夏の後遺症 2

 残暑厳しい夏休みの校内は、ほとんど人影がなくて空気にもいまひとつ張りがなかった。蝉だけは少しの手も緩めず必死で鳴いていて、その声は毎日体育館まで響き渡っている。神経を逆なでするような鳴き声にうんざりしながら、後輩とのひと勝負を終えた三井はタオルで汗を拭った。
 インターハイが終わってしまった後も、バスケ部は部活動に励んでいる。今日も朝から昼過ぎまで練習をして、新米部長の前に整列して明日の予定を確認し合い、挨拶を終えて解散した後も、部活だけでは満足できないモノ好きが体育館に残った。
 しばらく何人かがシュート練習に励んでいたものの、それも一人二人と抜けていき、結局最後に残ったのは一緒にワンオンワンをしていた三井と流川だけだった。
 いつだったか流川にワンオンワンを挑まれて以来、ときどき二人でこうして対戦している。ただの勝負では面白くないと、いつからか賭け勝負をするようになった。コンビニのアイスだとかラーメン屋で追加注文する餃子だとかを賭けている時もあるし、金がない時は労働力を賭けることも多い。そういう時、三井はいつも流川にマッサージをさせることにしている。足や背中を解すくらいのことは流川にも出来る。自分では届かなかったり力の入らない場所を練習後にマッサージしてもらえるのはありがたく、生意気な後輩だが、先輩の云うことは案外よく聞くので助かっている。
 肝心の対戦成績は、相手が流川だということを考慮すれば悪くはない。もっとも、しばらく公式な試合もないせいか、遊びの延長であることが多いように思う。しかし、それでも勝負は勝負だし、流川は普通の一年生ではない。適当に相手をして勝てるような後輩ではないから、それなりに頭も使って戦っていた。これだけ一緒にやっていれば、相手の癖やタイミングはお互いに把握している。いろいろなパターンを組み合わせて攻めてくる引き出しの多い後輩だが、駆け引きと演技力ならば自分は彼のほんの少し上をいっていると思う。
 今日の勝負は、トータルで三井が勝利した。流川がもうひと勝負したがったが、この後は別の部が体育館を使う。時間にはまだ余裕があったものの、諦めさせて上がることにした。
 蒸れたバッシュを履き替え、着替えは後回しにして、部室棟の玄関ホールに設置されている自販機で冷えた飲み物を流川に奢らせた。
「マッサージの方が良かった」
 何度も不服そうに流川が云う。三つも年下の男に高くつくものを奢らせる気にはならず自販機の飲み物でいいぜと勝敗のついた後に三井が希望したのだが、流川はその金すら惜しいらしく不満げだ。けれど三井は喉が渇いていたし、体育館だって今日はもう使えないのだから、マッサージを受ける場所もない。いくら金欠だからといったって百三十円くらいでいつまで愚痴る気だと三井は呆れる。
「しつけえな。今日は飲み物のがいいんだよ、あっちぃし」
 三井はその場でキャップを外してゴクゴクと水分を補給する。水分も塩分もごっそりと抜けてしまった身体の空いた隙間にスポーツドリンクが沁み渡っていくかのようなこの瞬間は幸福を感じる。疲労具合によっていつも味は変化するのだが、今日は充実した練習の後だからか格別に美味く感じられた。
「ゲータレードって神の飲み物じゃねえ?」
 一気に半分程飲んで残りを流川の前に差し出す。三井の感想に、流川がボトルを受け取って笑った。目元がほんの少し緩み、頬の肉が微かに上がっただけとも云えるが、三井から見て流川は笑っている。宮城曰く、「三井サンしか区別つかねえ」程度の変化らしくて、流川だって案外笑うぜとある時三井が部員たちに力説したときも誰にも共感されなかった。確かに、声を出して豪快に笑うということはしないが、流川だってその時の気分はちゃんと表情に表れているし、喜怒哀楽の感情は人並みに持っていると三井は思う。
「俺、ポカリ派す。あっちが神」
「んだよ、じゃあやらね」
 神の飲み物を流川から奪い返そうとしたら背を向けて避けられ、天を仰ぐようにボトルを傾けて最後まで一気飲みされた。
「コラ、少しは残しとけ」
 飲み終えた流川の頭を、三井はふざけて掌で押した。流川の髪はしっとりと汗に濡れていた。夏の体育館で部活を終えた後なんて、髪の毛や着ている練習着だけでは済まず、下着も靴下も水をかぶったようにぐっしょりと濡れているのが普通だ。
「……なあ。おまえ、さっぱりしたくねえ? いいとこ連れてってやろっか」
 大雑把な問いかけに無表情の流川は首を傾げて三井を見た。
 今日、三井は内緒の企みを計画している。無愛想な後輩が驚く顔を見せる瞬間を想像したら楽しくなってきて、三井は彼の首に腕を回して中途半端なヘッドロックをかけた。湿った練習着や汗に濡れた襟足の感触は、お互い様なので別段気にならない。そして形の良い耳に唇を寄せ、重ねて尋ねた。
「行くか? 俺と」
「……どこ?」
 大人しくされるがままの流川が、三井の腕の中で顔を上げる。
「いいとこ。行きゃあわかる」
 三井は親指を立てて目的の場所をざっくりと指差したが、流川にはどこを示しているか分からなかったようだ。ハテナマークが浮かんだ後輩の顔を見て、三井は気分が良い。
 初めから、今日はそこへ行くつもりだった。流川が居残りしなかったら一人でも行くつもりだったけれど、たぶん流川は自分と一緒に残るだろうなと予想していた。そしてその通りになった。
「とりあえず、部室戻って荷物取ってこよーぜ」
