今、なんて云ったの1
肩よりも長い黒髪が、顔を隠すように風に煽られていた。
落ち着いた雰囲気を醸し出す立ち姿は、一年の女子とはどこか違っている。真っ直ぐな両足で立つ彼女のブレザーのベストの紺色は、フェンスの向こうの青空に溶け込まずくっきりと浮き立ち、胸元で揺れるリボンはひと際目立って、自己主張していた。
俯けていた顔を上げて、凛とした顔で真っ直ぐにこっちを見上げてくる度胸は嫌いじゃないと思った。
でも、ただそれだけ。
どれだけ度胸が有ろうと、どんな顔をしていようと、かける言葉に変更なんてありえなかった。
「前から流川くんのこと好きでした。もしよかったら、付き合って下さい」
彼女はよどみなく云った。もしかしたら、何度か予習した台詞なのかもしれない。
だけど、心には響かない。背後で息を詰めて待っている見えない存在の前では彼女の固い覚悟なんて色褪せて見える。
最初は、冷たく振ってやろうと思ってた。連れて来たのがあんただったから、そうしてやろうと思った。
だけど結局、冷たく出来そうもなかった。
それでも、受け入れることは出来ない。
「悪いけど……他に好きな相手がいるから。スイマセン」
出来る限り優しい言葉を選んだ。優しくしろって云われたから。
もしかすると、自分の未来の姿を鏡に映して見ているような気がしたせいかもしれない。
誰も居ないと思った屋上で、三井先輩は俺の肩に腕を回して顔を寄せると内緒話をするように耳元で囁いた。
「実はさ。俺のクラスの女子がおまえのこと好きなんだってよ。で、この奥で待ってっから、話聞いてやってくんねー?」
ああ、今日はどうやら最低な日だ。
別に──期待してたワケじゃない。連れ出されて浮つくほど思い上がってなんかいなかった。だけど、捨てきれなかった可能性をほんの少しは残していたから、この落差は激しかった。
奥で待っているというクラスメイトについて先輩は説明し始めたけれど、俺はほとんど聞いてなかった。頭が重くなって、自然と俯いていた。晴天の屋上で気持ちの良い風を受けながら聞かされる話がこんな内容だとは、数分前は思いもしなかった。
「──で、いつもノート貸して貰っててさぁ、借りがあんだよ。すっげー優しいし、けっこう美人だぜ」
せめてもの抵抗で返事はしなかったが、先輩は喋り続けた。もしかしたら、俺の返事なんか初めから期待していないのかもしれない。どうでもいい内容の話を聞き流しながら、俺は汚れた自分の上履きの先をただ見つめた。
先輩は──バカじゃねえ?
単純な思考に腹が立ってくる。ノートを貸す代わりにこーやって先輩を利用している女のどこが優しいのか謎だ。
そもそも、優しくても優しくなくても俺には関係ないからどうでもいい。
俺が今気になっているのはそんなことじゃない。眩しいほどに白い半袖から伸びた、先輩の腕。それが俺の首を覆うように気安く回されていること。その方がよっぽど重要なのだ。
喋るたびに俺の肩でぷらぷらと揺れる先輩の手に目をやる。そして思う。やっぱり先輩はバカだと。
イヤ。むしろ、超がつく大バカヤロウなんじゃねえ?
俺の気持ちになんて、少しも気がつかねーから。
頑なに無言を貫いた俺に「とにかく話聞いてやるだけでいーから」と、先輩はしつこかった。埒が明かないので横目で睨みつけると、肩に乗っていた腕がするりと外されて首が淋しくなった。
仕切り直すように向かい合って立った先輩は、俺の顔の前で掌を合わせる。
「なあ、頼むって。少しだけいいだろ?」
さっきまではだいぶ上から目線だったのに、今度は懐柔しようとしているらしい。そうやって、両手を擦り合わせて拝まれても困る。俺は地蔵じゃねえ。
「もう、そこで待ってんだぜ? 今更断れっかよ。余裕で流川連れてくるって云っちまったんだよな」
まだ俺は喋らない。惜しみなくかけ続ける、無言の圧力。
ただ、それぐらいで動じる先輩じゃない。滅多に緩むことのない負けん気の強そうな大きな目は現在進行形で魅力的に輝いていて、一歩も引く気はなさそーだ。
「無視かよ。それが後輩の態度か? ちょっと女の話聞くぐらいいいだろうが。無理だったらその場で断ってもいいっつってんのに」
俺は仕方なく口を開いた。
「じゃあ、無理って伝えといて」
「あのなぁ……会いもしないで断るなよ。告白なんて、され慣れてんだろどーせ。一回増えるだけじゃねーか。なにが不満なんだよ」
先輩は俺を拝みつつ暴言を吐いた。やっていることがでたらめすぎる。
興味もナイ知らない女の話を、よりによって先輩の口からうんざりするほど聞かされて、あげく何故か責められて暴言を吐かれるこの理不尽さ、すべてが不満だった。イラついてしょーがないけれど、いつまでも目の前で拝まれていてもそれはそれで困る。
