたクラスメイトで賑やかになってきた。普段味わったことのないような女子生徒からの視線を感じて流川はそちらにも意識を向ける。多くの視線を集めることに流川は慣れていたが、いつものそれとは空気が違うようだった。この空気を作っている元凶は三井だ。三年生が一年生の教室にいれば注目を浴びるのは当然だが、それが三井なので余計にこうなるのだと流川は思う。見映えのする長身と顔立ちに加えて、一年生にはない大人びた雰囲気を匂わせる三井は人の目を自然と引く。
「ちょっと、出ようぜ」
 視線が気になったのか、三井が椅子から降りて流川を促した。学ランの袖を掴まれ、引かれるままに流川は三井に続いて廊下に出た。教室の扉から少し離れたところまで歩き、二人で向かい合う。
「ったくさあ、理不尽なんだよ。俺、宮城と木暮に『ヒドイ』って云われたんだぜ? 一年の女子に金魚七匹も押し付けたヒトデナシ扱いでよ。この間の、祭ん時の話したらさ」
 心外だ、という風情で三井が愚痴る。
「ああ……」
 流川には心当たりがあった。先日、秋祭りで金魚すくいをした三井は五匹の金魚をすくった。残り二匹はおまけだった。その金魚を、マネージャーの赤木晴子の友人である藤井に持ち帰って貰ったのだ。
 あの時は、宮城たちに見つからないよう二人でこそこそと隠れながら祭りを楽しんだのに、結局三井は祭りに行ったことを自分で話してしまったのだなと流川は呆れた。その一方で、お喋りな三井は金魚を五匹すくった自慢をしなければ気が済まないだろうからいつかは話すだろうなとどこかで予想もしていた。
「『あの子は大人しいから困っても絶対断れねえのに』とか、めちゃくちゃ責めやがって。そう云われても、もうどうしようもねえし」
 確かに藤井は大人しそうで、思い返せば体育館に見学に来た時もいつも控え目に中を覗いているような気がする。
「嫌がってはなかったと思うス。……たぶん」
 絶対に嫌がっていなかったと断言するほどの自信はない。別に脅迫したわけじゃないが、なにしろ彼女たちを見つけたのは自分だったし少し強引だったかもしれないと、流川もあの日のことを振り返ってみた。
「あっちが、五匹はへーきだっつったから。七匹とたいして変わんねえ」
 藤井が自分からそう云ったのだ。宮城や木暮はその状況を見ていたわけではないから三井が無理やり押し付けたと思うのだろうが、受け入れる意思は藤井にもあったように思う。
「だろ! で、赤木の妹に訊いたら、別に藤井はあの後文句もなんも云ってなかったってさ。ただ、嫌だと思ってても云い辛ぇってのは確かにあるかもしんねえだろ? 彩子みたいに気ぃ強いタイプなら別だけど。五匹って云い出した時点でかなり無理してる状態だったっつう可能性も、なくはねえんだよな」
 あの時の藤井が無理をしている顔をしていたか思い出そうとして、流川はすぐに諦めた。どうもそんな記憶は頭の中に残っていないようだ。
「で、徳男に話したらさあ、金魚のエサでも買ってきて少し藤井に渡したらいんじゃねえかって云われたんだよ。まー、それもいいかなって……エサなら、いくらあっても邪魔んなんねえだろ」
 それでペットショップに繋がるのかとようやく流川は理解した。
 いつも他人を振り回すくらい勝手なくせにどこか真面目なところがあって、律儀さが不意に顔を出すのが三井だ。
 みんなに責められるのは不本意だし、せめてエサ代を少しでも払って三井は気を楽にしたいのだろうなと流川は想像した。自己満足と云えば、そうかもしれない。けれど、藤井にとっても別に悪い話ではないだろう。
「いまからエサ買いに行くつもりなんすか?」
「だって、放課後は部活じゃねーか。部活後はもう閉まってるし、朝はまだ開いてねえんだよな。いましかねえだろ」
 それもそうかと流川は納得した。駅の近くに中規模のペットショップがある。三井はそこに行きたいのだろう。
 少し考えて、口を開く。
「ペット用品なら、駅前まで行かなくてもホームセンターにある」
「え、それどこ? この辺にホームセンターあったっけ。道わかんねえぞ、俺」
「ここから少し北の方に行ったトコ。鍵、取ってくんから。ちょっと待ってて」
