「三っちゃんなら居ねえぜ。保健室で寝てる」
昼休みが始まってすぐ、借りていた古いバスケ雑誌を三年三組まで返しに行ったら三井は居なかった。教室から顔を出した堀田が云うには、三井は四時間目の体育の授業をサボったらしい。自分にも声をかけてくれたら一緒にサボったのにと思いつつ、流川は簡潔に堀田に礼を云って即座に踵を返した。すると、背後から野太い声が追加で飛んできた。
「起こしには行くんじゃねえぞ流川!」
アンタに関係ねー、と思いながら足は止めない。向かう先はもちろん二階の保健室だ。
「三っちゃん、朝練で寝不足気味でよ、最近そーとー疲れてんだ」
背中で受けた思いがけない言葉に驚いて足を止めそうになったが、流川はそのまま階段を降りた。堀田の言葉に散りばめられたキーワードに、流川はまるきり無関係ではなかった。堀田がそこまで知っているのかは知らないが、その朝練を三井と毎日一緒にこなしているのは流川だ。今朝も、他の部員たちが登校してくる時間まで二人きりで練習に励んだ。
堀田の言葉が引っかかって迷いが生まれたものの、流川の歩みは止まらない。寝ている三井をわざわざ起こすつもりは毛頭ないが、保健室に居るという堀田の言葉だけを鵜呑みにする気もなくて、彼の姿を自分の目で確認したいとただ思っただけだった。
保健室内に養護教諭は不在だった。一見すると誰もいないが、カーテンが引かれているベッドがひとつある。その下には履き潰された上履きがあり、かかとの部分には何故かひらがなで書かれた「みつい」の文字があった。
なるべく音を立てないように、静かに流川はカーテンの内側に入った。真っ先に目に入ったのは、真っ白な掛け布団の上に広げてかけられた黒い学ランで、その下は人が寝ているのが一目で判るように盛り上がっていた。頭まで隠すように上まで布団が引き上げられていて髪の毛くらいしか見えないが、上履きを信じるならばそれは三井に違いなく、堀田が云うように本当に眠っているのか、呼吸に合わせて学ランは微かに上下している。
枕元には、プリントをホチキスで束ねたものが乗っていた。読みかけのまま眠って放置したのか、無造作に捲られて折り目が付いていて、『進路』や『スポーツ推薦』、『入学試験要項』といった単語の見出しが目に入り流川はドキリとした。
普段、三井は流川に受験の話をしない。進学はしたいと夏頃に云っていたけれど、その話はその場限りで終わった。
バスケ部は今、秋季大会を控えて練習に励んでいる。三井にとって高校バスケ最後になる十二月のウインターカップ出場の権利を得るための大会だ。目の前の試合に集中しているからか、毎日のように朝晩一緒に自主トレに励んでいる間柄とはいえ、大会の先にある自分のプランについて三井は一切流川には話さない。噂話すら出ていないから、きっと他の部員たちもなにも聞いていないに違いなかった。そうして練習だけに没頭する日々を過ごしていた流川はすっかり失念していた。秋季大会で敗退すれば、十二月を待たずに三井はおそらくバスケ部を引退するのだということを。
もしかすると、知らず知らずのうちに意図的にそこから目を逸らしていただけなのかもしれないが、とにかく流川は何も考えていなかった。もちろん、流川は地区予選を通り神奈川代表の二校の一つに入るつもりでいる。勝った時のことならばともかく、負けた時のことを、具体的にイメージしたりすることはほとんどない。云い方を変えれば、あまり頭を使っていないだけとも云えるが、それもあってか、こうして無機的に印字されたプリントの文字を目にするまで、三井がいつか体育館から居なくなることを実感として捉えたことはなかった。当然、その延長線上に卒業という節目が迫っているということも同様にだ。
いつか彩子が、高校生活は一度しかないのだと云っていた。目の前のことに夢中だったから、特別に心に響いた言葉ではなかった。毎日三井と体育館でバスケをして、それが楽しくて、本当にただ夢中でやっていた。目先のことにだけ集中し、三井が流川よりも先に卒業するのだという当たり前のことを、流川はまるきり頭の中から排除していた。
三井本人は当然自分の進路のことを考えているだろうが、彼がどうするつもりなのか、流川は尋ねる立場にはなかった。少しでも教えてもらっていたら現実感を帯びたのだろうが、ただの後輩である流川は当然蚊帳の外だ。そのおかげで、三井の居ないチームや、体育館のコートなんてものがまず想像出来ない。
三井がいない体育館はきっと火が消えたように感じるに違いなく、流川が彼と初めて出会ったあの強烈な一日から今に至るまでの時間が濃密だった分だけ、その不在は心にこたえるだろう。そして彼を好きになってしまった分だけ、流川の世界が変わってしまう。
見下ろした枕元のプリントから、流川は目を逸らす。
——ちゃんと青春まっとうすんだぞ?
