六月の反抗2
3 今日も蒸し暑い日だった。体育館での練習を、全員が汗だくで終えた。
整列して最後のミーティングを終えた後、ボールが汚れてきたから磨いておけと赤木に云い渡されて、一年生は思わず無言になって彼に怒鳴られた。
「一年全員でやればすぐに終わる」
二・三年生が体育館から出て行くのを見届けた後、お互いに顔を見合わせる。
「急に云われるとまいるよな。俺、今日塾なんだよね」
「俺も」
「こんな日に限って石井のヤツ休みやがってー」
「俺はハルコさんと帰宅するから残れん」
それは理由にならない、と流川以外の全員に桜木だけ突っこまれたが、彼は頑として譲らなかった。
「俺にとってこれは非常に重要な用事だ。これだけはゼッタイに譲らん!」
「本当に赤木の似てない妹と帰れんのかよ、桜木」
居残るつもりなのか、最後までリングにボールを放っていた三井が一年生の会話に参加してきた。
「よくぞ訊いてくれたなミッチー! 実は、買い物に付き合って貰うコトになっているのだ!」
おおー、というどよめきが一年生の間を走った。桜木が、赤木晴子とそんな進展を見せるとは誰も思っていなかった。
顔を赤くした桜木が、頭を掻きながら豪快な照れ笑いをした。
「まあ二人きりではないんだが。ハルコさんの友達のマスダさんとフジカワさんもついてくるらしいし」
「松井と藤井な」
「そーかもしれん」
ハアと溜息を吐いてから、三井が口を開いた。
「しょーがねえな、買い物でもどこでも行けよ。俺が代わりにやってやるから、ボール磨き」
「──ハ?」
今、三井はなんと云ったのか。その場に居る全員が少し考えた。一瞬で理解できた者は一人も居なかった。誰でもないあの三井が、雑用を自ら進んでやろうだなんて、云うわけがない。これは聞き間違いだ、と誰もが考えた。
「ミッチー……今なんて云ったんだ?」
「だから、俺が残って磨いてやるつってんだよ」
「な、なんだってー!?」
「今日は四月一日じゃありませんよ、先輩!」
「なんでそんなに驚かれてんだよ俺は」
「スイマセン! でも……」
「たまにはそーいうこともやんねーとな。桑田と佐々岡も帰っていーぜ。流川はおまえヒマだろう、ちゃんと残れよ」
「……理不尽」
あんまりな仕切り方に、流川は眼を細くして三井を睨みつける。目つきが悪いと人から恐れられることが多い流川だが、もちろん三井にはまったく通用しなかった。
「しょーがねえよな、おまえ一年だし。まさか三年の俺ひとりにやらせたりしねーよな?」
いくら理不尽でも、さすがに部活に関することを拒否は出来ない。今日のやぎ座の運勢はきっとろくでもないのだろう、と流川は抗うことを諦めた。
「先輩っ、本当にいいんですか? 助かります!」
「っていうかミッチー、ボール磨けるのか?」
「バカにするな」
さっさと帰れと云って、三井は帰宅希望者を体育館から追い出した。
帰宅希望だが帰宅出来ない流川は、深い溜息を吐いて自分の運命を受け入れた。
4
「で、どーやんだっけ? 流川」
「…………」
温い空気の体育館で、積み上がるボールを前にしても三井の様子は安穏としていた。
二人では結構時間がかかるのではないかと流川は思う。三井の労働力にはあまり期待できそうもないので、自分が上手く手抜きをしながら手早く済ませて、さっさと帰宅しようと考えた。クリーナーとワックスとウエスを用意して体育館の隅に向き合って座りこみ、早々に取り掛かる。
「クリーナーで拭いて、仕上げはワックス」
「それだけでいいんだっけか。あー、たまには自分のボールも手入れしねーとなあ」
「普段、やんねーんすか?」
「俺のボール買い直したばっかだし。そういや、こーいうことを最後にやったのは一年の時だから、それ以来か」
頭上に懐かしい記憶が展開されたかのように、三井は天井を見上げて云った。ブランクを経て部活に戻った三井はすでに最上級生だったから、雑用とは無縁だった。
「あんた……ズルい」
