空蝉、夏蝉
七月六日、火曜日
「なんかアレ、ミョーにこっち見てますよ、三井サン」「はあ?」
バッシュの紐を緩めていた手を止めて、三井は顔を上げた。体育館の舞台にあがって座り込んでいた三井は、隣に座った宮城が「あれあれ」と云って顎をしゃくる先へと目を向ける。誘導された視線の先には、ボールを脇に抱えた流川がいた。ゴール下に突っ立って、何故かこちらを見据えている。
「あ、こっち来る」
不意に流川が歩き出し、舞台に向かってくる。舞台の上では、三井と宮城が二人で並んで休憩している他、隅の方で一・二年生の数人が倒れ込んで荒い息を吐いていたが、どうやら流川が目指す先は三井たちであるようだ。
もっと正確に云えば、彼の視線は明らかに三井にだけ注がれていた。長い睫毛に縁取られた目から発せられる眼光に無言の圧を感じて、三井は思わず数センチほど身を引いてしまった。
「先輩──」
舞台の下で立ち止まった流川が脇に抱えていたボールをすっと差し出したのを目にした瞬間に、三井は流川の意図を察した。
「うっ、マジか……」
向けられる強いまなざしに、三井は既視感があった。このやりとりは、初めてではない。昨日のことなので、忘れるはずもない。
「また、相手して欲しいんすけど」
「またかよ……おまえってやつはどーして、俺が疲れ切ってるところにそういうことを云ってくんだよ」
これは流川からのワンオンワンの誘いだ。
「練習の後しか時間空いてねー」
「そんなに俺に負けたのが悔しかったのかあ?」
三井が揶揄すると、流川はムッとしたように口を窄める。
「あんな形の勝ち逃げはズリぃ──」
「あんだと?」
「イヤ……先輩に勝たねーと先に進めねーから」
「先ってなんだよ。ってか、勝つ気満々かよ。目が真剣すぎだろ」
「ふざけてた方がいいんすか?」
「んだよ偉そうに」
「……相手、オネガイします」
いかにも云い慣れてなさそうな流川の台詞を耳にしながら、三井は天井を仰いた。
昨日の練習の後、流川に頼まれて初めて一対一をやった。エースがどちらかハッキリさせる良い機会かと意気込んで受けて立ったのは良いが、実際にやってみれば、圧倒的に一年生離れした流川の技術や気迫、バスケセンスを思い知らされる結果になった。辛うじて勝って三年としての面目は保ったつもりだが、少し変則的な勝ち方をしたせいでズルだの汚いだのと散々周りに云われる羽目になったので、ズルいという言葉には敏感に反応してしまう。
ギリギリの攻防は精神を削り、ギャラリーの前では二度と流川とワンオンワンをしない、と密かに心に誓った三井だが、そんな内心の葛藤は決して表には出したくない。
隣には宮城がいるし、他の後輩たちもどうやら聞き耳を立てている。ここで断ったら、逃げたと思われるに決まっている。
「……しょうがねーな。これ直すから、ちょっと待ってろ」
三井は脱ぎかけていたバッシュを見せるように足を上げて流川に示す。
それに頷く流川の表情はほんの少しほぐれていた。
二つ下の後輩の体力を羨ましく思いながら、三井は緩めたバッシュの紐の調整を始める──少しだけ上機嫌で。
昨日は最初で最後のつもりでやったワンオンワンがまさか今後もずっと続くことになるなんて、この時は思いもしなかった。
七月十四日、水曜日 「そーかあれか」と三井は思わず口にしていた。隣を走る宮城が(は?)という顔をしてこちらを窺った。部活の締めである校庭のランニング走の途中、宮城にだけ聞こえるように三井は声を落として身体を寄せる。
「俺、ヤツがなにかに似てると思って、最近ずっとモヤモヤしてたんだよな。やっと判ったぜ、アイツ、ジョンにそっくりなんだよ」
「なにが誰にって?」
「流川だよ」
「流川ぁ? ジョンて誰でしたっけ? NBAの?」
「ちがう。ウチの近所に昔いた犬のジョン」
