誰のために魚は泳ぐ 2

 テトラフィンは藤井に喜ばれたらしく、気を良くしたのか三井は追加のエサを買いに行くと云い、一週間も経たずに流川の自転車を再び借りに来た。結局は、前回のように流川が自転車を漕ぐことになったのだが。
 以来、ときどき二人でホームセンターに買い物に行く。買いに行くのはエサだけではなく、切れてしまった靴ヒモ一本を見るためだったこともあるし、ドリンク代もばかにならないのよねと母親に手渡された広告の掲載品であるスポーツドリンクの粉末飲料をまとめ買いして、二人で分け合ったこともある。
 流川から三井を誘うこともあれば、三井がいつものように自転車を借りに来ることもあった。そうやってときどき昼休みを潰して二人で学校を抜け出した。季節が移り変わり、本格的な冬が始まっても、その習慣は変わらなかった。
 湘北高校バスケットボール部はウインターカップの切符を手にしたが、結果は初戦敗退だった。それでも、三井には東京の大学からスカウトの話が来た。もともと、その大学の監督は何度か三井を学校まで見に来ていた。
 迷う余地はなかったらしく、三井はその話を即断即決で受けていた。ツキがあったのだと、三井にしては珍しく謙虚に話していた。
 そうして進路が無事に決まった三井と並んで、流川はホットコーヒーを啜っていた。季節は一月。いつもの緑地。左手にはもう何度食べたか分からないたい焼きを持っている。
「俺、明日で引退するからな」
 いつものようにブロックに座り、すっかり枯れて茶色に変色した芝生の上に足を伸ばして三井が唐突に云った。ついさっきまでは昨日見たテレビの話をしていた。三井が見たという深夜番組を、早寝の流川は当然見ていなかったのだが、話の上手い三井が話す内容が面白そうで、興味が湧いてきたところだった。来週の放送は録画してもいいかもしれない──などと流川にしては珍しく考えていたタイミングでの、三井の一言だった。
「部活、を?」
 流川は思考がうまくついていかなかった。三井の方を窺うと、彼は具が一番詰まった鯛の胴体に齧りついているところだった。
「おう」
 たい焼きを頬張りながら三井が極めて軽い口調で短く答えた。
「……明日?」
「明日。引退、ちょっと遅かったよな」
 流川は正面に視線を戻し、云うべき言葉を探した。引き留めても仕方がないのは分かっている。そういう時期が近いという意識はずっと流川の頭の中にもあったし、思い通りにならないことがこの世には幾つもあるのだと流川は知っていたから、諦観するしかないと思っていた。
 けれど、どれだけ頭で納得していても、いざその時が来ると簡単には受け容れ難く、三井にかける適切な言葉がどうしても見つけられなかった。
(……嫌だ)
 たった一言「おつかれさまでした」と云えば済むのだろうが、流川はそれを口にしたくなかったので、黙り込んだまま手に残ったたい焼きを機械的に口に運んだ。けれど、口の中に広がる餡子の甘さは少しも流川を慰めない。
「誰も止めろって云わねえからさ、年明けてもついズルズルと居座っちまったわ」
 ウインターカップが終わった時点で部活を引退するのが順当だったのだろう。それは流川にも分かっている。
 流川は少しでも長く三井が体育館に居ればいいと思っていたし、たぶん、他の部員もそう思っていた。下手なことを云って日常が変化してしまうことを恐れてか、三井の前では引退に関する話を誰も口にしなかった。
「俺、ひとつだけおまえらに注文があってさ」
 不機嫌に前を睨みつけて返事もしなくなった流川を咎めることなく、三井が淡々と続ける。
「おまえに頼んでも、どうにもなんねえことかもしれないけどな」
 興味を惹かれて、流川は三井の横顔を窺う。一瞬目が合った三井は笑顔を作った後、目を伏せた。
「出来れば俺を、そーっと追い出してくんねえかな。赤木や木暮なんか、部活最後の日に花束貰ってたぞ。あんなの、勘弁してくれって感じだろ?」
 最後の日、木暮は笑いながら目に涙を浮かべていた。赤木は怒ったような顔で最後までキャプテンらしい威厳を失わなかった。流川もその時のことは覚えている。三井や流川や宮城以外の部員はみんな泣いていた。感傷的な空気の中で、流川も少し居心地の悪さを感じた。