「まあな、確かにズルいか。でも、わりと楽しい作業じゃん」
「たまにやるから、そー云える」
流川が真面目に返すと、三井は笑った。
しばらく、黙々とボールを磨くことに専念していた。仕上げたボールがカゴの中に少しずつ溜まっていく。
「……なあ」
「なんすか」
「よく見たら、たまにうすーく『桜木』って書いてあるボールがあるな」
「そんなわけねーと思うけど……?」
「あるって。見てみ」
ボールを持って三井が立ち上がろうとした。流川は彼を見上げる。
けれど一度立ち上がった三井は、すぐにその場にしゃがみ込んだ。それは崩れ落ちたと云っても差し支えないような、唐突な動きだった。
何が起こったのか理解しないまま流川が反射的に腰を浮かせた時、膝を折って自分の体を支えた三井が、床の上に両手をついたままボソリと云う。
「ただの立ちくらみだ」
持っていたボールを放り出して、流川は立ち上がった。三井の側に寄って、膝をつく。
「先ぱ──」
「いま、目の前がぐらぐらしてっから、しばらく放っとけ」
「なんで……? 体調悪いんすか」
流川は背中に手を伸ばしかけたが、身体に触れるのは躊躇われた。本当に放っておいて欲しい場合がある。
三井の横に待機して、症状が治まるのを大人しく待つことにした。
「悪くねえよ。基本的に、元気なんだけどなあ。やっぱこれは、運動不足がたたってんだろーな」
「前から?」
「暑くなってきてから」
眩暈が治まったらしい三井がゆっくり身体を起こして、流川の隣で座り直した。
「あーあ、まいったな。練習の後になることが多いんだよ。なんか地面に真っ直ぐ立ってられなくなんのな」
「立ちくらみは……急に動かない方がイイす」
「そーだな」
「病院も行った方がイイ」
「まあな」
ただでさえ最近は湿度も高く、蒸し暑い体育館の中での練習は過酷だ。自分でさえそうであるのに、ブランクのある三井は相当苦しいはずだ。
ときどき三井が人に甘えて送迎させているのはそのせいかもしれない、と流川は思い至った。
「とりあえず、もう平気だぞ。それより、これが証拠な。見ろ」
隣に座った流川に、三井は手にしたボールを見せてきた。一瞬忘れていたが、そもそも三井は桜木の名前入りだというボールを見せようとしていたところだった。
ボールに視線を移す前に、流川は間近にある三井の横顔をまず確認した。俯いたその顔はいくらか血の気が引いて白く見え、流川は心許ない気持ちになった。
「な?『桜木』って書いてあんだろ?」
ボールの表面には、小さな文字で確かに「桜木」と書いてあった。
「……どあほうのやるコト、いちいち考えてもしょーがないす」
理解不能だ。
「まあなぁ。あいつって、ホント何考えてんだろーな」
ボールに名前書いて何がしたいんだ、と云いながら三井はそのまま流川の隣でボール磨きを再開した。殊更、桜木の名前を消してやろうと念を入れているようだった。流川も、まだ拭いていない手近なボールを拾った。
それからしばらくは黙々と作業をしたが、流川の右側の皮膚は常に三井の気配を拾い、神経が鋭敏になっていた。
自転車の後ろに三井を乗せている時も、そうだった。背後の存在感は強烈だった。背中に感じる熱は風の心地好さをいつも際立たせた。
ふと思い立ち、流川は持っていた磨きかけのボールで三井の磨いているボールを上から押さえた。否応なく、三井の手が止まった。
「先輩、今日」
しばらく黙り込んでいたので声が掠れた。流川は思い切って視線を上げて、三井と目を合わせる。流川の唐突な動きに三井は目を丸くしているが、咎められることはなく、無言で流川を見つめ返してきた。
「帰るとき」
「──あ?」
「駅まで、乗ってかないすか。うしろ」
二度と三井を送ってやらない──自分がそう決めたことを忘れたわけではなかった。それなのに、気がついたらこんな台詞を口走っていた。
普段、緊張とは無縁な流川は、少しだけそれに似たものを味わった。自分から三井を誘ったのが、初めてだったからかもしれない。そうでなければ、至近距離で目を合わせているせいか。
