すべてを見ていた者は誰もいなかった。当事者の二人以外は。
「ナニしやがんだルカワ!」
桜木の怒声が体育館の隅まで響き渡り、それぞれ自主トレに励んでいたみんなの視線が彼ら二人に集中した。
視線の先で険悪な雰囲気で睨み合っているのは、常日頃から仲の悪い二人の一年生──右の拳を握り締め、肩からタオルをかけて突っ立っている流川と、床に置いてあるペットボトルをなぎ倒し、口元を手の甲で拭って尻餅をついている桜木だ。
「てめーが悪い」
最初に手を出したのはどうやら流川の方で、桜木の応戦もすぐさま始まった。立ち上がって流川の顔にお返しの一撃を食らわせる場面を目にして、館内に残っていた人間は金縛りが解けたかのようにようやく慌て、動き出した。
宮城は比較的近くのコートに立っていたので、素早く動いて二人を止めに入った。
「やめろ、なにやってんだオメーらっ!」
お互いの胸倉を憎々しげに掴み合う二人の間に小柄な身体で割って入り、彼らを引き離そうとする。
この時間、体育館に自主的に残っていたのは、喧嘩を始めた二人と止めに入った宮城、一番離れたゴール下で対戦していた木暮と三井、舞台に座って休憩していた一年生三人だった。
正規の部活時間を終えて、自主練習のために残っていたメンバーだ。
「止めるなリョーちん! コイツがケンカ売ってきたんだ!」
「そうなのか流川!?」
「てめーが悪いんだからしょーがねえ」
「ぬう!? 俺がおまえにナニした!?」
「やめとけって花道!」
ただでさえ流川に対して沸点の低い桜木は、顔を真っ赤にして再び殴りかかろうとした。その腕を、宮城が掴んで止める。自分よりも二十センチ以上身長のある二人を止めるのはきつい。孤軍奮闘していたら、ようやく木暮と三井が到着して、牙を剥く二人をそれぞれ羽交い締めにして引き剥がした。
「やめろ桜木!」
三井が桜木を押さえ込んで怒鳴った。
流川を押さえた木暮は、自分を振り切ってまだ桜木に向かって行こうとする流川の力の強さに驚きを覚えた。余程のことがあったのか、桜木の挑発も大半は相手にしないいつもの流川とは様子が違う。まるで冷静さを欠いている。
「一度落ち着こう二人とも」
「イヤダ」
「イヤダじゃないだろう流川」
「どいてろメガネ君! そいつはアブナイヤツだぞ! 休憩してただけのナニもしてねー俺に、いきなり殴りかかってきやがったんだからな!」
「とにかく離れよう、な!」
「イヤダ」
「いい加減にしろ流川!」
宮城が間に入って、流川に向き直った。いつもの喧嘩ならばまず頭に血が上った桜木を止めようと努めるのだが、今回の元凶は流川だと宮城は見極めた。
流川の鋭い視線は、宮城の後方の桜木に向けられたままだ。
「ぬあ? ミッチー放せっ」
一向に頭を冷やさない二人に埒があかないと踏んだ三井が、桜木を羽交い絞めにしたまま引き摺って、流川から引き離しにかかる。
「いーからこっち来いバカヤロウ!」
三井が怒鳴った。
舞台から駆け付けた一年生三人は手を出すことも出来ず立ち尽くして、不安げな顔で成り行きを見守っている。
「俺が練習出来ねーだろうが! ケンカしたいなら邪魔だから外に出てやれ!」
三井の自己中心的な主張、それが心に響いたのかどうか、木暮と宮城二人がかりで押さえていた流川の全身から力が抜けた。肩にかかっていたタオルがその拍子に床に落ちる。
それまで闘争心に駆られたように前ばかり見ていた流川が、耐え切れなくなったように下を向いた。そして、完全に動くのを止めた。
宮城が木暮に頷き、その様子にようやく一息ついて木暮が拘束を解くと、流川は落ちたタオルを拾い上げ、桜木たちにくるりと背を向けた。
結局、木暮がいかなる懐柔作戦を用いても流川は喧嘩の理由を云わなかった。
宮城と三井は半ば強引に体育館の端まで桜木を引き摺って行き、出入り口を通過して更に外まで連れ出した。桜木軍団や晴子たちがよく見学をしている場所だが、すでに遅い時間なのでそこには誰も居なかった。二人で桜木を挟んで三人並んで座り込み、喧嘩の理由を説明させたが、要領を得ない。
彼曰く、たまたま流川と同じタイミングで休憩に入り、壁際に座って飲み物でも飲もうかとしたところ、隣に居た流川に理由もなく突き飛ばされ、突然のことに驚いて反応も出来ずよろめいたところで、更に間髪入れずに殴られたらしい。あまりの不意打ちに桜木は無様に床に倒れ、怒鳴ったところで、皆が目にした場面に繋がるのだと云う。
