解答の分からない問題を睨みつけながら、必死で流川はシャープペンシルを握り締めていた。時間ばかりが過ぎて行き、高価そうな壁掛け時計の針の音に眠気を誘われ、さっきから何度も記憶が途切れている。こんなに遅い時間に起きていることは滅多にないし、満たされた胃袋が眠気を呼び、限界をとっくに越えている。
向かい側でじっと辛抱強く流川を待っていた赤木晴子はとうとう席を離れて風呂へ行ってしまった。顔を合わせればつっかかってくる鬱陶しい桜木も、今は別の部屋に缶詰だった。少し離れた隣のテーブルでは、宮城と彩子が顔を寄せ合って二人の世界に入り込んでいた。
流川は眠気を抱えたまま、気力で立ち上がった。椅子の足が床を擦ってギイと音を出し、見咎めた彩子にどこへ行くのと訊かれたので「便所」と答えた。
リビングを出て暗い廊下を玄関の方へ向かう。廊下の途中に手洗いがある。眠気によって足運びはふらふらと危ういが、常夜灯が足元をぼんやり照らしていたので電気は点けずに進み、目的の扉に辿り着くことが出来た。
用を足し、廊下に戻ったところで「流川」と小さな声で呼ばれ驚いた。声のした方へ顔を向け、半分閉じかかった瞼のまま、声の主を探す。
廊下の先の、吹き抜けになっている玄関の暗がり。目を凝らせば、上がり框に座って首を反らすようにしながらこちらを見ている人物が居た。寝ぼけた頭でも、そこに居るのが誰なのかはすぐに分かった。さっき、部屋の中で欠けていた人物。
「先輩」
小声で返事をすると三井が手招きをした。流川は乞われるままに三井の元へ向かう。
「なにしてんすか」
見下ろして問うと、暗がりの中で流川を見上げた三井がにっと笑う。
「休憩ってやつだ」
「サボってる」
「人聞きワリーな。飲むか?」
三井が自分の隣に空いているスペースを手で指し示した。彼の手には小さな缶コーヒーが握られていた。
流川が隣にしゃがむと飲みかけの缶を差し出してきたので、遠慮せずそれを受け取った。中身はいくらも残っていないらしい。
「こんな暗ぇとこで一人で休まなくても」
流川は両手でスチール缶を包んだ。
いつの間にか三井が一人だけ離脱して休憩していたことが少し面白くない。流川の場合、時間の半分は船を漕いでいるとはいえ、ダイニングテーブルでひたすら問題を解いているなんて飽き飽きする。三井が誘えば彩子も宮城も文句は云わないだろうから、どうせなら自分も休憩に呼んでくれれば良かったのにと、口には出さずに心の中で思う。
「暗くていーんだよ、鬼ゴリラになるべく見つかんねえようにしてんだから」
「それよりも、一人だけ抜けんのがズリィっす」
「だって、おまえはぐうぐう寝てんし、宮城たちは良い雰囲気になりやがってさ。あの部屋、息詰まんねえ? 俺、もうやれって云われたプリント全部終わったんだわ。ゴリラが戻って来るまで休憩したっていいだろ」
「ゴ……キャプテンて、まだ上なんすか?」
「そう。部屋で桜木に付きっきりだ。あいつが一番やべえんだから」
赤木の自室は二階だ。気が散り易い桜木は赤木がほぼ軟禁状態にしているのだと、用意して貰った簡単な夕飯を食べながらさっき彩子に聞いたのを流川は思い出した。
赤点を四つ以上とったために強制参加で赤木の家に集められた面々は、明日の追試でそこそこの点数を取らなければならない。公式戦に出るためには、どうしても乗り越えなければならない関門だ。赤木が頭を下げて交渉してようやく取り付けた、運動能力ばかりがやたら発達した馬鹿な部員たちのための温情措置──そのための勉強合宿だ。
「それにしても不安だぜ。一夜漬けでどこまで出来んだかなあ」
「他人事みてえ」
「だって俺はやれることは終わってんもん。帰りてえなあ、だいぶ頭に入ったからもうここに居なくてもイイだろ」
「ダメだと思う。たぶん、新しい問題集がまだ待ってる」
「マジか……あー木暮と一緒に途中で帰れば良かった。それか、やっぱ殴ってでも抵抗して赤木のとこなんか来んじゃなかったなぁ」
自分が悪いということを棚に上げて三井は愚痴をこぼす。
そもそも赤点をあんなに取らなければこんな集まりに参加する必要はないのだ。それなのに、三井はすべての元凶は赤木だとでもいうように悪態をつく。
「アイツ、ここぞとばかりに人をいじめやがって、日頃の恨みをこうやって晴らしてんじゃねえの? 家でちゃんとベンキョーするつってんのに、信じねえし。もう、今からでもこっそり勝手に帰っちまおうかな」