「練習の後にさ、宮城がみんなに云えばいいんだよな。このひと今日で終わりだから、って。みんなの前で一言コメント、とかってのも、もう今更って感じだから、あんなのは無しだ。おまえらも、別になんもやってくれなくていいから。で、お疲れさまシタってサラッと云われて、いつもと同じにとっとと解散すりゃあいいんだよ」
「ソレ──いいすね」
 流川は、自分にもいつか来るその日を想像した。出来れば、そうやって水が引くように静かに終わりたい。
「まあ、おまえらは俺が居なくなんのが淋しいだろうから、ほっとけっつってもいろいろ云ってくんだろうけどな」
 流川が俯いていたら、下から覗き見るように顔を近づけて三井が茶化してきた。目は笑っているが、心の中まで笑っているかどうか流川には分からない。
「先輩がいないと静かでイイとか、きっとキャプテンが云う」
「ああ、あいつは絶対云うから、殴ってもいいな。ってか、それ俺も云ったな。赤木たちが引退した時」
 意地っ張りな人間の云う台詞の王道なのだなと、流川は心の中で思う。
 そして、三井の希望とは違う答えを告げる。
「そーっと追い出すなんて、無理だと思う」
「……無理か?」
「あんたの存在自体がそーっとしてねーから、しょーがねえ」
「なんだよ、ソレは。意味わかんねーぞ」
 三井のような男がバスケ部から居なくなるのには、きっとそれなりのエネルギーを消費するだろうと流川は思う。反応だってきっと様々で、誰のことも縛れない。
「先輩は……みんなに泣かれんのがイヤなんだろ」
 流川は三井の感情を自分なりに想像した。
「……あいつら大袈裟だからな」
 否定しない三井の声が、少し沈んだ。
 感傷的なのは、自分も好きじゃない。流川は三井が引退するからって泣いたりしないつもりだが、たぶん石井たちは泣くだろう。桜木も怪しい。そのくらい、いろいろとあった。一年未満しか一緒に居なかったのに、振り返ればそれは濃密な時間だった。
 三井の横顔に流川は視線を向けた。たい焼きをそろそろ食べ尽くそうとしている三井は、景色を眺めながら黙々と咀嚼を続けている。正面から当たった太陽の日差しが、三井の前髪を茶色く透かしていた。
「泣きたくないんすね」
 三井は驚いたように流川を見た。
 三井はただみんなの前で自分が泣きたくないのだ。流川はそう思った。三井を慕う後輩たちに泣かれてしまったら、きっと三井は堪え切れない。
「……俺、貰い泣きとかするタイプでよ」
 困ったように三井が笑うので、胸をぐっと掴まれたような息苦しさを覚え、流川は静かな溜息を吐いた。最後まで、三井は変わらない。弱味を見せないように振る舞いたがるのが三井だ。
 それでも、他人の涙の止め方なんていう裏技はなく、流川にはどうしようもない。魔法のようなひらめきが、いつもあるとは限らないのだ。
 三井の希望を叶えてやれないことが、流川はただ悔しかった。



「えーっと、始める前にちょっとみんなに云っとく。実は三井サンが引退した」
 放課後練習を始める前、輪になった部員たちに向かって唐突に宮城が云った。
 宮城の一言に「え?」という声が次々と上がった。ざわつき始めた輪の中で、流川は三井がこの場に居ない意味を考えていた。三井は今日、朝練にも来なかった。
「なーに云ってんだ、リョーちん」
 左の掌で易々とボールを掴んでいる桜木が笑う。
「ミッチーが引退なんてするわけないだろう。ナゼなら、そんな話をこの天才が一言も聞いてないからだ。昨日も、ミッチーとあんなに喋ったぞ、オレは」
 桜木がどれだけ三井とお喋りをしたのかは誰も知らなかった。説得力があるようなないようなことを云って、桜木は胸を張る。
「いや、したんだ。引退。ホントに急だけど」
 宮城が念を押して、みんなの間にもう一度動揺が走った。
「もしかして……ソレはミッチーの冗談なんじゃねえか? 確かに今日は朝練に来てなかったが……本当に聞いてねえぞ」
 桜木はまだ納得がいかない様子だ。
