体育館の冷たい床の上にタオルを敷いてうつぶせに彼を寝かせ、見えないのをいいことにその姿をまじまじと見下ろした。もう少し右メインで、と何度目かの指示を出され、流川は云われるがままに右足のふくらはぎに手で触れる。そこ疲労してっかも、と彼が云うので、雑にならないように、辛抱強くゆっくりと、丁寧に揉みほぐしてやることにする。
優しいのよりは少し痛いくらいの加減が好きだ、と初めてマッサージを命じられた時に三井に教えられた。くすぐったいのには耐えらんねえ、と云いながら、一切の遠慮のなさで彼はあれこれと自分の好みをこと細かく並べ立てた。ワンオンワンで負ける度に、奢るか労働を要求される。決めるのは当然勝った方で、マッサージを希望された時は覚えた通りのことを従順に彼の身体に施した。
三井の脛は細くて柔らかな脛毛が疎らに生えていた。手で包んでもざらついた感触はしない。手足の長い動物にも似た足は流川の大きな掌でやすやすと掴めた。流川の素人マッサージでも彼は本当に気持ち良さそうに呻く。
気持ちが良いと三井は「あー」とか「うー」と呻いて流川にそれを教える。格別良い時は「そこ最高」と云ったり、「今のワザまたやってくれ」などと流川を調子良く褒め称えていいように使う。
うつ伏せになったことで目の前に晒され続ける三井のうなじに唇を触れさせてみたいと、流川は何度も思った。触れたいし、舌で舐めて噛みつきたい。まったく従順ではないだろう三井が嫌がったとしても、甘ったるい呻き声を上げるまで上から圧し掛かって押さえつけてしまえばいいと妄想もした。
マッサージは勝負に負けた罰ゲームではあるのだけれど、流川にとってこれはペナルティとは異なるものだった。触ることを許され、普段聞けない声が聞けて、誰にも邪魔されない。こんなに楽しい罰はない。
だから流川は、もう何度も三井との対戦勝負にわざと負けている。
あからさまに手を抜けば見抜かれてしまうから、そこは慎重にやった。三井を相手に戦っているのだから余裕なんてほとんどない。読める動きをいくつかあえて見逃しているだけだ。
無意識の呻き声ひとつで三井は挑発するように流川を煽り続ける。仕舞い込んだ感情が、そんな刺激を受ける度に浮上しそうになり、無防備に横たわる目の前の男に手を出したくなる。
もしもこの背中に覆い被さったら、自分を取り巻く世界が一変してしまうだろう。そんなことをしたら取り返しがつかないという気もするから、すべては妄想に留め、慎重に自分を抑えて、心を殺す。
それでも、ときどき考える。もしかすると、流川が一線を越えてくるのを三井は待っているのではないのか。そう都合よく考えてしまうことは、一度や二度ではなかった。あまりにも三井の言葉や仕草が流川を翻弄するので、本当にそんな気がしてきてしまうのだ。
フェンスに挟まれ人同士がすれ違うのがやっとな幅の通路を、流川は早足で歩いた。頭の中は、つい今しがた起きた出来事に占められていた。
速やかに記憶を封印したいと願うほどには、自分がしでかしたことがどれほどの失敗だったか解かっている。だが、やってしまったことも、聞かされた話も、もう今更なかったことにはならない。困惑と憐憫とが滲んだ面持ちで自分を見つめる三井の姿が網膜に焼きついてしまった。脳の深いところから、怒りと呼んでも差し支えない感情がとめどなく溢れ、激しく脈打つ心音は忌々しいほどで、それが、余計に苛立ちを増幅させる。
──俺はおまえと同じような気持ちは持てない。
そうハッキリと告げられて、顔面を思い切り拳で殴られたくらいには目が覚めた。三井は、男同士で恋をするなんてあり得ないと主張していた。今まで彼にはさんざん翻弄されてきたというのに、それはすべて流川の勘違いであると彼は云うのだ。
流川の怒りの矛先は、三井に向けられてもいるし、自分にも向かっている。どあほうだ、と自分を罵りながら、流川は更に歩調を速める。爆発寸前の感情を無理やり押さえつけ、この場所から早く離れることを願い、足を必死に動かした。肩から下げたスポーツバッグが行く手を阻むように青く伸びた植物を時折乱暴に掠めて葉を散らしたが、流川は気に留めない。
フェンスの途切れる出入り口まであと少しというところで、前方に女子生徒が現れた。狭い通路をこちらに向かって歩いてくる。
驚いた流川は歩調を緩め、女子生徒を見据えた。ここで生徒に遭遇するとは思わなかった。流川と同じようにスポーツバッグを肩から下げた彼女は、流川の存在を認めると人懐こい笑顔を見せて軽やかな足取りで近づいてくる。少しずつ距離が縮まる。
「こんにちわー」