 行き先を内緒にしたまま部室に引き返し、着替えもタオルもすべて持ち出すように云いつけて、二人でまた部室を出た。三井が先に立って向かったのは体育館から少し離れた一画にある屋外プールだ。水泳部の練習は昼に終わっていて、人影はまったく残っていない。水面に青い空を映して、プールサイドはしんと静まっている。
「いいとこって、プールすか?」
「じゃなくて、こっちな」
 プールを横目に歩く。園芸部が世話をしている目隠し代わりのクレマチスの、暑さに弱った蔓が絡むフェンスの脇を二人で通り抜ける。
 三井の目的地は、水泳部だけが使える決まりになっている更衣室だった。少しプールから歩かなければならない不便な場所にある。
「鍵がかかってるんじゃ?」
 三井の後に続きながら、流川が云った。ここまでくればどこに向かっているのかは明白だろう。更衣室に鍵がかかっていることは、生徒ならば誰でも知っている。
 もちろん三井も知っているのだが、そこでにやりと笑った。
「鍵がありゃあいいんだろ?」
 プール脇の建物の前に二人で立つ。更衣室とシャワー室を兼ねた小さな棟だ。男女別に扉が二つ並んでいる。
 三井はスポーツバッグのポケットからキープレート付きの鍵を取り出してぷらぷらと揺らした。念願だった驚く後輩の顔を拝んだあと、鍵穴に鍵を差し込み開錠する。
「おーし、入れよ」
 自分の家に招待でもするみたいに云って、三井は先に中に入った。水泳部が使った後なのでひどく蒸していて、独特の塩素臭が鼻を刺激した。流川が後をついてくる。
 中は広く、入って正面に小さな窓と洗面台があり、右手には三つの青いベンチとロッカーが並んでいる。左手に、五つに仕切られたシャワーブース。各個室ごとに足元が隠れない寸足らずの扉が付いていて、人目に触れずにシャワーを使うことが出来る。
 湘北高校は授業で水泳をやらないため、二年以上も学校に通っていながら三井がここに入ったのは初めてだった。もちろん流川もそうだろう。
 真っ先に三井はシャワーブースを覗いて、中の設備を確認した。ボディソープなどが置いていないことに今更ながら気づいたが、まあ水が浴びれればいいしと思い直す。
「俺、ここ使うわ」
 右端のシャワーを自分の場所と宣言してから、三井は並んだロッカーの方へ足を向ける。流川もシャワーを覗いたあと、遅れてついてくる。
「鍵、どうやったんすか?」
 誰でも扱える場所にはないはずのここの鍵を持っていたことが腑に落ちないらしい。
「企業秘密」
 それを流川に語る気はない。三井は床の面積の半分くらいに敷かれているスノコの上にドカッと音を立てて荷物を置き、ベンチに座った。勝手が分からず土足のまま入ってきたので、履いているスニーカーの靴ひもを解きにかかる。
 流川はそばに立って三井を見下ろしている。
「もしかして……盗んだとか?」
 真面目な顔で流川が人聞きの悪いことを云うので、三井は吹き出した。
「ちげーよバカ。俺にはいろいろツテあんの。いいから気にすんな。それよか、おまえも靴脱げよ」
 三井は裸足になって、荷物を適当なロッカーに入れた。
「ホントはプールも入りてえとこだけど、さすがにそれは目立つからちょっとな。海パンなんて持ってねえし」
 ベンチに座って外履きを脱ぎ始めた流川の頭を見下ろしながら、三井は云う。誰も使っていないプールは魅力的だが、バレるとやっかいだ。
「ここは見つからねえんすか?」
「プールは水の音でバレんけど、ここは見つかんねえよ。もう水泳部は帰ったし、こんなとこに誰も来ないだろ」
 無人のはずのプールから水音や声が聞こえれば目立つだろうが、ここならよほど騒がない限り誰にも気付かれないだろう。
 納得したのか流川も頷いて、靴や靴下を脱ぎ、三井の荷物からひとつ空けたロッカーにスポーツバッグを押し込んでいる。
 流川の様子を見て三井はタオルが必要なことを思い出し、再び荷物を開けてそれを引っ張り出すと、肩に引っかけてロッカーに寄り掛かった。
「そもそも、水泳部以外にもここ使わせてくれりゃあ、こんなコソコソした苦労はしなくていいんだよな。俺らだって毎日べたべた汗かいてんのによぉ、不公平だよな」
 三井は自分の湿ったTシャツの裾を引っ張ってパタパタと振った。腹に少し風を送ったところで暑さが軽減するわけでもないが、ついやりたくなる。
 隣で流川が、仕舞ったバッグに手を乗せたまま観察するようにその様子を見ていた。
「そういやさ、なんでここが水泳部以外は使えねえか、おまえ知ってる?」
 自分は知っているという口調で三井は問うた。タオルの両端を掴み、ロッカーに凭れて部屋の中をぐるりと素早く見回した後、答えを促すように流川に目をやる。
「……理由とかあんの」
 考える素振りは見せたが流川はすぐに諦めたようで、三井に問い返す。
「あるんだよな、これが」
 以前、人に聞いた話だ。
「何年か前はさ、ここってもっといろんな部が使えたんだってよ。鍵も放課後開けてくれたらしい。でも、ここをラブホ代わりに使うバカがいたらしくってさあ、それがバレたわけ」
 感情の動きが少ない流川が、驚いたように表情を変えた。
「ここを?」
「そう」
「ここの……どこでやってたんすか?」
「どこって……そこまで知るかよ。床は、下になった方は背中とか痛えぜ、ゼッタイ。まあ、いろいろあんだろ? ベンチに座ってとかさ。あー……シャワー室ん中で、とか? 考えんと生々しいよな、なんか」
 三井はシャワー室に視線を送る。流川も釣られたように目をやった。
「あんなとこ……狭くねーの?」
