家に置いてあるあの自転車はもう要らないと気づいた。
学校指定のものはすべて、卒業したら使えない。校章だけは記念にとっておくことにしたけれど、あとはもう使わない。
どうせなら、要らないものを全部持ってきて誰かにくれてやればよかった。誰の手に渡ってもそこに余計な意味を見出さないでくれるなら、そうしてもよかった。
モノはモノであって、俺がここで使っていたことが記録されるわけでもない。未練もない。卒業したら誰が持っても同じ。それなのに、二年前の俺は先輩のボタンが欲しいと思った。
その先輩と、二年経ってもこうして学校の敷地内を二人で歩いているなんて不思議だ。あの頃は想像も出来なかったのに。
「なー、流川」
普段着よりも少し良い服を着た先輩が、歩きながら口を開いた。
「安西先生とか桜木たちに、ちゃんと挨拶してきたのか?」
「もー済んだ」
「ふーん。おまえ、今日泣いた?」
「いや、ぜんぜん」
「あっそう。なんでおまえはそう淡白なんだろうなあ」
先輩じゃあるまいし、俺は泣いたりしない。
二年前の式の後に卒業生のところへ行ったら、涙を堪え切れなかった先輩が、安西先生の前で動かなくなっていたことを思い出す。
その話を持ち出してもいいけれど、云えば大抵怒るので今はやめておくことにする。
「先輩こそ、安西先生に会って行かなくてよかったんすか?」
「今日は、おまえらが主役だからやめとく。また、来られるしな」
路駐してあった先輩の車まで歩いて、スポーツバッグを後部座席に放り込んだ。静かにエンジンがかかる音を聞きながら、俺は助手席に座ってシートベルトを締めた。
「じゃー出すぞ」
車が緩やかに滑り出したところで、少し窓を開けた。今年はもう春みたいに暖かいから、クラスメイトのアイツに上着を取られても平気だった。むしろ上着が無いのはちょうど良くて、窓から流れ込む風が気持ち良かった。
置きっ放しにしていたCDを勝手にオーディオに飲み込ませて、気に入っている曲をかけた。スピーカーから英語の歌詞が流れると、自分の部屋に居るようで落ち着く。先輩はどう感じているのか知らないけれど、喧嘩してよほどブチ切れている時以外、消せと云われたことはない。
「とりあえず家まで送んからさ、着替えてこいよ」
家までは、車ならすぐだ。先輩の、意外と繊細な運転を堪能するヒマもないほど。
「昼メシ、葉山で食おうぜ。海の真ん前の、すげえ良い眺めんとこ。だから、ジャージはやめとけ」
「ハヤマ……」
車で一時間以内の距離なのにあまり寄りつかない地名が出てきたので、思わず復唱した。少し大人な街だ。ジャージにダメ出しされたからには、たぶん、値段もそこそこのところに行くんだろう。
「予約入れてあるから変更はしねえぞ。渋滞してっか少し不安だけどなあ」
先輩は気分次第で予定をころころ変えるから、予約するなんて珍しい。卒業式のあとの段取りは俺に任せろと、だいぶ前から云ってはいたけど。
「卒業式くれーで、別に気を使わなくてよかったのに」
「うるせーもう遅いっ」
真っ直ぐ前を向いたまま、ハンドルを片手で握った先輩が云う。口調は怒っているけれど、これはまあ、照れ隠しの反応だ。もう慣れた。
「別に、イヤなわけじゃない。行きてえ。腹減ってるっす」
誤解があると困るから、念の為に自分の気持ちを伝えつつ、照れ屋の運転手をじっくり眺めた。忙しい大学生をやっている先輩とゆっくり出来るのは今日くらいだし、俺もすぐに忙しくなる。
一緒にいられるのなら、俺はどこにでも行く。
「──いや、実を云えば俺もわかんなくて学校の女に相談したんだわ、卒業式の日に、どういうことして欲しいもんなのかって。そしたら、この日は特別だって云うしよ。絶対自分じゃ買わないようなすげえデカイ花束が欲しーだとか、夜景の綺麗なホテルに泊まりてえとか、なんか理想がいろいろとあるらしい」
他に訊ける相手は居なかったのか?
俺は女じゃないから女に訊くのは根本的に間違ってる。
先輩の口から時々出てくる大学の女の影に二年経ってもいちいちイライラするのは、俺の心が弱いせいだろーか。
でもまあ、女にそーいう相談をするということは、自分はフリーではないと宣言しているのと同じだ。牽制を兼ねているのかもしれない。
「花束いらねー」
「俺も、んなもん買いたくねえ。おまえ、夜景もいらないだろ。だから間をとって、海の見える店にしたんだよ。やっぱメシだろ」
花束と夜景の間には海があるのか。海に至った過程が全然解らない。
先輩がそう考えたのなら、別にそれで良いけど。
大学のバスケ部に所属している先輩は、毎日練習で忙しい。最近は、電話以外でゆっくり話す機会がなかった。今日は無理して練習を休んでくれたから、それだけで充分。
「……海の見えるメシの後は?」
「ああ、考えたんだけどさあ、卒業するのおまえなんだから、やっぱおまえのしたいことがいいよなって。なにしたい?」
突然そう云われると困る。
でも少し考えたら、したいことが頭に浮かんだ。
「なら……新しいバッシュを、見に行きたい」
「あ、俺も見たい。新年度から替えてーもんな、ああいうのって」
「そう」
「あとは?」
「あと……あとは」
今日、先輩に時間を空けさせただけで充分、という気持ちは本当だ。
でも、いざ先輩を前にすると俺は欲張ってしまう。
他にも、したいことならある。夜景なんかは、確かに見えなくてもいい。見てる暇もない。
「明日は午後から練習だし講義もねえから、午前中に家帰れたらいいんだぜ、俺」
先輩が俺の心を読んだように云った。つまりそーいうことだ。俺だって、今日は家に帰るつもりなんてない。全部を云わなくても、きっと先輩はわかってる。
言葉の代わりに、いつもそうするように運転席のシートの端を指先で叩いてみた。先輩が、空いてる左手を伸ばしてくる。肘掛けは跳ね上げてあるから、邪魔するものはない。並んだシートの真ん中で手を重ねる。
二年前の卒業式に繋ぎ止めた手を今も繋いでいるだなんて、あの日の朝の自分が知ったらきっと驚くだろう。窓枠に肘をついて流れる街並みを見送りながら、俺はあの日を思い出す。
あの日、境界を踏み越えたことは間違いじゃなかった。
そういうことがわかるのは、こんな節目に自分を振り返った時なのかもしれない。
境界線2