無人の体育館に一歩足を踏み入れた赤木は首を傾げた。赤木が夏までキャプテンを務めていたバスケット部は、今日も体育館で全力で部活動を行っているはずだった。それなのに、あるはずの人影が一切見当たらない。だが鍵は開いていたし、照明は点いている。視線を横にやれば、壁際に放置された誰かの荷物がいくつかあることも認められた。
「どうなってる……?」
聴く者のない呟きをこぼしながら靴下履きのまま中央まで進んだ。正面向かいの開け放たれた扉の外からは秋の訪れを知らせる虫の声。西向きの窓は、陽が沈み切る前の橙色の夕焼けに染まっていた。練習が終わるにはまだ早い時間だが、部員たちは誰もおらず、赤木は差し入れに持ってきた飲み物と菓子の入ったビニール袋を握り締めて途方に暮れる。
「どこへ行ったんだ」
室内はまだたっぷりと湿度を含んでいて、さっきまで確実に人がいたであろう気配を残していた。せっかく体育館が使えるのにわざわざ外のリングを使う意味はない。こんな時間からグラウンドを走る理由もないだろう。練習ニューが変わったのかと不審に思いながら、部室にでも行ってみるかと踵を返しかけた時、隅に設置された用具室から小さな物音が聴こえた気がした。目を向ければ扉がほんの少し開いている。灯りは点いていないようだが、意識してみると、微かだが、誰かがぼそぼそと話をしているような声がする。
(まったく。いるんじゃねーか)
きっと練習をさぼって部員たちが遊んでいるのだ。新キャプテンの宮城は厳しく指導していると聞くが、問題児が揃えばあちこち緩みが出るだろう。懲らしめてやらねば──そう思い、赤木は用具室に向かった。問題児たちに雷を落とすのも久しぶりだ。懐かしさに高揚感が湧き上がり、どうやって声をかけてやるのが効果的かと考えながら、驚かせるために音を立てないようそっと近づく。わざと眉を吊り上げながら扉の隙間を覗くと、薄暗い室内に人影はすぐに見つかった。授業や部活で使う用具に囲まれた細身の後ろ姿は、三年生の中で唯一部活を引退しなかった男だろう。窓もなく明かりが届かない奥の壁際の前で、ボールカゴの縁に寄り掛かっている。右頬が少しこちらを向いているが、表情までは暗くて見えない。
(三井か……と──流川か?)
三井の向かいにも人影があった。薄暗くても、髪型の輪郭で判断がつく。他には人影が無い。
(二人だけか? いったいなにをやって……)
赤木が、二人に声をかける前にひと呼吸置いたのは正解だった。その、瞬きをするような短い間に、流川の影が三井の影に重なった。
キスをしている、と赤木が認識したのは少し遅く、二人の影がすでに離れた後だった。赤木は手に持っていた袋を丸ごと落下させ、ペットボトルが床を直撃した派手な音が辺りに響いた。その音に、用具室の二人がびくりと身体を強張らせて、赤木を振り返った。
「……赤木か。おまえ、なにしてんだよ」
ゆっくりとそう云って、三井がこちらに向かって歩いて来る。扉が大きく開かれ、後ろからは表情の読めない流川がのそりと続いた。
「そ……それはこっちの台詞だ」
一瞬止まりそうになった心臓が、バクバクと早くなる。キスをしていたと思ったのは勘違いだったかと思わせるほど、三井の声は落ち着いていた。そうだ──きっと勘違いだ。この動じなさがそれを裏付けている。大体、三井と流川がキスなんかする道理がない──と赤木は己の心に云い聞かせてみたが、赤木の前に立った三井自身がそれを打ち消すように挑発的に口の端を上げた。
「覗いてんじゃねえよ」
「なっ、覗いてなんか……俺はなにも見とらん」
赤木は思わず嘘を云った。
「嘘つけ。破裂しなくて良かったな」
激しく脈打つ心臓のことを揶揄されたのかと顔が熱くなったが、目の前に屈み込んだ三井を見て、ペットボトルのことだとすぐに誤解に気が付いた。床に落とした時に袋から飛び出したスポーツドリンクやスナック菓子を三井が手際よく拾う。至近距離で屈んだせいで、たった今暗がりで後輩とキスを交わしていた男からは制汗剤の香りがほんのりと立った。深く息を吸い込んだ赤木は、理由もなく身体を秘かに震わせる。
「こんな時間に急に来んなよ赤木。これ差し入れだよな。家に籠って真面目にベンキョーしてんじゃねえのかよ」
