境界線1
あの長い夏の日や、冬の空気のコートの中で、少し手を伸ばしただけで触れ合えそうな時がなかったか?
体育館や校舎の中で、目が勝手に姿を探した時に、視線がすぐにぶつかり合ったことは?
俺が言葉を飲み込んだ時に、目を逸らしたあの仕草の意味は?
あれはすべて、脳が勝手に作りだした思い込みだったろうか。
いつも騒がしい上級生が居なくなる喪失感は、それはどうしたってあるだろうと初めから覚悟していた。
卒業とはそういうものだ。
それでも自分は、他の奴らのように泣いたり、縋ったりしないと心に決めていた。
どんな気持ちも、空気に溶けるように薄れていつかは消えてなくなるに違いないから。
だから、自分が引いた一線を踏み越える気なんてなかった。ほんの少し前までは。
「なんで、ボタン」
「ああ、これ……後輩。結構モテんだろ、俺も」
先輩の制服の一番上のボタンが無いことに気づいて尋ねた。
そして、答えを聞いて動揺した。
表情を変えずにいられたか、あまり自信がない。
それはただのボタンで、俺の制服にも同じものが付いてる。
なのに、先輩のボタンがたったひとつ無くなったことがひどく重要に思えた。そして、そんなことで不安定になった自分にこそ、俺は動揺したのかもしれない。
これは良くない予兆だ。
卒業式関連で体育館が三日前から使えなくなった。
しばらくは練習試合もないし、部活は休みだった。
自主練はしておけとキャプテンに云われた。云われなくとも、早朝の自主トレは欠かさない。たとえばそれが、二つ上の上級生の卒業式の日であっても。
学校の野外コートを使ってトレーニングをして、着替えるために立ち寄った部室で、今日の主役の卒業生に偶然遭遇した。
まさか居るとは思わなかった。
どうしてこんな朝早くに──そう訊いたら、引退後も放っておいたロッカーを空にしに来たのだと答えて、三井先輩は自分のロッカーの整理を始めた。
「なんで俺はこんなもの取っておいたんだろーな? これは桜木にでもやるか」
ロッカーから取り出した私物を休憩用の机の上に並べた先輩は、椅子を引いて座った。そして腕を組んで思案を始めた。
確かになんで取っておいたんだと云いたくなるような明らかにガラクタじみた物を誰に残すか振り分け始めたから、自分に累が及ばないように俺は存在感を消して、ただ黙々と着替えた。
着替え終えて、持ってきたポカリの残りを飲み干すと、途端に手持ち無沙汰になった。用が済んだ俺は部室を出ればいいのだろうが、先輩を置いてひとりで出る気にはなれなかった。形の良い眉を寄せて、先輩はガラクタの落ち着き先を真剣に考え込んでいる。視線は机の上に向けられているから、俺は逆にその姿をゆっくり眺めることが出来た。そして疑問に思う。
──なんかチガウ……どっか。
見慣れているはずの先輩の姿に、違和感があった。どこかがなにかおかしい。
間違っている部分はなんだろうかとしばらく考えて、気づいた。一番上のボタンが無い。制服のボタンが、ひとつ消えている。ここぞという時いつもそうするように髪は整えられて、制服だってきちんと着こなしている。だから余計に、留められてない第一ボタンの部分が目立っていた。その跡には、無理やり引き千切ったような切り口の糸が飛び出している。
卒業式のボタンのやり取りなんて、普通は式の後だろう。
だから、何気なく訊いてしまった。なんで、ボタンが無いのかと。
それに対して、返ってきた答えは単純明快だった。
『結構モテんだろ、俺も』
ああ、やっぱり女にやったのだ。答えはそれしかないと、俺だって本当は分かってた。分かっていたのに惨めな気分になって、言葉に詰まる。