「まあ、狭くたってやろうと思えばやれんだろ? その気んなってりゃもう場所なんてどこだっていいんじゃね」
 すべて想像だが、思いのほか後輩が興味を示しているようなので三井は答えた。
「……それって、なんでバレたんすか?」
「知らね。前はいろんな部が使ってたんだから、油断してたら人が入って来たのかもな。それか、夢中んなってつい声がでかくなって外まで聞こえたか。じゃなきゃあれじゃね、ゴミ箱にそのまんま捨てたモンが見つかっちまったんじゃねえの?」
「なに捨てたんすか?」
「なにって……そりゃあおまえ」
 そういうところをすぐに思い付かない辺りが流川だよな、と思い三井は苦笑した。バスケ関係以外のすべてに疎そうな後輩は、今現在は恋愛にも異性にもそれほど興味がないように見える。年相応に下ネタ話に食いついてはきたが、実践的な知識は乏しそうだ。身体は大きく育っていても、たぶんまだ未経験だろうなと三井は見ている。
「んー、まあいいや。とにかくバレたんだってよ。そんで大ごとんなって、ここは水泳部以外使用禁止になったわけだ」
「……そんな部屋の鍵をどーやって手に入れたんすか」
「だからあ、内緒だって」
 更衣室の鍵のありかなど、水泳部以外の生徒は普通知らないのだ。ただし、三井はそれを知っている。
「あ、そーだ。ここ使ったことも内緒にしろよ。宮城たちに」
「なんで……?」
「いろいろ面倒じゃん。二人だけの秘密にしとこうぜ」
 自分たちも連れて行けと云われると煩わしい。人数が増えるだけでバレる危険度が増すし、そう毎回鍵が手に入るわけではないのだ。
 流川がじっと三井を見る。
「なんだよ。誰にも云うなよ?」
「ベツに云わねーけど……内緒のことばっかっすね」
「だって、他の奴らいないほうが良いだろ?」
 二人で使うには贅沢だが、静かなほうがいい。三井の問いかけに、流川も即座に頷いている。
 宮城がいると三井は騒がずにはいられない。三分と口を噤んでいられない自信があった。
「邪魔が入るとあれだしな」
「……邪魔されんの、イヤ?」
「そりゃあイヤだろ」
 大人数で騒いでいれば必ず他の生徒や教師にバレてしまう。せっかく見つけたオアシスを簡単に手放したくない。
 話を締めた後も、流川はまだ何か云いたげな目をして三井を見下ろしていた。彫像のように整った顔の物静かな男と視線が絡まって、三井はなんだか居心地の悪さを覚えた。
「おまえさ、さっきからなんでそんなに見てくんだよ? じろじろ見下ろされんの気になんだけど」
 生意気にも流川のほうが少しだけ背が高くて威圧感がある。
「……先輩すげえ汗だなと思って見てただけっす」
 以前なら「別に」の一言で会話が終わっていたかもしれないが、最近流川はこうして言葉を返してくるようになった。三井は笑いながら抗議する。
「うるせえ、そんなのおまえもじゃん」
 見るからに暑苦しいのはお互い様だ。部活の後だし、部屋の中が蒸し暑すぎる。三井は流川の紺鼠色のノースリーブに目をやった。彼がよく着ているゆとりのないデザインのそれは汗で張り付いて、身体のラインを浮かび上がらせている。
 三井は突発的に手を伸ばし、薄手のメッシュの生地の上から流川の腹筋の凹凸に指で触れてみた。一年生の中では桜木と並んで逞しい身体をしている。硬く締まった筋肉の上を指先で撫で、生地が浮いている個所を見つけて摘まみ上げた。
「すげえ濡れてんな。早く脱ぎたいだろこれ」
 上目遣いに流川を見上げる。流川は顔を俯けて三井の指先を見つめたまま黙っている。答えは返らないが、わざわざ聞くまでもない。三井は摘まんだ生地を引っ張って風を送ってやった。脱いだ後にこれを両手でぎゅっと絞れば大量に水分が滴るに違いないだろう。
 流川の長めの前髪も汗でしっとりと濡れ、表情を隠すように垂れている。
「んじゃあ、とっととさっぱりするか。俺も限界」
 三井のTシャツだってすっかり濡れていて気持ちが悪いので、いい加減お喋りは終わりにして冷たいシャワーを浴びてこの汗を流したい。
 会話を切り上げる合図代わりに流川の二の腕を軽く叩いてから、三井はシャワーブースに向かった。全部脱いでから行こうかと一瞬迷ったが、着ているものも一度洗いたいからそのまま着ていくことにした。
「……先輩」
 後ろで流川が呼んでいる。けれど三井の意識はもうシャワーに向かっていて、強い口調で呼ばれたわけではないし、足を止めて振り返るほどじゃないと判断し、適当に返事をしながらさっき選んだ個室の中を覗いた。よく見れば、シャワーのコックがひどく錆びているし、正体不明の床の汚れが気になる。なるべく綺麗な場所を使いたいと思うのが人の性で、その上、三井は人よりずっと潔癖だ。隣の個室と見比べて、一番綺麗なのはどれかと再び悩み始めた。流川からはそれ以上特に声も掛からなかったから、三井は自分が返事をしたことすら忘れてしまった。
「あーやっぱ、こっちのほうがキレイっぽいか……? なんかビミョーだな。こっちにすんかなぁ、俺」
 一度迷い始めると三井はなかなか決められない。優柔不断の自覚はある。
 悩んでいると、流川がそばまでやってきた気配がした。
「おまえどこ使うよ?」
 尋ねながら振り返りかけた三井の背中に流川がドンとぶつかってきた。背骨や腰に軽い衝撃が走る。
「いっ──」
 痛てえな、と反射的に云いかけて、途中で口を噤んだ。
(あれ?)
 背中に張り付いてきた流川がそこから退かない。それどころか後ろから三井を包み込むように二本の腕を巻きつけてきたので、三井は動きを止めた。
 ──これってなに?