落した物をすべて拾って袋に戻した三井が上目遣いに云って、勢いよく立ち上がる。何も手を出せず放心したままその様子を眺めていただけの赤木は、慌てて弁解した。
「俺は、図書館で勉強を……。帰る前に様子を見ようと……寄ってみただけだ」
それは真実だった。放課後はずっと近くの市営図書館の自習室にいた。ふと気まぐれを起こして、部の様子を見に体育館に立ち寄ったのだ。
「ばーか、おせーよ。今日は部活終わってるし。俺らも自主練終わって片付けてんだよ」
「終わった? はえーだろーが。どうなってる」
「今日から二年は沖縄だろ。宮城たち居ねえし、彩子居ねえし、先生も休みだったから早く終わらせたんだよ。怪我されても困んだろうが」
「ん? なんだ今日からか」
二年生の修学旅行が控えていることは知っていたのに、今日がその日だとは失念していた。部活を引退してから、他学年に関する情報には疎い。
呆れたように三井が溜息を吐いた。
「ったく。よりにもよってこんな日に来やがった上に覗きか」
「だーから! 覗こうと思って覗いたわけじゃ──」
「どっちだって同じだろ。見たくせに」
「──く、暗かったんだ、詳しいことはなにも見とらん」
「下手な嘘ついてんじゃねえよ。見たんだろ、俺とこいつが──」
「云わんでいい! それ以上なにも云うな三井」
顎をしゃくって背後にぼうっと立っている流川を指し示そうとした三井を、赤木は慌てて止めた。必要以上に強い制止は逆に肯定したものと捉えられても仕方がないが、それでも三井の口から決定的な言葉が出ることを阻止したかった。出来ることなら時間を戻して、こんな時に呑気に体育館に入っていった自分を殴って全力で引き止めたいところだが、それが不可能である以上、三井にはもうこれ以上口を開かず沈黙していて欲しい。
留め立てした赤木を不服そうに見上げていた三井は不意に視線を外して、背後に立つ後輩を振り返った。
「……流川ぁ、もう掃除はいいから、先に帰ってろ。俺が赤木と話してくから」
「なんで……? 俺もここにいる」
やっと喋った流川はこれ以上ないほど不満そうな声を出した。赤木は三井の後頭部を見つめて、彼の言葉の真意を推察する。
「いいから、家帰れ。二人のほうが話がはえーんだよ。残った掃除は赤木にやらすし」
「オイ。なんで俺が」
あまりに勝手な言い分だ。
「いいだろ、手伝えよ。久しぶりに体育館の掃除したいだろ?」
そんなわけあるか、という言葉は飲み込んだ。三井は話をしたがっている。それはよく分かった。
このまま何事もなかったかのように三井の前から逃げたとして、次に会った時に普通に振る舞えるかといえば、それも赤木には難しい。面倒事を先延ばしにするだけでは心の平穏は訪れない。そして、流川がいないほうが話し易いのは赤木も同じだった。
「ったく……俺には話なんかねえんだが、云いたいことがあるというのなら聞いてやる。俺はなにも見とらんがな」
「ハイハイわーかったって」
ただひとり流川だけはその顔に不満の色を浮かべていたが、彼が何か云いかけるよりも先に三井は彼の背中に腕を回して身体を押し出した。
「そーだ、ついでにこれ、持ってっとけよ。部室の机に置いて先帰っていいぜ」
反論を受け付ける隙も見せず尊大な態度で三井が差し入れの袋を胸に押し付けると、流川は反射的に手を出してそれを受け取った。それから三井は、赤木に向かって「いいんだろ?」と尋ねてきた。赤木が頷くと、流川が短く頭を下げた。生意気な一年生だが、体育会系の礼儀はきっちりと叩き込まれている。
「あー、三井と俺はまだ少し残って話をしていくが、なにも心配はいらんから、早く帰って身体を休めろ」
不安という言葉とは無縁の男だからたぶん問題はないが、蚊帳の外に置かれた流川が不安に思うことがないように、赤木は言葉を選んだ。
「……うす。おつかれっす」
「おう」
元キャプテンの肩書きにはまだ力が残っていたのか、赤木の言葉に流川は折れた。
「じゃーな、おつかれ。明日な」
三井は少しも動じるそぶりを見せないまま場を仕切った。早く流川をこの場から帰したい、という意図は明確だった。流川がいると深い話がし辛い、ということなら赤木も同感だ。
