今、なんて云ったの2

 逞しそうな女は、別に嫌いじゃない。
 だから、本当は彼女と付き合えば良かったのかもしれない。きっと、それが一番まともな選択だった。
 あの日、屋上に真っ直ぐな足で立っていた彼女は、今思えば少し先輩と似ていた気がする。
 特に目がそうだ。曇らない瞳の奥には自信が隠れていて、先輩は優しいと云っていたけど目を合わせてもひるまない気の強そうな女子だった。
 もしも付き合っていたら、先輩は俺を恨んだだろーか。
 高い天井を見上げて、俺はそれを想像した。今更、恨まれたって別にかまわねえけど。
 もう先輩のことを想ったりしないから。

「なんか、今日おまえ調子いいよな」
「そうすね。いーかも」
 先輩と二人で、体育館に今日も残った。
 足を止めると滴った汗が床に水溜りを作るくらい動いた後、休憩を入れた。水分補給しながら見上げていた天井のライトから視線を元に戻し、下らない想像を頭から追い出して、弾んだ息を整える。
 最低最悪な屋上での告白からひと月近く経って、ようやく俺は先輩がそばに居ても平常心で居られるようになった。
 大体、やるべきことが沢山あってそれどころじゃなかった。時間がいくらあっても足りないくらいバスケに集中していた。
 先輩はあの日の出来事をなかったことにしたみたいで、あの日以降一度も口に出さなかった。こっちから云うことはもう何もなかったし、最初は一言も口を利かない日が続いて、居心地が悪く目を合わせることもしなかったが、毎日部活をやっていれば自然と会話をする機会が生まれた。そうやって必要最低限のことを話している内に、元々話好きの先輩は最低限では足りないらしく、雑談程度の話も振ってくるようになった。
 仕方なくそれに渋々応えていると、いつの間にかまた一緒に居残って練習をするようになった。俺は先輩レベルの選手との練習に飢えていたし、先輩もそーだったのかもしれない。
 俺は、俺の利益を追及しただけ。先輩との居残り練習はその結果だ。そこに未練がましい想いはない。二人きりでいたとしても、心が乱れたりもしない。
 何事もなかったかのように今まで通り二人で練習をして、バスケの話や、誰と誰が実は仲が悪いらしいだなんて噂話を聞かされたりしながら、途中まで一緒に帰ったりもする。
 俺も俺だけど、先輩も相当変わってる。でも、この関係はそんなに悪くなかった。
 先輩の面影を持ったあの女子生徒は、あれ以来一度も姿を見ていない。

 先輩とのワンオンワンは、充実した時間を過ごしている気がして、楽しい。今日は俺が勝ちを重ねて、気分が良かった。休憩の後は先輩のオフェンスから始まる予定だ。
 そろそろ再開なという先輩の声に立ち上がった時、ふくらはぎが引き攣るような違和感を感じた。何度も経験したことがあるこの違和感は、次第に鋭い痛みに変わるってことを、俺は知ってる。これは足が攣る前兆だ。
「ちょっと、タイムっす」
 足が攣ったら立っていることは出来なくなるので、床に座り直して痙攣しかけた足を伸ばした。すでに立っていた先輩が、俺を見下ろしている。
「なにおまえ、もしかして足攣ったか?」
「……すぐ治る」
 時々、足が攣る。一度起こると大抵近い内にまた起こり、少しクセになっていた。足が攣ったことを人に知られるのは、俺の中では醜態を晒しているのと同じ。この姿を先輩に見下ろされているのは、とても屈辱的だ。
 自分の意思ではどうにも出来ない引き攣る筋肉の痛みに耐えながら、少しでも楽になるようにと靴先を引っ張った。早く治まれとバッシュの紐を見ながら俯いていたら、先輩が横にしゃがみ込んだ。
「練習の後、ちゃんと家でマッサージしてっか?」
「……テキトウには」
「適当?」
 呆れ返ったように、先輩は眉を顰めた。
「おまえはあれだけ動いてんのに、適当じゃダメだろーが。風呂入った時とかに、ちゃんとほぐせよ」
「風呂ん中では……寝てる」
 湯船に浸かると、速攻で眠ってしまう。風呂から出た後もすぐに眠くなって、宿題すらやらずに寝てしまう。身体をほぐすことは俺の中では更に優先順位が低かった。眠れば、大抵のことは回復出来る。振られた時だって毎日死ぬほど眠った。それで、心に負った小さな傷口は今ではもうすっかり完治したと思う。
「しょうがねえなぁおまえは……じゃあ風呂では寝てもいーからよ、布団入る前とか時間あんだろ。ケアは馬鹿にせずにやっとけ」
 俺の返答に疲れたように、先輩は重たい溜息を吐いた。
 少しずつ足の痛みが引いてきたので、身体から力を抜いた。すぐに動くとまた攣りそうな気がする。後ろに手をついて身体を支え、細く息を吐く。
「治ったか?」
 しゃがんで見下ろしていた先輩が隣に座って、唐突にふくらはぎに手で触れてきた。その動きは予想外だったので、びっくりして思わず息を飲んだ。
「今日はもうこの辺で上がろーぜ。俺がマッサージしてやるから、膝立てろ」
 ──なにするって?