 自分の置かれた状況の把握に、頭がついていかない。一瞬止まった時間はそれでも動き始めて、三井の頭はゆっくりと始動し、コイツはぶつかってきたわけじゃない、と認識を訂正したが、余計に訳が分からなくなった。一言も発しない背後の男は、なにを思ったか三井の肩にかかったタオルに顔を埋めてくる。
「おい……?」
 ぴったりと密着した身体の感触やその温もりに三井は困惑する。やけにしっかりと絡みつけられた流川の腕や、肩に圧し掛かった重みの意味を、三井は脳内で誰にともなく問うた。これは、抱きつかれているという状態だ。頭の中で必死で探すのは、後輩が自分に抱きついてきてもおかしくない真っ当な理由だ。訳も分からないうちは、振り解くことも出来ない。
「──どっか具合悪ぃのか?」
 体調不良で立っていることが出来なくなった流川が縋り付いてきたのだ、と三井はそれらしき理由を思い付いた。暑さに参ったか、あるいは練習のしすぎ。めまいや、立ちくらみ、夏にはよくある症状だ。十分ありえる想像に行き着いて、三井は流川の様子を確かめる。
「だいじょぶかよ?」
「……大丈夫じゃない」
「おい、マジで?」
 三井の肩に顔を伏せたまま、流川がようやく口を開いた。声質はいつもとあまり変わらないようだが、その返事に三井は軽く動揺して、自分を包む流川の腕を掴んだ。
「気分が悪ぃのか? めまい? 立ってらんねえのか?」
 首を巡らせて様子を窺おうとしたが、顔が伏せられていてよく分からない。
「……そーじゃねえ。身体も気分も、ベツにどこも悪くねえ」
「は? なら──」
 なんで俺たちはこんな状況に陥って──と考えて三井は黙り込んだ。流川の重みを受け止めたまま沈黙が一秒二秒と過ぎていき、身体を預けたままそれきり動かない相手にこれ以上なにを問いかければいいのかも分からない。生々しい息遣いや、脈打つ鼓動をすぐ近くに感じる。流川の匂いが、自分を包んでいる。室内は蒸し暑くて、額から流れる汗は留まることを知らず伝い流れ落ちていく。いろいろな意味で重みに耐えきれなくなり、三井の足は逃げるように一歩前へ出て、壁に手を突いた。
 しかし、背後から三井を包む長い腕は一向に緩まず離れず、むしろいっそう力が籠められたように思う。
「……なあ、なんかこの状態オカシイから……どこも悪くねえなら離れろよ」
「大丈夫じゃねーから離れたくねえ」
 こいつ支離滅裂すぎる、と流川の精神状態を不安に思いつつも、三井は頷いて見せる。
「わかったから……とにかく、まずは一旦放せってば」
「……イヤだ」
「はあ?」
 三井は困惑する。
「ヤダっておまえ……なに云ってんだ」
「離れねえっつった」
 まるで子供のようだ。
「いや、なんで……ってか、ホントに、ちょっと待てよ──」
 三井が身じろいでも、流川の腕は緩まない。
「待てなんて習ってねえ」
「習ってねえってなんだよ……」
 犬じゃないんだから、と口には出さずに思う。
「待つ余裕なんかねーし、いまさら……先輩にそんなこと云われたくねえ」
 なにか差し迫っているような、必死な感じの流川の声に三井は驚いた。いつもの無口で馬鹿な後輩とはまるで雰囲気が違っていた。彼が云っている意味が理解出来ず、得体のしれない不安を感じ、一瞬の隙をついて三井はかなり強引に流川の腕を解き、まだ曖昧なままの不安を理由に目の前のシャワーブースのひとつに逃げ込んだ。
 シャワーを背にして振り向くと、後について一緒に入ってきた流川が三井の前に立っていた。対戦勝負をしている時と同類の真剣な眼差しをこんな場面でも向けてくる後輩と対峙して三井の頭は完全に混乱していた。この意味不明な状況はこいつの下手くそな冗談の類ではないのかと疑いつつ、どんなときでも整っている顔から目を逸らせずにいたら、迷いのない動きで距離を詰められ、今度は正面から抱きつかれた。
「ちょっ──」
 言葉に詰まりながら、三井は慌てて抵抗する。
「バカ、やめろ……!」
 自由になる腕で必死に流川の身体を押し返そうとしたが、パズルのパーツが綺麗に嵌ったかのように身体と身体のあちこちががっちりと組み合わさっている。背後にあるシャワーの栓に背中が当たることも気になってしつこく拒絶を続けたら、個室を仕切る壁にすごい力で押し付けられて、身動きが出来ないほど強く抱き締められた。
「おまっ……なにがしてえんだ……っ」
 加減を知らない流川に胸を押し潰されそうになりながら、三井は酸欠に喘ぎ喉を反らせて声を絞り出した。きつく抱かれて身動きが取れない。よく知っていたはずの後輩が急に理解の範疇を超えてしまい、ただただ困惑し、どうしていいのか分からない。なにを望まれているのかが分かっていないのだ。分かっていることと云えば、発熱しているみたいに自分の身体が熱いということくらいだった。沸騰しかけの血液が音を立てずに全身を駆け巡っている。三井は息苦しさに小さく呻いた。
「あー……クソぉ……なんか云え説明しろ」
 ただ力任せに抱きつかれていてもなにも進展しない。三井は納得のいく動機が知りたい。
「……あの時の」
「あ……?」
「あんたが悪い」
「ああ?」
 お互いの耳を寄せ合うように密着しながら流川が口を開く。
「あの時、先輩と……逃げてえって俺は思ってた」
 抱き締める腕の力が少し緩んだので、三井の呼吸が楽になった。
「あ、あの時って……?」
 あの時がどの時なのかも分からないが、この事態に説明をつけてくれるのかと思い、三井は続きを促す。
「あの時の夜。先輩と、どこでもいーから二人で抜け出してえって思った。たぶん、あの時からずっと、俺は大丈夫じゃねーんだ」
「……なんの、話だよ? ちょっと……お互いに……なんか、話が噛み合ってねえだろ。なあ」
 主語のない後輩の話が見えず、とにかく落ち着かせようと流川の背中を優しく擦る。力で抵抗するのは止めた。この非日常的な状況に少し慣れて、頭が回り始めた。刺激はしないで、流川を引き離す方法を探る。