「……んー、まあたぶん、先生とか俺とかアヤちゃんたちしか知らなかった話だろーな。そこは、あの人の性格を考えろよ」
「……オイ、前から知ってたのか、リョーちんは? 前から知ってたって云うんなら、なんでオレにも教えなかった!?」
 怒りのぶつけ所が分からない桜木が、宮城につっかかる。本当は三井本人に怒りたいのだろうが、彼はこの場に居ない。
「黙っとけって云われたんだよ」
「だからって! なんで──」
「あの、『引退した』って、過去形なんですか……?」
 桜木を遮って、桑田が訊いた。別に桜木を止めようと思ったわけではないようだが、答えを待って輪の中は静まり、宮城に注目が集まった。
「まあ……そうだ。ホントは今日の練習を最後に引退する予定になってた。だけど、今日になってあの人、『やっぱ、昨日の練習を最後ってことにするわ』って昼に俺んとこに云いに来てさ。ホント勝手なんだからな。引き留めても、ああいう人だから無理だ。だから、今日からもう三井サンは居ねえ」
「そんなあ、昨日が最後って……」
「昨日も、いつもと変わらなかったよな?」
「最後だって分かってたら、もっと話したいこともあったのに……」
 あちこちで始まった会話が収まる時間をしばらく置いたあと、宮城が再び口を開いた。
「……まあ、うちの部もこれでだいぶ静かになるけど、三年が全員引退した分、残った俺ら全員に責任が増えるってことでもあるんだからな。自分が部の主役だ、くらいに思ってやっていけよ。そこはあの人を見習ってな」
 普段と変わらない調子で、宮城が云う。
「まだここに居てもいいだろミッチーは! 行ける大学が決まったんだから! なんでリョーちんはもっとちゃんと引き留めなかったんだ!」
 宮城を責めるしかない桜木が怒鳴ったが、流川は桜木のようには思わない。宮城に三井を引き留める力なんてなかっただろう。三井は、もうここに来ないと自分で決めたのだ。
(しょーがねえだろ、どあほう)
 昨日、三井は『明日、引退する』と云っていた。あの様子からして本人はそのつもりでいたと思うが、どうやら考えを変えたようだ。それは三井らしく思い切りの良い切り替え方で流川はいっそ感心していた。
 思えば、春から冬までのこの数ヶ月間、流川がそばで見ている間中ずっと三井は賢かった。試合中も、それ以外の時も。
 馬鹿なことも、そうではないことも、三井はやった。
 そうして、いろいろなものを後輩に残してここを出ていった。
(だから──それがあるから大丈夫)
 流川は、自分の心に云い聞かせた。残された精神が生きている限り、いつだってあの姿を思い出すことが出来るから、と。
 往生際が悪い桜木は、納得出来ずにまだ喚いている。彩子や宮城は平気な顔をしているが、心の中ではどう考えているのか分からない。石井や桑田は静かに泣いていたし、それを見た赤木晴子は石井にタオルを差し出しながら自分も泣いている。
 いま、三井は何処で何をしてるんだろう。流川はそれを考えた。


 三井の欠けた部活を終えた後も家に帰る気にはなれなくて、流川は体育館に残って自主練習を続けた。じっとしていると三井のことを考えてしまうし、考えごとをするよりは、なにかを考える余地もないほど身体を動かしているのが性に合っていた。
 本能のままに足を使い、見えないディフェンスを交わしリングへボールを叩きつける。使い込んだ身体は、頭を使わなくても覚えている動きを勝手に再現する。
 消耗しきって、延々と動いていた足を止めたら、背後に人の気配を感じた。振り返ると一番遠い入り口に、制服の上にコートを着込んだ三井が立っていた。
 いつから居たのか、集中していた流川は気付かなかった。ずっとそこに居たのかもしれないし、来たばかりなのかもしれない。
 驚いたし、内心では三井を見て嬉しいと感じたが、流川は表情を変えず、とにかく乱れた呼吸を整えるために意識的にゆっくりと息を吐いた。そして濡れた額の汗を拭い、上向けた指先で三井を自分の元に手招いた。
 すると三井はフ、と鼻で笑った。
「俺まだおまえの先輩だぜ。指で呼ぶなよな」