拝んでいるのが他の人間だったら、即刻この場に残して教室に戻ってる。けれど俺に頼んでいるのは三井先輩だ。無視して出ていくことはどうしたって出来なかった。先輩の云うことを聞かなかったからといって、別にどうなるもんでもない。なのに──俺は、この人に抵抗出来ない。
心臓をぎゅっと掴まれたまま、さあどうすると問われているのと同じだ。
選択する答えなんて決まりきってる。呆れるほど情けない自分の行動原理に、溜息が漏れた。
「なら──どうせ断るだけだけど……それでもいーなら」
「おっマジで? さすが俺の後輩!」
俺の二の腕をはたく先輩の嬉しそうな顔に胸を衝かれたものの、心とは裏腹に俺は口をきつく結んだまま、怒っている姿勢は崩さなかった。
それは俺の、なけなしの意地だ。
「無理して付き合えなんて云わねーからな。ダメだったら断っていいから。でも……少しは優しくしろよな」
先輩は念を押すように云って、待っているという相手の元に俺の肩を押し出した。階段室の影になって見えなかった奥のフェンスの前に、髪の長い女子生徒が真っ直ぐ立っているのが見えた。
風が本当に気持ち良かったので、走り去った彼女の姿が見えなくなってからもしばらく立っていた。先輩が俺の元に来るまでは、そうして待っていようと思った。
「もしかして、あいつ泣いてた?」
後ろを気にするように振り返りながら歩いてきた先輩が正面に立って、二人で向き合った。彼女はたぶん、先輩とは会話もせずに屋上から出て行った。
「おまえ、なに云ったんだよ?」
「別に。さっき云った通りっす」
「ってことは?」
答えは明白で、俺は最初に宣言した通りのことしかしていない。
「優しく断った」
「あー、そっか。やっぱ、ダメだったか」
先輩は大袈裟に天を仰いでから、自分の髪の中に手を突っ込んで髪を掻き回した。
「まあ、こればっかりは、しょーがねえよな。あとで、俺が慰めとくわ」
先輩の声のトーンと、その云い方がなんだか心に引っかかった。先輩の連れてきたクラスメイトを振ったのだから、なんだかんだ云ってきっと責められるだろうなと思ってた。
なのに、ずいぶんとあっさりしている。責めてくるどころか、先輩はどこか晴れ晴れとした顔をしている。
なんだ、この違和感は。むしろ、どっちかって云うと機嫌良さそうじゃねーか?
もしかして、と俺はようやく思い至った。
先輩は、初めからこうなることが分かってたんじゃ?
いや──それはそーだ。考えるまでもない。どうせ俺が断ると先輩は踏んでいたはずだ。俺は宣言したし、先輩だって俺の性格くらい知ってるだろう。屋上に俺を連れて来る前から、こういう結果になることを見通してたはずだ。
……そーじゃねえ。
問題はそんなことではなく。
この人は──こうなることを、望んでたのか?
見込み通りの結果になって満足している、そういう態度だ。そう思って見れば、もうそうとしか考えられなかった。
なら、望んだその理由は、ひとつしか思い付かない。
「あんたまさか……今の人が好きなんすか?」
「は……? なんでそうなるんだよ。別に、そんなんじゃねーし」
明らかに先輩は動揺して、俺から視線を逸らした。礼儀にウルサイ先輩をあんた呼ばわりしてもそのことを突っ込んでこないのが、もうオカシイ。
あまりにも分かりやすい、図星を指された時の人間の顔を見て、呆れてそれきり俺は絶句した。
だから、断ってもいいとあんなに云ってたんだ。むしろ、俺が断らないと先輩には都合が悪かったのだ。
好きなのだ、さっきの彼女を。
そんなの……ズルいだろうが。あまりにも、卑怯じゃねーのか。
「とにかく俺さ、ちょっとあいつ見てくんから」
バカの上に卑怯な先輩が俺を放置して行こうとしたので、反射的にその腕を掴んで止めていた。冗談じゃない。こんなところに連れて来られて、ちょっとだけ期待して、結局俺は先輩に利用されただけだった。俺にとって最も残酷な手口で。
「なんだよ流川……」
掴まれた腕と俺の顔を見比べて、先輩は戸惑った顔をした。
「振られたばっかの隙だらけの人を、先輩が優しく慰めんの?」
全部もう解った。
俺は先輩を威嚇するように睨みつけた。
ホントに冗談じゃねえ。
無神経に土足で部屋に入られたような気分だ。部屋の中を足跡だらけにされた俺は、文句を云う権利があるはずだ。
「んだよ、その云い方」
こんな云い方にもなる。先輩の頼みだから、厭々だけれど俺は真面目に対応したのに。
手は離さないまま無言でいると、先輩は観念したような顔をした。
「睨むなって。まあ……確かに俺は、あいつのこと好きだけどさ」
その容赦のない告白に、防御する姿勢をとっていなかった俺は思い切り頭を殴られた気がした。そんな話を聞く羽目になるなんて、屋上に来る前は思ってもいなかった。