 展開についていけず、無言のまま先輩の顔を凝視した。けれど逆に怪訝そうに見返されて、羞恥心の成り損ないみたいなモノが少しだけ湧いた。真っ直ぐで強い視線に耐えきれなくて目を逸らした。早くしろよと急かされて、云われた通りに攣ったほうの足だけ膝を立てる。
 先輩は移動して座り直すと、躊躇う素振りもなく俺の足に触れてきた。少し湿った掌と細長い指が膝裏の細く締まった部分を挟み、ふくらはぎの筋肉をゆっくりと指の腹で押し上げる。足首の方へ向かって少しずつ下るその動きは手慣れていて、力加減は絶妙だ。
 ゆっくりと皮膚の上を移動する手の感触から意識を逸らそうと、視線を外して先輩の顔を盗み見た。俺に見られているのも知らずに、先輩はときどき睫毛を瞬かせて、一心に手を動かしている。
 少しでも動いたら先輩が手を止めてこちらを見るかもしれないと思い、俺は動けなくなった。じっとしているのは暑い。体育館が蒸し暑いせいか、それとも別の理由からか、身体が熱を帯びてくる。
「おまえの足、硬い」
「……そうすか」
「力入ってんな。抜いてみ」
「……うす」
 なんなんだ。なんでこんなことになった? 
 汗がどうしようもなく額に滲んだ。体育館に二人きりで、なにやってんだ。
 この違和感を先輩は感じないのか、ただひたすらに淡々とマッサージは続き、足首まで行って折り返した手は、また膝に向かって戻ってきた。硬くなっていた筋肉が先輩の手にほぐされていくのと同時に、自然と身体に入っていた力が、ようやく、少しずつ抜けていく。
 とても緊張していたのだ。それがやっと緩み始めた。
「俺もさあ……昔だけど、太腿がよく攣ったりした」
 巧みに足をほぐす手が、予測出来ない動きを始めた。長い指が膝を超えて腿の上へと上がってきたのでひどく動揺した。湿った手が練習用のハーフパンツの緩い隙間から滑り込んできて、せっかく緩んで油断していた身体がまた緊張する。背中を這い上ってきた震えるような感覚に耐えながら、口の中に溜まり始めた唾液を俺は出来るだけ音を立てないように飲み下した。
 一ヶ月近くかけて、ようやく俺は振られたことを受け入れた。そのつもりでいた。なのに、先輩は腹が立つほど軽はずみだ。
 余計なことをするから、妙に心がざわざわして、落ち着かない。
「こーいうとことか、意外と攣る時あんだよな」
 掌で挟まれた大腿部を柔らかく揉まれた。そうして往復する手の動きは、ただのマッサージだとは信じられないほど不道徳だと俺には思えた。額から汗が噴き出してTシャツの上に流れ落ちる。後ろ手についた手が床から離れなくて、俺はもうずっと固まったまま、自分に云い聞かせている。
 先輩はただ無神経で軽はずみでバカなだけだ。こんなふうに触れてくることに意味はない。そんなモノはある筈がないって、俺の頭はちゃんと理解してる。
 なのに、自分の中の奥深い場所からは一方的な欲求がとめどなく湧いてくる。往生際を見極められない、潔くない心の一部が、まだ俺の中に少しだけ存在してるのかもしれない。多分、そうだ。きっと、そう。絶対にないとは、云い切れない。
 だから触られんのは困る。
 足でも手でも、これ以上先輩の手で触られたら、せっかく積み上げた物が簡単に崩されそうだった。それはたぶん、幼児が積み木を崩すぐらいあっけないと思う。
「……先輩。もういい」
 掠れる声を絞り出す。腿の付け根まで上がってきた先輩の手を、上から押さえて捕まえた。
「家で、自分でちゃんとやるから」
 ついでに顔を見ると、眉を少し上げて見つめ返された。
「そう云って、どーせ適当にしかやらねえんだろ? 俺、マッサージ上手いんだって。ありがたく受けろよ」