ぶふっと宮城が吹き出した。それからすぐに振り返って、後方を走っている流川を見て再び笑う。見んなよ、と三井は窘めたが、そのあと自分でも笑った。
「なんで流川がその犬に似てるわけ?」
興味を持ったらしい宮城は、三井の意図を察して声を落とし、聞こえやすいように顔を寄せてくる。
「ジョンって、俺が小学生の頃によく近所の家の庭に放し飼いされてたデカい犬でさ。腹減ってねえかと思って、一回ソイツに家から持ってきたクッキーやったんだよ、柵の間から」
三井は沸き起こる笑いの衝動を堪えながら説明する。
「へー、三井サンも犬には優しいんすね」
「犬には、は余計なんだよ。ま、小学生だったし。でさ、一回やったらジョンのヤツ、俺が朝学校行くんで庭の前通るたびにハアハアしながら走って柵の前にくるんだよな。俺がクッキーやったこと覚えてて、こっちが持ってなくても必ず走ってきて、ひっくり返って腹見せてさ、可愛い仕草をしてくるわけ。もう毎日それ」
「クッキーよっぽど美味かったんすね」
宮城が笑う。食い意地の張ったジョンの健気な姿を脳裏に思い出すと、三井の頬も自然と弛んでしまう。
「でもそれと流川とどう繋がんの?」
「だってさあ、アイツ、絶対今日もボール持って俺のとこ来るぜ」
最近ずっと、流川と練習の後に残って一対一をしている。期末テストで練習がなかった数日間を除き、そういう習慣が出来つつある。別に約束しているわけではなく、毎回律義に流川は三井のところへやってきては、相手して欲しいとボールを差し出してくるのだった。そうして門が閉まるギリギリの時間まで、三井は残った体力を全部使って流川の相手をすることになるのだ。
勝敗に関してはもう、日によってまちまちなので、後輩になんて負けられない、という気持ちはとっくに捨てた。
「三井サンさあ、迷惑してんなら断ったらいいのに」
「え?」
宮城の言葉に三井の思考が一瞬停止した。迷惑だとは、考えていなかった。むしろ素直に楽しい。今日はどんな勝負になるのか、と考えるだけで気持ちが昂る。そのことを脳内で確認する作業を一瞬で済ませてから、自分自身のその考えに三井は驚いていた。
疲れてるんだけど、と思いこそすれ、差し出されたボールを拒否するなんて選択肢は、三井の中にはなかった。他人に云われて、初めてその選択肢を想像してみるが、何故か選ぶ気にはなれない。
「……別に、迷惑ってほどじゃあねえけど──」
そう答えながら自分でも腑に落ちない。考えてみれば、毎日あの負けず嫌いの男の相手をするなんてどう考えても迷惑な話だ。宮城じゃなくてもそう思うだろう。あの桜木ですら、一回相手をして貰い懲りたのだから。
ランニングは二周目で、校庭のコーナーに差し掛かっている。後方へ少し視線をずらすと、砂埃の中、最後尾を走る一年生の固まりの中に流川の姿があった。たったいま雑談のネタにされているだなんて、彼は知る由もないだろう。
流川とのワンオンワンは、正直に云えば体力的にはきつかった。だが、それだけに価値があると三井は思う。自分が彼の誘いを断らない主たる理由はそれである気はした。バスケットの技術を上げる練習相手として不足はないし、流川の相手に選ばれることを、どちらかと云えば誇らしく感じてすらいた。口では仕方なく相手をしている風をつい装ってしまうが、それは三井の性格に因るものだ。蓄積された疲労が残っていたとしても、流川と向かい合えば三井は集中力を取り戻し、対戦を存分に楽しむことが出来た。手合わせしても退屈な相手はいるが、流川はその点での心配はないし、たぶん、向こうも三井に対してそう感じている。そうでなければ、こう何度も流川から誘って来るはずがない。つまりは、口に出して褒め合うようなことはなくとも、お互いに相手を認め合っているということだ。
「まあ、アイツが飽きるまでは付き合ってやるよ」
二つも後輩の流川に請われて良い気分になっているなんて思われたら恥だと、素直な物言いは出来ない。
