卒業1

 カッコいいわね、やっぱアイツ。
 県大会決勝リーグ最終戦、陵南高校との試合。あたしが口を滑らせると、晴子は自分が褒められたかのよーに得意げに、そーでしょ、そーなのよう! と云った。
 だからゆったでしょ! と。
 悔しいけれど、確かに晴子の云う通りだった。
 全国大会へ出られるかどうか、沢山のチームが注目する大舞台。点を取られたらすぐに取り返し、天才と呼ばれる二年生のエース相手に一歩も引く気のないヤツの姿勢は、少しのことでは動じないあたしですら感動を覚えた。
 同じ学年にそういうヤツがいることは、誇らしいと思った。
 だからって、そんなに単純に他人を好きになったりはしないけれど。

   * * *

「松井、あんた卒業式のあと、打ち上げ出てくれるんだっけ?」
 卒業行事のための登校日、隣のクラスの晴子と廊下で立ち話をしていたら、クラスメイトの鈴木に捕まった。彼女は卒業式の打ち上げ幹事だ。
「出るよ。ちゃんと返事した筈だけど」
「あーそうだっけ? なんかもう忙しくてパニくってるからさぁ、わけわかんなくなってきた」
 ショートボブで男子みたいな容姿の鈴木は、その短い髪の中に手を突っ込んで、くしゃくしゃと掻き回しながら泣き事を云う。
「まったく、うちのクラスって幹事泣かせのヤツが多くってさ」
「あー、私それ出られなくなったかも!」
 話が聞こえたのか、通りすがりの田端が会話に参加してきた。その一言は、鈴木をさらなる混乱へ落とした。
「えっ!?あんたが絶対あの店が良いって云うからあそこにしたんじゃん!?」
「だって、実は彼氏が仕事休んで卒業式にお迎えに来てくれることになって〜。その後お祝いしてくれるっていうから、参加するヒマないと思う」
「ハァ? マジで? なんなのあんたはもーっ」
 自分勝手な田端の云い様に、鈴木は天を仰いで目を瞑った。鈴木には少し同情するけど、そもそも田端の云うことなんて聞かなけりゃあ良かったのだ。あたしならこの子のお願いは聞かない。
「松井、これだよ、聞いた? こーゆー勝手なヤツが多すぎてホントまとまんない……そうだ、ようやく流川も掴まえたけど、あいつも不参加だって云うし……」
「るるる、流川くん?」
 流川という言葉に異様なまでに耳聡い晴子が、まるで目の前に流川がいるかのような反応をした。晴子の悲しい性。
「そー、流川っ。あいつがいないとうちのクラスの女子のテンション下がるじゃん? 幹事としては一番来て欲しいのに! あ、晴子あんたバスケ部でしょ、式の後、バスケ部で打ち上げとかある?」
「あっ、そういうのはナイよー。それは別の日なの」
「ふーん、じゃあ別口かあ。『用事があるからムリ』と、氷のように冷たい一言よ。ああ、ムカツク」
「ヤダー、流川くん来ないんだ。なぁんだ良かった〜じゃ、やっぱり私は不参加でよろしくねー」
 彼氏がいる癖に流川にも関心を持っているらしい田端は、それならなんの未練もないとばかりに宣言して、颯爽と教室へ去っていった。
 なにアレ信じらんなーい、とぷりぷり怒っている鈴木の気持ちは分からないでもないけど、田端は元々あんな奴だ。
「いーじゃない。田端がいない方がたのしーわ、きっと」
 彼女は自慢話が過ぎるので、はっきり云ってあたしは居ない方がせいせいする。卒業した後まで、相手にしたくない。
「そうなんだけどさ、単純に私は羨ましいの! 卒業式に彼氏がお迎えとか、乙女ゲーの世界?」
 鈴木の云い様に笑いながら、あたしは、隣の晴子に目をやった。
「ねえ、そういえばあんたのクラスって打ち上げ──」
「ううぅ、卒業……本当にするんだね、私たち」
 卒業というキーワードに今とても弱くなっている晴子が、どうせ流川のことを考えている。廊下の片隅で、二週間もフライングの涙を流してどーする。
「ちょっと、まだ二週間以上あるのに、早くも泣かないでよね」
 まだ、先の話。
 今にも零れ落ちそうな涙を溜めた目をしょぼしょぼさせている晴子を見てあたしは──もう、あれから二年経つんだなと思った。