「ああ、いいのか? 助かる。悪いな」
「でも……自転車だから駅までしか送れない」
「いつも通りでいーよ。駅までで十分だぜ」
「原付じゃねーからスピードも遅いけど、それでもイイすか?」
「速さには期待してねえ。……ってえか、おまえなんかやけくそで云ってねえ?」
「別に、そんなんじゃねーけど。でも、今の俺には、それしか出来ないから」
流川にしては珍しく、言葉が次から次へと溢れ出した。
それは、決壊した、というのが正しいのかもしれなかった。意識の下に溜め込んでいた思いが、突然自由に動き出したみたいだった。
呆れた色を含んだ目で三井に凝視されたが、流川は意地になって目を逸らさなかった。
まるで自暴自棄だ。自分でも滑稽だなと思う。それでも、どうしても止めることが出来なかった。
「オイ。絶対なんかおかしーだろ流川。どーした?」
「……自分でもよく分かんねえ」
心をコントロールすることが不可能に陥ったら、身体の動きも抑えきれなくなった。
ボールを脇に除けた流川は、床に手をついて腰を浮かせると、三井に身体を寄せた。一気に距離が縮まって、驚いたように三井が目を瞬かせる。
不思議な引力が、流川を動かしていた。引き寄せられたのは、お互いにいつまでも目をそらさないでいたせいだ、と自分自身への云い訳を考える。
ピントが合わなくなるほど近づいて、三井の目前で斜めに顔を傾けた。
もしかすると三井には、何か疑問を感じた流川が彼の顔を覗き込んだように見えただけかもしれない。
息が直接かかる距離で流川はそのまま動きを止めて、三秒ほど三井に猶予を与えた。
けれど三井にとってそれは、短すぎただろう。
流川の時間はきっかけもなく動き出した。三井の唇に、流川は自分の薄い唇を触れさせた。ほんの一瞬だけ、存在を知らしめるように柔らかく触れる。
いつまでも留まることはせず、三井の瞬き一つの間に流川は唇を離した。ゆっくりと、元の位置へ身体を戻していく。その間、見開かれた三井の目から流川はずっと視線を逸らさなかった。滅多に見られない三井の表情を見ないことは勿体ないと思ったのだ。
「……なんだ?」
唖然として固まった三井が、流川に説明を求めた。それはそうなるだろうな、と流川も思う。
けれど、突発的なキスの理由なんて深く考えるまでもない。
流川は本能に身を任せて行動した。そして、自分を突き動かす単純な構造を理解した。正確には、本当は前から分かっていたことだけれど、見えないフリをしていたことを頭が受け入れた。
「今のどういうやつだよ……?」
三井の漠然とした質問に、流川は漠然とした答えを考えた。
「なんか、腹が立ったから」
「はあ!? ナニにだよ。おまえは、腹が立つと人にキスすんのかよ!?」
「だって、全部先輩のせいなんで」
「わかんねえ……体張った冗談か?」
「三秒くれーあげたけど、避けなかったっすね」
「さっきの変な間のことかよ? ふざけんな、おまえがなんか喋り出すんだと思って、待ってたんだっつーの!」
戸惑いを隠せず喚く三井を見て心が満たされた流川は、さっさと作業を再開して残りのボールに手を付けた。優位に立ったのは自分の方だと感じながら。
今のキスは、いつもの冷静で落ち着いた心を取り戻すための儀式だ。心のコントロールを取り戻したら、鬱陶しい感覚が頭から消え失せて身体の中まで軽くなった気がした。今なら、いくらでもボールを磨けそうな気さえする。
「……おまえ、生意気」
言葉とは裏腹に、三井はそれほど怒っていない。流川はそう感じた。
「どういうつもりか、帰りにきっちり説明してもらうからな」
ぽつりと云う三井の言葉に反応して、流川は片眉を上げた。
自分を誤魔化すための呪文はもう効かない。 おわり
桜木の名前入りボールの事、覚えてますか……。
6月ならもうとっくに消えてるだろーけども、まれに読み取れるのが残ってるかもですよ……