今年の春は早かった。
二月も半ばから暖かい日が続いて、卒業式までまだまだ期間があると思っていたのに、最後の時間は、まるで砂時計の砂が落ちる時を見ているみたいに早く過ぎた。
今日、あたしたちの高校生活三年間をお終いにする式は滞りなく終わった。
夕方からはクラスの打ち上げもあるし、晴子と藤井ちゃんとの卒業旅行も数日後に控えてる。まだまだみんなに会えると思うと、あたしの涙腺はそれほど緩まなかった。
対象的に、完全にダムが決壊してくしゃくしゃの顔をした晴子と、昇降口の前で合流した。晴子は精一杯出した勇気とマネージャーという立場を利用して、流川の制服のボタンを一番にゲットすることに成功していた。その後は酷い顔をしてあたしに抱きついてきたけれど、高校生じゃなくなったあたしの制服が晴子の鼻水で汚れてももう構わないから、好きなだけ泣かせた。
名残を惜しんだみんなの記念撮影だとか告白タイムだとかも落ち着いて、ぼちぼちと帰宅する子たちも出てきた頃、昇降口の前に溢れる幾つもの黒い制服と保護者に紛れて、あたしはそっとその場を離れた。今は桜木や水戸たちに囲まれている晴子は、あたしが消えたことにしばらく気づかないだろう。
十分くらい前に流川を見かけた時、後輩や卒業生に囲まれてボタンやら写真やらいろいろせがまれていた。その後どこかへ姿を消した流川を、あたしは探している。そして、とっても急いでいる。
校門前の広場で、黒く群れながら余韻に浸り写真を撮っている集団の脇を、あたしはすり抜けた。花束を持っている子もいる。幹事の鈴木が、誰かと肩を組んで写真を撮っている。田端が、校門の前に停められた彼氏の車にかけ寄って乗り込もうとしている。お世話になった先生と、泣きながら話している子も居る。
人より頭一つ分突き抜けた流川はとても目立つから、この場に居ないことはすぐに分かった。ここに居ないということは──校舎に戻ったか。いや、もしかしなくても、さっさと帰ってしまったか。
ドライな流川のことだから、誰かといつまでも名残を惜しんだりはしないだろう。人の群に辟易している不機嫌な流川を想像するのは簡単だ。
後悔はしたくないから、一応最後にもう一箇所だけ見てみようとあたしは決めた。そこに居なかったら、諦める。
友達のひとりに声をかけられたけど、手を振ってあたしはその場から引き返した。
あいつが、帰る前に必ず立ち寄るところといったらあそこしかない。
裏門横の自転車置き場に向かって、あたしは走り出した。
「流川!」
目当ての背中を自転車置き場に見つけて、あたしは叫んだ。流川は足元にスポーツバッグを置いて、自転車に乗るでもなくただ突っ立っていた。
幸運にも、自転車置き場にはひとけが無かった。卒業生は大体が正門側に集まっている。帰宅する幾人かの下級生が、こちらをほんの少し振り返って自分の自転車を出して、裏門からそうっと出ていった。
流川は、あたしを振り返って少し怪訝な顔をした。
「なに」
いつもと同じ、腹が立つほど冷たい口調。卒業式くらい愛想よくしよう、なんて流川が思うはずないのよね。
「あのさ──」
あんたのボタンちょーだい、そう云おうとしたあたしは、流川のずうっと後方に突然現れた懐かしい人に驚いて、言葉を詰まらせた。
なんでこんなとこにいるの?