「あ、そうなの? ならいいんだけどさ、俺も一昨日ちょっとだけ流川に頼んでやってみたじゃん? 短時間でもスゲーしんどかったからね。 三井サンなんて俺よりもっと体力ねえから、結構困ってるのかと思ってたんで」
「うるせっ」
宮城の背中を三井はグーで小突いた。
「あれ? じゃあ、つまり結局この話ってサ、三井サン的に流川が可愛いって話なの?」
「は? ちが……なんでそーなるんだよっ」
宮城の認識が激しく間違っていることに驚き、三井は慌てて否定する。
「だって似てるんでしょ、ジョンと。腹出しポーズが可愛いとかって、アンタさっき云ってたでしょーが」
「はああ!? おま──それとこれとは別だろうが!」
思わず声が大きくなる。ジョンの姿が、一瞬脳内を駆けた。三井の元へ走り寄り、クッキー一枚のために腹を見せて、それはそれは健気な姿だ。そこに、ボールを差し出す流川がついうっかりと重なる。
三井は目を瞑ってぶるぶると頭を振り、想像を追い出す。
(可愛い? 流川が? それはねえだろ……さすがに。あんなデカい、不愛想で生意気な男がなんで。いや、ジョンはデカくても可愛かったけどよぉ)
結局、小学生の三井はあれから時々クッキーを持ち歩いた。飼い主に見つからないようにこっそりと食べさせた記憶がしっかりと残っている。
ジョンはそれから数年後に見かけなくなった。三井も、中学にあがってからは時間のない生活を送ることになったので、ジョンの記憶はそこまでだ。
「先輩」
「うおっ! なんだよ」
絞ったら汗が滴るであろうTシャツの袖口を突然背後から引っ張られて、三井は飛び上がりそうなほど驚き振り返った。子供時代の記憶を呼び出していたら、いつの間にか、最後尾にいたはずの流川が真後ろを走っている。
「うるせーぞ三井!」
「あーへいへい」
驚いた声が大きすぎて、少し離れた最前列を走っている赤木に怒られ、三井は口を尖らせる。
「おめーが驚かすから怒られただろうが」
ざまぁと笑う宮城は無視して、三井はもう一度背後を振り返り、流川に責任を擦り付ける。
「っていうか、なんか用かよ」
最後尾の輪から外れてやって来たくらいだ。なにかしらの用が自分にあるのだろう、と三井は推察した。
「……先輩、このあと、時間あるんすか」
「え」
三井は拍子抜けした。これはいつものワンオンワンの確認だ。いつもなら練習解散後に寄ってくるので、今日は少しばかり変則的だ。
三井が即答しなかったせいか、流川は走る速度を上げて、三井と宮城の間に割って入ってきた。
「またワンオンワンの、相手して欲しい」
分かり切っていることを、念を押すように流川が云う。
「おまえって奴は……わざわざここまで云いに来なくても分かってるよ。その代わり、今日も駅までチャリで送れよ」
三井が承諾すると、流川は無言で頷いた。こうして約束したからといって、別に流川が嬉しそうな顔をするわけでもない。それでも、わざわざ自分から誘いに来ているのだから多分喜んではいるのだろう。表情はほとんど変わらないのに、ジョンの話をした後だからか、見えない尻尾を振られているような気がしてきてしまう。
「さすがジョンだね、クッキーの威力」
笑いを堪えるように宮城が云った。流川には当然通じなかったが、気にも留めなかったのか、特にこちらに尋ねてくるようなことはなかった。用事が済んでも、そのまま三井と宮城の間に彼は居座っていて、元の場所に戻る気はなさそうだ。
三井の頭にはまだ、さっきの宮城の勘違いが引っかかっている。三井としては、流川がジョンと似ているとは云ったが、同じように可愛いと云いたかったわけではないのだ。
(こいつは生意気だし、無口でふてぶてしくて何考えてっかよくわかんねーし、俺よりもバスケが上手くてむかつくし、ジョンみてーに可愛いわけがねーよな。……だよな?)