   * * *

 その年の春は遅かった。
 三月に入っても朝晩は氷点下になることも多くて、川沿いの河津桜が雪をかぶったとテレビでやっていた。このままいくとソメイヨシノが入学シーズンに間に合わないのではないかと心配そうにアナウンサーが云う。
 このアナウンサー、本当にそんなことが気がかりなのかと問い詰めたい。桜が咲こうが咲くまいが、決まりごとの進行速度は変わらない。
 雪をかぶった早咲きの河津桜の、そのピンクと白のコントラストにおめでたさを感じて、あたしは少し苛ついていた。
 桜は、そりゃあ綺麗よね。けど、あたしの知ってるもっと綺麗なものが、もうすぐここから居なくなってしまうことが止められないから、あたしは苛ついていた。
 だから、おめでたくなんかない。
 確かに流川は悔しいけれどカッコよくて、晴子の付き添いのあたしですら、バスケ中のあいつを見ることはひとつの楽しみになっていた。女子高生の貴重な放課後を友達のバスケ部見学の付き添いに費やすだなんていう勿体ないことをしていたのは、そういう楽しみがちゃんとあったからだ。
 湘北バスケ部がインターハイに行けたのだって、一年生にも関わらず流川の力が大きかったであろうことは、素人のあたしにも分かった。晴子ほどじゃあないけど、確かにあたしはそんな流川が見たかったのだ。
 でも、晴子の観察眼ははっきり云ってザル。
 目がほとんどハートだったから、流川しか視界に入っていないのだろうけれど、一応目をくわっと開いて見ていたあたしは、いつからかもっと素敵な男を見つけて、そっちに気を取られるようになった。
 暴力事件を起こした主犯のクセに最後は涙でぐちゃぐちゃになってた、むちゃくちゃ子供っぽい人──髪を切ってバスケ部に戻ってきた、三井先輩だ。
 どんな顔してまたバスケをやるのかと思っていたら、あの人は意外と真面目にバスケットを再開した。
 初めは、何とも思わなかった。でも、意外だけれど流川と先輩は気が合うのかよく二人で一緒に居るものだから、気付いたらあたしの視線は自然とそっちにシフトしていた。
 先輩がボールを放つ時の繊細な指だとか、疲れきって壁に凭れている時の深い眼差しだとか、水分補給中の、上下する綺麗な喉仏だとか、そういうものについあたしの胸がときめいてしまったのは、これはもう絶対に不可抗力だ。良い場面で何度も3Pシュートを決めたりするくせに五分後にはもうへろへろで走っていたりだとか、すっかり馴染んでやたらとみんなを仕切っている時だとか、表情も態度もころころ変わるので、見ていてとても新鮮だった。
 そのくせ、宮城先輩や桜木たちとはしゃいでいる時は、すっごく子供っぽい。バカみたいに騒いでいる。みたいというか、多分バカだ。そのバカさが、可愛かったりする。
 原石みたいに未加工で荒いのに、その中身はとても綺麗な人。そして、バスケを本当に愛してる。
 もう流川より、三井先輩を見ることがあたしの楽しみになった。
 でも、ウインターカップが終わってすぐに先輩は引退して、あたしが先輩に会える機会はほとんど無くなった。
 藤井ちゃんと二人で時々見に行く体育館。時折ふらりとやってきてバスケに参加している先輩は、とても楽しそうだった。
 あたしは、先輩がバスケをしているところを見ているのが好きなのだ。
 大好きなバスケをあの人が出来るのなら、それが、あたしの喜びだ。
 ずっとずっとそんな姿を見ていたかった。でも、季節はあっという間に過ぎる。
 先輩が卒業してしまうという決まりごとに抗うことは出来なくて、観念した卒業式当日の朝。ろくに眠れなかったあたしは気分が悪かった。それでも先輩を送り出す式の準備をするために、実行委員として朝早く学校に行かなければならなかった。
 前日までに大まかな準備は終わっていたけれど、それでも当日はまだまだやることがあった。並べた椅子の調整をしたり、校門前の掃除、配布物の確認、雑用なら幾らでもある。地味で目立たない、つまらない仕事ばかりだけれど。
 そんな時に体育館の入り口で三井先輩に朝から会えたのは、思ってもみないただの偶然だった。
 集めたゴミを収集場所まで持って行った帰りに、体育館から出てきた先輩にちょうどばったり出くわしたのだ。
 何故そんな朝早くから先輩が学校に居るのか分からなかったけれど、一人で居る三井先輩にこんな場所で会えるのは貴重だ。そして、これが最初で最後だと、あたしは瞬時に悟った。
「おう」
「……はよーございます」
