恋をする人
帰りの学活はいつになくすんなりと終わった。
晴子は友人との挨拶を簡単に済ませて、真っ直ぐに部室棟へと移動した。男子部の女子マネージャーが共同で使っている女子更衣室で手早くジャージに着替え、部屋を出る。二部屋を挟んだ男子バスケット部の扉は閉ざされていたが、少し離れた廊下の先に、見知った長身の後ろ姿があった。まだ部室から出てきたばかりであろうその背中に、晴子は声をかける。
「流川くん!」
晴子が小走りに駆け寄ると、右手にバッシュの入ったケースを持ち、黒いTシャツに短パン姿の流川が足を止めて振り返った。特に用事があって呼び止めたわけではなかったが、今日は朝練もなく、流川の顔を見るのは昨日の部活以来だったので、嬉しくなってつい大声を出してしまった。
だが喜びもつかの間、自分の声に振り返った流川の顔を見て、安易に声をかけたことを晴子は後悔した。切れ長の目を少し細めた流川は無言のまま、晴子に真っ直ぐな視線を落としている。
(あっ、どうしよう……)
声をかけたは良いが続く言葉が思いつかず、不自然な沈黙を作ってしまい焦る。
今日の天気の話、部活のこと、週末に予定が入っている他校との練習試合のこと、桜木花道とやりとりしている手紙の内容について──話す事柄ならいくらでもあるはずなのに、流川を前にすると頭が回らなくなる。
流川には、中学時代からずっと憧れていた。声をかける機会すらなかった相手とこうして近い距離で向かい合えば、どうしたって平静ではいられなくなるのだ。いまだに胸から消えない流川に対する気持ちが、この沈黙を更に深めてしまう。
いつも通り自然に、と思うほどに不自然に血が巡って赤くなった顔は、誤魔化しようがない。だが、もともと寡黙な流川はなにを云うでもなく晴子を見下ろしている。呼び止めたからにはなにか用事があるのだろうと固く信じているのか、晴子の口が開くのをじっと待っている様子は、いつになく辛抱強いといってもよかった。
インターハイの後、晴子はマネージャーとしてバスケ部に遅れて入部した。それ以降、流川の晴子に対する態度はずっと柔らかくなったように思う。晴子を仲間として認識してくれた、というのが一番近いような気がしている。入学当初の頃には考えられない距離感だ。
急かすでもなくただ待っている流川の視線を受けているうちに、晴子は平静を取り戻した。そうして落ち着いてみれば、流川とこうして二人きりなことが奇跡的だと思えた。こんな機会はそうそうないので、おろおろすることに時間を費やしては勿体ない。いつもなら、たいてい誰か他の一年生部員が近くにいる。
「今日は石井くん一緒じゃないんだ?」
ようやく言葉を見つけた晴子に、流川は「委員会」と一言で返してきた。同じクラスの石井と流川は部活に来るときは大体一緒にいるように思う。
「そうなの、じゃあ遅れてくるんだね。桑田くんたちは?」
「まだ見てねー」
「じゃあ、今日は他のクラス終わるの遅いのかな。彩子さんはもう体育館みたい、いつものロッカーが埋まってたから」
他愛のない会話を続けながら、どちらともなく歩き出し、階段を降りる。
「そういえば、明日は練習休みだね」
明日は体育館をバレー部に取られて使えない上に、屋外コートのフェンス工事が行われるため、外練も休みになった。朝練はあるが、放課後は久しぶりに練習がない。流川は驚いたような顔を晴子に向けたあと、「そーいえば」と答えた。忘れていたのかもしれない。
「流川くんて、部活のない日はなにしてるの? 遊びに出かけたりとかする?」
「バスケしてる」
「ふふっ──やっぱり。うちのお兄ちゃんと同じだね」
即答する流川が面白くて、晴子は笑いを堪えられなかった。流川はそのことに怒る様子もなく、居心地の良い空気が晴子の周りを包んでいる。
隣の校舎から漏れてくる吹奏楽部のチューニングの音も、いつもよりずっと心地好く聴こえるようだった。平和な日常の場面の中に自分と流川が二人きりでいることが、なんだか夢の中の出来事のようだ。
(……嬉しい)
流川が隣を歩く足音や衣擦れの音さえも妙に意識してしまう。喜びに舞い上がってしまっていることは、十分に自覚している。
夏が始まる頃、あまりにも見込みのない恋が辛くて、一度はこの気持ちを捨てようかと思った。けれど結局、いまだに手放してはいない。それどころか、こうして流川と一緒にいるだけで、抑え込もうとしていた想いが指の隙間から溢れそうになる。
行き場のない気持ちが焦燥に変わり、晴子は足を止めた。
「──流川くん、あのね」
晴子は足の先を見つめていた。晴子の声に、流川が歩みを止めたのは視界の中に入っていた。抱えている胸の内を、いっそもう伝えてしまいたい。まだ流川に伝えたことのない大切な言葉が、晴子の頭の中に溢れ出していた。
「中学の頃、私、流川くんの出てる試合見たことがあるんだ。同じ学年でこんな人がいるなんてって、すごく感動したの。その時から、ずっと私、流川くんのプレーを──」
いよいよ核心に近づいて、晴子は勇気を出して視線を上げたが、肝心の流川は顔を横に向けていて、晴子のことを見てはいなかった。
流川の視線の先を、晴子も追った。
「──あ、三井さん」
流川の視線の行き先が分かった。少し離れた廊下の突き当りに、昇降口から入ってきたばかりの三井がいた。制服姿で、脱いだ靴を端に寄せているところだった。スポーツバッグを逆手に持ち、肩にかけている。夏に引退せず、バスケ部に唯一残っている三年生だ。
「先に行って」
突然流川にぼそりと云われて、晴子は返事をする暇もなかった。流川は晴子を残して三井の方へもう歩き出していた。
三井も同じくこちらに歩き始めていて、流川と晴子に気づいた様子を見せた。晴子は向けられた視線に対して挨拶代わりに会釈をした。
三井の元まで歩み寄った流川は、短い挨拶を交わした後、「明日、午後の練習ないって、知ってる?」といきなり三井に尋ねている。足を止めた三井が、眉を顰めるようにして流川を見上げた。
「知ってるもなにも、一週間も前から宮城が云ってたろーが」
晴子の元までかすかに聞こえてくる会話からは、三井の呆れた様子が見て取れた。
「明日、どっかで相手して欲しーんすけど。バスケ」
「おせーんだよ、云ってくんの。どーすっかな〜、他にも誘われたんだよな〜」
「……ソコを、ナントカ」
どこか拗ねたような三井の態度が晴子は羨ましく、こちらに向けられた流川の背中は冷たい壁のように感じられ、何故だか悲しくなった。晴子は二人の姿をそっと視界から外し、踵を返してパタパタと体育館まで走る。
自分も男だったなら、あの輪に入れたんだろうか──? 脳裏をよぎった疑問に、晴子は心の中で首を横に振った。
恋をする人