深夜二時。他人がいるせいか眠りが浅かった三井は、目を覚ましてトイレに立った。
部屋に戻ってベッドの中に潜り込みかけた時、人の家でも堂々と寝入る図太い後輩が寝言を呟いた。その寝言があまりにも潔く、きっぱりと云い放たれたので、三井の動きが止まる。
「なんだそりゃ……起きてんのか流川?」
寝言にしてはハッキリしていて、なおかつどうにも胡散臭い台詞だったので、三井は流川が寝たフリをしているのかと疑った。
返事は返ってこなかったし、いつの間にか仰向けで姿勢よく寝ている流川を上から見下ろしても、彼は長い睫毛を伏せたまま微動だにしない。
それでもまだ疑った三井が肩を少し揺すったところで、流川が薄く目を開けた。自分に影を落とす三井を見ても眠たげな幼い顔を向けたまま、しばらくじっと動かない。
「あ、寝てたか」
「──いま何時?」
流川が口を開いた。
三井は枕元の目覚まし時計をチェックする。
「まだ……二時ちょい過ぎだな」
「……二時? なら」
なら、なんで起こしたのか。起き抜けの顔には不満げな言葉の続きが書いてあった。この様子では寝たフリをしていたわけではなさそうだ。大事な眠りを妨げられて、声からも表情からも不機嫌さがにじみ出ている。
睡眠命の流川を無闇に起こしてしまったことを後悔して、三井はほんの少しだけその不機嫌オーラにたじろいだ。
「悪かったって」
三井は流川に手を伸ばして、癖がない素直な前髪を指で梳いた。睡眠の邪魔をした時の流川は何かが憑いたかのようにまるで別人になることを三井は知っていた。夜中に面倒な争いをしたくなかったので、先手を打って機嫌を取りにかかる。
「おまえの寝言が、なんかすごかったからさあ」
「寝言?」
「ああ。俺、起きてんのかと思ったぜ」
「『すごい』って、褒めてるほうのやつ?」
大人しく髪を触らせながら、流川は不満げだった態度を軟化させて、三井の言葉に興味を示した。三井も大概褒められるのが好きだが、流川も負けてはいない。
「そういう『すごい』じゃねえよ」
「……俺、なんて云ったんすか?」
「『なんぴとたりとも先輩を傷つける者は許さん』っつってたな。良かったよな、今が授業中とかじゃなくて」
中途半端な姿勢をやめて、三井はベッドの自分の陣地に潜り込んだ。枕に肘をついて、流川の方を向く。セミダブルのベッドを使っているが、同じぐらい大きな男がもう一人寝ているからベッドはとても狭く感じられて、流川との距離が近い。
三井が今云った言葉には、嘘はなかった。一言一句、さっき聞いた流川の寝言だ。
先輩と云うのは自分のことだろう。そう思うと、別に悪い気はしない。だけど現実的ではないというか、使い道のなさそうな台詞だよなと三井は思う。一体どんな夢を見ていたら、こんな台詞が出てくるのか。
「ぜったい、ウソ。寝ながら、んなコト云わねえ……」
もぞもぞと布団の中で姿勢を変えて、流川も三井に向き合った。
「夜中にわざわざおまえを起こして、俺がそんなウソ云うと思うか?」
「俺だって云わねーす」
流川はしつこく反論してくる。自分の云い放った言葉が恥ずかしい自覚があるのだろうか。
「云ったんだって、マジで」
「……先輩、寝ぼけたんじゃねーの」
「寝ぼけてねえよ」
「云ってない」
「おまえ覚えてないだろ、寝言なんだから! 云ったっつーの」
「云わない」
不毛なやり取りが続いて、途中でバカバカしくなった。男二人で睡眠時間を削ってまで、ムキになって話し合うことでもない。だが、バカバカしいけれど実際に寝言を聞いたのだ。それを一生懸命否定する流川に、三井は少しだけ笑えてきた。
「なんだよ、そんなに思いっきり否定することねえだろ。じゃあおまえは、俺が誰かに傷つけられそうな時に守ってくれるつもりがねーってコトな?」
「そんなわけない。……じゃあ、云った、かもしんねえ」
