彩度の落ちた視界の中であっても、その視線はやっぱり特別だった。
体育館に練習を見に来た三井の視線を、流川は強く意識する。
もっと、ずっと、こっちを見ていて欲しい。そうしたら、いつも以上に高く飛べる気がする。
自分のプレーであの視線を惹きつけておきたいのに、意志とは裏腹に、今はそれに集中できているとは云い難いのが口惜しい。
石井からのパスを受けてボールを手にした流川は、自由にならない重い身体でディフェンスを交わして飛んだ。ボールは理想通りにリングをくぐり抜けたが、高くは飛べなかった。
振り返って視線を泳がせると、期待通りにまだ三井はこちらを見ていたが、彼は彩子の傍らにいた。耳元になにかを囁くような仕草で彼女に寄り添いながら、それでもその視線だけは、流川の方へと確かに向けられている。
彩子がホイッスルを吹き、練習の流れが止まった。休める、と思いながら流川は荒い呼吸を繰り返した。
「流川、アンタ大丈夫なの?」
流川の元に彩子が走り寄ってきた。大丈夫の意味が分からず流川はぼんやりと彩子を見下ろした。
「本人に訊いても無駄だろ」
彩子の背後にジャージ姿の三井が付いて来ていた。先月、部を引退したばかりなのに、体育館に立ち寄ってはヤジを飛ばしたり指導をしたりと、バスケとは縁が切れない男。あれだけ遠回りをしていたくせにスカウトで東京の大学にあっさりと進学が決まっている運の強い男でもある。
「こいつはバスケ馬鹿だからな」
いつになく真面目な顔をした三井が、不意にこちらに向かって手を伸ばした。冷たい手の甲が、流川の頬に触れた。
「あー、やっぱ熱いな。風邪か?」
練習に参加せずに外野ぶって見学しているだけの三井の手は、今の流川にとって心地良い温度だった。
「どれどれ」
彩子までが、流川の顔を両側から手のひらで挟む。
「って熱いじゃない! 少し顔が赤いような気はしてたんだけど、動けてるから違和感なかったわ」
彩子が呆れたように云う。
「先輩、よく気づいたわねー。自己申告してくれないから困っちゃうのよねうちの部員たちは」
感心するように云う彩子の顔を流川は認識するが、会話の内容は頭に入ってこない。
「ほら、今日は終わりだ、帰るぞ流川」
三井に手首を掴まれたことを、流川はふわふわした頭で認識した。帰る? 誰がどこに?
そのまま引っ張られ、コートの隅に数歩分連れていかれた。彩子がまたホイッスルを吹き、止まっていた練習が流川を除いて再開したようだ。
「……センパイ、来たばっか……まだ、かえらないでほしース……」
全身が熱に蝕まれ節々が悲鳴を上げている中、流川は三井に頼んだ。
朝からずっと、熱はあったのだが、流川は部活を休みたくなかった。
今日、三井が部活に顔を出すことを流川は知っていた。宮城が彩子に話していたのをたまたま耳にしたのだ。
流川が学校を休まなかったのは、三井に会いたかったという、ただそれだけだ。
「……確かに大丈夫じゃないわね。家に帰るのはアンタよ」
彩子の穏やかな声音が耳の奥に優しい。だが、三井がここにいるのに自分が帰るのなら、流川にとって結果は同じことだった。
「……まだやれる。かえらねー」
早退なんかしたくない。ここでバスケをしていれば、三井に自分を見ていてもらえるから。
引退した三井と顔を合わせる機会は少ない。気まぐれに部活に顔を出す時などという、なんの保障もない数少ない時間を無駄にしたくない。
「俺から見ればおめーはフラフラなんだよ。今日は休め」
三井の手が肩口に置かれる。その手を意識しながら、そっちこそいつもフラフラで試合に出てたくせに、と心の中で思う。懐かしい日々を思い出して、流川は閉ざした唇を噛んだ。まだ鮮やかに思い出せるのに、すべてが過去になっていく。部活を引退したいま、次に待っているのは卒業だ。そのことに、思考は自然と繋がってしまう。
不平不満を三井本人に伝えたい衝動が湧き起こるが、それをぶつけるのは子供の駄々と同じことだと分かっているので、流川はそれを抑えた。どうせ熱のせいで頭も回らないのだから、口を開けばろくなことを云わないに決まっている。
まとわりつく思考を振り払うように強く目を瞑りもう一度開けたら、目の前がぐらりと揺れ身体が傾いた。それを支えてくれたのは三井だ。流川は遠慮なく寄りかかった。
「こいつ俺に任せていいぜ」
三井の声は彩子に向けられている。