彩子が云っていた言葉が頭の中に蘇り、初めてその言葉の意味を考える。まっとうすると云うからには、必ず終わりがあるのだ。
流川はざわつく胸の中を一掃するかのように呼吸した。三井は深く眠っているようで、流川の気配に気づくこともない。堀田には起こすなと釘を刺されたが、こうしていても三井は起きないし、カーテンに仕切られた空間は三井の匂いに満ちているようで去り難かった。深呼吸でも焦燥感は消えず、かと云ってここから離れる気にもならず、流川は手を伸ばして掛け布団の端をそっと捲ってみた。そこにいたのは確かに三井で、顔を見たら少しは気持ちが落ち着いた。だが今度はそれだけでは足りないと思えてきて、自分の欲深さを自覚しながら寝姿に見入った。こんな機会は滅多にないことだ。
三井は気持ち良さそうに眠っていて、普段寄せ勝ちな眉間も今は緩み、表情は穏やかだ。整髪料のついていない柔らかそうな髪も、閉じた瞼の膨らみも、力が抜けて薄く隙間の開いた唇も、密集した睫毛すら、それが三井を形作っているというだけで好ましく感じられることが不思議だった。他の誰かとそう大きく変わることはないはずなのに、可能ならば、そうしていつまでも飽きずに見ていられそうな気がする。
だが、それだけで満足かといえば不十分で、心はもっと、確かで意味のあるものを望んでもいた。声も聴きたいし、いつものように気安く名前を呼んで欲しい。けれど眠っていてはそれは叶わない。疲れているらしい三井を起こすのは忍びないが、一度不安定になった心は、小さい子供のわがままのように、無理な要求でも通したくなってくる。
「三っちゃんを起こすな」という野太い声を脳裏に蘇らせながら、流川は三井の髪の間にそっと指を入れて、流れに逆らうように梳いた。起こさなければいいんだろと、反発心が背中を押す。指先に触れる髪の感触が、少しだけ流川の欲求を解消した。けれど、短い髪は柔らかく撥ねて指からすぐに零れ落ちる。もう一度髪に触れ、今度は表面をゆっくりと撫ぜた。よほど疲れているのかそれでも三井が起きないと知ると、流川は身体を折ってその耳元に唇を寄せ、囁いた。
「……ちゃんと、次も勝つ」
まだ終わらせない。流川にはバスケしか出来ない。不安と焦燥に曇った心をどうにかするために出来ることは、結局それしかないのだった。良いプレーをして試合に勝つことが、三井の傍にいられる唯一の手段だと流川は思う。目先の試合をひとつずつ勝ち進んでいくこと。分かり易く明解な手立てだ。
試合に勝ち進んだ先のことを考えてみても、それは明確な形にならず曖昧だった。はっきりしているのは、流川が心から望むものを与えてくれるのが三井だということだけだ。その彼は目を覚まさず、無防備に眠り続けている。流川はベッドサイドに手をついて屈み、眠る男の口元に唇を寄せた。呼吸が当たり、親密過ぎる距離に躊躇する。寝ている相手に勝手をして許されるわけもなく、迷いが挫いた口づけの行方は、しばらくのあいだ定まらなかった。
放課後になって体育館へ行ったら、三井はちゃんと練習に出てきていた。今日も部はいつものように練習メニューを粛々とこなす。とは云え、秋季大会を控えてその練習量は半月前とは比べ物にならない。そうしてたっぷり身体を酷使した後も流川はすぐに帰宅せず、門が閉まる時刻まで居残って三井に一対一の相手を頼むのが日課になっていたし、今日も当然、そうするつもりでいた。だが、昼に聞いた堀田の言葉が思いのほか頭に残り、三井の様子を密かに観察してみれば、確かに三井はどことなく身体の動きが鈍く、シュートも外し勝ちだった。保健室で少し眠ったくらいでは取れない疲れが蓄積しているのかと、流川は眉を曇らせる。