断じてそれは違う、と心の中で否定しながら、やっぱりどこか似ていると、相反する感情が湧く。
そもそも、どうして流川は対戦相手が欲しいのだろう、と不意に根本的な疑問が湧いてくる。元々は、流川はいつも一人で練習をしていた。一人でいることが好きなタイプなのだろうと思っていた。なのに、何故だろう。
持っていたクッキーはもう、全部あげてしまったのに。
少しは容赦しろよなぁ、と思ったのは流川に対してだけではなかった。
扉という扉をすべて開け放っていても体育館の中は蒸し風呂のようだった。三井は外塀に面した扉の前に仰向けに寝転び半分ほど見えている藍色の空を見上げながら、ほとんどムキになっているのではないかと思うような蝉の大合唱を聞いていた。
最近になって大量に脱皮を果たした蝉達は、メスへ向けた自己アピールに必死だ。夜になって少しだけその勢いは落ち着いたものの、彼らが完全に息を潜める様子はない。
(容赦とか、遠慮とかとは、無縁の奴らだよなぁ……誰かみてーだな)
人の神経をじりじりと追い詰めて駄目にしていくような鳴き声の中で、床の冷たさになるべく意識を向けようと三井は努力する。
暑さと疲労で身体が動くことを拒否し、頭があまり働かない。三井は目を瞑って、たまに吹く微かな風が皮膚に当たる心地好さに浸り、濡れたTシャツの不快さも忘れて、抜け殻のように空っぽになっていくのをじっと待つ。
このまま目を閉じていたらそのうち眠ってしまいそうだった。すでに何度も意識が遠退きかけている。今日の三井寿はもう終了、と何度か意識を飛ばしていたが、にわかに額に押し付けられた冷たい物体のおかげで目が冴えた。
「あー……気持ちイイ」
自販機から出てきたばかりのペットボトルの冷たさに三井は頬を緩める。定番のスポーツドリンクの青いパッケージ。
「サンキュ」
見下ろす流川の手からペットボトルを受け取って、三井は仰向けのまま冷たいボトルを頬に当てて再び目を瞑る。流川との対戦勝負で限界まで酷使した身体はまだ火照っていた。今日も完全な三井の敗北だ。
「……飲まねーの?」
「……起き上がれねんだよ」
「なら寝てて」
「俺を置いて帰る気じゃねえよな」
もう体育館には流川と三井以外誰も残っていない。置いていかれたら一人ぼっちだ。
「送っていく約束でしょ」
流川にしてはずいぶんと優しい台詞を吐くんだなと感じ、三井は瞼を押し上げて、隣に座る後輩を視界に入れる。彼は三井にくれたものとは別の種類のスポーツドリンクを傾けて飲んでいた。ごくごくと嚥下するたびに喉仏が動き、皮膚の下の筋肉がくっきりと顕わになる。その動きに合わせて、汗が流れる。
「蝉、うるせーけど寝れるんすか?」
一息吐いた流川がこちらを向いたので、三井はついと目を逸らす。
「疲れてっからいけそう。さっき蚊も飛んでたけど、殺す気力もねえよ」
どこか刺されるかもしれない、と思いながら、追い払う気力もなかった。とりあえず、まだどこも痒くはなっていない。
「扉、閉める?」
「まだ、いい。アチぃ。風欲しい」
風を得る代償は蝉の声と蚊くらいのもので、今はまだこの風に当たっていたかった。
流川は三井の隣に座ったまま、戸外に顔を向けている。時々吹く良い風が汗に濡れそぼった流川の髪を揺らすのを、三井は眺めていた。
「なあ、おまえさ」
しばらくそうして風に当たってから、三井はペットボトルを額に当て直し、口を開いた。
「もうとっくに俺に勝ったのに、まだ挑んでくるのって、なんで?」
初めての対戦では三井が勝ったが、次からはそうはいかず、今はもう流川が勝ち越している。いくらお互いに力を認め合っているからといっても、とっくに三井を捻じ伏せた後でもこうして毎日相手をしろと頼みに来るなんて考えてみれば奇妙な話だ。