唐突に時間が巻き戻されたような気がした。一瞬で思い出す。胸が痛くなるような、この感覚。
裏門からひょいと入ってきたのは、流川に負けないくらい背が高くて、不思議な存在感を持ってる人。
絶対に忘れたりしない。ひと目見て、あたしはすぐにそれが誰なのか分かった。
「え、三井先輩──?」
「あ」
「うわ、ヤベっ、タイミング悪かったか……すまん」
二年前に大好きだった人の名前を久しぶりに口にした、あたし。
振り返って、自分の後ろからやってきた先輩に気付いた、流川。
あたしと流川を見て、ばつの悪い顔をした、先輩。
三人三様いろいろな表情をして、そしてあたしは叫んだ。
「違います、これは!」
先輩が、あたしと流川を見てタイミングが悪いと云った意味は瞬時に理解した。もちろんそんなこと、あたしは全否定だ。
「悪い。俺、あっちで待ってっから」
「だから違うんです、居て下さい!」
盛大な勘違いで気を利かせようとする三井先輩を、あたしは引き留めた。勇気を出して、先輩の顔を真っ直ぐに見据える。
最後に先輩と二人きりで話をしたあの日から、二年が経ってる。先輩はあの頃よりも少し前髪を伸ばして、大人っぽい雰囲気がプラスされてますますカッコ良くなっていた。服装はスマートカジュアルっぽくジャケットとパンツに、中には色が綺麗なシャツ。制服と練習着とユニフォーム以外の先輩なんて、あたしにはとても貴重だ。
ちょうど二年前、朝の体育館で最後に無理を云ったあたしのことを、先輩は覚えてくれているんだろうか。
「あの、なんかごめんなさい。あたし、流川のボタン貰いにきただけで……」
「は……? 誰が?」
気味の悪い生き物を見るように、流川があたしを見て呟いた。
同じクラスのよしみで、クラスの行事だとかいったバスケ以外のことに無気力な流川の尻を叩いて、あたしはあれこれとやらせて来た。それはもう煙たがられていただろうから、こーいう反応が来るのは無理もないけど、ちょっと失礼だわ。
一年生の頃は確かにカッコ良く見えたこともあったけど、今はこっちだって、はっきり云ってコイツを男だと思っていない。
「ちがうわよ、あたしじゃないし! 友達に頼まれたのよ。ボタン、ちょーだいよっ」
生意気にも先輩を背後に従えて、流川は思いっきり眉を寄せた。それから、学ランの前を指でつまんで引っ張って見せた。
「もうナイ」
くっそー、やっぱり遅かったか。
流川の学ランのボタンは、確かにすべて無くなっていた。
「別に袖のボタンでもいーのよ」
「それもねーから」
「えっ……どっか、残ってない?」
「なにも」
「マジかよおまえ、見せてみ?」
表情をぜんぜん変えない流川の学ランを、先輩が掴んで確認する。
「なんて生意気なんだよおまえは! 俺の記録を塗り替えてんじゃねえぞ」
「記録、あった?」
「ナンカむかつくな、その云い方!」
ヤバい。流川の学ランを掴んで憤慨している先輩が可愛すぎる。あたしは先輩のこーいう負けず嫌いで子供っぽいところが、とても好きだった。
それにしても、このまま手ぶらじゃ帰れない。流川を上から下までチェックしたら、襟元に校章が残ってた。
「あ、じゃあ校章くれない……?」
「これはダメ。記念に……持って帰る」
「そっか……」
流川の口から記念なんて言葉が出てきて、あたしは少し驚いた。流川には合わない言葉だと思ったから。
流川の一面を見たような気がして、ほんの少し見直したあたしに、自分でもそう思ったのかどうか、流川は言い訳みたいな理由を話し出した。
「名前が入ってっから、なんとなくそれだけ」
「ああ『湘北』な」
流川の言葉に、先輩がすぐに反応した。覗き込むよう首元に顔を近づけて、優しい顔を流川に向けた。なんでそんなにも柔らかく微笑むんだろう──っていうか、先輩はどうして自転車置き場に来たんだろう。なんにせよ、そんな顔を先輩にさせた流川が憎らしくなって、こうなったら何が何でも戦利品を持ち帰らなければならないとあたしは心に決めた。
「ねえ、他になにかない?」
「ポケットになんかねーのか流川」