自分のちょっとした態度や一言が俺の心を簡単に揺さぶることをこの人はいまだに知らない。
「そこで無言になるなよな。嘘じゃねーぞ」
黙り込んだ俺を見て、先輩は苦笑いをした。
「おまえにもこっからなんかやるから、選べ。どれがいい?」
机に並んだガラクタを先輩が指差した。でも、俺が欲しいものはその中には無い。
「そのボタン」
制服の第二ボタンを指で差したら、先輩の表情が変わった。
「それ、予約出来ねーの?」
ボタンなんか、本当はどうでもいい。第二ボタンの価値なんて分からない。だけど自分以外の誰かの手に渡ることを思い浮かべた途端に心が揺さぶられて、欲しいと思った。
「おまえが……こんなもんどうすんだよ」
訝るように、上目遣いの先輩が云う。確かにそーだ。云いたいことは、よく分かる。俺だって、自分にそう云いたいくらいだ。
ずっと俺は、早くあんたから解放されたいと願ってたんだ。
その日が来るのを、今日まで大人しく待ってた。
だけど、間の悪いあんたがこんなところに居たせいで、同じようにはもういかなくなってしまった。
「ホントはそれじゃ足りねー。全部欲しい」
ボタンの話なんかじゃない。
「全部って……何云ってんだよ流川」
誰かに取られたくない。受け入れられない。
どうして俺は、大人しく諦めようだなんて思ったりしたんだろう。そんなのは自分らしくない。
二人の間にあるものをほんの少し踏み超えれば、もしかしたら掴めるかもしれないのに。
「俺にください」
返事はなかった。俺も動かない。ただお互いに見つめ合って、ずっと秘かに追ってきた瞳をこの目に焼きつける。
「……そういうことは、もっと早く云えバカ」
少しの時間が経った後、先輩は俺から目を逸らして、口を開いた。
その声はとても小さく掠れていた。返事は掴みどころが無く、どうとでも取れた。足りない部分を補いたくて表情を読もうと近づいたら、顔を隠すように先輩は下を向いた。
「……おまえ、今日がなんの日か分かってんのかよ。なんで、今頃んなってそんなこと──」
「まだ……遅くねえ」
「おせえよ……いまさら。おまえ、勝手すぎる」
非難めいた目を先輩が俺に向ける。
「なんで先輩がそんなに怒るのか、わかんねえ」
「怒るだろ! 勝手なことをそんなサラッと簡単に云いやがって……顔色も変わんねえし」
簡単には云ってない。顔色が変わらないのはいつもそーだ。そう云おうとしたけれど、言葉にはならない。
「なんなんだよ、流川。今頃、俺にどうしろっていうんだよ」
耳に少しかかるくらい伸びた髪。それを乱すように片手で掻き上げて俯いた先輩を、俺は黙って見下ろした。
「おまえがなにも云わなきゃ、それで済んだろ」
「先輩」
「俺だって……今日まで堪えたんだろうが」
ああ──。
そうだ。そんなこと、本当は俺だってとっくに知っていた。
俺たちは同じで、だけど本音を口にすることがお互いに今日までなかっただけだ。
「なのに今になって、なんでそんなこと云うんだよ」
俺の思い込みや、独りよがりなんかじゃない。
教室移動の途中の廊下で、学校行事の最中で、同じ色の制服を着た大勢の中にいつも俺は簡単にあんたの姿を見つけた。通り過ぎる間のほんの数秒、時間も場所もバラバラなのに、そこを通ると初めからお互いに察知していたみたいにすんなり視線が合った。会話さえないその時間、俺とあんたの間で確かになにかが交わされていた。
絶対に、感じていたはずだ。
「俺はあと数時間で卒業すんだ。だから、おまえもそうしろ」
今日はすべてを無かったことにするのにちょうど良い節目の日だと、俺もさっきまでは思ってた。あんたから卒業するのに相応しいって。
「そーしようと、してた。──でも」
どうしても繋ぎ止めたくなってしまったのだ。