ジョンはクッキーが欲しくて何度でも腹を見せたが、流川は勝利以外にももっと多くのものを望んでいるかのように思える。それが具体的にどういったものなのか、三井にはよく解からない。
「赤木だってそこそこのもんだろ。あいつとはやらねえのな。木暮だっているし。まあ宮城はチビだけど、あいつのスピードだって半端ねえじゃん」
流川は無言で、答えない。
「毎日俺ばっかとやってて、飽きねえのかよ」
三井はペットボトルから拭った水滴を顔の皮膚に擦り付ける。それでも火照りは鎮まらなかった。
「先輩、俺に飽きたの?」
不意に流川が斜め上の言葉を口走り、三井は面食らって否定する。
「いや、そういうことじゃ……っていうか、変な云い方すんなよな」
誤解を招きそうな物云いに、三井はそわそわと落ち着かない気分になった。
「そっちが先にそー云った」
「う……ま、そうだけどよ」
確かに、飽きないのかと最初に口にしたのは三井だったが、同じ言葉でも流川の云い方は適切とは云い難い気がする。
「人と対戦する方が力がつくから」
「え? ああ、おう……そりゃあ、そうだよな」
突然さっきの質問の答えを寄越してくる流川に、三井は一拍遅れて応じる。だが、これでは答えとしては中途半端だ。挑んでくる理由としては十分だが、他の部員では駄目な理由が説明されていない。
元々、感覚だけでやっていることならば、答えなんてものはないのかもしれない。ならば、流川も答えようがないだろう。それに、この話題はなんだか変に落ち着かない気分になる──そう思い至り、三井はもうやめておこうかと口を閉ざし、再び目を瞑る。
視界を遮断すると同時に、流川のバッシュの底が体育館の床でキュッと鳴った。横で流川が動く気配がする。
「っていうのはタテマエす」
「──は?」
言葉の意味が解らなくて閉じた目を開くと、見えるはずの天井を遮るように流川に見下ろされていた。
知らぬ間に、すぐ近くに流川が膝をついている。伸ばされた手に、額に押し付けていたペットボトルが勝手に取り上げられ、三井は困惑する。自分を見下ろす二つの瞳から目が離せないまま、問い質そうと動いた唇は、言葉を発するよりも一足先に流川の唇に塞がれた。
その瞬間、自分はここにいると告げる蝉の声が三井から遠ざかっていった。
女とは明らかに異なる男の唇の感触が、自分のそれを覆っている。キスされた、と三井が認識した時にはすでにすべてが整っていた。驚きも、口にするべき疑問も、なにもかもが流川の唇に封じられ、三井は瞼を閉じてそれを受け入れていた。建前に対を成す流川の行為は、唐突で身勝手で、なのに何故だか少しも不快とは感じられず、その性急な行為ひとつがすべての疑問を一瞬で拭い去ったことに、三井は満足感すら覚えていた。
(……やっぱ、俺はまだ持ってたんだな、クッキー)
勝敗とは別に、流川が求めていたもの。三井はそれを、自分の中に見つけた。
小さな余韻を残しながら、触れるだけのキスを終えて、流川は三井から離れた。二人の行為に対抗するように、蝉の声が再び三井の頭の中を支配しようとするが、そこはもう流川のことでいっぱいだ。
隣に座り直した流川は少し三井に背中を向けていて、角度的に顔は見えない。張り詰めたような緊張感まではなくとも、その後ろ姿はほんの数分前とは異なる空気の中にあり、今まで何かを感じたことなどないその背中や腕がやけに視線を惹きつけて、目の前の後輩に対して、三井の中に真新しい感覚が生まれている。手で直に触れて、こちらを振り向かせたい。今の行為の云い訳を、その口から聞きたい。三井はようやく上体を起こして、無言で流川の腕をつついた。
「なに?」
首だけ振り返った流川が問う。たった今キスをした人間の態度とはとても思えないような相変わらずの仏頂面だった。
「……この自己中ヤロウ。おまえ、こういうことはいきなり勝手にしてくんだな。ワンオンワンは毎回いちいち頼みに来るくせに」