「いってぇ」
簡単な試合形式の練習中、三井の背中に桜木が放ったボールが当たった。背中を押さえた後ろ姿に恐る恐るといった様子で、復帰後間もない桜木が近づいた。
「すまんミッチー、わざとじゃないぞ、久しぶりでつい声掛けがオロソカに……俺はパスしたつもりでだな……」
「わかってっからボールを追え」
云い訳を打ち切り走り出した桜木の後を追うように三井が上がっていく。
三井にしては珍しいミスだった。悪いのは桜木ではなく集中力を欠いた三井の方であることは、本人も分かっているだろう。流川はボールを追いながら、出入り口で見学している堀田の様子を一瞬だけ視界に捕らえた。やはり彼の云うことは大げさではないのかもしれない。
本来、朝練は六時からだが、三井は毎日他の部員よりも四五分早く登校している。それを頼んだのも流川で、強くなるために少しでも長く練習がしたいこと、その相手が欲しいことを伝えて承諾して貰った。誘う時は柄にもなく緊張し、驚いた顔で三井がしばらく悩むようなそぶりを見せていたからダメかもしれないと沈みかけたが、結局はOKを貰いずっと続いている。夏休み明けから始まって、もはや習慣になりつつあった。
一度彩子が朝早くに登校し、色々と指摘されたが、彼女に云われるずっと以前から、流川は自分の気持ちがどこに向いているのかをちゃんと理解していた。
二人でバスケをしているだけで、流川は最上位の幸せを手に入れたようなつもりでいた。ほんの少しでも長く時間を共有することが最も重要だと信じて疑わなかったし。バスケをすることが三井と繋がる唯一の近道だと思い込んでいた。
だが、こんな風に疲れた三井を見たいわけじゃない。自分の提案したことが三井の負担にしかならないのなら、それは流川の望むものとは異なる。
陽が落ちて、締め切った体育館には一時間前から照明が灯っている。練習後、自主練のメンツはひとりふたりと減っていき、いつものように残っているのは、三井と自分の二人だけになった。
「これから、朝は一人でやる。先輩は前みたいに定時に来たらいい」
三井がスリーポイントラインからシュートを打った後のタイミング。流川は今日の練習中ずっと頭の隅で考えていたことを口に出した。三井は流川を横目に見て、面食らったような顔をしている。
「朝練のことか?」
三井の問いに、流川は頷いた。寝不足でも、身体がついてこなくても、きっと三井からやめたいとは云い出せないはずだ。負けず嫌いで、退くことも苦手な男なのは知っている。元々こちらから誘ったのだから、と流川は助け舟を出したつもりだった。
だが、三井はひどく困惑した顔で、落ちたボールの行方も追わず、流川を見たまま静止して動かない。
言葉選びに失敗して偉そうに聞こえたのかもしれないと流川は少し不安になった。
「今まで、相手して貰って助かったっす」
リングを通ったボールを代わりに拾い、流川は三井にパスで返した。そのついでに礼を云うことを思いつき、付け加えた。
「──は? 待て、なんでだよ、急に……」
胸の前でボールを受けた拍子に我に返ったのか、三井の硬直が解けた。流川に向かって二歩ほど近づいてきた彼の眉間の皺は、今の気分を表しているのか深い。
「なんで唐突に、んな話になんだよ、意味わかんねえ」
困惑から怒りへと流れた態度の変化に、流川は少し思案する。はっきり云うのは気が進まないが、三井が納得していないのであれば仕方がない。
「……朝は、先輩と違って俺は近いから別に負担はねーけど、そっちはそうじゃねーし」
「負担ってなんだよ。ホントいきなり……なんなんだ?」
「ムリしてまでやることじゃねーから」