「逃げても連れ戻されんかもしんねえから、やめたほうがいいっす」
試合のためなら赤木はそこまでやるだろう。無駄な抵抗だ。
「おまえさ、今回物分りいいな。なんでだよ?」
「試合出るため」
それ以外に理由などない。
「そーいうとこブレねえな。エライよなあ……俺はもー、今日はさすがに疲れたわ」
珍しく褒めてきた三井が、憔悴した声で弱音を吐きながら流川の肩に自分の肩をぶつけてきた。そのまま流川にもたれ掛かるように頭も預けてくる。
肩に加わった重みと、吸い込む空気に三井の匂いが混じっていることに、流川は戸惑いを覚えた。三井とはせいぜいときどき一緒に練習をするくらいで、特別仲が良いというわけでもない。こんなふうに三井がくっついてくるのは初めてのことで、それだけ本当に疲れているのかもしれないと思えた。
甘えた仕草が手慣れていて気まぐれに懐く猫みたいだと呆れながら、流川は横目で三井の頭を見下ろした。整髪剤をつけていない柔らかそうな髪が、頬に触れそうに近い。三井にとっては側にいた人間にもたれ掛かるくらい普通のことなのかもしれないが、流川にしてみればこんな慣れ慣れしい行為には馴染みがない。これが三井でなければ肩から振り落としていたところだが、なんとなく、これは有りだと思えた。別に不快ではなかったし、気分屋な三井のやることすべてにいちいち真面目に反応するのは馬鹿らしいというのもある。
通常ならあり得ないような甘い判断を下したことに流川自身はまったく気がつかないまま、文句のひとつも云わず三井の頭を肩で支えた。
「云っとくけどよ、俺だって、バスケのことだけ考えてっけどさ。たまに……赤木とか見てるとなんか疲れるっつうか、性に合わないっつうか、まあいろいろ、積み重なったもんがあるんだよな……」
弛緩しきった身体を預けながら三井が洩らす。それは、彼の本音なのだろう。
流川は黙ったまま、玄関に幾つも並べられたスニーカーや革靴の輪郭を闇の中でなぞるように眺めていた。
三井の云うことは、理解出来ないこともない。赤木も三井も、チームメイトとしてはお互いを認めているのだろうが、性格的には合わないのだろうと流川も思う。三井は案外と考え方も柔軟で、流動的なことにも対処が早い。赤木は真面目で、あまり融通がきかない。それだけならまだいいが、互いに頑固で意地を張るからタチが悪く、どちらも退こうとしない。コート以外の場所で二人はしょっちゅうぶつかり合っている。
しかし、ぶつかることはあっても、二人がお互いを心底嫌い合っているようには見えなかった。むしろ、意識しすぎているのだ。それは相手を認めているからだ、と流川は思う。そこには、当事者にしか分からない複雑な思いも加わるのかもしれないが。
「ま、おまえに云ってもわかんねえだろうけどな……とにかくさ、今はちょっと休憩してえ気分」
「したらいい」
「いいと思うか?」
「いいんじゃない」
欠伸のひとつも出ず、流川にしてはいつになく口数が多くなる。こんな夜更けに他人の家の玄関先に座り込み、自分に凭れて愚痴をこぼす三井の声を聞いていたら、さっきまでの眠気はすっかり消え失せてしまった。三井がこうして胸の内を打ち明けてくることも珍しくて、悪い気はしなかった。
喉の渇きを覚えたが、流川は持っている缶コーヒーには手をつけず手の中で弄びながら、代わりに唾液を飲み込んだ。
「じゃあさぁ流川」
猫が頭を擦りつけながら甘えた声で鳴くように、親しさのこもった妙に粘り気のある声で三井が流川を呼んだ。
いつになく甘ったるいその声に興味を惹かれ、返事の代わりに首を傾けて様子を覗うと、三井が流川の耳にゆっくりと唇を寄せた。耳朶を掠めた唇が開くのと同時にコーヒーの匂いがした。
「ふたりで、ここから逃げようぜ」
内緒話をするように、耳の中にそっと吹き込まれた。
三井の声とその言葉は、甘い旋律を奏でる音楽のように流川の内側を静かに振動させた。
「……イイすよ」
気がつけば、流川はそう答えていた。
他の選択肢は浮かばなかった。
息でくすぐるように耳元で三井が笑う。またコーヒーの匂いがした。
「いいのかよ? だって勉強はどーすんだよ」
「……ベツに……もう充分やってる」