 やると云い出した先輩を止めるなんて簡単じゃなかったし、俺の守りもどうしたって完全じゃない。温かい手はどこまでも自由で、薄い皮膚の上を探るように這う。そんなところまで触ることないのに、と思うところまで先輩は触れてくる。
 生地に隠れた見えない場所をどう触られているのか、それを少しも取りこぼさないようにと、ひとりでに神経は研ぎ澄まされる。別のことを考えて誤魔化そうとしても、身体はそう簡単に騙せない。先輩を見なければ少しはマシかもと思って目を瞑ったら、余計に皮膚が敏感になった。逆らえない心地好さに溜息が洩れそうになって、無理やり息を凝らした。
 もう一度阻止しねーと──そう思うのに身体が自由に動かないのは、ひとつきりではない意思のどれに従うべきか、自分でも判らないせいなのかもしれない。
「流川、また足に力入ってっから。抜け」
 こんなの、どうにもなんねーだろ。
 どうしても身体に無駄な力が入ってしまう。不可抗力だ。この期に及んで勘違いなんかして、間抜けな奴にだけはなりたくないのに。
「──先輩」
 気を紛らわせようと考えて、俯いたまま呼んだ。
「あの人と……結局、どうなったんすか」
 張り詰めた神経が余計なアンテナを伸ばすのを止めたかった。意識を他に向けようと考えて、真っ先に浮かんだのがこの質問だった。
 本当は、心のどこかでずっと気になってた。先輩の、恋愛とやらの結果について。
 でも、それを知ってこれ以上余計な感情が増えるのはごめんだと思った。だから、考えないで済むように仕舞い込んで、うっかり開いたりしないように鍵をかけておいた。
 でも、鍵を持ってるのは自分だ。開けようと思えばいつだって簡単に開けられる。
「あーあれな……別にどうもなんねーよ、おまえのせーで」
 先輩の手が止まったので、俺はやっと顔を上げた。
「ダメだったんすか?」
「っていうか、あいつには結局なんも云わなかったから、ダメもなにもねえし」
「……なんで、云わなかった?」
「なんでって……だから、まあ、おまえのせいだろ」
 いつもは自信に溢れている目が伏し目がちになる。口調はとても静かだ。
 あの時、確かに俺は先輩の企てた計画を邪魔してやった。
 先輩が自分勝手を貫くのなら、俺だってそうしてやろうと思ったのだ。ただ、そんなにずっと引き摺るとまでは予想してなかった。
 俺を非難するわりに、先輩はもう怒ってはいないようだ。そうでなければ、居残り練習にだって付き合ってはくれないだろう。それでも俺のせいだと云うその声はつまらなそうに沈んでいたから、一言云いたくなった。
「別に……今から好きだって云ったって、遅くねえと思うけど?」
 アドバイスなんてする立場じゃねーけど。
 先輩がつまらなそうに呟くから、つい後押しするような言葉が口から出た。
 矛盾してる。先輩の恋が上手くいけばいいなんて、俺は少しも思ってねえ。でも、つまらなそうな先輩も見たくない。そんなに寂しそうにあの人を想う声も聞きたくない。
「……ちげーんだよ、バカ。もういいから、あいつの話」
 唐突にマッサージは再開された。それ以上の会話を拒まれたような気がして、ぎゅっと指に力が入る度に先輩の爪の先が白く滲むのを、俺はただ眺めた。それっきり二人して黙り込んで、だだっ広い体育館が静かになった。バッシュの音もボールの音もしない夜の体育館は大きな箱のようだった。箱の中に二人きりなんだと急に自覚して、ほんの少し浮ついた気分になった。喋らない先輩を目に映す。先輩は俯いていて、瞬きをする度に濃い睫毛が微かに動いていた。その顔はやっぱりどこか寂しそうで、胸にこたえる。
 あの日の唐突な告白を謝るべきかと一瞬だけ考えたが、それは違うと思い直した。俺だって先輩に利用されたのだ。それに、俺はウソを云って先輩をからかったワケじゃない。謝ったりしたら、全部がウソだったことになってしまうような気がした。