腕を掴んだ手につい力が入って、先輩が嫌そうな顔をして振り解こうと身を捩った。だけど俺は腕を放してやるつもりなんてない。
「痛てえんだよ、放せ。云っとくけどなあ、別におまえに振られんの期待してたワケじゃねーよ。こっちが好きになった時はあいつ、もうおまえのこと好きだって云ってたし……仕方ねーだろ?」
「なにが仕方ねえんすか」
「だから! 同じことなんだよ。どうせあいつはいつかおまえに告るつもりでいたみたいだし、俺が好きだろうと好きじゃなかろーと、おまえの出す結果には影響ないんだから、いーだろ。それともなにか? やっぱ惜しくなったっつーのかよ? それならそれで、別に俺はいいぜ」
「なにがいいんすか。惜しくなんかねえ。ただ……先輩はズルいって云いてーだけだ」
「ズルいってなんだよ!」
「好きなら、俺の所に連れてくる前にさっさと今の人に告白したら良かったんじゃねえ? 振られて弱ってんとこに付け入るのは、ズルくないんすか」
「っ──うるせえ」
言葉を詰まらせた先輩は、傷ついたように弱気な顔をした。けれど、すぐに鋭い目つきを取り戻す。
「どうせおまえは、恋愛なんかに興味ねーバスケ馬鹿だからわかんねんだよ。おまえの云うのは、そりゃ正論だろうけどさ、そういう単純な話じゃねぇんだよ、こーいうことは」
上級者ぶって。
人を部外者扱いして。
先輩は無神経だ。
傷ついてるのは、俺の方なのに。
「俺だって……恋愛ぐらいしてる」
一人で想いを募らせることをそう呼んでもいいなら。
「はっ? え……おまえ彼女いんの?」
「いねー」
「んだよ──っつか、いい加減手ぇ放せよ」
先輩は自分の腕を勢いよく引いたけど、腕と手はずっと繋がったままだった。意地でも放さない。
だってこの手を放したら、先輩は彼女の所へ行ってしまう。上手く慰めて、隙だらけの心に入り込むつもりでいる。
先輩は、彼女を絶対手に入れると思う。俺の気持ちだけ、どこにも行き場がないまま。
まだ、自分からは何一つ行動していないのに、いきなり目の前ですべてが終わってしまうなんてまったく納得出来ない。
そんなの、ズルい。
そんなのは、絶対にイヤだ。どうしても、それは許せない。
「……先輩」
喉の奥が震える。自覚している自分の声とは別物みたいな低い声が出た。
こうなったら、道連れにしてやろうと思った。どうせ俺の望みは叶わない。だけど、このまま、先輩の思い通りにはさせたくない。
目が合った。なにかを感じ取ったように、先輩は眉間に深い皺を刻んで怪訝な顔をした。
その表情を、もっと変化させてやりたい。
腹が立ってはいたが、頭の中は冷静だ。落ち着いて、考える。乾いた唇を唾液で湿らせたあと、躊躇うことなく俺は口を開いた。
「前から、俺は先輩のことが好きだった」
「──あ?」
これはウソじゃない。
「今、なんてった?」
「好きだっつった。あんたを」
「え……は?」
目を丸くして、先輩は黙った。
俺は、とうとう云ってやった。
この思いは、ずっと行き場を探してた。
人に好きだと告げることを告白と呼ぶ。この言葉は押しつけがましい気がして、あまり好きじゃない。
打ち明けるとか、気持ちをぶつけるとか云う方がまだ少し合っているような気がする。だけど、とにかく独り善がりであることに変わりはない。少しでも臆病になれば、告白なんて出来るわけない。
今まで出会った、自分の気持ちを正直にぶつけてくる女子のことをずっと羨ましいと思ってた。
誰も彼もずいぶんと華奢に見えるのは見掛けだけだった。結果が出てしまうことに恐れをなさない強さと自信を持っていた。その逞しさだけは全員平等に尊敬した。
自分もいつか、我慢が出来なくなってそんな風に想いを告げたりすることになるんだろうかと少しは考えていたけれど、まさか、こんな心の準備もしていない時に、しかも振られることが前提で打ち明けることになるとは思わなかった。
どうせヤケクソだ。肝心な言葉が口から出てしまえば後はもう勢いで、俺は願望を打ち明ける。
「もしよかったら、俺と付き合って下さい」
「はああ──?」
準備不足はどうにもならない。さっきの三年生と同じ台詞を使わせてもらった。振られたばかりのこの台詞は、きっと縁起が悪いだろうが。
先輩は、信じられないものを見るような顔で俺をただ見ていた。だらりと落ちて力の入らない腕を、俺は未だに掴んでいた。そうして、ただ二人で視線を合わせて立っていた。
この後、どうなるのか。俺は期待なんてしてない。むしろ、ざまあみろと思っていた。先輩がせっかく綺麗に張った水の中に、小石をひとつ落としてやったのだ。小さい石だって、波紋は絶対に広がる。きっと先輩は、このまま真っ直ぐ彼女を慰めに行き辛くなったはずだ。
もう、それどころじゃねーよな?
