六月の反抗1
子供の頃からこの街に住んでいる。
何千回と見慣れた街並み。
それが、ペダルを漕ぐ足に人ひとり分の重さが増えただけで、今までとは違った風景になる。
赤く染まった空の色の名前を考えながら、色褪せない風景の中を自転車で疾走することは、本当は嫌いじゃなかった。
それは何故かと、理由は考えないようにしていた。後戻りが出来なくなるから。
1
六月に入ってしばらくして、雨の日が増えた。季節の移り変わりの時期だ。
県予選の途中でもあり、湿度との戦いも始まって、バスケ部の練習はいっそう厳しいものとなってきた。
流川は三井に頼まれて、雨の日を避けながら自転車で彼をときどき駅まで送ることを続けていた。もしも誰かに理由を訊かれたら、上級生に頼まれれば断れないと申し開きをするだろう。
この日は曇天で雨は降らなかったから、今日も三井を送る羽目になるだろう──流川の頭の中の隅っこにはそれをメモした付箋が貼り付けてあった。
「なあ、帰り乗せてってくれよ」
練習前の体育館で、モップ掛けをしていたらいつもの三井の台詞を背中越しに聞いた。
それが自分に向けられた言葉だと流川は疑わなかった。
けれど振り返った時、三井は流川を見ていなかった。少し離れた壁際に立っていた三井の視線は、彼の向いに立つ宮城リョータに注がれていた。二人はボールを弄びながら、向かい合って話し込んでいた。
「嫌っすよ。アヤちゃんを送ってあげるんだから」
「あいつは家近いだろーが。もう約束したのかよ?」
「うっ……それはまだだけど。誘うのって、なかなかのキンチョーが……」
彩子のことを話す時、宮城はいつでもテンションがおかしくなる。
「どうせ断られんだろ。だから、俺が乗るわ」
「なんでそーいうヤなコト云うかな……しかもなんでそう自己中かなあ」
「いいだろ、たまには」
(宮城先輩──電車通学じゃなかったか)
聞くつもりはなかったが、二人の会話は流川の耳に難なく入ってきた。
否応なく話を締めた三井は、ボールを持ってリングの下へ行ってしまった。
「先輩」
残された宮城に、流川は近付いて声をかけた。
「乗せるって、なんすか」
「ああ、三井サン? 俺、今日寝坊しちまって、原付で来たからさ」
「ああ……そーなんすか」
宮城と会話がしたかったわけではないので、訊きたいことだけを聞いて流川はすぐにその場を離れた。持っていたモップを床に叩きつけるようにして掃除を再開する。
(なら、今日は俺はイラナイ)
心の中で自分にそう云って、頭の付箋を剥がした。
三井と予め約束をしていたわけではなかった。いつもそれはそうなのだ。大抵は帰る間際に三井から寄ってきて、ほとんど断れない空気の中で、なし崩し的に送る羽目になる。流川は今まで彼の頼みを一度も断れたことがない。
今日もきっとそういう流れになるのだろうと予想していた。その予想が外れ、むしろ面倒事が減って喜ぶ場面だ。
それでも流川は、ひどく面白くない気分だった。何の恨みもないモップを、自分がいつもよりもぞんざいに扱っていると自覚していた。
「流川、そこさっき俺が拭いたけど……」
クラスメイトでもある石井に指摘されて、流川は思わず舌打ちした。
頭の中は膨大に膨れ上がっていく様々な考えと苛立ちに支配されて、どこを拭いたかどうかだなんて些細なことは、頭の隅に追いやられてしまう。
(俺は、ムカついてなんかいない)
イメージトレーニングは得意だ。
裏腹なことでも、唱えてみればそれが真実になることもある。
三井が誰に頼ろうと、流川には何も関係がない。友達でも、恋人でも、夫婦でもなんでもない。ただの先輩と後輩でしかなかった。
(……でも)
雨の日は、三井を自転車では送れない。最近は雨が多い。
今日は数少ない、雨の降らなかった日だ。
(……誰でも、いーのかよ?)
未練がましく浮かび上がる心の声が三井を非難する。目の当たりにした光景は、流川の自尊心を揺さぶって傷つけた。今まで、自分が特別に選ばれていると意識していたわけではなかったけれど。
三井の後輩をやっている自分はたまたま自転車通学で、彼にとって利用しやすかっただけだった。
それを今、改めて知っただけだ。
(……それだけ?)
他人の気持ちなんて、流川には分からない。自分の気持ちでさえ確信を持てないのに。
片隅のリングの下では、三井が流川に背中を向けていた。
穴が開いてもおかしくないほど見つめても、三井の中身は流川には透けて見えなかった。
2
「云っとくけど、ピンクのメットだからね。アヤちゃんに似合うと思って買ったのに、まだ一度も使って貰ってねえの」
「あー、そんなの何色でもいーわ、俺。わりとなんでも似合うからよ」
「あっそう……。あんたってちょっと無神経なトコあるよね」
狭い部室内でバタバタとしていれば話は筒抜けだ。
練習を終えて宮城と三井が口喧嘩をしながら一足先に部室を出ていった後、興味深々だった部員達の会話が始まった。
「宮城先輩って、普段は電車ですよね?」
「ああ、あいつはそうだよ。寝坊したらしいぞ。だから今日はたまたまバイクで来たんだろう」
木暮が答えて、じゃあ後はよろしくと安田たちと共に部室を出ていった。
部室に最後に残るのはいつだって一年生だ。
「今日は先輩を送れないね、流川」
何故か、石井が優しい口調で云った。メガネの奥の目が気遣わしげに流川を見ている。
(どあほう)
まるで流川が自分の意思で送迎していると云いたげだ。事実がどうであっても、そう云われて素直にそうだと流川が云うわけがなかった。
「結構寂しかったりして流川。はは」
桑田が笑い、流川の心に黒い炎が灯る。
彼らの会話が冗談なのは分かっていたが、面倒なので流川は乗らず、黙々と着替えをした。同級生と打ち解ける気分ではなかった。
その態度は、はたから見れば不機嫌そのものに見えただろう。
けれど、三井と宮城が二人で部室を出ていくところを見ても、流川は桑田の云うように寂しいだなんて思わなかった。ただ──。
(先輩は身勝手でジコチューでエラソーだと改めて思っただけだ。気に入らないのはソコ。それだけだ)
自分は思った以上に腹を立てているのだろうなと流川は思う。いつでも有無を云わさず流川を利用して振り回してきた、二つ上の上級生に対して。
だが、どうして三井にだけ翻弄されてしまうのか、流川は答えを深追いしない。
「お先」
とにかくもう、絶対に駅まで送ってやったりはしないと流川は決めた。いつかまた三井に頼まれたとしてもきっと断ってみせると心に誓い、手早く荷物をまとめて、部室を出た。
「……なぁ、流川アレ怒ってない?」
「すげえ怖いオーラが出てたし。やっぱなんとなく寂しいんじゃない?」
「ああいうコト云うのやめろよ、桑田は〜」
「だって、元はと云えば石井が……」
「ん? キツネがなにを怒ってるって?」
怒れる男が出て行ったのを機に、残った四人の一年生は一斉に喋り出した。 2へつづく