「なー流川、訊きたいんだけどさ」
 俯いたまま、先に先輩が口を開いた。
 足のマッサージは機械的に繰り返される。
「おまえ、好きだって云ったろ、俺のこと。すげえ変なこと訊くけど……もしかして、俺で抜いたりしたことあんのかよ?」
 質問の意味はすぐに分かったが、質問する意図がまったく読めなくて、頭がついていかなかった。まさかそんなことを先輩に訊かれるなんて思わない。あまりにも不躾な質問に、遅れて湧いたのは小さな反発心だ。床についていた掌に力がこもる。
「ソレに……答える必要あるんすか」
 とりあえず、答える義務はないと思えた。
「答えられねえってことは、それが答えだよな?」
「……先輩は、なんも分かってねえ」
 やっぱり、先輩は無神経で大バカヤロウだ。俺が、どれだけ用心深く自分を抑えてきたのかなんて知りもしないクセに。
 先輩と後輩以上の関係を、確かに俺は望んでた。その考えがフツウじゃないって知っている。
 だから気持ちを抑えつけて、ただの後輩の振りをしていた。好きなんだと告げるまで、ずっとそうしてきた。
 打つ手のない関係を続けながら、どれだけ俺が自分を殺してきたのかを先輩は想像なんてしないのだ。
「そんなこと、ホントに知りてえの先輩」
 乾いた唇を無理やり引き剥がして口を開いたら、思いの外冷たい声が出た。
 頭の芯は凍りついたように重かった。声には出さない訴えが、夜の海みたいに人知れず頭の中で何度も繰り返される。
 感情のやり場を、俺は冷静に探る。
「教えましょーか?」
 顔を近づけて云ってやったら、先輩が息を呑んだ。足の上に置かれた手は動くのをやめた。
 どうしたら効果的に思い知らせることが出来るのかを、俺は頭の中で計った。
 一言囁けば顔に息がかかるぐらいに距離が近い。少し伸ばせば、手も届く。こんなにも距離が近いのに放っておくことはない。
 結論はすぐに出て、俺は先輩の肩を右手で強く掴んだ。左の腕は首の後ろに回した。自分の持ち物に触るみたいに、躊躇わなかった。
 驚きに見開かれた目は大きくて綺麗だった。震えかけた喉仏が目の前で小さく鳴った。それとほとんど同時に、俺は先輩を床の上に倒して、跨るように身体を寄せた。
 小せえといつも思っていた頭が凭れた重みを、左腕にしっかりと感じた。
 そこから伝わる温い体温も。
 汗に濡れて乾いていない襟首の髪が、腕の表面を緩く刺激する感触も。
 想像ですらしたことのない体勢と距離で、飲み込めない事態を問うように見上げてくる二つの瞳には、たぶん、後輩の顔をしてない俺が映ってるはずだ。
「先輩なんか、俺の想像の中では、いつもこう」
 濡れた瞳を見下ろしながらウソを云った。不届きな想像にいつも俺は慎重だった。欲望だって人並みに持っていて、それを向ける対象はとても限定的だ。だけど、空想に耽っても虚しさばかりが後に残るのは分かってた。俺がずっと欲しいと願ってたのは、この手で触れられるモノだ。
 ──でも。だからって、振られた奴には妄想することすら許されないなんて馬鹿にしてる。
「想像でどうかされんのも許せないんすか?」
 首の下から腕を引き抜いて、先輩の頭を囲うように手をついて見下ろした。下から向けられる視線は探るように真っ直ぐで痛い。卑しくて疾しいのは自分だと思い知らされて、先に目を逸らしたくなった。
 だけど、どんな視線も受け入れるしかない。これ以上、自分を騙せそうにないから。
 拒絶されても、気が変わらなかった。やるだけのことはやった。
 だから、もうしょうがないと思った。あと残っているのは、諦めて全部受け入れることくらいだ。