突然のキスに驚かなかったとはとても云えない。流川がそんなことをしてくるなんて、三井はまったく想像もしていなかった。だからといって、頼まれたらそれはそれで困っただろうが。
「……頼むような、余裕がねーだけ」
珍しく流川が弱音を吐いたが、三井は信じない。
「ウソつけよ、自信満々の顔してたぜ」
キスの前後に至近距離で見た流川は女子が騒ぐのも納得の男前だったし、引く気はないと決めているような気迫があった。力で捻じ伏せる、自分本位なバスケを見ている時のような。人によっては実を結ばず悲惨な結果になる確率が高いのだろうが、そういう方法が性に合っている人間もいるのだ。
「おめーはあーいう顔でキスすんだな。新鮮」
三井の目を見ながら離れていく流川の双眸に三井は心を奪われてしまった。疲弊して抜け殻になりかけていた身体と心に水を与えられたような気分だ。
流川は返事をせず、おもむろに三井のペットボトルのキャップを開けて「そろそろ飲んだら」などと話を変えてくる。流川であっても、恥ずかしいという感情を少しは持ち合わせているのかもしれない。
「おまえ、やっぱ可愛いかも」
宮城と話していた時は絶対に違うと思ったが、今なら少し、考慮の余地がある。
「ソレ褒めてねーす」
流川本人は不本意そうだ。
「褒めてんだよ。キスも、悪くなかったぜ」
三井が云うと、流川は振り返った。
「……なら、もう一回、キスの相手して欲しーす」
戸口から強い風が吹き込んだが、汗ばんだ皮膚も頭の中も鎮めてはくれない。三井は流川の首に腕を回して、さっきよりも深く唇を重ね合わせた。
七月五日、月曜日 「先輩」
その特別な背中に向けて呼びかける時は、少しだけ背筋が伸びる。
「ワンオンワンの……相手して欲しいんすけど」
振り向いた彼は驚いたように目を見開いた。流川は目を逸らさず、じっと見つめ返す。
受身というものが苦手だった。こうして返事を待つだけしか出来ないことがもどかしい。
断られるかも、という不安感は拭えないし、急になんだよ、と笑われる可能性も排除できない。
もしも拒否されたら、期待を込めて差し出したこのボールは引っ込めなければならない。
それが恥ずかしいという気持ちはなくて、ただ後退するのが嫌だった。今は、とにかく前ばかり見ている。それでも、相手が否だといったら立ち止まるしかない。諦めて迂回路を探すか、道が拓けるまで辛抱強く待つしかない。
そんな状況に身を置いたことはほとんどなかったが、もう子供の頃のように我を押し通せば物事が思い通りになるだなんて考えてはいない。
思いつめた目で見つめ続けた流川の本気度が通じたものか、三井は笑ったりしなかった。だが、しばらく思案する素振りを見せた。
昨日、安西の家を訪問して、流川には進むべき目標が出来た。アメリカは一旦、もっと先へ置いておいて、今は目の前のものに目を向けると決めた。
帰る足で陵南高校まで出向き、仙道に一対一の相手を頼んだときは、緊張なんてしなかった。勝負しろい、の一言で良かったし、もしダメだったとしても、それはそれで納得したと思う。部活中なのに断らなかった仙道の方が、むしろどうかしている。
きっと、他の誰かに相手を頼んでも、同じような気持ちだ。相手に期待はしていないし、逆に期待されても、自分の出来ることやしたいことは限られている。
(……なのに、どーして)
断るな、と念を込めて流川は三井の目を見つめる。いつからか、彼の姿ばかり追っていた。簡単には退けない理由が出来てしまった。
流れ落ちる汗がいくつか床に落ち、ボールを持った手が熱を持つ。じらされているような、気が気ではない時間。三井に対してだけ高まる期待が、妙な緊張を掻き立てる。
「ま……いーか」
少しの思案の末、三井が口を開く。
「……おまえとか。おもしろそーだ」
三井の顔に笑みが乗る。それは期待した通りの、流川の好きな表情だった。 おわり