「話ちゃんと聞いてやるから、とりあえず放せよ……俺にくっつくな。じゃなきゃ話になんねえよ。そうだろ? なんで抱きつくんだ」
「……誘ったの、そっちだ」
「は!?」
 あまりの驚きに、三井は少々大きな声を出した。大声に反応したのか、流川がようやく顔を上げた。腕は解かれないまま、流川と至近距離で見つめ合う。
「いや、俺……っつうか、え、俺が? おまえ、俺が誘ったっていま云ったか?」
「違うって云いてーの?」
「違うって云うだろそりゃ、俺がなんでおまえを……バカなこと云うなよ」
「誘った」
「誘ってねえよ、いつの何時何分誘ったっつんだ」
「あの時だって、俺と逃げてーってあんた云っただろ」
「だからぁ、おまえの云うあの時ってぇのは──アッ!? まさか、もしかして……追試の合宿ん時のこと云ってんの……?」
 そう云えば、赤木の家で辛くなってたまたま休憩が一緒になった流川になにか弱音を吐いたような気がする。まさかと思いつつ訊くと、流川が頷いた。
「おっまえ……ホントにバカなのか? あんなの気にしてたわけ?」
 云いながら、三井は流川の胸を掌で押し返した。更に少しだけ流川の腕が緩む。
「逃げたいって、確かになんか云った気すんけどな……それって、勉強が嫌んなっただけだし」
「あれだけじゃねえ。他にもいろいろある。いまだって、こんな邪魔が来ねえトコで秘密だっつってわざわざ二人きりんなって俺にやたら触ってくんじゃねーか。それでも、誘ってねーって云うつもりすか?」
 どこか甘えた調子も含みながら、不服そうに流川が云う。
 けれど、三井は流川が云うようなことを企んではいない。
「なんだそれ……決まってんだろ、違うっつうの」
 緩んでいた流川の腕を力で振り払った。三井はただ、部活のあとにシャワーを浴びたかっただけだ。そして、可愛がっている後輩にもこの恩恵を分けてやろうと思っただけだ。秘密にしたのは、もしも教師にバレたらここの鍵を借りた人間にも迷惑をかけることになってしまうからだ。
「深い意味あるわけねえだろバカ」
 今日は何回バカと云っただろう。疎くて幼い奴と思っていた後輩がとんでもない方向へハンドルを切ってしまったことに三井は呆れてしまった。交通ルールも知らないまま暴走しているようなものだ。
「でも、あんたはいつも俺を挑発してくんじゃねーか。絶対なんの気もないって、違うって、云えんのかよ?」
 挑むような目をして妙に強い口調で云い返してくる流川を見て、三井は黙った。
 バスケのこと以外でこんなにムキになるところを見たことがない。こんな流川はとても珍しい。珍しいだけに、重みがあった。一瞬返す言葉に詰まってしまうほどには。絶対、という言葉が重い。
 それでも受け入れられない。バスケ以外でこの後輩を挑発した覚えなどなかった。
「挑発なんかしてねえ。違うって」
 真っ直ぐな視線が重くて、云いながら三井はつい目を反らした。その隙をつくように流川が一歩距離を詰めてきて、やっと離れたと思ったのに再び寄りすがられてしまった。
「違わねえ」
「おまえなあ……」
 自分の思い込みを曲げようとしない後輩に困り果てて、思わず眉間に皺が寄る。これで押し問答の振り出しに戻った。
「えーっとぉ……」
 汗臭い男二人が狭い個室に籠って抱き合っている場合ではない。この状況はなんだか相当にマズイ気がする、と三井は本能で察知している。流川の腕の中で必死に頭を回転させて、この状況を切り抜ける方法を考える。なにしろ、危険信号が頭の中で点滅しっぱなしだ。
「流川ぁ……聴け。とにかく、顔上げてこっち見ろ」
 駄々をこねる子供のようになんだか拗ねた空気を出しながら肩に顔を埋めてしまった後輩の髪を三井は労わるように撫でた。呼んだら素直に顔を上げて、三井と目を合わせてくる。
 整った仏頂面がほとんどいつもと変わっていないことを確認して、見た目はいつもの後輩なのだからとにかくきちんと話せば分かり合えるはずだと心強く思えた。今ならまだ、方向転換は可能だ。ちゃんとした交通ルールを叩き込める。子供の相手をするように笑顔で接しながら諭そう、と無理して笑顔を作ってやったら、流川が一言呟いた。
「あんたのこと好きだ」
「えっ──」
 三井の心情に反して、唐突に、流川が云ってはいけない言葉を発した。
 そして意識が飛んだ一瞬の隙を突かれ、三井は唇を奪われた。
 一生触れ合うはずのない唇同士がぶつかり合った驚きに、三井は瞬間的に目を瞑った。背中も頭も壁に押し付けられ、塞がれて、抉じ開けられる。なりふり構わない行動にまったく理解が追い付かず、信じられない思いで流川を押し退けようとするが上手くいかない。
 最初こそ流川は食らいつくような身勝手なキスを仕掛けてきたものの、それは次第に変容していった。まるで三井の反応を試すように緩急がつけられ、角度を変えられ、二人の周囲を甘い空気が包み始めた。濡れた音を立てる唇や舌先の柔らかで儚い刺激に判断力を奪われて、嫌悪を覚えるような行為の最中なのに何故だか不快とも感じられず、舌で促されるままに三井はうっすらと口を開き、隙間を作って口腔内まで流川の舌を受け入れさえした。
 いつの間にか拘束は解かれて、頭の両側を肘で囲われただけの緩い不自由の中、後輩の持つ強い意志に流されるままに淫らな音を立てながら粘膜を貪り合う。ただ立っているだけで汗の滲む不快な湿度も気温も時間も忘れ、舌を絡めて吸い取られ、スポーツドリンクの甘味料が微かに混じる唾液を三井は何度も飲み下した。ここまでやったら洒落にはならないと頭では理解しているのに、理性はうまく働かない。
 後輩と、男同士でこんなこと──と、なけなしの道徳心が意識の端に居座って自分を踏み止まらせようともしていたけれどそれは無意味だった。どんな女にだって見向きもしなかった男が三井を好きだと云い、強引に唇まで奪いに来たこの信じ難い事実が否応もなく三井の気分を高揚させているのは確かだった。流川の服の生地を千切れそうなほど強く掴んで引き離そうとしていた自分の手が、逃れたいのか引き留めているのかさえ、よく分からなくなっていく。