三井が煽ると、流川はあっさりと掌を返した。普段は表情があまり変わらない彼だが、今はその顔に不満と困惑が同居していた。
三井は本格的に噴き出しそうになり、口元を手の甲で押さえ、寸前で堪えた。バスケセンスは天才的で、みんなにはクールだと思われている男が、こんなことくらいで発言を覆したりするのが面白かった。いくら雰囲気が大人びていても、やっぱり流川は子供っぽい。
からかうのが楽しくて、三井は更に追い打ちをかける。
「あのなぁ、俺はちょっと嬉しかったんだぜ。俺って夢の中でおまえに守られてんだなーとか思って」
流川の顔の上に斜めに流れ落ちた黒髪を、三井は再び指で梳いた。この髪を流川が文句も云わず触らせる相手は、きっと数少ない。
流川が目を細めたが、三井の言葉に対しての反応なのか、髪に触られることに対するものなのか、よく分からなかった。だが、どちらでも構わない。三井と同じ香りをさせた癖のない髪を一房掴んで、三井は思いがけずそれにキスしたいなと思った。
「まぁ……あんま実用的じゃない台詞だけどな。夢だからしょーがねえけど。ってか、どんな夢見てたんだおまえ」
これ以上触っていると、歯止めが利かなくなりそうだった。相手はまだまだ子供だから、手は出せない。頭を叩いて終わりにしようかと思ったが、流川がふいに真剣な顔つきをして、布団の中から出してきた手で三井の手を取った。
流川の手は、多分バスケットボールしか追いかけたことのない手だ。長い指と、しっかり厚みのあるその掌に自分の手を包み込まれて、三井は戸惑った。その手に籠められた力強さと、ひたむきな視線。三井の知っている普段の流川とは、少し違っている。
大事な物を扱うように包んだ三井の手を、流川は自分の頬にぴたりと寄せた。
「どんな夢見たかは覚えてねーけど、夢だけじゃねえ。現実でも守る。今日だって、守った」
「──ん? 今日って、いつ?」
潔く云い放たれた言葉に引っ掛かりを覚えて三井が問い返すと、流川が眉を寄せて、明らかに「しまった」という顔をした。今握ったばかりの三井の手をあっさりと離して、視線を逸らす。
そこまで分かりやすい態度の変化を、三井は見逃したりはしない。
「もしかして、桜木とのアレか?」
「……忘れた」
「とぼけんな流川。いい加減、喧嘩の理由を吐け!」
「……先輩、もう寝ねーと」
「逃げんな」
三井は、さっきまで優しく梳いてやっていた後輩の髪に手を突っ込んで、ぐしゃぐしゃと掻き乱す。
「やっぱ、すげえ気になってきたから絶対に喋らすからな。喋るまで、ずっと横で話かけ続けて朝まで眠らせねえ」
「すごくイヤダ」
いくら明日が日曜日とはいえ、朝からのロードワークは毎日欠かせないし、部活だって午前中からある。ただでさえ趣味が寝ることである流川にとっては緩やかな拷問だ。
「イヤなら云えよ、流川」
もはや落ちたも同然だった。
深夜二時過ぎだというのに、三井の眠気はどこかへ吹っ飛んでいた。
息巻く三井とは対照的に流川は目を伏せて、そっと溜息を吐いている。三井の追及から逃れられそうにないと悟ったのだろう。ここは三井の家で、すべてが彼のテリトリーだ。そんな場所で反抗しようとしたところで、流川に出来ることなんて多くはない。この部屋から逃げだしても、流川には行くところがない。
「どあほうが──」
ゆっくりと流川が口を開いた。
「先輩のタオルを使おうとしたから、突き飛ばして殴って取り返した」
「……は?」
「ソレが喧嘩の理由す」
三井が目を丸くする。意味が分からない。
「先輩のタオルなのに、あいつが使うなんてオカシイ。俺ならともかく、あいつにそんな権利ねえ。そう思ったから」
薄闇の中からじっと三井を見つめながら、流川がようやく告白した。とても短い、犯行声明。