 白い息を吐きながら、三井は素直に流川の元に近寄ってくる。
「ホントに嫌なら来ねーはず」
「うるせーな。……俺、バッシュじゃねえんだから付き合わねえぞ。あーさみぃし、冷てえ」
 三井は靴下一枚でフロアを歩いてきた。一月の体育館の床は氷のように冷たい。
「動けばあったまる。なんで持って来ねーんすか」
 バッシュを持たずに体育館に来るなんて三井とは思えない。
「だって引退したからな。すぐに再開したら笑えるだろーが」
 流川は納得した。けれど、別に三井はバスケを辞めたわけじゃない。せっかく邪魔をする者がいないのに、と残念に思う。
「……まさか、昨日で引退してたとは知らなかったっす……嘘つきなのは知ってた」
「あーそれな」
 三井が目を細めて笑った。
「嘘ついたわけじゃねえよ。ちゃんと今日も朝練から行くつもりだったし。でも今朝、起きた直後にふっと思ったんだよ、今日引退しても、昨日が引退だったとしても、どっちだってもう一緒じゃん、って。たぶん、寝る前にいろいろ考えてたからだろーなー。そしたらなんか部活に行く気がなくなって、さみぃし起きんのも嫌で、寝直した。いろんなことが、面倒になったんだよ」
 確かに同じことかもしれない、と流川は思う。どこに線を引こうと、もう三井がこの学校でやれることは残っていない。三井の高校バスケは終わったのだ。気持ちは理解できないでもなかった。
「部活しねーで放課後どこでなにしてたんすか?」
「徳男たちとボウリング行ってカラオケ行って飯食って騒いできた。ずっと部活ばっかで遊べなかったからな」
 なるほどと思い、これからはもうあの番長軍団はバスケ部の見学に来ないのだと気付いた。三井の居ない部には用がないはずだ。これから、緩やかに日常が変わっていき、三井の不在を嫌でも思い知らされることになるのだろう。
「先輩は、賢い。望み通りに、静かに引退出来たから」
 三井の望みはちゃんと叶ったのだ。本人不在で、用意されていた花束は行きどころを失って部室に飾られることになった。
「計画的じゃあねえけどな。それに、酷いヤツだろ俺。みんなにあんだけ迷惑かけた俺が、礼は云わねえし、面倒とか云ってるし。おまえ怒んねえの?」
「俺は、あんたを酷いヤツと別に思わねーから」
「おまえはいつもそういうことを云うよな」
 三井の方が先にいつも自分自身を否定するようなことを云うからだ。そして流川は、自分の意見を述べているだけで、三井の機嫌を取っているつもりはない。
「みんなとか、どーでもいいでしょ。たぶん誰も、礼を云って欲しいなんて思ってねえ」
 三井が可笑しそうに笑った。
「どうでもいいとか、フツウはなかなか云わねえぜ」
 普通のことを云ったつもりの流川が返事に困って黙っていると、笑い終えた三井はコートを脱ぎながらボールを持っている流川にパスを要求する合図を送ってきた。
 持っていたボールをワンハンドでパスすると、三井は脱いだコートを避けて流川から数歩離れ、リングに向けてボールを構えた。
「あれ、前もこんなことおまえに云ったよな、俺。祭りん時か? 人として常識が欠けてる、って」
 三井の指を離れたボールが、弧を描いた。空気を切るように、バックスピンのかかったボールはリングの真ん中を通過してネットを小さく揺らし、フロアに着地した。とても綺麗なフォームと軌跡に流川は見惚れた。
「人に常識ねーって思われても、それを気にする必要なんてない。他人のことなんか、最後には関係ない」
 リングの下にボールを拾いに行く三井の背中に向けて流川は云う。
「そおかよ。世界は俺中心に回ってんだな」
「そういう意識でいたって、別にいいんじゃねーの」
 何かに囚われすぎて自分を抑え込んだりするのは、流川には耐え難いことだ。
 自分が主役だと思え、と宮城がみんなに云っていた。当人にとってそれは当たり前のことで、毎日自分が主役の世界を生きている。それは、死ぬまで続くことになっている。
「でも、他人から見たら、俺はやっぱ身勝手なヤツなんだよ」
 ボールの前に三井が屈んだ。靴下の裏を流川に見せて片膝をついて、すぐには立ち上がらなかった。