 それでも、服の上から控え目に三井の身体を探り始めた流川の手がTシャツの裾から中に入って来たときは、さすがに目が覚めた。汗が滲む肌の上を這う他人の手の感触にぞくっと身震いして、三井は小さく「ア」と声を漏らした。これは行き過ぎた行為だ。行き着く先はひとつしかなく、頭を過ぎった事の重大さに一気に我に返った三井は、流川の手を押さえながら「やめろ」と短く叫んだ。
 その声に深刻さを感じ取ったのか、流川の不埒な行為は止まった。
「シャレんなんねえから放せ」
 流川の身体を力いっぱい押しやって自分から離した。個室からいますぐにでも逃げ出したいが、流川が出口を塞いでいるので壁際に身体を寄せる。
「おかしいだろ、こんなの」
 心臓の動きが異常に早くなっている。
「俺、おまえを誘ったりしてねえからな」
 流川の目を見てきっぱりと云った。まだ、流川からの「好きだ」という気持ちに答えていないが、答えは考えるまでもなく決まっている。
「おまえがいままでどう思ってたのか、それはどっちでもいいよ。でも、誓って俺は誘ってなんかねえ」
「……なら、俺もそれはどっちでもいい。でも、いまのは?」
「……いまのって?」
「イヤだったんすか? キス」
 三井は言葉を失った。嫌だったのかどうか、自分でもよく分からない。いや、嫌だと思うのが普通なのだが、とてもそうは思えないくらい長い時間キスに没頭していた。まともに抵抗もせず途中まで受け入れてしまったことは事実だが、突然のことで動転していたのかもしれない。
「そこは……問題じゃねえだろ? おまえが急にあんなことすんから、頭真っ白で」
「イヤだったかどうか」
 訊きたいのはそんな云い訳じゃないと云わんばかりの高圧的な流川の態度に、三井は頭に血が上った。
「てめぇなんで偉そうなんだよ! あのなあ、俺はマジで怒ってんだぞ。男にあんなことされて、ヨカッタわけねえだろ! イヤに決まってんだろうが!」
 怒りが爆発して思ったよりも大きくなった声が室内に反響した。長い前髪の隙間から流川がこちらを無言で見ている。納得はしていないだろうが反論してこない。言葉を失くしたまま打ちのめされたように立っている姿を見ているうちに、三井の怒りは急速に萎んでいった。
「って、いうかだな……まあ、終わったことはもういい。云ってもしょうがねえし」
 ちっとも良くはないが、あえて攻撃して後輩を傷つけたいわけではないし、嫌だったのなら何故舌まで入れさせたりしたんだ、などと深く突かれたくないのが本音だ。話を先に進めるために頭を切り替える。
「いまはそれ置いといて……そもそも根本的なこと訊きてえんだけど。おまえって……ホモなの? 男が好き、なのか?」
 こうなったらもうそうとしか思えないが、念のために三井は確認する。
 今日まで、流川がゲイだなんて疑ってもみなかった。
 そんなそぶりを感じたこともなかったし、確かに女に冷たいが、それは恋愛に興味がないせいだと思っていた。
 デリケートな問題だと思うし、流川の性的な指向に文句を付ける気はさらさらない。同性しか愛せないという人間が存在することに偏見も持っていないつもりだ。だが、自分がその対象にされて、好きだからと一方的に迫られてしまったら黙っているわけにはいかない。
「……それ、先輩はチガウみてーな云い方っすね」
「え、だって……そりゃそうだろ。ねえよ……俺はホモじゃねえもん」
 三井は女にしか興味がないし、流川に恋愛感情を抱いたこともない。
「……んなの嘘だ」
 流川が眉を寄せる。
「嘘ついてどうすんだ俺が」
「だって……先輩は他のヤツとは違う。そーいうのは、同じなら、なんとなく分かる」
「おい待て、俺はどう違うんだよ? 俺、おまえになんかしたのか? なんもしてねえだろ? 云ってみろよ、俺がいつ、おまえに、なにしたのか。どう違う? 具体的に云えよ」
 なにも答えられるはずがない、と三井は自信を持っていた。身に覚えのないことだ。やはり答えられず黙ってしまった流川に、三井は口調を穏かなものに改めて説く。
「あのさ……俺は、別におまえがホモでもなんでもいいと思うぜ……それに文句はねえけど、好きだって云われても俺はムリなんだよ。ちゃんと同じ趣味のヤツを探せよ」
「……俺が好きだって思うのは、あんたのことだけだ」
 二度目の告白をしてきた懲りない流川に、三井は途方に暮れた。
「そんなこと云われたってよ……」
 流川は決して目を逸らさない。愚直で一途なところはこの後輩の長所だけれど、それを向けるのはバスケだけにしてほしいと三井は願う。
「困んだよ俺だって。……悪ぃけど」
 ひたと見据えてくる流川の視線から逃げるように、三井は床に広がった染みに目を向けた。裸足の足の裏がコンクリートの冷たさを吸って、足元だけはひんやりと心地好い。自分の心臓の音がどくどくと聞こえていて、緊張しているのだと分かる。三井は顎の先から流れ落ちそうになった汗を、ぎゅっと握り締めたタオルの端で拭った。
 男の後輩に愛を告白されたと云うのに、何故だか気分はそれほど落ちていなかった。むしろどちらかと云えば上がっているような気さえする。
 好きだと云われて少しも不快じゃないことが不思議だ。普通ならあるであろう嫌悪感を抱くこともなかった。
 けれど、流川と恋愛なんて絶対にしない。
 仮に流川が自分をどれほど想ってくれたとしても、自分と彼の未来が混じり合うことはないと断言できる。
「俺さ……おまえらに云ってねえけど、付き合ってる彼女もいるんだわ……」
 部員たちはまだ知らないはずだ。バスケ部に復帰後、三井には新しい彼女が出来た。
「それ、ホントすか……?」
 三井が仕方なく放ったとっておきの秘密に、流川もさすがに驚いたようで目を丸くしている。
「ホント。えーっとぉ、もう二ヶ月ちょいぐれーになんのかな」