「頼めます? 良かった、今日は先輩がいて。しかももう進路ばっちり決まってるんだから、先輩なら風邪うつされてもセーフね」
「セーフって、おまえな」
「流川くん大丈夫? 水分摂って」
どこからか赤木晴子がやってきて青いボトルを差し出した。それをサンキューと云って受け取ったのは三井だった。
「ワリィけど、タオル適当に濡らしてきてくれるか?」
晴子にそう指示を出したあと、三井は「おら、一旦そこ座れ」と流川に向き合った。口は悪いが声音は穏やかだ。
体重を半分預けたまま、壁に背中を付けて流川は床に座り込んだ。履いているバッシュが邪魔で脱ぎたかったが、それに使う体力が惜しいと感じてそのままにした。
「ほら、口開けろ口」
流川の前に三井がしゃがみ込んだ。こんな角度で三井を見るのは初めてのような気がする。
「まったく、熱あるかくらい自分で判ってるだろ。そんな状態で部活したいなんて、やっぱ相当のバスケ馬鹿だよな」
それは違う、と流川は心の中で否定しながら素直に口を開け、三井の手でボトルを飲ませて貰った。中身はスポーツドリンクで、いまの流川がもっとも欲している飲み物だった。
「頭痛いとか咳出るとかあるか?」
「……ねーと思う」
「じゃあ、喉痛えとかは?」
「……のど、すこしヘン」
喉の粘膜に違和感はある。
「なら、やっぱ風邪かもな。最近流行ってるし」
こんな流行りに乗りたくなかった。
「なあ、おまえんちさ、いま俺が電話したら親迎えに来れそうか?」
片膝をついた三井が、流川の顔を覗き込む。
「……いま、いねえ、だれも」
朦朧とした頭で流川が答えると、三井は「そっか……じゃあやっぱ俺が連れてくしかねーよな」と呟いた。
「お邪魔します……って、ホントに誰もいねえのか? 勝手に入るけどいいよな」
三井は家の中までついてきてくれた。云われるままに流川は手洗いうがいを済ませ、三井をとりあえずリビングに案内した。
ここまで、三井の運転する自転車に二人乗りでなんとか帰宅した。流川は三井の腰に腕を回すように云われ、戸惑いつつもしっかりと掴まるしかなかった。以前、居残り練習のあとに何度か寄る機会があったので、道案内の必要はなかった。
「冷えピタ貼ってソファに横んなってろ。出来れば毛布とか掛けとけ。俺さっきの温めてくるから」
最初にリビングへ入ってすぐ、常備薬を探した。薬の在り処は把握していたのですぐに見つかった。いつもの風邪薬と共に冷えピタも発掘した流川に、ついでに食べる物も探せと三井は云いつけた。三井の腹が減っているわけではなく、薬を飲む前になにか腹に入れたほうがいいということらしかった。食欲はないが、戸棚を漁ったらレトルト粥を見つけた。
三井が台所に戻りそれを温めている間に、流川はソファに仰向けで横になった。さっき体育館でバスケしてきたのが嘘のようで、一度横になったらもう、二度と立てる気がしなかった。身体は深刻に休息を求めていたのだ。
「こら、俺が云ったことやってねーじゃねーか」
薄目を開けると、いつの間にか戻ってきた三井が傍らに立っていた。少しの間、眠っていたのかもしれない。三井は左手に小ぶりの丼を持ち、右手にはペットボトルのスポーツ飲料を持っていた。これは、帰る途中に自販機で買ったものだ。
食欲よりも眠気が勝り再び目を瞑ると、三井がそばで動いた気配を感じた。腕ごと抱えるように上半身を起こされ、背中にクッションが押し込まれる。三井は膝立ちで、浮かない顔をしてこちらを見下ろしている
「少し食えるか? そのあと薬飲んだら自分のベッドで寝ろよ。あと、冷えピタはもういーや、タオルのが良いぜ」
伸びてきた手が流川の前髪をさらりと掬う。あらわになったおでこに、濡れた生地が押し付けられる。
「……気持ちイイ」
「だろ?」
「センパイ」
「おう?」
それはタオルではなく台所用の布巾だと柄で分かったが、訂正するよりももっと重要なことを伝えたくて、流川は三井のジャージの袖口を掴んだ。
「まだ……かえらないで」
三井に風邪は移したくないし、自分はもう幼い子供ではなく、熱があっても、一人でいることも平気なはずなのに、今はどうしてもわがままを云いたかった。
「……それ何回云う気なんだよ。もうわかったから、さっさと食え。早く口あーんしろバカ」
スプーンを右手に持ち三井が迫ってくる。熱があるのは流川なのだが、三井の頬までが何故か赤かった。
おわり
いつもみたいに高く飛べない流川とか見たら、三井は胸がキューっとしちゃうと思う。