三井に促され、仕方なく、という風情でゆっくりと歩き出した流川がすれ違いざまに赤木の顔を見上げてきた。「気をつけて帰れ」と声をかけたが、彼の顔をまともに直視することは出来なかった。異常な心拍数はすっかり治まったが、さっきの光景を忘れたわけじゃない。
「あーあ。俺、チャリで帰れねえじゃん」
自分の荷物を拾って体育館から出ていく後ろ姿を見送りながら、赤木の隣で三井が声を落とす。駅まで歩くのが面倒だと云いたいらしい。流川の通学自転車の後ろにときどき三井が乗っていることは赤木も知っている。
「おまえというやつは……」
悪びれた様子もない三井を呆れる思いで見下ろしたが、さっさと三井は用具室に引き返してしまったので、仕方なく後を追い、明かりを取り込むために三十センチほど残して引き戸を引く。広すぎる体育館で話せば声も響く。大っぴらに聞かれたくない内緒話に用具室は都合が良かった。
暗い室内に先に入った三井はボールをひとつ取り出して、手の中で遊ばせ始めた。
「それにしても、おまえってタイミング最悪の奴な。相変わらず、空気読まねえゴリラめ」
「オイ、俺のせいじゃねーぞ、まさかあんな──ってか、読めるかあんな事態!」
ゴリラの部分はあえてスルーしつつ声を荒げると、三井がこちらに視線を向けた。その表情はやはり落ち着いているし、むしろどこか楽しげですらあった。暗がりの中、笑う形に象られた口元を見て、さっき目にした光景が赤木の瞼の裏に残像のように蘇った。
「あんなって、どんなだよ?」
「どんなって……それは、おまえ……わかってんだろ」
「いつから見てた?」
「ずっと見てたわけじゃ……暗くてよくは見えんし、その、おまえと、流川が……少し近づいたところだけ、ちらっとだな……」
キスという言葉を云いたくなくて言葉を濁した。云わなくても、三井には分かっているはずだ。
「ゴリラの趣味が覗きなんて図鑑に載ってなかったよな」
「バカヤロウ、おまえらのキスなんか好きで見たわけじゃねえ!」
赤木は憤慨し、とうとうキスという言葉を使った。覗きと云われるのは心外だ。見たくて見たわけじゃない。言葉のニュアンスとしては、見てしまった、というほうが正しい。
「やっぱ見てんじゃねえか、キス」
三井は鼻で笑い、赤木は言葉に詰まった。三井の口からもはっきりと「キス」という単語が出たことに、二度目のショックを感じていた。見間違いなどではなく、やはりあれはキスだったのだ。
赤木は誰ともキスなんてしたことが無いし、ましてや男同士でするなんてことは理解の範疇を超えていて、それを淡々と語る三井にショックを受けた。
「……三井、どうなっとるんだ。キ──いや、あんなこと、なんで流川と」
口にするだけでも気恥かしい思いだった。尋ねていいのかどうか、それ自体もよく分からない。三井のプライベートなんてほとんど知らないし、出来れば波風を立てたくはないが、ここまで来たらはっきりさせなければならない。
「なんで、って云われてもな……。なんだろうな……お互いに、それもアリだなって思ったからじゃね?」
まるで他人事のように三井は云う。
「アリだなって……ねーだろうフツウ! オイ待て、まさか、流川と付き合ってるのか?」
そんなことは有り得ないと思いながら尋ねる。
「違うって。まあ、気が合う仲間っつうか……」
「バカ云うな。気が合う仲間とキスはアリじゃねえだろうが! しかもおまえ、男同士で」
「おまえみたいなゴリラにはそういうのはねえだろうけど、フツウの人間にはそういうこともあるんだよ」
「あるか!」
「声でけえよ」
思わず大きな声を上げてしまい、三井に睨まれた。
「とにかく、キスくらいでガタガタ云うなっつうの」
「キスはくらいと云わん」
これだから不良なんかやっていたヤツは油断ならない──と、赤木は右手で顔を覆った。常識が通じない。どこか軽々しくて──そう、そもそもの倫理観にズレがあるから理解出来ないのかもしれない。バスケに関しては赤木から見ても真面目にやっているようだが、同級生でありながら、ときどき、赤木にとって三井は異星人のように感じられる。
「怒んなよ。っていうか、したがるのはあっちだぜ。俺に文句云うなよ」
「どうせ、おまえが流川をたぶらかしたんだろーが」
年上なのだから全部三井が悪い、と赤木は決めつけた。
「人聞きワリィな」
「まったく……どうするつもりなんだ」