「ムリ? 俺か? もっと、はっきり云え」
そう云いながら三井が勢いよくボールを流川に返してきたので反射的に受け止めた。受けた手が痛いくらい力が加わっていた。
「今日、見てたら分かった。明らかに、先輩は調子が下がってる」
「はああ? 失礼なこと云うなよ。むしろ、テンションなら高いつうか、なんつうか──」
三井は明らかに云い淀み、顔の下半分を隠すように手で隠して横を向いてしまった。身体がついてこないことを自ら認めるのは簡単なことじゃない。それが分かっているから、流川も慎重に話を運ぶ。三井から目を逸らし、手にしたボールに視線を固定する。
「朝早くからやって今もこうして残ってれば、疲れなんてとれねーに決まってる。それは別に先輩じゃなくても、誰でもそうだと思う。朝練に誘ったのはこっちだから、負担の原因は俺でしょ。先輩の負担になるくらいなら、俺は一人でやる」
自分が三井の負担になっていると口にするのは気が滅入るが、真実なので仕方がなかった。
「負担だの疲れだの、なんでそう暗いことばっか云うんだよ。どういう話だ」
三井はまだ認めようとはしない。
「先輩はもっと休むべき。たぶんオーバーワーク」
「俺は充分上手くやってんぞ。なに盛大に勘違いしてんだ」
これほど強情なのは予想外だ。向かい合うように立ち、見つめ合いながら、お互いの顔に浮かぶ困惑の色を確認し合うような、ひと呼吸分の間が過ぎる。
「ていうかよ、そんなことよりもっと話すことが──」
「俺は睡眠が足りない辛さを知ってるっす。別に恥ずかしいことじゃねー」
睡眠を何よりも大事にしている流川は、三井がまだ云い訳を探すことを止めようとして彼の言葉を遮った。
「だーから! 睡眠時間は別に困るほどじゃねえっつの、マジでなんでそんな話になったんだよ?」
三井の声が体育館に反響した。だが、それを聴くものは流川しかいない。
頭の中を整理しながら呼吸をおいた。どうしてこんな話になったのかと云えば、堀田のことから説明が必要だ。
「寝不足だから保健室。あんた疲れてるって、番長が」
流川は手の中のボールを再び三井の元へ投げ返した。とことん全てを説明しなければ三井は納得しそうもないが、流川の言葉に変換するととても短く済んだ。
「あ〜」
なにか思い当たったのか、ようやく納得した様子を見せて、三井は天を仰ぐ。
「徳男のヤツ……あの心配性なに吹き込んでんだ。まったく……」
流川はなにも云えず立っていた。パスは返ってこない。
「徳男はいつも大袈裟なんだ。ちょっと眠くてときどき授業中寝たり、保健室行って休んでるだけだぜ。俺のことは俺が一番知ってっから。おまえも真面目に受け取るなよ」
そう云われても、裏付けがある。事実、今日の放課後練習の三井はいつもと様子が違っていた。
納得出来なかったので流川は黙っていた。その不満が現れていたのか、流川の顔を見て三井は困ったような顔で小さく笑った。そしておもむろに流川に背を向けてリングに向き直り、ボールを頭の上に構えた。
そのままシュートを打つのだろうと見守っていた流川の前で、だが三井はそうせずに、構えたまま動きを止めている。
「おまえさ」
シュートの代わりに三井は口を開いた。
「俺がさ、毎朝何時起きか知ってるか?」
背を向けたまま突然問われ、流川は首を捻る。問われた理由も分からないまま、流れに逆らわず素直に思案する。
「……俺より早いハズ。ってことしか知らねー」
「四時十五分にアラームが鳴んだよ。そこから三十分で支度して、八分かけて駅まで行くだろ?」
結局シュートは打たず、三井はそこで構えた腕を下ろした。並べられた数字よりも、汗の引いた三井のうなじに流川の興味は吸い寄せられていた。三井は頭が小さくて、首が長く後ろから見てもバランスが良くて、つい目が行く。