 先輩と二人きりで向き合うなんて初めてだ。突然のことに、みっともなくあたしの声は掠れた。あたしの存在を先輩は認識してくれていたのか、それとも単純にたまたま出会った一年生に挨拶しただけなのか、あたしには分からない。
 近くで見た制服姿の先輩は、やっぱりバスケをしている時じゃなくてもカッコ良かった。百八十越えの身長で見下ろされて、あたしは自分の前髪の辺りがムズムズと気になった。
「勝手に入ってごめんな」
「あ、だいじょぶでっす」
 関係者以外立ち入り禁止──体育館の扉にはそう書いた紙が貼ってある。式当日までの処置だけど、そんな紙のことを誰も気にしたりはしない。中に何人かいるであろう実行委員や先生たちも、先輩のことを気に留めたりしなかっただろう。
 それに先輩は部外者じゃない。この体育館で、期間は短いかもしれないけれどそれは楽しそうに過ごしていたんだから。
 あたしは、それを知っている。
「ちょっと中見ときたかったっつーか」
「最後ですもんね」
「そう。でも椅子が並んでっと違和感しかねえな。あー、えーと……晴子の友達だよな?」
「あ、松井です」
 先輩は、晴子のことを「晴子」と呼ぶ。以前は「似てない妹」だとか呼ばれていたけど、マネージャーになってから変わった。そしてそう呼ぶ度に桜木花道に「呼び捨てにするなミッチー」と絡まれたりしている。この上なく平和なやりとりだとあたしは思う。
「そうだ、松井な。実行委員お疲れさん」
 会話はここで終わりだと感じて、あたしは先輩の通り道をあけた。横を通り過ぎる先輩からほのかに男物の香水が香ってきた。それに釣られるように、気が付いたらあたしは先輩を呼び止めていた。
「あのぅ……」
 振り返った先輩は優しい穏やかな顔をしていて、今なら何か伝えられるんじゃないかとあたしは一瞬のうちに頭をフル回転させた。
 だけど、ようやく出てきたのは自分でも嫌になるほど陳腐な言葉。
「あとで、ボタンくれませんか」
「お、晴子と違ってお目が高いなー松井は。いーぜ何個いる?」
「や、一個でいーです」
「一個でいいのかよ。友達に配ってくれてもいーんだけどな」
 あっさり先輩は了承してくれた。落ち着いて云えたことで、フル回転のあたしは減速。
 それでもあたしの顔はキンチョーのためにだいぶ熱くなってきた。どんな色をしているのか不安になる。
「一番上のでいいよな?」
 何番目のボタンでも良かったけれど、先輩が制服の一番上のボタンをこの場で引きちぎろうとし始めたので驚いた。これは予想外。
「え……あの、式の後でいーです」
「式の後な、でも、もしかしたらボタン全部無くなってたら困るしよ」
 ものすっごい自信!
 さすがのあたしも、驚くわ。
「あ、じゃあその時は一個だけ残しておいてくれれば……」
「んー、あんまそーいうこと考えてられないかも俺。卒業式とかって、テンション上がってそうだし……」
 要するに覚えてられないってことだろうか。ちょっとショックだ。
 でも確かに、式の後の先輩はバスケ部や番長軍団に囲まれて楽しそうに騒いでいるんだろう。もしかすると泣いている可能性だってある。むしろその方がありそうだ。そんな時にボタンを貰いに行く勇気なんて、あたしには無い。先輩もきっと泣き顔を下級生に見られたくはないだろうし。
「でも、今からボタン取っちゃっていーんですか? これから式なのに」
「いんじゃね? 一個ぐらい」
 先輩は他人事のように軽い口調で無責任に云った。本人がいいと云うのにしつこく遠慮するのはかえって迷惑だろうから、あたしは有難くボタンを貰うことにした。
「そうですか。じゃあ……今ください」
「おう。ちょっと待て」
 細かい作業は苦手なのか、しばらく四苦八苦していたけれど無事に第一ボタンを引きちぎった先輩が、あたしの手の中にそれを落としてくれた。
 とても軽い、小さなボタン。でも、あたしにはとても重みのあるモノ。
 これから先輩はあたしのせいでボタンが一個無い姿で卒業式に出るのだと想像したら、少し嬉しかった。
「ありがとうございます」
「じゃーな。これからもバスケ部の応援してやってな」
 ──やめてよ。
 何を応援すればいいんだろう。あたしの応援したい人が、体育館から居なくなるのに。
 そんなことは口に出しては云えなくて、あたしは手の上に乗った丸いボタンをただ見つめていた。体育館を離れていく先輩の後ろ姿を本当は見ていたかったけれど、目を上げたら溜まった涙がこぼれそうだったから。

2へつづく
★ちょこっと一言