「どうって、まだ大したことしてねえし」
「まだじゃねえだろーが。これからもなにもするな」
大人しく反省するわけでもなく云ってのける三井に愕然とする。反省どころか、三井はそこで笑った。
「なんでおまえが仕切るんだよ。あいつが俺のこと好きだって云うんだから、しょうがねえじゃん」
「す──好きなのか?」
まさか、と赤木は心臓が縮むようなショックを受けた。流川がそんな感情を持っているとは到底思えなかったし、感情を向ける相手が三井だなどと、にわかには信じ難い。
「好かれてるのか、だろ。好かれてんだよ。俺さあ、なんでかたまに男にモテんだよな」
「それは、流川は本当に、男として本気でおまえを好きだってことか?」
「……そう云うと大袈裟だけど、まあそういうことじゃねえの」
赤木は天を仰ぎたくなった。知っている日常がどんどん遠ざかる。図書館で静謐な時間を過ごしていた少し前までと、あまりにもかけ離れている。三井から滲み出る毒気のようなものにあてられて、眩暈がしそうだった。
「……わかった。三井、それなら余計に、流川とこれ以上おかしなことはするな。あっちが本気なら、おまえも責任とれねえだろうが」
流川はまだ一年生だ。何かがこじれた時に傷つくのは流川だろうし、三井だって責任を問われる。そして、こんな問題がこじれないわけがない。
「冷たく突き放すのかよ。カワイソーだろ。あいつのプレーに悪い影響出たら、おまえこそ責任とれんのか?」
「バカなことを……」
「わかってねえな。あいつはその辺の一年とは違うんだよ。それに、ちょっと付き合ってやれば練習にも身が入って、チームが勝って、云うことなしだろ」
呆れるほどに打算的なことを云う。だが、どこまでが三井の本心なのかよく分からない。三井は嘘吐きなのだ。
「三井、おまえの方はどうなんだ? 本音を云え。本気で流川のことを好きなわけじゃない……のか?」
答えを聞くまでもなく本気なわけがない、と頭では思う。だが、本心が分かりにくい男である以上、尋ねておきたい。
「あいつまだガキだぜ」
やっぱり──三井の返事を聞いてホッとした。ガキは本気で相手にはしないということだ。ならば、お互いがこの先本気になる前に幕を引くべきだ。今日、二人の関係を自分が知ってしまったことは良いタイミングだったのかもしれない、と赤木は前向きに考える。二人の関係が今日を境に終わってくれたらいい、と。
「今日以降、もう二度とあんなことはするな」
「あんなことって?」
「だから……さっきみたいな……流川とキスをしたり、だとか」
おそらく、三井はちゃんと分かっているくせにわざと自分に詳細を語らせてその反応を楽しんでいる。なんて嫌な奴だと内心で思いながら、赤木は羞恥心に耐えて三井の思惑に応えてやった。
「俺、おまえに従わなきゃいけないわけ? それって、流川に妬いてんのか?」
「なっ──」
云われた意味が咄嗟に理解出来ず、赤木は一度ポカンと口を開けた。そして、数秒の後に叫んだ。
「なーんで俺が! 流川にっ! 意味の分からん、馬鹿なことを云うな!」
「声でけえっつの。冗談に決まってんだろ」
そっけなく云って三井は手の中で遊ばせていたボールを戻し、カゴに浅く腰かけて下を向いた。またからかわれたのか、と赤木は我に返った。少し冷静になれば判ることで、焦って思い切り否定した自分が馬鹿に思えてきた。この暗がりならば興奮して真っ赤になった顔も気付かれてはいないだろうと思いつつ、決まりの悪さを隠すために意味のない咳払いをしてみたが、自分の中の羞恥心を消し去ることは出来なかった。
「……やっぱおまえってさ、頭固いよな。クソマジメ」
三井が赤木を見上げる。言葉がきついわりに、茶化すような態度は見られない。
「おまえが柔らかすぎるんだ。毎回毎回信じられない愚行に走りやがる」
「うるせーな。俺だっていろいろ考えてんだよ」
考えていたらこんなことにはならないだろう。云いかけたが、それを遮るように三井が立ち上がった。こちらを見る上目遣いの視線は、どこかもの云いたげだ。
「なんだ三井」