優しい先輩は、反応の鈍い流川の代わりに制服のポケットを探ってくれた。幾つか探って、取り出したのは紺色の小さな生徒手帳。
「あるじゃん。もう、コレやれよ」
「それには個人じょーほーが」
「そりゃあまあそうか」
「あと、貼ってある。……写真とか。いろいろ」
「ああ──じゃあマズイな」
生徒手帳を流川がまともに使用していたことにまたあたしは驚く。絶対、貰った時と同じよーに真っさらなままだと思った。
「ごめんなさい、なら、もういーです」
流川ではなく先輩に向けてあたしは云った。さすがにこれ以上粘るのは気が引けて〝何が何でも戦利品を!〟の気持ちは、すぐに萎えていく。先輩はきっとバスケ部のOBとして、チームメイトだった流川や桜木たち会いに来たんだろうから、あたしがいつまでも引き留めていい人じゃない。
「んー……じゃあさ、これ脱げよ流川」
何を思ったのか、先輩は流川に学ランを脱ぐように促した。ちょっと、意味が分からないです先輩。
あたしが止めるのもなんだか筋違いな気がしたから黙っていたけど、内心は動揺。
「どうせおまえ制服なんてもう着ないよな?」
「もう絶対に着ねーし、捨てる」
「だろ。じゃあ、これやれよ。かわいそーだろ、最後ぐらい、おまえのファンに優しくしろよ」
やれやれって感じに軽く溜息を吐いた流川の手が、学ランの胸元を引っ張る先輩の手に上からそっと触れた。それから、二人でほんの一瞬視線を絡め合った。それは、ボールを扱うために進化した流川の大きな手に似合わない優しい触れ方だったし、不機嫌な顔とは裏腹に先輩に注がれた流川の視線にはちゃんと血が通っていて──。
それを見て、あたしの胸は急にどきんと跳ねた。
ああ──嘘でしょう。まさか、もしかして。
あたしこそ、ザルだったなんていうことは?
見ていたのに見えてなかったものが、二年も経って、今頃見えた──なんていうことは?
もしかして、もしかすると、この二人って。
触れ合ったのが合図のように先輩の手が引っ込むと、流川は校章を外して、学ランを脱いだ。
「こんなモノ本当にいるの」
生徒手帳を学生ズボンのポケットにしまいながら、流川が云う。
ああ、あたしの心の中は今ものすごい荒波に揉まれていて酔いそうだ。でも、それを落ち着かせるのに流川の静かな声は最適だった。
「──いる。それちょーだい」
流川の手からあたしの手へ、ずっしりと重い学ランが渡った。
欲しかったのはボタン一個。だけど、まさかボタンの一個もついてない学ランを手に入れることになるとは思わなかった。
「ありがと、流川」
「うん。じゃあ」
「うん」
足元からスポーツバッグを拾い上げた流川は校舎に背を向けた。先輩はあたしを見て、口角を上げた。
「まだ、あれ持ってるか?」
「あ……持ってます」
先輩、覚えていてくれたんだ。
何を、と云わなかったけど、あたしはもちろん何を云われたのか分かった。
先輩に貰ったボタンは、今もあたしの宝物だ。時々懐かしく指で触れて、あの二年前を思い出す。
「なにを……?」
流川が振り返って、怪訝な顔をした。
「秘密よ」
あんたには悪いけど、それはあたしと先輩の二人の秘密。
納得いってなさそーな流川の顔にあたしは優越感を覚えて、ふふんと鼻で笑いたくなった。
「それよりあんた、もう帰るわけ? 自転車置いてくの?」
「今日、歩き」
「ふーん、そうだったんだ。じゃあね」
「おー」
流川と先輩が裏門に向かう。桜木花道たちには、挨拶して行かないみたい。こんなひとけのない場所でこっそり待ち合わせってどーいうことなのよとか、先輩を一人占めしてさっさと帰るのもどーよだとかいろいろなことをそれは思うけれど、あたしは文字通り部外者なので、口には出さない。
きっともう全部やり尽くして、この場所に未練なんてないのだろう。流川はきっと、そーいうタイプだ。羨ましいほど潔い男ではある。
最後にもう一度だけ──と、潔くないあたしが願ったら、三井先輩が軽く振り返って目が合った。
その笑顔を、また見られて良かった。
以前は顔を上げられなかった。今度はあたし、涙腺も大丈夫。