 流川は、廊下に並んだロッカーの自分のスペースに足早に向かう。昼休みなので教室を出入りする生徒たちで廊下は少しざわついていて、ここでも三井は少し目立っていた。目立つ三井を待たせたままダイアル錠を外して、ロッカーの中から自転車の鍵を取り出した。ポケットに入れたまま持ち歩くとどこかで横になって眠った時に落とすので普段からなんでもロッカーに仕舞っている。念のために財布も持ち出して、手早く学生ズボンの尻ポケットに入れた。
「……つうか、もしかして一緒に行ってくれんのかよ?」
 背後に立った三井の気配を背中に感じながら、流川は振り向かずに頷いた。ロッカーを閉めて、ダイヤル錠を掛け直す。
「俺にも、責任あるでしょ」
 振り向くと、三井は流川との間に一人分の距離を空けて立っていた。目が合ったが、三井はすぐに視線を下に流した。
「別に、そんなこと思ってねえぞ俺は」
「それに、口で説明しても先輩は道わかんねーと思う。ちょっと、分かりにくい」
「この辺り、あんま北の方は行ったことねえんだよなぁ」
 三井は地元じゃないし、電車通学だから通学路から外れた場所には詳しくないはずだ。
「行く準備って、もう出来てんすか?」
「行けっけど……でも、おまえ昼飯食わなくていいのか?」
「朝練のあとに少し食べたから。まだ平気」
「ふうん。俺も、あとでパンでも食えばいいや」
 流川は昼飯を購買で買う予定にしていたのだが、いまはどうでもよかった。本当は空腹だったが、それは些細なことだった。校舎内に充満し始めた胃袋を刺激する匂いと好奇の視線を躊躇いなく無視して、二人で階下に降りた。

 流川の自転車は、三井を後ろに乗せて快調に走る。祭りに行った時も同じように彼を乗せたが、あの時は人出が多くて、歩く速度と同じくらいのろのろと走る羽目になった。あれはあれで、きっと自分は秘かに楽しんでいたのだろうなと流川は思い返す。あの時点では、まだ自分の持っていた感情にきちんとした名前はついていなかったけれど。
「なあ、俺の感覚では、こっちの方が駅前行くより時間かかってる気がすんだけど」
「そーすか?」
 背後から物言いがついたが、流川はお構いなしでホームセンターに向かう。ひたすらペダルを漕ぐ。車通りの多い県道は走り辛く、他人を乗せているので狭い歩道を慎重に走っていたが、途中から道幅の広い歩道に切り替わった。余裕が出来たので、流川は三井を一瞬だけ振り返って答えた。
「俺はこっちの方がちけーと思ったんすけど。行き慣れてんからかもしんねえ」
「え、おまえ普段ホムセンなんか行くの?」
「そりゃあ、行く」
「何買うんだよ?」
「……この間、親に頼まれた竿買いに行った」
「さお!? 竿ってなんだよ!」
 三井が背後で弾けたように笑った。肩甲骨の間に三井の前頭部が押し付けられ、流川は苦しい姿勢で首を捻りそれを目視で確認した。笑う三井が起こす振動が、皮膚や骨を通り流川に伝わる。思いがけない背中の温もりと不規則な振動に完全に気を取られ、ハンドル操作を疎かにして自転車が傾いだ。
 慌てて立て直そうと、流川はペダルを強く踏み込んだ。車輪の回転数が増えてスピードが上がったので、なんとか倒れずに持ち直した。
「ソレ、どうやって持って帰ったんだよ」
 三井はまだ少し笑っている。後輩の無謀な自転車運転については気にも留めていない様子だ。
「折り畳み式で、箱に入ってたから、フツーにチャリ乗って片手で持って帰った」
「折り畳み式の竿〜!? しかも箱入り!」
 また新しい笑いの波がやってきたらしく、彼は再びゲラゲラと笑った。流川にはよく分からない笑いのツボが三井にはあるのだと思った。
 流川が買った「竿」の本当の名称は「折り畳み式伸縮物干し」で、室内干しをするための物だったが、頼まれ事をこなしただけの流川自身はそんなことまでは知らなかった。洗濯物を干す竿だという認識はあったし、実際に母親が部屋の中でそれを使っていることは知っているが、三井にその機能を説明できるほど理解しているわけではない。
 笑う度に三井が頭を背中に押しつけてくるので、なんとかしてずっと笑わせておく方法はないかと流川は真剣に考え始めた。