赤木は少しずつこの暗闇に目が慣れてきて、いつになく神妙な三井の表情に戸惑いを覚えた。尋ねても答えを返さない三井の視線が足元に落ち、釣られて赤木も足元を見たが、薄暗く冷たいコンクリートがあるだけだった。鼻からゆっくりと深い息を吐きながら赤木が顔を上げると、数歩分の距離を詰めた三井が目の前に立っていた。無遠慮な距離感に眉を顰めた赤木の首元に、三井の額が押し当てられる。
「み──」
みつい、と呼びかけようとした。突然のことに驚いて身を捩ったものの、それを抑えるように三井の手が大腿部の上を掠める。なにかを求めて意味深に動いた指が、学生ズボンの生地の上から許しもなく男性器を包み込んできて、赤木の身体を凍りつかせた。まるでボールの空気圧でも確かめるかのような気軽さに、頭が混乱する。
「お、い」
あまりにも三井には躊躇いが見えなかった。なにが『フツウ』であるのかを見失い、真っ白になった赤木の頭が再び色を取り戻すまでには数秒かかった。ようやく状況を正しく理解した赤木は弾かれたように三井から離れて、闇雲に後ずさりしたら手近なスチール棚に背中が当たり、行き場を無くして叫んだ。
「い、い、今のはなんの真似だ!?」
思いも寄らない展開に、動揺を隠す余裕はなかった。けれど、人生最大の有り得ない事態に対する問いかけを無視した三井は口の端を上げて笑い、赤木に忍び寄った。至近距離で見つめ合う羽目になっても、彼がなにを考えているのか見当もつかなかった。無駄に見映えのするその顔を真正面にとらえながら逃げ場のない赤木は棒立ちのままだったが、先に視線を逸らした三井が再び胸に凭れかかってきた。
「おい……みつい」
三井の身体を受け止めたまま、これはどういう状況なのだ──と鈍った頭で考える。顎の下に三井の鼻先が押し当てられ、詰襟の上には微かに熱い吐息を感じる。明らかに親密な距離だし、甘えるような仕草ともとれた。どう理由をつけてみても起こり得ないことが起きていたし、すぐにでも突き飛ばしてここから逃げ出すべきではないのかとうっすら理解していたが、三井の全身からほんのりと立つ匂いが赤木をその場に繋ぎ留めた。心をいたずらに掻き乱す匂いに呼応するように身体が勝手にわななき、鼓動が高まる。動転して頭はろくに機能していないのに、身体の芯にはしっかりと小さな炎が灯った。
赤木の内心をまるで見透かしているかのように、三井の右手は再び赤木の急所をゆっくりと弄り始めた。顔を上げないので、三井がどんな表情でこんなことをしているのかは見当もつかないが、彼の手の中で赤木の男性器は意志とは関係なく力強さを増していく。取り繕いようがない身体の変化に頬が熱くなり、赤木は与えられる快楽に軽く抵抗した。
「やめろ……なんのつもりなんだ」
三井の身体を押し返そうと二の腕を掴んではみたもののそれは形式だけのことで、赤木は力尽くで三井を止めることが出来なかった。下半身の欲求が、圧倒的に理性に勝っている。十代の正直な身体は甘美な心地に抗い切れず、赤木は三井を受け止めて立ち尽くしたまま、一方的な愛撫に陶然とする。
「……仕返し」
三井が不意に口を開いた。それが自分が彼に出した質問への答えなのだと、快楽に酔ってすっかり緩んだ頭ではすぐに理解出来なかった。そして、理解した後も意味が解らない。目の前の男の小ぶりな頭を赤木は凝視する。
「……俺は、おまえに仕返しされるような覚えはねえぞ」
尋ねると三井は顔を上げた。笑ってもいないし、怒っている様子でもない。表情を見ても心の中は窺い知れない。
「……おめーは、一度も俺の見舞いに来なかったろ」
「みま──」
まったくの予想外の言葉に呆れた。
「おまえというやつは……二年も前の話を今頃になって」
二年前、三井が膝を壊したとき、赤木は一度も病室には行かなかった。まさか三井があのまま戻ってこないだなんて思いもしなかったし、入学したてで、あの頃は自分のことで精いっぱいだった。わざと三井を放っておいたわけではなく、ただ本当にそれだけの理由だ。
「うるせえ。俺はこの先もずっと、一生、云ってやるからな」
恨みごとを云いながら、三井が赤木に与えるのは赤木にとって初めて味わう快感だ。どこで覚えたのかと問い質したくなるような巧みな手つきで煽られて、なす術なく天を仰いだ赤木の薄っすらと開いた唇の隙間から、熱い呼気が漏れた。たとえ男である三井の軽い奉仕でも、自分一人で処理する時とは比較にもならない。