「ふーん。んじゃ、俺の行きつけのクラブ今から行くか? おまえって、クラブとか行ったことあんの?」
「ねーけど」
「だよなぁ、そうだと思ったぜ。おまえそんなトコ興味なさそーだもんな」
上目遣いに流川を見上げながら、また三井はくすくすと笑った。馬鹿にされているようで面白くない気分になり、流川は三井から目を背けて正面を向いた。並べられた靴のシルエットに再び視線を固定する。
クラブになんて、本当は別に行きたくないのだ。それでも、ここから抜け出して二人でどこかへ行くという話自体は悪くなかった。缶詰めになってやりたくもない勉強をしているよりは、三井と二人で外に出る方がよほどマシに決まっている。
「もしかして、遊ぶこと自体に興味がねえってやつか? 夜遊びしたことあんのかよ?」
「……ない。どーせ九時過ぎたら眠くなる」
「はああ!? おまえ、それマジなのか?」
三井は吹き出した。
「え、じゃあさ、今ってめちゃくちゃ眠いんじゃねえ? もうすぐ日付変わるだろ」
「もー峠は越えてるから、逆に平気」
流川の一言で三井が豪快に笑った。その横顔を盗み見ながら、彼の次の発言を流川はしばらく待った。けれど三井の息はなかなか整わない。
流川が待ち切れなくなった頃、肩を上下させていた三井がようやく笑いを止めた。
「おまえ見てんと飽きねえな。面白え」
流川は何も面白くない。
ふうっと短く一息ついた三井が続ける。
「なあ聞けよ、俺も面白い話してやる。俺さ、昔は勉強出来たんだぜ」
「ウソだ」
流川が間髪入れずに返すと、三井は心外だという顔で口を尖らせた。
「ホントだって! 勉強は別に嫌いじゃなかったんだよ。ただ、一度見失うとなかなか厳しいよな……ちゃんと先のことまで考えとけば、こんな苦労はしねえで済んだのに」
「……後悔してんすか?」
「しないと思うか? おまえもさあ、勉強はある程度やっとけよ。バスケいくら上手くても、それだけじゃダメだぞ。おまえの場合は、バスケの練習を少し減らしてその分を勉強に充てても良いくらいだ」
「たった今、クラブ行こうって云ってたくせに」
流川は反論する。
「バーカ、んなの冗談に決まってんだろぉ? こっから逃げても、追試からは逃げらんねえぜ」
「じゃあ、抜け出さねーんすか?」
「クラブに? 制服で行けるかよ。無理に決まってんじゃん。その前におまえ、自分でも云っただろ? 赤木が追いかけてくるって。想像して見ろ。ホラーだぞ」
冗談だと聞いて、ひどくガッカリした。
じゃあなんであんなふうに人を誘ったりするのだと文句を云ってやりたい気分だ。クラブはともかくとして、二人で抜け出すという行為自体に興味が芽生えたのは確かだった。
──あんなふうに、あんな声で誘うから。
もしも他の人間に誘われていたら、きっと本気にもせずに聞き流していたけれど。
耳朶をくすぐった三井の温い唇と、耳の中に注ぎ込まれた声。いつも聞いている声なのに、いつものそれとは違って聞こえた。頭の中で、何度もさっきの場面を巻き戻して再生する。吐き出された息や声が、今も耳にこびりついているようでくすぐったかった。
三井は眠そうに欠伸をし、どちらも口を開かない静寂が訪れて流川が缶コーヒーを手の中でいじっていると、リビングのドアが音を立てて開いた。廊下を歩くスリッパの音は軽く、彩子の足音だと判る。
「コラー流川! と、三井先輩! なにサボってるんですかあ」
流川たちを見つけた彩子が、いつもの半分程度に殺した声を出す。
「サボってねーよ。おまえと宮城の邪魔しねえように空気読んだんだぞ感謝しろ」
後ろに手をついて踏ん反り返り、三井は適当なことを云っている。
「もー、またそんなこと云って。戻ってくださいよう。赤木先輩に、目を離すなって云われてるんすよ、あたし」
「わかってるよ。ちょっと眠気覚ましのコーヒー飲んでただけだ。もう戻んから」
三井がゆっくり立ち上がって伸びをした。流川はそんな彼を見上げ、彩子の登場で終わってしまった二人だけの時間に未練を抱く。短い間であっても、それはとろりと濃密で甘美な時間だった。
初めて生まれた感情が、心と身体を支配する。
甘い菓子を貰って心が浮き足立つような、そんな気分だった。
三井がさっさと先に立って歩き出してしまっても、いつまでも口を付けられないでいる缶コーヒーを握りしめたまま、流川は少しの間立ち上がれずにいた。
夏の後遺症 1