 たとえ制服の厚い布地越しであっても、普通に生活していたら経験出来ない三井の感触が流川の心を揺さぶる。そのおかげで、自転車までゆらゆらと揺れる。
(……人の気も知んねーで)
 後輩の中で小さな嵐が巻き起こっていることも知らず、三井はいつまでも呑気に笑っている。
「あー、笑う。涙出た」
 ひとしきり笑った後、三井は流川の背中を叩いてきた。
「おまえ、ぜんぜんそーいうのが似合わねえから想像すんと笑えるな。でも、見てえかも、それ持ってるとこ」
「そんなんで笑えるなんて先輩は変わってる」
 流川には面白いポイントが全然分からなかった。なにしろ、事実を話しただけだ。
「変わってんのはおまえだ」
 即座に云い返されて反証を考えたが、百メートルほど先に緩やかな長い上り坂が迫ってきたのでそれどころではなくなった。
「先輩、ちゃんと掴んどいて」
「ああ? なにを?」
「荷台のどっか。坂だから」
 流川は力いっぱいペダルを漕ぎ始める。
「あ、降りるか? 俺」
「いや、降りねーでいい」
 この坂で自転車から降りることは敗北を意味する。普段から、決してこの坂で自転車を降りないと流川は心の中で決めているのだった。この坂を上った先に、目指すホームセンターはある。
「おー、結構すげえ坂」
 横から顔を出すようにした三井が坂を見て云った。
「よし、このまま行け。途中で止まったら笑ってやる」
「ヘイキ」
「おまえには無理じゃねえの?」
「ヨユウ」
 三井の挑発的な発言に、流川は更にペダルを強く漕いだ。後ろに乗せた人間を降ろすことだってこの坂に屈したも同然だ。後ろに乗せているのが三井ならば更に自分が許せない。敗北なんて絶対にしたくなかった。
 自分は一切何もしないくせに流川を煽る三井を乗せたまま、自転車は坂道をぐんぐんと上った。

 ホームセンターで、三井はテトラフィンというエサを買った。幾つかサイズがあったので、一番小さなものを購入した。とりあえずお試しサイズにしておこうと三井が決めたのだ。
 エサの種類自体は他にもいろいろあって、一応それもチェックした上で決定したが、なにしろ三井も流川も金魚については詳しくないのでエサの選び方が分からなかった。金魚のエサごときでは、棚の前でいくら悩んでいても店員は寄って来ない。
 結局、最終的にはテトラフィンの見た目が決め手になった。自分がエサをやるわけでもないので、決め方はそんなものだ。商品パッケージに載っている写真を見る限り、エサの形状はまるで出来そこないの紙吹雪のようで、一番エサっぽくないところが三井の気に入ったらしい。糸状の虫を固めたような生々しい見た目のエサも売っていたが「これグロイよな」と指を差しながら云った三井はパッケージにすら決して触らなかった。
「あ、たい焼き食いてえかも。食おうぜ」
 無事に買い物を終えた後、入り口近くのフードコートを外から覗いて、三井がたい焼きの看板を見つけた。流川はこのフードコートには数回しか入ったことがなかった。一人の時は、用事を済ませたらすぐに帰宅する。
 祭りの時もそうだったが三井はこの手の誘惑に弱いらしく、当然のように中へ入って行き、奢りだと云って流川にもたい焼きを選ばせた。
 学校までの帰り道、少し戻ったところにある小さな緑地に寄った。ベンチは少し年季が入っていて座る気になれなかったし、草の上は制服が汚れそうだと三井が云うので、仕切りに使われているブロックに座って街を見下ろしながら二人でたい焼きを食べた。流川は餡子で、三井の具はクリームだ。流川は甘い物は得意じゃないが、たい焼きならばスタンダードなものが良いなとこれを選んだ。昔ながらの懐かしい味がする。
「少し千切って俺のと交換しろよ。餡子も食いてえ」
「……尻尾だけね」
 渋々了解した。三井の金で買ったものだが、流川はクリームが好きじゃないのでこれでも譲ったつもりだ。
 三井が千切ってくれたたい焼きの尻尾を口の中に放り込みながら、流川は空を見上げる。秋も深まっているというのに、天気が良くて少し暑いくらいだった。自転車で坂道を上り切った時に熱くなった身体がまだ熱を残しているのかもしれない。今頃、学校では昼を食べ終わった生徒が騒いだり昼寝をしたりしているだろう。いつもならば流川もそのひとりで、昼を食べた後は昼寝をしているに決まっている。