数時間前の、一年生同士の喧嘩の理由。元から仲が良いんだか悪いんだか分からないし、どうせ大した理由ではないだろうなと三井は薄々感じていた。
だが、まさかここまで小さな理由だったとは。
「はああっ? え、桜木を殴った理由って、そんなコトなのか?」
「そんなコト? 俺は、イヤだった。ムカついた」
「それぐらいで、怒るかフツウ? おまえ……そんなに俺のこと好きなの?」
最後の方の言葉はからかうつもりで云ったのだが、流川は心外だという顔をした。
「当たり前」
そんなふうに断言されると、逆に三井がうろたえてしまう。
「ええっと──そおか?」
「先輩の物を他の男が使うなんてありえねー。しかもあんなやつ」
天井に小さく灯る常夜灯の、その仄かなオレンジを滲ませた闇の中で、切ない気持ちが伝染してきそうな目をして流川がきっぱりと云い切った。
三井は、心の中が掻き乱された気分だった。そんな目で見つめられると、その程度の理由と云って笑うことはもう出来ない。いくら馬鹿馬鹿しくても。
「……そっか」
それだけ流川に想われているというのなら、ここは怒る場面じゃない。流川が率直にぶつけてくる気持ちは嬉しい。そうやって、少しずつ絆されてきた結果が今のこの関係だ。
バスケに対する時の彼を思えば、三井は納得してしまう。決して練習を嫌がらず、黙々と何時間でもメニューをこなす。勝負事ならばいつも手を抜かず全力だ。流川はそういうタイプだ。彼が好きなものにかける情熱には、三井も舌を巻く。
一方で、興味のないものに対する態度は酷いものだが。
「まあ……あれだ。そーいう理由なら、俺にくらいは、もっと早く教えろ。なんであんなに頑なに答えねえんだよ」
「……それが」
流川が何故か再び目をそらす。
「先輩、体育館ですげー怒ってたし。練習のジャマしたから」
「まあな……でも、理由が分かればそんなこと許したし」
あの時、自分が怒鳴ったことを三井は思い返した。
そういえば、怒鳴った拍子に流川は桜木に向かっていくのをやめたのだ。恋人の不機嫌な声にようやく我に返ったというところだろうか。闘争心剥き出しの流川を取り押さえていた木暮たちはさぞ苦労したろうな、と三井は思う。
「……先輩怒らして、素に戻った。そしたら木暮先輩が手を緩めてくれて、その時に俺の肩のタオルが落ちたんすけど──先輩見た?」
「ああ。おまえがようやく落ち着いたんだよな」
桜木を取り押さえながら、三井は流川を見ていた。
体育館の中で恋人としての言葉はかけられないから、上級生として云うべきことを云ったつもりだ。その時流川は目を見開いて、全身から力を抜いたように見えた。肩にかかっていたタオルが床に落ちて、流川はそれを拾い上げた。そして戦意を失くしたように背を向けた。
「あのタオル、どあほうを突き飛ばして取り返したタオルっす。あいつはバカだから取られたことに気付いてねーけど。でも落とした時に拾おうとしてよく見たら、似てるけど先輩のタオルじゃなかった。フシギ」
「……ん?」
「同じアディダスだけどよく見たら先輩のとロゴの色が違ってて、ホントウにどあほうのタオルだったっぽい。ヤベーと思って、あとでコソッと体育館の隅に戻してきた。だからマア、問題はねえ」
「は? ちょっ──待て。よく分かんねえ……話をどんどん先に進めんな」
三井の頭は一拍遅れでついていくのがやっとだった。あの時の状況を思い返しながら、流川の話を統合して頭の中で組み立てる。話の筋道を組み立てるのは結構得意だ。
だがまさか、と三井は思う。まさか、こんなに酷い話があるだろうか。
「ええと……、つまりこういうことか? 桜木が俺のタオルを使っていたのでおまえは腹を立てて、それを取り返して暴れた。けど、さんざん暴れた後にふと見たら、それは俺のタオルじゃないってコトに気付いた。なので喧嘩をやめて、タオルはコソッと返した──?」