 告白は相手からしてきた。元々は名前すら知らなかった、二年生の女子。部活で手一杯だと云って最初は断ったものの、相手も部活動をやっているから、部活の邪魔はしない、と云うし、最初はトライアルで返品も可ですと食い下がられてつい笑ってしまい、結局インターハイ予選の最中から付き合い始めた。
 時期が時期だったこともあり、部活内には恋愛話を持ち込みたくなかった。だから極力、学校での彼女との接触は避けている。学校では、目立たない空き教室で一緒に弁当を食べるか、堀田と約束があると嘘を吐いて宮城たちとは部活後に別れ、遠回りのルートを通ってときどき一緒に下校するくらいだ。けれど部活が休みの日には一緒に出かけもするし、家に呼んだりもする。相手の家にも、ときどき遊びに行く。そういう時は大抵、今日は親がいないと彼女が云った時だ。
「だから俺、そーいうんじゃねえから。おまえの気持ちは、よくわかったけど……なんつうか……ゴメン」
 俺とおまえは違う、と目の前に突きつけるのは気が引けた。けれど、性的指向がそもそも違うのだから、はっきり云うしかない。
「ただ、一応云っとくけど、俺だって、おまえのことは結構可愛い後輩だと思ってる。嫌いなヤツと、一緒に練習したりしねえし。けど、それは後輩だからであって──」
 流川の微量な表情の変化が三井には手に取るように分かってしまい、云い難い言葉を続けながら憂鬱と戦わなければならなかった。感情を殺そうとするように流川は唇を引き結び、何も喋らない。正直、見ていると心が痛んだが、ひと思いに振ってやるのが後輩のためには一番良いと思った。
「つまり……俺はおまえと同じような気持ちは持てない。そういう好きとは違うっつうか……」
「……わかった。もういいっす」
 ぎゅっと握り込まれた流川の拳を、三井は見ていた。
 傷ついた表情を隠すように、流川はさっと踵を返して個室から出ていく。
 見えない圧力が消えて、緊張の糸が緩んだ三井は静かに長い息を吐いた。一拍置いて三井も出ていくと、流川がロッカーから自分の荷物を取り出していた。
 どうするかと考えたが、これ以上は言葉が見つからない。ベンチに座って靴紐を結び始めた流川を三井はじっと見守っていた。
「帰る」
「あ……おう、そっか……そうだな」
 顔は上げなかったが、流川が口をきいたのでホッとした。無言の応酬は神経がすり減る。この空気の中で一緒に居るのはきついと考えていたので、帰ってくれるのも正直有難かった。
 靴を履き、荷物をまとめ終えた流川が出入り口に向かった。かける言葉が浮かばず背中を見つめていると、扉に手をかけた流川が三井を振り返った。今までに向けられた覚えのない冷やかな視線を投げられて、三井はひそかにたじろいだ。
「もうあんたに近づかねーから」
「え?」
 一瞬、なにを云われたのか呑み込めなかった。
「部活以外で二度と近づかねえ。だから、安心して」
 その言葉がどれだけの重みを持つのかなんて想像する間もなかった。だから、なにも云い返せないまま三井は取り残された。


 三井はしばらくの間、目の前で乱暴に閉まった鼠色のドアを凝視していた。
(近づかねえって、なんだよ……)
 実際、流川の想いにはどうしたって応えられないのだ。だから、接触は少ない方が良い。お互いに近づかなければ、これ以上なにも起きない。
 だが、こんなことになった原因は三井にあると云われたように感じて、少々すっきりしない。
「誘ってなんかねえし……」
 そっちが誘った、と流川は云っていた。いつも彼を挑発していると。云いがかりとしか思えないし、三井には自覚がなかったので、誤解させたことを謝る気にはなれない。仕掛けてきたのはそっちだろうが、と心で呟いたらさっきのキスが脳裏に甦り、思わず手の甲で唇を押さえた。恋愛関係にまったく興味を示さなかった後輩にまさか唇を奪われるなんて思いもよらなかった。柔らかい舌が咥内を動きまわった感触が、まだ残っているような気がする。br>  舌を絡める濡れた音までリアルに思い出してしまい、深い溜息と共に流川の幻影を頭から追い払う努力をした。
「……あーあ」
 流川に「好きだ」と云われるなんて三井の人生始まって以来の事件だ。いままでちっとも後輩のそんな気持ちに気付かなかった自分に呆れている。それでいて、彼の表情が読めるだなんて思い込んでいたのだから、自分こそバカであるとしか云いようがない。溜息が洩れる。
 掻き回された心の中は乱れたままだが、とりあえずシャワーを浴びに来たんだからと気持ちを切り替えてシャワーブースに向かいかけると、後輩が出ていって間もない扉がコンコンとノックされた。三井は息を飲む。
「……流川……?」
 まだ云いたいことがあって引き返してきたのかと、若干の緊張を走らせつつ声をかける。
「私だけど。開けていい?」
 声の主は流川ではなかった。なんだおまえかと思いながら三井は「いーよ」と返事をした。
「シャワーは終わったの?」
 ドアを開けて入ってくるなり白い歯を見せて笑いながら問うてきたのは、スポーツバッグを肩にかけた女子生徒だった。膝上二十センチの夏服のスカートと私服のポロシャツから出ている手足が日に焼けて健康的な色をしている。
「まだ」
 難しい顔をして、三井が短く答える。
「ふーん、遅かったんだね」
 彼女は靴のまま中に入ってきて、バッグをベンチの上に置いた。そして「ここ暑いでしょ」と云って自分の髪を耳にかけながら三井を見上げて微笑んだ。
 彼女が、流川に話した “付き合って二ヶ月ちょっと” の秘密の恋人だ。短いお試し期間を経て、いまでは真面目に付き合っていると云ってもいい。
「ちょっと長引いたんだよ……そっちも待たずに帰るって云ってただろ?」
 さっきまでデカい流川がいたせいかいつも以上に小柄に感じる恋人を見下ろして、三井は云い訳をした。
「んー、駅前まで行って友達とご飯食べてた。で、別れてまた戻ってきたの」