気付いてしまった後では、どうしようもない。
「なんで今なんだよ……流川。せっかく、ここまできて」
なんで今なのかなんて考えたってしょうがねー。
はっきりと分かっているのは、このままではいられないっていうことだけ。
俺は上履きで固い床を一歩踏み締める。見えない白線を跨ぐように。
先輩が俯けていた顔を上げた。俺を見上げた先輩の目にいつもの自信は見つけられず、口元は緊張したように強張っている。
もうこれ以上、この人に何も云わせてはならない。俺はそう思った。
この人は本当に欲しいものだって欲しいとは云わないから。自分自身にだって嘘を吐く、筋金入りの意地っ張りだと、俺は知ってるから。
だから、言葉なんかいくら積み上げたって信用出来ない。
きっと、先輩は境界線を少しだけ踏んだままだ。その線の上でどちらに振れようかと迷ってる。
「……流川」
迷うような声に、手を伸ばしてその頭を胸の中に抱き込みたいと身勝手な衝動が湧いた。迷うなら、何も考えず目を瞑ればいい。本能に従ったら、どうなるのか見せてほしい。
机に手をついて、先輩の上に屈み込んだ。俺の影が暗く落ちても、先輩は動かない。
「このまま終われたろ、俺らは」
最後まで、先輩は簡単に屈服しない。
「……スイマセン。やっぱり、俺は無理」
この気持ちはきっと続く。今日が終わってもずっと。
鼻先をくっつけるように顔を寄せて静かに呼吸をすると、先輩の匂いがした。
まだ何か云いたげに開かれた唇を、云われる前に塞いだ。
言葉よりもっと確実な方法で確かめるために。
廊下をパタパタと歩く音が遠ざかって消えていく。他のクラブの生徒が、部室を出て校舎に戻っていくのだろう。
「こんな日でも部活やってるとこがあんだな……」
ひどく近い距離で声を聴いた。俺は先輩から離れて机の端に寄り掛かり、深く息を吐く。
短い時間だったけれど無我夢中でキスをした。その余韻は少しずつ現実と混じり合って、自分が部室に居ることを思い出す。
日常に戻ってきた。それでも、唇に残っている感触は当分消えそうもない。
「どこのクラブだよ。無粋なやつらだよな」
「さっき、野球部が外走ってた」
「すげーなあいつら。つうか、そろそろ俺らも行かねーとな。おまえ、あとで取りに来いよな」
椅子から立ち上がった先輩が、探し物をするように部室内をきょろきょろと見回しながら、ついでのように云う。
「なにを?」
「なにをじゃねえ。いいから取りに来いよ。予約したんだろ」
本当は分かってて訊いた。俺が取りに行くのは、あんたのボタン。
「……予約したら、フツーは予約特典が付く」
キスの後から視線を合わせないようにしてる先輩の顔を無理やり覗き込んで云ったら、睨まれた。
「図々しいな。でもまあ、しょーがねえから、なんか付けてやるよ」
「そのガラクタ以外で」
「人の私物をガラクタって云うな。もういい、これは全部あいつにやる」
なにか思いついたのか、先輩はロッカーの上に無造作に積まれていた空の段ボール箱を下ろして、ガラクタを中に片付けた。そして箱の上にホワイトボードのペンを使って「桜木へ」と大きく書いた。名案だ。たぶん、分けるのが面倒臭くなったんだろう。
ガラクタを詰めた箱を隅に押し退けた先輩は、その手で机の上に放置されていたスコアブックを引き寄せた。そして大雑把に一ページ破りとって、殴り書きをした。
「大事に取っとけよ」
予約特典として俺が先輩に貰ったのはガラクタではなくて、どうやら先輩の電話番号。
なかなかまともな特典じゃねーかと、手に入れたノートの切れ端を握り締めて俺は思う。
蜘蛛の糸みたいなこの繋がりを辿ったら、俺たちはどこまでいけるだろう。
2へつづく