 けれどいまは起きていて、隣に三井がいて、しかも二人きりだ。こんなことは祭りに行ったとき以来だ。
 流川は横目で三井の存在を確認した。彼はいま、たい焼きに夢中だ。
 金魚のエサを手に入れ、たい焼きにも齧りついた三井は満足そうで、そんな彼を見ることが流川の心を満たす。
 我ながらどうかしていると思わないでもないが、もう流川にとって三井はただの先輩とは違うと自分で自分に認めてしまった後だ。三井に対する恋愛感情をしっかり自覚している。
 もしも三井が正真正銘本物のヒトデナシで、非常識な希望を次々と口にしたとしても、自分はたぶんそれを叶える手段を考えてしまうだろう。きっと、そうせずにいられない。
「あのエサさ、後でおまえから藤井に渡してといて」
 たい焼きを齧りながら三井が云った。
「……なんで俺が?」
 金魚を欲しがったのも、藤井に悪いことをしたかもしれないと気に病んでいるのも、エサ代を払ったのも三井なのだから、彼が藤井に手渡すのが理にかなっている。
「だって、一年の教室まで持ってくの嫌だぜ。何組だか知んねえし。それに、ガッコー戻ったら俺すぐ上に戻んねえと。時間ないだろもう」
「部活の時でいいんじゃないすか? いつも見に来てたと思う。先輩が渡さねーと意味ねえ」
 そのほうが女子は喜ぶだろうと思った。三井は一年の女子に人気があると、流川は石井に聞いたことがある。さっき教室で浴びた視線からいって、それは真実だろうなと窺える。
「じゃあさ、おまえから赤木の妹に渡してといて。そしたら、あいつから藤井に渡んだろ」
 たい焼きを食べ尽くして、包み紙を小さく潰しながら三井が腰を上げた。マネージャーの顔を流川は思い浮かべる。彼女には興味がない。好きでも、嫌いでもない。祭りの最中、三井に彼女のことをどう思うか訊かれたのを思い出した。正直に、好きでも嫌いでもないとその時も答えた。
「マネージャーには興味がねーから。先輩が渡して」
 恋愛事には疎いと自覚していたけれど、さすがに流川にも三井の狙いが分かってしまった。最近になって少し、そういうことが分かるようになった。赤木晴子は自分に気があるのだ。いままでは感じなかったけれど、きっとそれは前々からそうだったのだろう。感じなかったのは、自分がそういうモードになっていなかったからだと流川は思う。三井に対する自分の感情を認めた頃から、向けられた感情にも気がつくようになった。
「おまえ……赤木妹の気持ち知ってんの?」
 流川は答えなかった。答えたところでなにひとつ状況は変わらない。
「……つめてえよな。竿はちゃんと抱えて持って帰るくせに」
「……竿は関係ねー気がする」
「まあ竿は喩えだし。別のモンでもいい」
「喩え?」
「わかんねえなら、いい」
 自転車に乗ったので会話はそこで一旦中断した。休み時間が終わる前に戻らなければならないが、この分だと少し無理がありそうだ。流川はペダルを強く踏み込んだ。三井の重さの分、勢いが必要だった。
 話が途中のようだったので一息ついたら再開するのだろうと身構えていたのに、学校へ戻る間、三井はそれきり赤木晴子の話はしなかった。流川としては、その方が有難かった。
 狭い歩道を疾走しながら、背中が受ける三井の気配に意識をすべて向けた。
「なあ、流川」
 三井にしては小さな声で呼びかけられた。流川は荷台の三井を一瞬だけ振り返ったが、顔は見えず頭の先だけが見えた。三井は流川の背中にずいぶんと身体を近づけ、額を寄せるようにしていたが、行きにしたように流川の背中に頭を押し付けてはくれない。
「なんすか?」
 続く言葉を大人しく待つ。
「絶対、駅のが近かったよな」
 それは問いかけではなかったようだ。まだそのことが気になるのかと少し呆れ、流川はせいぜい「はあ」としか答えようがなかったので無視して聞き流したが、三井は無視したことを怒るでもなく、同じことはもう云わなかった。学校に着くまでの間、眠っているみたいに彼は静かだった。

2へ続く
★ちょこっと一言