「許さないなんて……俺が云ったかよ?」
 俺の下で先輩が口を開いた。顔が笑っている。組み敷かれているクセに、ちっとも怖がる様子はない。
 先輩のこの表情は知ってる。
 これは、なにか面白がっている時の顔だ。
「分かってねーのはおまえの方だろ。キレんな」
 どういう意味でそう云うのか分からなかった。蔓のように伸びたしなやかな先輩の腕が俺の首に絡みついてきたから、じっくりと考える余裕なんかなかった。
 うなじに回された腕の重みで、身体が勝手に引き寄せられて先輩に圧し掛かかった。胸と胸が合わさって、どっちのモノなのかよく分からない心臓の音が響いた。
「おまえ鈍いし、反応面白すぎ。別に俺は咎めてんじゃねえから」
 薄い三日月型の目をした先輩に、声だか吐息だか分からない音量で囁かれた。俺の中をじわりと侵食してくるような低い声だった。
「俺はさ、おまえが俺に云った『好き』がどの程度のレベルなのかちゃんと確認したかっただけだし」
 今頃になって、そんなの知ってどうしようっていうんだ。
「そんなこと、確認してどーすんすか?」
「まずは確認しないと始まんねえだろーが」
 やっぱりワカラナイ。
 今更、始まることなんてなにもないだろーが。
 だけど胸がざわめいた。始まるという言葉が伝える印象に。
「ソレは……結局、確認出来たんすか?」
「まあ、そうだな」
「……確認出来たら、どーなる?」
「いーから、ちょっと口閉じろ。どうなるか教えてやる」
 首に回された腕に、さっきよりずっと強い力が加わった。先輩の意思をそこに見つけたから黙った。限界まで顔と顔が近づいた。この意味が分からないほど馬鹿じゃない。だけど、信じられなかった。
 最初に触れ合ったのは、鼻先。
 それが許されたから、次は話しかけるように唇を寄せていって重ねた。想像よりも柔らかい、生身の感触が返ってきた。 その柔らかさに一瞬たじろいで唇をすぐに離したら、物足りなく感じた。だからもう一度軽く触れたら、後頭部を抱くようにしっかりと引き寄せられた。キスの仕方は全然知らなかったけど、柔らかく唇を挟まれたから同じように返した。唇と唇の隙間を探って、濡れた粘膜の壁の中まで入り込む。儚くて柔らかな舌の感触。この健気な柔らかさが誰の物なのかを、気が済むまで何度も確認する。
 熱を原動力にして滑らかに動く別の生き物と通じ合っているみたいな、不思議な感覚だった。
 触れ合った部分はどこも同じ体温になって、境界なんてどこにあるのか判らなくなった。
 これはなんかの罠かもしれないと、一部の冷静な頭が考えた。
 それとも、俺はいつものようにうたた寝をしていて、とても幸せな夢を見てる途中なんだろうか。

 キスを終わらせるのは名残惜しかったし、たまらなく淋しく思えた。それでも、どうやらこれはヨコシマな妄想や夢ではないようだった。そのことに安心して、かろうじて残っていた僅かな精神力で俺は顔を上げた。先輩の小さな頭を両手で囲ったまま、少し離れた距離から見下ろした。
「……なんで?」
 出てきた言葉はそれだけだ。
 先輩が俺とキスした意味を、先輩の口から聞きたかった。
「なんでってのは、なんだよ? たまにはまともな日本語使えよな」
 たった今、この上なく甘いキスをしたばかりの口が辛口に豹変した。仕方がないから、まともな日本語というやつに近づくよう、言葉を付け足してみる。
「人を振っといて、なんでキスなんか」
 さっきのは絶対に独り善がりなキスじゃなかった。
「云わなきゃ分かんねえ?」
 なんだそんなことかと云いたげな顔で、先輩は笑った。
「普通さ、好きな奴と二人になったら、キスぐらいしたくなんだろうが」
 ……あれ? 