「他人の評価なんか、いちいち想像しなきゃいい。そしたらカンケーねー」
「それが出来ねえんだよフツウのヤツは」
 普通って、結局なんなんだ。三井がいちいち線を引こうとすることが、流川には理解し難かった。
「……でもな。酷いヤツなりに、俺は俺であいつらには感謝しかしてねえんだ」
 三井は膝をついてこちらに背を向けたままだ。
「それは、それでいいと思う」
 流川は頭の中に思いついたまま言葉を返した。ときどき、こうして予告もなく、三井がぽろりと本音をこぼす。流川はそのことが単純に嬉しかった。誰かれ構わずに本音を吐くような男ではないからだ。
「……本当はさ、スピーチみてえなのもちゃんと考えたんだぜ? ちゃんとみんなになんか云わねえとって。けど、みんなの前で引退するっつってさ、そこから続く言葉が思い浮かばねえんだよな。一行もだぞ? ごめんとか、ありがとうとか、いくらでも云うことあんだろうけど、結局、まとまんなかった」
 弄ぶように三井は床の上でボールを左右に転がした。流川にではなくボールに話しかけているのかと錯覚しそうなその背中はいつもよりも小さく見え、流川にとってそれはあまりに心許なく、衝動を抑えられずになんらかの行動を起こしてしまいそうになる。
「それとよ、おまえの云う通り、やっぱ俺……もうここでは泣きたくなかったんだよな。またみんなの前で泣くのはカッコわりぃだろ? でも俺……たぶん、ゼッタイ泣くからよ」
「……そーすね」
 流川はこの場所で三井と最悪の出会いをした。三井が涙を見せるとしたらあれ以来になる。
「だから、全部昨日でやめってことにした。なんか、逃げたみてえだよな。ダセーし、笑えんだろ?」
 自嘲めいた三井に、(でも──)と流川は頭の中で反論する。泣くことは、別に悪いことじゃない。
 それに、恰好悪いことが駄目なことだなんて誰が決めたんだ。
 流川にとっては、どうだっていい。大事なのは、三井の気持ちだ。
「別に笑わねえ」
 流川はそばに近寄って三井の後頭部を見下ろした。学ランの襟元からのぞく寒そうな襟足と振り向かない背中から、やりきれない寂しさがこちらにまで伝染してくる。
 手を伸ばして三井に触れることでそれを打ち消したいと衝動が湧く。
「先輩はいま結局ここに居るから、それは逃げたって云わねーし」
 三井はこうして自分の意思で体育館に戻ってきた。これでは、逃げたとは云えない。
「だってそれは、おまえが……どうせ残ってっかなと思って見学しに来たんだよ。昨日あんなこと云ったのに今日行かなかったから、怒ってっかなと思って」
「怒ってねえ。それに……もしも要るんなら貸すけど」
「貸す? なにを?」
 三井が振り向いて、訝しげに流川を見上げる。
 流川は答えず、三井の前に周りしゃがんだ。何事かといった様子で、三井が目を丸くした。
 三井には、我慢して欲しくなかった。そんな姿を見たら自分は間違いなく腹を立てる自信がある。泣きたい時は、素直に好きなだけ泣けばいい。その時がいまなら、ここですぐに実行すればいい。
 どうせここには自分と三井の二人しか居ないのだ。
 もっと沢山、三井の本音を自分に見せてくれたら、それは流川にとってこの上ない喜びに違いなかった。
「なんだよ……?」
 いつもの偉そうな態度は影を潜め、声に困惑を滲ませて三井が重ねて訊く。流川は口で答える代わりに、三井の頭を自分の胸へ引き寄せた。
「っる、るかわ──?」
 襟足を絡め取られ、あえなく体勢を崩した三井は、床に手をついて自分を支えている。
「離せって」と、三井は狼狽えているが、流川はやめなかったし、髪の間を指で掻くように頭を抱え直し、むしろもっと深く引き寄せて、三井を自分の胸に押し付けた。
「貸す」
「ぁあ? だから! なにを貸すつってんだよ」
「先輩、どうせここを出たら泣くでしょ」
 三井が息を止めたように押し黙る。
 体育館をあとにするとき、三井がどうなるのか、流川は想像する。二年間ずっと目を背けていたバスケットを再開した三井が引退して、どういう思いでここを出て行くのか。