「流川、おまえ……さっきから、なに云ってんだよ?」
「なにって云われても、今云った通りでしょ」
そうやって戸惑ってもいい。迷惑だと思われても。せめて少しの間だけでも俺の言葉が頭から離れなくなればいい。それだけで、気が晴れる。俺の恋が今日終わるとしても、少しはマシな気分でいられる。
「俺を好きだって云わなかったか……?」
「そー云った」
腕を掴んだ掌が湿っているのを自覚した。
ピンと糸が張られたみたいに、辺りの空気が張り詰めている。
だけどその緊張は、先輩によって破られた。唐突にそれは起きた。
バチンという音と同時に頬に痛みが走った。
衝撃で、自分の意思ではないのに顔が勝手に横を向いていた。
先輩に横っ面を叩かれたのだと、一瞬遅れて理解した。
張った当人である先輩に頬を見せつけるような格好になって、しばらく俺はそのまま動けなかった。
「おまえ、サイテイだろ!」
先輩は俺にはっきりと云い放った。
なんで……そこまで怒るんだ。なにが最低?
あんたがそれを云うのかよ?
「こんな時に人をからかうとか、趣味わりぃだろ! そーいう冗談を、そーいうマジな顔して云うな」
こんな時って、じゃあどんな時なら許されるんだよ。
からかってなんていないし、どんな時に云ったって、どうせ叶わない。
「冗談なんて云わねえ。だから、あんたの口から、ちゃんとした返事が欲しい」
「なっ──なに云ってんだよ」
俺を睨みつけていた二つの目は明らかに俺に対する怒りを含んでいたけれど、その目は見る間に丸くなって、怒りよりも困惑のような色が濃くなった。
腕を掴まれたまま腰が引けたように俺から離れている先輩の立ち姿が気に入らなくて、一歩詰め寄った。すると今度は、先輩が一歩足を引く。
「おまえ、それは……からかってねえなら、余計最悪なんだよ……自分の云ってること、わかってんのか?」
そんなの、嫌というほど。
「俺とは、付き合えないってことすよね?」
俺に振られた女子と同じように、俺が先輩に振られるのはしょうがねーと思う。
それは、どうしようもない。自分だけはなんて、都合良くいかないのは分かってる。
「──とにかく、落ち着けよバカ」
「落ち着いてる。絶対に、ムリっすか」
「そんなの──ダメに、決まってんだろうが……もぉ、とにかく、手ぇ放せ。俺、もう行く」
先輩が腕を思い切り振り払ったので、手が離れた。すべてを拒絶するように背を向けられて、俺の身体は動かなかった。もう一度触れて引き留める精神力は残っていなかった。
先輩は振り返らなかったし、後姿が声をかけるなと語っていた。そして逃げるみたいに大股で屋上から出て行った。
大きな音を立てて閉まった扉が、先輩の怒りをそのまま表していたと思う。
小さな小石が広げた波紋は、俺の見込み通り先輩の心を乱したようだった。少なくとも、その足で彼女の元へ行くとは思えない。
立ち尽くして、俺は先輩に叩かれた頬に触れてみた。痛みなんてないに等しい。本当に痛いのは頬じゃない。想像した通りだったけど、困ったように俺を見る先輩の顔を思い返すと胸が苦しくなる。なんだか痛々しくて、見たくない顔だった。
なんで──あんたが痛そうな顔すんの?
傷を負って力尽きたのは俺の方だろうが。
振られた時はこんな最低な気持ちになるんだと、俺は初めて知った。
これで本当に終わった。
人の気も知らず、空は晴れ渡って相変わらず気持ちの良い風が吹いている。だけどやっぱり、今日は最低な日だ。
先輩の云うことなんか、初めから聞かなければ良かった。 2へつづく