間近で挨拶されても、流川は反応を返さず黙っていた。近くで目を合わせてもまったく覚えのない生徒で、同級生ではないような気がした。しかし確信はない。相手は流川を知っているという態度だが、彼にとってそんなことは日常茶飯事だ。名前も知らない他学年の女子だけではなく、別の学校の女にだって度々話しかけられる。今だって、どこか場違いな場所で出会ったということを除けば、よくある出来事だ。いつものようにそのまま無視して、女子生徒の横をすり抜けようとした。
「ねえ、三井先輩まだいる?」
すれ違いざまに出された名前に流川の足が止まった。狭い場所なので斜めに傾いた姿勢のままで、彼女をまじまじと見下ろした。流川を見上げている顔は、少々日焼けしすぎな感もあったが、遊んでそうというほどではないし、一般的にいってたぶん誰もが可愛いと感想を持つだろう。最初の人懐こい笑顔は引っ込められているものの、遠慮も警戒もしていないようで、陽気な気性が顔から透けて見える。髪は肩よりも少し長いストレートヘア。明らかに学校の指定ではないポロシャツに、下は夏服のグレーのスカートを履いている。スポーツバッグの中はおそらく荷物が沢山詰まっている。夏休みに学校へ出てきた運動部員、という風情だった。
けれど彼女の見た目や素性についてはどうでもよかった。流川の足を止めさせたのはただひたすらに三井の名前だ。
何故ここで三井が出てくるのか。
ここは体育館ではない。流川の背後にあるものは、水泳部しか使用しない更衣室だけだ。自分たち例外を除けばこんなところにやって来る生徒は基本的に水泳部員と園芸部員くらいだろう。けれど確かに三井はこの奥に居る。たったいま流川が怒りに任せて飛び出した棟の中だ。
何故そのことを知っている、と流川が訝しむのは当然だった。だが、心当たりがないわけではない。彼女がこの場で三井の名を口に出来る理由なんてひとつしかない気がした。さっき三井の口から聞かされた「彼女がいる」という言葉とたちまち結びつく。流川の頭の中にこびりついてしまったその言葉が、疑問に対する答えを自然と引き出した。三井の居場所を知っているのなら、きっと目の前のこの女子生徒が「三井の彼女」なのだろう。いま一番聞きたくない名前を、一番会いたくない相手が口にしたということだ。
日に焼けた彼女は流川の返事を待っている様子だが、答えてやる気には到底なれなかった。返事の代わりに、流川は思い切り彼女を睨みつけた。
「あれぇ? いるよね」
彼女は流川の刺すような視線にも怯まず、独り言のような台詞を吐きながらバッグをかけた肩を傾けて流川の横をすり抜けた。すれ違いざまに嗅いだ塩素臭が流川の気を引いたが、彼女の足は止まる気配を見せなかったので、流川もそのまま進行方向へ向かった。振り返ることも出来ず、まるで逃げるような自分の立場が許せないと不快に感じたが、いまはもうプライドだけで立て直せるような段階ではなかった。傷ついた心が、早くここから離れろと警告していたのだ。
そして、流川が学校で三井と個人的な会話を交わしたのはこの更衣室での出来事が最後だった。
部活以外では近寄らない、という言葉を、流川は真実にした。向こうからも、今までのように流川を構ってくることはなかった。
気まずさはもちろんあったが、それを心に仕舞ったまま、出来るだけ普通に学校生活を送った。だが、三井の卒業と同時にそれも終了した。
そして流川自身も、生活環境が大きく変わった。
父親が海外赴任の内示を受け、家族揃ってアメリカに駐在することが決まったのだ。
期間はおそらく三・四年ということで、当初母親は日本に残りたがったし、父親も単身で赴任する心積もりだったが、一緒に行きたがったのは流川だ。こんな機会はそうそう巡ってこない。まだ日本一の高校生にはなっていなかったけれど、転勤なのだから仕方がないと自分を納得させた。
親にも、恩師にも、部員たちにも、アメリカでバスケをするチャンスをどうしても無駄にしたくないから行きたいのだと流川は説明した。けれど本当は、理由はそれだけじゃない。
アメリカに行きたい理由は確かにバスケだが、日本を離れたい理由、と言い換えれば、それは別に存在した。
離れたかったのは、まだ捨て切れていない感情を置いていくためだ。
どうしたって諦めるしかない年上の男を忘れたい。それが本当の望みだ。
三井には会う理由も機会もなかったのでなにも告げず、彼との間に物理的な距離を保てることに心から安堵しながら、流川はアメリカへ発った。挑戦しに行くのだとみんなは信じて疑わないだろう。だが、本当は逃げるのだと自分自身だけは知っていた。 4へつづく予定
もうちょっとだけ続くんじゃ。
彼女いてすみません。