「そう、ソレ」
「いや、そうソレじゃねえ──アッ、そーだよ、俺のタオルは舞台の上にずっと置いてあったぞ……フツウに最初から最後まで使ってたし」
「んなとこに置いてあったの? 俺のタオルの隣に並べて置いてあったし、アディダスだったから、間違えた」
「うわ……」
「間違いだったから、理由云いづらかったっす。俺の勘違いで練習のジャマして、スンマセンでした」
謝るところはそこなのか──? 三井は脱力して、額に手を当てた。眉間に皺を寄せて、きつく目を瞑る。
「ひでえ。濡れ衣じゃん。さすがにかわいそーだろ、桜木……」
流川の話をまとめると、桜木は無実の罪で流川に突き飛ばされた上に殴られたことになる。流川が謝るべき相手は三井ではなくて、桜木だ。
「あんなのはカワイソーじゃねー」
「おまえに良心ってもんはねーのかよ」
「先輩の練習邪魔したことだけ後悔してる」
「俺より、明日は桜木に謝っとけよ」
「あいつはいつも意味フメイなことで俺に突っかかって来るから、相殺」
「……まあ、それも確かにそーか?」
どうしたって、三井は流川寄りの判定しか下せない。
結局のところ、流川の三井に対する感情が一般的な友情だとか仲間意識だとかいった一線を越えていたために起きた出来事だ。二人の関係は複雑で、そしてそれは今更単純には戻せない。これからだってこんなことが起きる可能性はあるけれど、それが分かっていてもどうにもならないくらい一途で真摯な気持ちがあるとして──それはそんなに許されないことなのだろうか。
たとえば、もしも部のみんなが喧嘩の理由を知ったなら、流川は責められるかもしれないけれど。
重要なのは喧嘩の理由じゃない。むしろ、このバスケ馬鹿の一年生が人を好きになった事実にこそ目を向けるべきだ。
(こいつのそーいうどーしようもないとこを、許しちまうのは俺ぐらいかなぁ、やっぱ)
流川に対する評価は、出会った頃と今ではだいぶ変化した。
「──先輩」
考え込んでいたら、どこかしっかりとした声で呼ばれた。なにかの覚悟が込められているようで、三井は無言で流川と視線を合わせる。
「この先も、ずっと俺が守ってく。だから、先輩は大丈夫」
褒めて貰いたがっている子供のようだと思った。三井は苦笑する。
バスケの時の切れ味や冷静な判断力を、三井と一緒の時の流川はどこに仕舞ってくるのだろう。
「イヤってほどもう分かったよ」
だが、守るためにはもっと近くに居る必要があるんじゃないだろうか。
三井は掛け布団を少し捲って、流川と自分の距離を図った。話をするのにはちょうど良く思えた二人の間の空間は、見方を変えれば二人を隔てる邪魔なスペースだ。だんだんともどかしく思えてきたそれを無くすために、三井は流川に身体を寄せた。
そしてまず、流川の前髪の上に素早くキスをした。それから、自分の寝場所の確保にかかる。流川の首と肩の隙間に頭を収めると、見事なまでに丁度良くハマる。
「確かに、おまえの側はいいな。落ち着く」
耳を押し付けて、早くなる流川の鼓動を三井は心地好く聴いた。
無くてはならなくなった存在を、肌に直接感じたかった。流川の温もりを感じて胸の中で守られながら眠るのもいい。きっと、これからそうやって少しずつ二人の関係の形は変化していく。今は、その過程なんだろう。
流川が腕を回してきたので、三井は安心して目を閉じた。
パフュームの「Baby Face」っていう曲がすごく可愛い曲で、私的には流三ソングで、いつかこれをモチーフにしてこのタイトルで書こう……と思ってました。年下の恋人が背伸びをして頑張ってるのが可愛い、というような歌です。なので、いつも以上に流川の子供っぽさを押し出してしまいました。
年下攻っていいよね〜。いいよね〜。
大事なことなので二回云いました。