「そんで電車で十五分だな。学校まで歩いて更に五分かかる。まあ、そこで」
三井が唐突に振り向いた。後ろから見惚れていたことに気づかれたのかと流川は一瞬身体を硬くした。視線が交じり合う。
「──そこでだな」
「そこで?」
三井が同じことを繰り返すので、流川が促す。続きがあるはずだ。
前触れなくひょいとリングに向き直った三井は、間を置かずシュートを打った。
「そこで、ようやく俺はおまえに会えんだよ」
三井が打ったボールはリングに吸い込まれていった。
ボールの行方を追うのと同時に、流川は三井が云い放った言葉もちゃんと聞き取っていた。だが、自分の理解が間違っているのではないかと半信半疑で言葉が出てこない。リングから三井へと視線を戻し、穴が開きそうなほどその後頭部に視線を注ぎ、彼が振り向くのを待った。
「なのに、もう来なくていいとか云うなよ。俺が毎朝どうして頑張って早起きしてんのかも考えねえで、勝手に色々と決めんなよっつう話だ」
ボールを拾い上げた三井の耳が微かに赤いように見えた。その意味が理解出来ないほど、流川は馬鹿ではなかった。
三井はボールを手の平で玩びながら流川に背を向けている。その背中を見ていて何故か流川の脳裏に浮かんだのはまたしても彩子の言葉だった。『よーやく青春するようになったか』と云いながらニヤついている顔まで浮かんできた。
「……俺も、先輩と早く会いてーから早起きしてる」
そう告白し、流川は背後から近づき三井の肩を包むように両腕を回した。そうしたら彩子のニヤついた顔が頭から消えた。
後はもう、舞い上がる心を抑えながら、三井がどう反応するかの不安と期待で頭の中がいっぱいになった。
「おまえの早起きはマジで価値あるな」
茶化して笑った三井の肩口に流川は顔を寄せて、振り解かれなかった腕に力を込める。温もりで頭の中が弛み出し、好ましい三井の匂いに眩暈がしそうで目を瞑った。ずっと抱えて仕舞っておいた気持ちが全部報われ受け入れられた気分で、試合に勝った時とは別の興奮が流川の中に生まれた。
ただ、気懸かりはまだ残っていた。ずっと三井の練習を見守っていたが、やはり今日の三井はどこか動きがおかしかったのだ。
「……でも、今日の先輩は本当に調子悪そうだったから、やっぱりオーバーワーク」
三井を背後から抱き締めたまま、流川は真面目に忠告した。
「だから──! それはホントにおまえのせいだぜ。おまえが今日、保健室に来たから……な?」
回した流川の腕を三井が叩く。流川は驚いて、腕を少しだけ緩めてから尋ねる。
「──まさか起きてたんすか?」
保健室では結局三井を起こさないように部屋を出たから、会話もしていない。それなのに流川が保健室にいたことを知っていたということは、いわゆる狸寝入りというやつになる。
「タヌキだったんすか?」
「誰がタヌキだ」
三井は口を尖らせる。
「起きちまったんだよ、声と気配で。それとあと……ホラ」
「ホラ?」
「おまえ、俺に、キスしようとしたろ」
そんなことまでバレているのかと流川は平静さを見失い、三井の身体から腕を解いた。
「……未遂っす」
向かい合って、言い訳をする。無防備に眠る三井は誘惑そのもので、キスしたいとは思ったが、さすがにそんな勝手は出来ないと理性が働き、結局は何もせずに保健室から逃げ出したのだった。
「目ぇ瞑ってたけど顔近づけた気配がしてすぐ分かったぜ。鼻息やたら荒くてよぉ、死んだふりしてる時に熊が様子見に来たらあんな感じだよな」
そんな経験あるのか、と心の中で流川は突っ込んだが、口にはしない。