 流川の胸に額を押し付けられている三井は、困ったような呆れたようなどっちともとれる声で「貸すったって……」と呟いた。
「ひとりでどっかで泣くくれーなら、今ここで、俺のそばで泣け」
 誰も居ないところで三井に泣かれるのは嫌だった。想像したら、耐えられないくらい嫌だ。そんな三井の姿は寂しくて、自分を無視してそんなことをされたら、きっとすごく腹が立つだろうなと流川は思う。いつでも貸せる腕も胸もここにあるのにと。
 無理な体勢を強いて、三井の後頭部を更に自分に引き寄せる。指の隙間には、自由に跳ねる髪の感触が柔らかく絡んだ。
 三井を好きだという感情がどんな形をしていて、どうやって自分の中に息づいているのか、手にとって確かめるように、流川は自分の腕の中に三井を強く抱き込んだ。
「──おまえって……いっつもそうだよな」
 掠れるような小さな声を聴き逃さないように、流川は三井の頭に耳を押し当てた。いつだって振り払える流川の腕の中で、三井は身じろぎをしなくなった。
「なんでいっつも、おまえは俺を甘やかすんだよ」
 流川は返事に困った。その代わりに、指先で三井の髪をゆっくりと撫でつけた。
「そうやって甘やかされた俺が、おまえが居ねえと困って生きていけなくなったら、どうしてくれんだよ」
 別にそれでもいいじゃねーか、と流川は思う。
「そうなればいい」
「よくねえよ」
「そうなったら、ずっと俺のそばに居れば?」
 この先もずっと一緒にいれば、問題は解決する。
「なに云ってんだ、バカヤロウ」
 緩んだ手を押し除けて、三井が顔を上げた。流川を上目遣いに見上げるその顔を見て流川は安堵する。荒い言葉とは裏腹に、流川を見上げる眼差しに剣はなく、困ったように眉尻を下げて、薄っすらと口元に笑みを浮かべていた。
「それじゃまるで、告白みてぇだろうが」
 云われてみれば、そうかもしれないと思った。三井がそう感じたのなら、そうなのかもしれない。
「そう。今のは告白」
 あっさり認めると、三井は見開いた目で流川の顔を凝視した。もしかして三井は怒るだろうかと少し緊張したが、予想に反して大人しく、それどころか上半身で伸び上がるようにゆっくりと顔を近づけてきたので、今度は流川が目を瞠った。三井の綺麗な双眸が流川を間近に見つめている。誘われるように、流川も顔を寄せる。
 吐息を吸い込むように唇を触れ合わせて、すぐに離れた。至近距離で視線を合わせると、お互いに自然と笑みがこぼれた。
 涙を流さない三井に、流川はもう一度キスをする。三井の手は流川の練習着を柔らかく掴み、流川は三井の冷たい耳を両手で挟んだ。白い息を漏らさないように、口づけは少しずつ深くなっていった。
 滑らせた指に柔らかく絡む髪も、彼が纏う匂いも、全部好きだと思った。冷たく濡れた唇と、熱い吐息も。
 固く閉じた瞼の裏にはさまざまな色彩が浮かび上がり、流川はひらひらと泳ぐ赤や黒のヒレを思い出した。


 寒い寒いと云いつつも、三井は拾い上げたボールを名残惜しそうに手の中で弄びながら、リングの正面に立っていた。
 流川は体育館の床で胡坐をかいて、膝の上に肘をつきながら三井の後ろ姿を眺める。シュートを放ってはボールを拾い、それを何度も繰り返している姿をずっと黙って見ていた。目に焼き付ける、というほうが言葉としては正しいかもしれない。
「俺さあ」
 床で幾度かついたボールを、三井はまた頭上に構えた。
「おまえは自分で認めないだろうと思ってたんだけど……外れたな」
「認めないって、なにを──?」
 急に謎かけでもされた気分で、流川は訊き返した。三井の話の筋が見えない。
「だからぁ、まさか告白してくるなんて思わねえじゃん。俺はこのまま卒業して、おまえは、俺のことを好きな気持ちをいつか忘れると思ってたんだよ。おまえがこのまま誤魔化すなら、それに乗ってやろうって」
 後輩の想いなど前から知っていた、と三井は云いたいらしい。流川は素直に驚いた。
「……知ってたってことすか?」
 口に出してわざわざ自分の気持ちを伝えなかっただけで、別に流川は必死で隠していたわけじゃない。それでも、三井がこの気持ちに気づいているとは想像していなかった。