 今、なんて云った?
 耳の奥へ言葉がすんなり通り過ぎてしまった。もう一度再生しようと首をひねった。頭の中で小さく木霊している言葉を、もう一度ひとつに戻す。
 あまりにもさらりと云うから聞き流してしまった。でも、たぶん「好きな奴」と云った。確かに云った。
「せっかく二人きりなのに、バスケばっかやってんのつまんねえだろ。おまえから来るのをいつまでも待ってたら、俺は卒業しちまいそうだし」
「でも──だって、あの人は?」
「だから、あいつのことはもう終わったんだっつうの。しつけーよ」
 話の展開が自分の想像の斜め上をいく。
「ダメに決まってるっつって、俺を殴ったのは?」
 来るのをもなにも、告白の返事は平手打ち。完璧に振られた。あれはあんまりだった。俺でさえそんなふうに人を振ったことはない。
「殴ってねえよ、あんなの、ちょっと軽く叩いただけで痛くなかっただろ。大体、もともとは全部おまえが悪いんだからな」
「俺が悪い?」
「決まってんだろ。全部おまえのせいだ」
 人に責任を押しつけて先輩は横を向いた。拗ねたような顔。こんな顔も嫌いじゃないな、と反射的に思ってしまう自分がイヤだ。今そんなことを考えるのはズレてるかもしれないと、自覚はしてる。
「でも、好きな奴って、さっき先輩云った。それ俺のことでしょ」
「偉そうに云うなよ。何様だ」
 偉そうなのはどっちなんだろう。それに、随分と往生際が悪いような気がした。さっきその口で俺とキスをして、俺のことを好きだと口走ったばっかりのクセに。
 でも、それはあまりにも先輩がやらかしそうな矛盾だったから可笑しかった。声を出して笑いたい気分だった。
「……まあ、あれだ」
 先輩が、仕切り直すように云う。
「おまえが屋上で急にあんなこと云いやがるから、俺はあの時頭ん中が真っ白になって、つい手が出たんだよ。つうか、あの状況でOKとかなんねえだろ。少しは空気とか読め」
 空気は読めたけど、あえて読まなかったのだ。
「おまえに好きだって云われても、あの時は俺だってあいつのこと好きだったし、いきなり気持ちの整理なんてつかねえし……なのにガンガン急かしてくるから、考える余裕なんてなかったし。せっかちなんだよな、おまえ。ホントありえねえ」
 だって、俺はいつでもその場で即答してたから。迷ったことなんて、一度だってなかった。
 まあ、そもそも俺は先輩にOKが貰えるとは期待していなかった。
「あの時しか、あんたに好きだって云う機会なかった」
 ああして引き留めなかったら、先輩は彼女のところへ行っていた。そうしたら、今こんな風になってない。
「分かってるよ……しょーがねえから、じっくり時間かけて考え直してやったんだよ。おまえがあんまりマジ顔で告るから、カワイソーに見えてきてさあ」
 ひとこと喋るその度に、先輩は偉そうだ。
 なのに、そんな言葉を聞く度に心が弾んでいく俺はどうかしてるんじゃねーかと思う。そんなシュミ、元々はなかった筈なのに。
「この一ヶ月、おまえのことしか考えらんなかったんだけど、責任とってくれんだろうな? つか、笑ってんじゃねえよ。おまえが笑うとこえーんだよ」
 人の顔にケチをつけるな。なにが悪いって云うんだ。幸福を噛み締めてる途中なんだから、知らない内に顔が笑ってたってしょうがない。
「顔はどーしようもねえけど、先輩のことは責任とるから安心して」