「あんなのされたら、俺だって頭の中で色々考えるだろうが。その後ずっと調子狂って……教室の床で派手に滑るわ、パックジュースをぶちまけるわ、シュートは外しまくるし、午後は散々だったぜ。桜木のボールにさえ反応遅れてカッコ悪ィ」
流川は絶句した。三井の不調の原因は流川との朝練のせいであると思っていたのに、まさか自分の今日の行為が招いたものだったとは、思いもしなかった。
「すんません」
散々だったという出来事を全部この目で直接見たかったなと思いつつも責任を感じ謝ったら、三井が肩を震わせて笑った。
「珍しく殊勝だな。キス未遂っつうのも、おまえらしくねえ」
「勝手にしたら先輩怒るでしょ」
流川は真面目に返しながら俯く。自分は一体どんな人間だと思われてるんだと疑問に思ったが、今更イメージなんて気にしても仕方がない。
「なら……許可があったらどうなんだよ?」
仄めかすような三井の言葉に流川は顔を上げた。その一言で、流川は自分が大人へと近づく一歩手前の迷路の中に足を踏み入れていたことに気が付いた。これがきっと、青春というものなのだ。
向けられた意味深な笑顔はまるで果実のようで、流川の渇きを満たすには十分すぎた。流川は三井に歩み寄り、見下ろすようにして顔を近づける。
シュートチャンスをみすみす逃すようなことを流川はしない。しかも、ディフェンスが甘く素人でも入りそうな場面だった。
三井の肩に流川は手を置いて、唇を触れ合わせる。心の奥でずっと望んでいたもの。それが今、手の中にあった。
キスをして、いつもは絶対に云わないような台詞をお互いに吐き合って、ふと横目に時計を確認したらもう結構な時間だった。慌ててモップ掛けを始め、それはかなり雑だったが、キスの後の落ち着かない気分と身体を静めるのにはちょうど良い作業だった。
その作業中に、とっくに帰宅していたはずの彩子が体育館に顔を出した。一度は帰り、家で寛いでいたが、学校に置き忘れたノートの存在を思い出して取りに来たのだという。そのついでに、明かりの灯る体育館の様子を見に寄ったらしい。
流川と三井を見るや目を輝かせた彩子に、キスしている時じゃなくて良かった、と三井と顔を見合わせてホッとした。それでもどこか二人を見透かすように見る彩子の目に震え慄いたが、特になにか言及されることもなく、その場は難なくやり過ごした。
近いから一人で帰ると云う彩子を三井が引き留めて、三人で帰ることになったのが十分前のことだ。着替えを済ませ、彩子と流川は三井を待って昇降口の中にいた。
「またアンタの邪魔しちゃったわねえ」
三井は体育館の鍵を返しに職員室へ行っている。流川と二人きりになった途端、彩子は本性を現した。
「それにしても、二人揃ってまだいるとは思いもしなかったなあ」
彩子の言葉に流川は疑いの目を向けた。流川がいることなど彩子には大体分っていたはずだし、しょっちゅう三井が居残っていることも知らないわけはない。
「あーあ、ホントに一人で帰れるんだけどな。どう考えてもぜったい邪魔者よね。三井先輩ったらときどき空気が読めないわよねー」
空気が読めない三井と、空気が読めるのに好奇心を優先する彩子とではどちらがより性質が悪いだろうと流川は考えるが、答えは出そうもなかった。
ただ、流川にも分かっていることはある。
「彩子先輩。あの意味、わかったかも」
「あの意味……ってなんだっけ? なんの話?」
「まっとうするってこと」
彩子がきっかけをくれ、流川に教えてくれた。
一人欠けた体育館で無性にあの声が聴きたくなったときや、美しいボールの軌跡が懐かしくなったとき。失った寂しさに胸を痛めてただ後悔するのは、らしくないのだと。
おわり