「そりゃ、気づくだろ。俺はおまえと違って鈍くねえぜ。たぶんおまえは、俺が頼んだらきっと竿だって買ってくんだろうなぁって思った」
「……俺、鈍いんすか?」
「自覚ねえのな」
「気づいたとき、先輩はどう思ったんすか?」
「……それは……、まあ、いーだろ? 今となっては」
 視線を反らした三井が明言を避けた。答えが知りたいという気持ちは強く残ったが、さっき聞いた別の言葉が聞き流せずに心に引っ掛かっていたので、追及は避けて別の答えを求めることにした。
「先輩、竿なんか欲しいんすか?」
「要らねえよ。竿は喩えだって云ったろ、前」
 そう云えば、ずっと以前にそんな話をした。あの時は意味が分からなかったけれど、いま聞いてもよく分からない。
「欲しいんなら、買ってくるけど」
「要らねっつの。おまえさ、他のヤツが頼んでも、買ってこないだろ? チャリであんなとこまで誰かを連れてったりもしねえよな? だから、俺のこと好きなのかって、すぐわかんだよ。おまえはいつも、俺の云うことなら大体きくだろ」
「まあ、そーすね」
 流川は素直にそれを認めた。
「けど、あんたの後輩使いが荒いせいでもある」
 他の人間はそうそうそんなことを頼んではこない。流川になにかしら押し付けてくるのは親か三井くらいだ。
「なんだよ、じゃあさ、たまにはそっちもなんか俺に頼んでみろよ。今だけ、なんでも聞いてやる。一個な」
 放たなかったボールを抱えて、笑みを浮かべた三井が振り向いた。本気なのかどうかよく分からないが、そんなことを三井に云われる機会はそうそうないので、流川は少しのあいだ悩んだ。そして、ひとつ思いついた。
「なら、また一緒に祭りに行くって前に話したけど、あれ、もっとちゃんと約束して欲しい」
「ああ……奢ってやるって、そういえば云ったっけな」
 去年、祭りの最中にその話をしたが、約束したとまでは云い切れず、不安が残る。流川としてはまだ確約ではない気がしていた。
「もう俺が浪人生やらなくて済むのは決まったしな。まあ、大事な用事あったら無理かもしんねえけど……予定には入れとく」
 三井の言葉に流川は頷いた。大学生活をきっと思う存分満喫しているだろう三井の予定を押さえて掴まえるのは大変かもしれない。動き回る水中の魚を薄っぺらい紙一枚で捕獲するのと同じくらいに、それはとても難しいことだと流川には思えるので、予め約束をして安心を得たい。
「おまえの頼み、なんか健気だな。俺がわがままばっか云ってるすげえ嫌なヤツみたいに思えてくるだろうが。もっとなんか、別のこと頼めよ」
 自分は本当はわがままではないと三井は云いたげだ。反論したいが、せっかくの機会なので今はなにを頼むか考えることを優先して、真剣に悩んだ。
「なら……祭り以外でもときどき先輩に会いてえ。卒業してからも、俺と会う時間作って欲しい」
「あのな、だからなんなんだよ、その可愛い後輩ぶった頼みは!」
 三井がしゃがみ込んで、頭を抱えた。
「くそー……おまえと違って、どうせわがままだよ、俺は」
 実は自覚しているのか、三井は恥じ入るように大げさに打ちひしがれている。
「こっちは切実っす」
 流川にしてみれば、絶対に叶えて貰いたい要望だ。
 頭を上げた三井は自分自身の頬を両手で挟み、感情を隠すように口を尖らせていたが、急に口元を緩めると、目を細めて笑った。
「俺たちこれから付き合うんだろ。だったら、そんなの、わざわざ頼まなくたって当り前のことだろーが」
 流川は目を見張り、すぐに三井の隣にしゃがみ込んで、その身体をぎゅっと抱き締めた。溢れ出しそうな喜びと三井への気持ちを、力強く抱き締めることに込める。
「俺が呼んだらさあ、疲れてても死にかけてても、ちゃんと会いに来いよな」
 耳元に甘く響く三井の声に、流川は頷いた。三井のこんなわがままは別に嫌いじゃないし、もし呼ばれなくても、会いたい時は会いに行くつもりだ。お互い忙しくしていても、疲れていても、どんな時でもせめて一番近くに居たい。流川楓の願いはただそれだけだった。

おわり
★ちょこっと一言