 声に出して云い切ったら、気持ち良かった。先輩にこんなふうに云ってみたかった。
「年下のクセに云うこと生意気だよな」
「そこも好きになったんでしょ?」
「くそ……あー、俺って完全に道踏み外してるよなコレ」
 媚びない自分をいつも主張している先輩の上がった口角が、魅力的な笑い顔を作った。
「おまえのやること、全部許してやってもいいかって気分になるんだよな俺。これ、ただの先輩としてはちょっと問題あんだろ? もうこのままなんにもねえ振りすんのは無理なんだよな」
 先輩の手が伸びてきて、俺の前髪を一束摘まんで引っ張った。
 そんな風に先輩が髪に触れてきたのは初めてだ。神経の通わない髪の先から偏った感情が伝染してくる。たぶん、好意とか、優しさとか、甘えと呼んでもいいものが。
 沁み透ってくるそれは言葉ひとつよりもずっと明白で、俺にも分かるほどシンプルだったから、受け入れるのは容易かった。
 こうなったらどーしようもねえよな、と先輩が独り言のように云うので、俺なんかずっと前からどうしようもなかったけど、と勝手にそれに答えた。そして顔を擦り寄せて、閉じた瞼にもう一度キスした。

おわり

*ここから、読んでも読まなくてもいいおまけ。

「俺はおまえより絶対細いんだからさ、少しは考えろよ」
 キスをして、他にも何かあるのかと期待したところで重くて限界だと先輩の上から退かされた。舞い上がった気持ちに水を差されたような気がして、思わずムッとした。なんでも許してくれるんじゃなかったのか。
「先輩が先に抱きついてきたクセに」
「は!? そもそも、おまえが俺を押し倒したんだろーが! こんなとこでいつまでもあんな状態で、誰か来た時なんて云うつもりだよ? 云い訳思いつかねえよ」
 起き上がった先輩は、床に胡坐をかいた。今頃に人なんか来ねーよと反論したかったが、絶対に来ないとも云い切れねえからやめた。せっかく生まれた親密な空気を口喧嘩で壊すのも嫌だった。
「まあ、マッサージの続きならしてやってもいーけどな。それなら云い訳出来るし」
 今、なんて云った?
 膝の上にそっと掌を置かれたので、瞬間的に身体に力が入った。
 目の覚めるような眩しい笑顔を浮かべて、先輩は機嫌良さそうに云う。
「片足だけしか終わってねえじゃん? そーいうの、中途半端でなんかヤなんだよ、俺」
「そーすね……」
 さっきの不道徳極まりないマッサージを俺は思い返す。
「まあでも、もう遅いから、やめとくか?」
「イヤ……やめねーで欲しい」
 遅くなったからもう帰りたいなんて云う奴が居たら、それは底無しのどあほうだ。体育館に寝転んで密着するのも良かったけれど、これはこれで悪くない。いや、むしろこっちの方がイイかもしれない。
「じゃあ、さっきと反対の足出せ」
 俺は大きく頷いて、先輩の前に足を差し出した。
 断る理由はどこを探しても見つけられなかった。
 生地の隙間を目ざとく見つけて侵入してきた先輩の手が肌の表面を辿って、眠らせていた色々なものを起こして回ってる。感覚が研ぎ澄まされて、先輩の小さな呼吸の音さえよく聞き取れる。一人占めの横顔をしばらく眺めてから、俺は体育館の扉を睨みつけた。
 このまま、誰も邪魔しに来ないといい。

ホントのおわり
★ちょこっと一言
早く下校しなさい。
みっちーは天然なのか故意にやってんのかは謎のまま。