 彼女は水泳部に所属している。三年生が引退したため、副部長になったばかりだ。
 三井よりも先に部活を終えた彼女はとっくに学校を出ている。帰る間際に体育館に寄って貰い、三井もトイレに行くフリで抜け出して、ここの鍵を貸して貰ったのだ。
「戻ったらまた汗かくだろーが」
「だって三井先輩がちゃんと鍵返しに行けるか急に心配になっちゃって。うちの顧問がもしかしてまだ職員室に居たらヤバいし。バレたら、私だってすごい怒られるでしょ」
 鍵は、水泳部の顧問の机に戻しておくことになっていた。上から二番目の引き出しが更衣室の鍵の定位置だと、三井は彼女から教えて貰った。夏休みだから職員室にもほとんど人がいないのだが、確かに注意は必要だ。
「やっぱり、一応私が返しに行くね」
「そっか。……おまえさ、いま、そこらで流川に会わなかった?」
 三井は鍵のことなんかよりもそれが気がかりだった。タイミングを考えると、さっき出ていった流川と顔を合わせた可能性が高い。別に見られても困ることはないが、好きだと告げて強引にキスまでしていった直後の男と自分の彼女が鉢合わせするのはやはり気まずい。
「そこですれ違ったよ。流川君て、挨拶しても無視するよねえ。でも、カッコ良かったぁ」
「……あいつ、誰にでもそうだから」
 無視したのにカッコ良いと云わせてしまう後輩の力にこの世の不条理を感じながら、三井は溜息を吐いた。
「あと、三井先輩まだここにいる? って訊いたらすごい目で睨まれて、びっくりした」
「……ごめん」
「なんで謝るの?」
「……後輩だから」
 睨まれたのはたぶん俺のせいだから、とは云えなかった。
 こんな場所で誰かとすれ違っただけでも流川は訝しんだだろうし、自分の名前を出した彼女が恋人だと気付いたかもしれない。
 三井としてはそれでも別にかまわない筈なのに、何故だか『シマッタ』という気がしている。付き合っている女を実際に見れば三井がノーマルな指向の男であることがはっきりして流川だって諦めがつくだろう。だから、これで良かった筈だ。なのに──なんだか後味が悪い。出来れば見られたくなかった、という思いが心に芽生えている。
「いいよぉ、流川君がああいう感じの子だってみんな知ってるよ。ねえ、それより」
 幾分低くした声で彼女は云う。
「やっぱり戻ってきたら汗かいちゃった。私ももう一回浴びようかなあ?」
 柔かく三井の腰に細い腕が巻きついた。正面から身体を密着させて、至近距離から見上げてくる彼女の真っ直ぐな視線が、今日は重たく感じられた。
「……それは、まずいんじゃねえの」
 女子の方がこういうの大胆だよな、と内心で思いつつ、三井は対応に困った。彼女は男子更衣室のシャワーを使いたいと云っているのだ。ひとつの個室を二人で使う気でいるのは明らかだ。
「平気だよ。もう誰も来ないもん。流川君も、帰ったんでしょ?」
「そうだけど、誰も来ないかなんてわかんねえし……ダメだって」
 誰かにこんなところを見られたら停学モノなのだが、そのことを脇に置いたとしても、三井はいまそんな気分ではなかった。
 湧き上がる高揚感もなく、ただただ彼女にどうやって諦めさせようかとそればかりを考える。
「ダメ? 嘘だあ。だって……もうこんなふうになってるよ。なにかあたってるもん」
 からかうように声の調子を変えながら、彼女は三井の股間に掌を押し当ててきた。
 見た目にはほとんど分からないが、ハーフパンツの中央は指摘通りにわずかに膨張していた。
(え……)
 彼女が触れてきたことで、意識の外側に遠ざかっていた繊細な感覚がふいに身体に蘇ってきた。そして三井は、呆然と自分の身体を見下ろした。
「まだなんにもしてないのに、早すぎじゃない?」
 甘い雰囲気が出来上がっていると思い込んだ彼女がキスを強請るように三井を見上げる。だが、三井はそれどころではなかった。五感の半分が完全に停止していて彼女の言葉は耳に入っていなかったし、声も出ない。
 彼女に指摘された身体の変化は、きっと、もっと前から起きていた。自覚はなかったが、たぶん彼女がこの部屋に入るよりも前からだ。それは、こうなった原因が彼女ではないということを指す。
(マジか、俺……)
 さっき、云いたいことばかり云って出ていった後輩の顔が頭の中を過ぎった。彼に抱きつかれ、好きだと告げられ、キスされた。猶予も与えられないままあまりにもいろいろなことが一度に起きて、なんとか咀嚼はしたが消化できていない。自分の身体の明らかな反応について、三井は無意識に見ない振りをしていた。今の今まで無自覚だったが、改めて思い返せば、流川が原因だとしか思えない。
「ねえ、キスしないの?」
 男とキスして身体が性的に興奮してしまった三井の絶望感など知る由もなく、彼女はしつこくキスをせがんだ。
「……いや、やっぱまずいから、ちょっと……外で待ってて」
「ええ〜? もー、なんで?」
 信じられない、という顔で彼女が見上げてくる。
「……あちぃから、校舎かなんか中入って待ってろよ。な?」
「えー、つまんない。イヤ」
「帰りにアイス奢ってやるから」
「えぇ〜?」
 アイスごときでは心も動かないだろうが、三井は強引に彼女を引き離し、肩を抱いてドアまで連れて行った。
「ねえひどーい、せっかく戻って来たのに……」
「だって、バレたら俺もおまえも停学だぞ。内申に載るぞ? 大体、ここが使えなくなった理由知ってんだろ。バレた奴が実際いるんだから、俺らもわかんないだろ」
 停学やら内申という単語に恐れをなしたのか、彼女は眉を寄せて不安そうにした。
「うー……じゃあ、待ってる。北校舎の昇降口」
「おし、わかった」
「サーティーワンが良い」
「いいぜ」
「ねえ、それって自然におさまるの?」
 彼女が三井の股間を指差した。
 三井は苦笑いで「まあな」と間抜けな返事をして彼女を室外に追い出した。

 三井が彼女と別れたのはそれから二週間後のことだ。

3へつづく
★ちょこっと一言