笑って門から出ていく先輩を、ちゃんと目に焼き付けておこう。
「松井ちゃん、こんなところに居たの」
二年前の朝の記憶を引っ張り出して浸っていたところに突然声を掛けられて、あたしの心臓は一瞬跳ね上がった。校舎の方から小走りでやってきた友達を見て、我に返る。
「なによ、びっくりしたあ。あんたって子は、どうせならもう少し早く来なさいよ」
「え、なにかあった?」
「最後ぐらい、本当は自分で云うべきだったのに。もー」
泣いた後の真っ赤な目をした藤井ちゃんが、話が見えないって顔してる。
晴子には内緒で流川のボタンが欲しかったのは、藤井ちゃんだ。
中学時代から流川のことが好きな上にあれだけコネのある晴子の前で、自分も流川を好きになったなんて云い出せるわけがない。あたしには、この子のそーいう気持ちが痛いほど分かる。だからこれは、あたしと藤井ちゃんだけが共有している内緒の話だ。鈍い晴子は、まったく気づいていない。きっと事実を知ってもあの子は何も気にしないだろうけど。
でも、云えるわけない。実は流川が好きでしたなんて、そんな事実は。そんなことを云ったら、今までしてきたことや見てきたものが全部嘘になってしまうような気がする。
あたしたちは晴子の付き添いでバスケ部を見に行っていたわけじゃない。藤井ちゃんもあたしも、普通にそれを楽しんでた。少しずつチームの結束が固くなって、強くなっていくところを見届けたかった気持ちは、あたしたちも同じ。試合に勝つところも負けるところも、この目で見ていたかった。
それを嘘とは、思われたくない。
「今なら間に合うかも。ちょっと一緒に来て」
無駄に空気を読み過ぎる藤井ちゃんにも、最後くらいは自己主張して欲しいと、あたしは思う。二年前、ありったけの勇気を出して良かったと、いま心から思うから。
怖くてどうしても自分では流川の前に行けないと云うから、代わりにこうして出張っては来たけれど、やっぱり、それはすごく勿体ないことのように思える。
だって、最後なのだ。
華奢な藤井ちゃんの腕を掴んで、二人が消えた裏門へあたしは走った。
まだ背中ぐらい見えるはず──そう思ったんだけど、残念ながらそう都合の良い現実は続かなかった。
「あ──」
裏門の前は交通量の少ない道路で、卒業式に出席したマナーの悪い保護者やお迎えの車が何台も路駐していた。その一つが動き出して、あたしはリアガラスの向こうの助手席に流川の後頭部を見つけた。運転席には、もちろん三井先輩が居た。車はすぐに遠ざかった。
「……彼氏のお迎え。悔しい。いいなぁ」
「どうしたの、松井ちゃん」
「少し遅かったわ。さっさと行っちゃった。彼氏の車で」
「え、誰が行っちゃったの?」
「……ねえ、もう少し早かったら、これ直接手渡して貰えたのに」
力いっぱい掴んでいた学ランを、あたしは藤井ちゃんに押しつけた。
「え……これ、なに?」
「すごい大物ゲットしちゃった。ごめん、でもボタンはなくて、きっとあいつには思い残すこともなくて……もうこれしか残ってなかったの。藤井ちゃん、持って帰って。晴子に気付かれないように」
「えっ、どういうこと? ウワ、これどーしたの!?」
藤井ちゃんが流川の学ランを広げた。
そーよね、意味が分かんないよね。まあとりあえず、流川からこんなモノを貰った人は二人といない。当然だけど。
あの不器用で優しい先輩が相手なら、流川もいうことを聞くのだ。そんなものすごい事実を知ってしまって、あたしはちょっと怖いぐらい。
でもまあ、バスケが大好きな先輩と、あの負けず嫌いなバスケ馬鹿はお似合いかもしれない。先輩が笑顔でいられるのなら、あたしはなんでもいい。
「あーあ。あたしたちってさぁ、本当に卒業したんだね、今日」
「これ、る、流川楓って刺繍が入ってるよっ!?」
「あいつの抜けがらみたいなもんね」
まるで脱皮したみたい。
流川はもう高校時代にやり残したことはなくて、次の世界でも迷うことなく羽ばたいちゃったりするんだろう。
あたしももう、ここに残した悔いはなかった。
おわり