「なんの理由もなく流川がそんなことするわけないだろ。覚えてないだけで、またなんかやったんだろおまえ」
決めつけて三井が云うと、心外だという顔で桜木が抗議した。
「またってどういう意味だミッチー! 何故、ルカワの味方を!」
「まあまあ落ち着けって花道。どっちの味方とかじゃねえから」
「ホントか!? 俺は被害者だぞ! キツネは頭がおかしくなったんだ!」
「マジでなんもしてねえのかよ? どうなってんだ」
「じゃあさ三井サン、こいつがまた喧嘩売りに行かねえように見ててよ。俺、流川の方にワケを聞いてくんからさ」
「あー……それ、俺が行くわ」
宮城を制して、三井が立ち上がる。
「そっか。あいつは、三井サンの方が云うこときくかもしんねえなあ」
宮城があっさり身を引いた。他意はないのだろうが宮城の台詞が意味深に聞こえ、三井は少しばかり躊躇いながら、心の動揺は表に出さずに頷いてみせた。
宮城の言葉に三井が内心動揺したのには理由がある。実のところ、三井は流川と一カ月前から内緒で付き合っていた。部員たちはもちろん誰もその事実を知らない。
もしも弟がいたらこんな気分かも──と、三井は時折思う。そう思ってしまうくらい、健全な関係だった。恋人と云い切るには若干躊躇いを覚えてしまうほど緩い付き合いだ。だから、聡い宮城の目にも仲の良い先輩と後輩の関係としか映っていないはずだ。
桜木を宮城に任せ、喧嘩の理由を聞き出そうと三井は流川を問い質したが、結局彼は恋人にすら喧嘩の理由を云わなかった。あまりの頑固さに、三井はあっけなく白旗を上げた。
流川は誰にも口を開かなかったので、宮城が上手く桜木を説得して、有耶無耶のまま自主トレはお開きになった。
用があるから先に帰るとみんなには云って、自転車置き場で三井は流川を待っていた。彼の自転車で二人乗りをしてひと気のない道を帰りながら、話しかければ返事は一応返ってくるもののいつも以上に口数の少ない運転手を、三井は家に誘ってみた。何度か泊まりに来たことがある流川は三井の母親のお気に入りだから、急に連れて帰ってもたぶん小言は云われない。
機嫌がまだ回復していないからさすがに今日は断ってくるかもしれないと思ったが、流川は「行きたい」と即答した。
流川は、三井の母親にやたらと受けが良かった。
挨拶くらいは出来るが決して愛想が良いとは云えない後輩なのでやはりこれは見た目がいいからかと最初三井は思っていたが、道を踏み外していた時に連れて来た友人たちとつい比較してのことなのかもしれないと最近思い至った。バスケット部に復帰した息子が部活の後輩を家に連れて来るなんて、文句のつけようのない健全さだ。三井としては複雑だったが、元のような生活を息子が取り戻したことが、母親にとっては一番大事なことなのだろう。
今日も、突然連れて帰った流川に母親は厭な顔を見せず歓迎し、彼は三井家の夕飯にありついた。カレー二皿とデザートの果物を残さず食べ終えると、流川の機嫌はずいぶんと回復したようだった。
その後、流川の好きなシカゴブルズが前シーズンに優勝した時の録画を三井の部屋で観戦した。試合を見ながら二人で意見を云い合ううちに、流川の態度はいつもと変わらないレベルにまで戻った。無口なことに違いはないが、機嫌の良い時の無口とそうでない時の無口は別のものだ。今ならいけるかもしれないと見て取った三井は、喧嘩の理由を彼からもう一度聞き出そうとした。すでに終わったことだったが、もはやただの好奇心だ。しかし流川はそれだけは答えなかった。信じられないほどの頑固さだ。
順番に風呂に入り、ベッドのどっち側で寝るかの話し合いがやたら長引いた辺りで、流川は半分以上寝ていた。結局はトイレに行きやすいと云う理由で三井がベッドの外側に寝ることになり、決着がついた途端に流川はベッドの壁際に納まって、身体を丸めて眠ってしまった。それでも、彼にしたらあり得ないほど頑張って起きていたようだ。
(体育館で暴れたかと思ったら、カレー食って、バスケ見て、気持ち良さそーな顔で寝やがって)
子供っぽい寝姿に、三井は深い溜息を吐いた。
眠っている時は意外と可愛い顔をした流川の横で、三井も眠気に襲われた。
虫の居所が悪いことなんて、誰にでもある。喧嘩の理由としてはよくある話だ。きっと流川もそうだったのだ。三井はそう結論付け、今日あった出来事は忘れることにして、恋人の隣で目を閉じた。 2へつづく