「これ、なんかすげえことんなってんな。中、きついんじゃね?」
当人はもちろん嫌というほど分かっているが、三井に淡々と云われるとばつが悪い。
「……三井、おまえの云い分はもう分かったから、これ以上バカなことはやめて俺から離れろ」
実際のところはもう簡単には鎮まりようがない。いつ誰が入ってくるかも分からない用具室で、このまま三井の手に身体を委ねていたいのが本音だ。だが、僅かに残っていたなけなしの理性が、まやかしの言葉を吐かせた。
「云っとくけど、俺が触った時はもうだいぶ硬かったぜ」
勝ち誇ったように三井に見上げられた赤木の頭の中は、羞恥に染まった。
「それは……おまえのせいで」
初めて見た暗がりの中の男同士のキスシーンは、いつも普通に使用している仄暗い用具室をまったく別の空間に変えた。きちんと手入れをしている制服の下で、赤木の欲望は少しずつ目覚めていった。制服はある程度の誤魔化しが利くが、こんなふうに直接触られたらもう取り繕う術はない。
「いいから、おまえもう喋んな。誰か来ないか音に気をつけとけよ」
三井はファスナーにまで手をかけてきた。勃起した自分の性器が三井の手によって下着の間から掴み出されるのを見て、赤木は目の前が真っ赤に染まったように錯覚するほどの羞恥心に塗れた。だが、それで萎えるようなことはなく、むしろ三井の眼前にしっかりと屹立してこれ以上ないほどその存在感を主張する。
「やっぱすげえ」
そう云った三井が嬉しそうに笑うので、誰と比べてるんだと問い質したくなった。さっきは流川と大したことはしていないと云っていたが、これではどこまでしていたのか疑わしい。手つきだって慣れているし、なにより、少しも怯む様子が見受けられない。弁解の余地もなく赤木の男性器は完璧に天を向き、とても彼を責めるような立場にはないのだが、まさかこうしていつも男を相手に遊んでいるのかと説教したくなる。
まだ誰とも経験のない赤木に触れた初めての男が三井だ。こんなところで丸だしにしやがってこれからどうするつもりなんだと問う間もなく、三井は赤木の前に跪き、性器の頭を口に咥えた。
「よせ、三井──」
剥き出しの性器に熱い舌が絡んだ。その生々しい感覚と、自分の前に三井が膝を着いて口を使っている視覚的な刺激による興奮や悦びが赤木を襲う。顔色を窺うように、もしくは挑発するように、ときどき三井は赤木を上目遣いに見上げる。
「……バカヤロウ、こんな仕返しあるか──」
見舞いに行かなかった仕返しだとさっき三井は云っていたが、こんな仕返しは成立しない。
「……じゃあさ、アリってことだろ?」
三井は奉仕を休んで云った。流川とのことを尋ねた時『アリだなって思ったから』と云っていたが、その『アリ』なのだと少し遅れて思い至った。口で云われても納得出来なかったことを、身体で思い知らされた気分だ。答えられず黙っていると、三井は赤木の下で笑ったようだった。わざと当てられる義歯が、赤木のぎりぎりを試す。本当に、彼がなにを求めてこんなことをするのかまったく解らない。理解不能の男に口で奉仕されながら、いよいよ限界が近づくと、赤木は彼の髪を掴んで思い通りに揺さぶった。赤木の望みはいたって単純明快だ。欲望に負けることは三井に負けたことと同じだったが、今なら敗北を認めてもいいと思った。
「……スマン。タイミングが、その、思ったよりも早かった」
解放が訪れた後、赤木の頭は急速に冷えた。吐き出した欲望の証が三井を派手に汚してしまった。体育館に戻って取ってきたタオルを使い、三井はマットレスに座って嫌そうにそれを拭き取っている。その様子に赤木は若干傷ついたものの、自分だって同じことをされたら相当に嫌だなと思い直した。
「……もう一度云うが、悪かった」
「真面目に謝るなよバーカ」
本当は三井の顔にかけるつもりなんてなかった。かといって、まさか自分の精液を三井に飲ませるわけにもいかない。初めての事に迷いながら、寸前のところで上手くやるつもりだったのに、結果的には間に合わなかった。完全な失態だ。
「目は、大丈夫か? 髪にも……ついたんじゃねえのか」
「拭いたし、家で風呂入るし」
「スマン」
「しつけーよ。それより、おまえのって顎が疲れるわ」
羞恥心は何処へ捨ててきたのかと問い質したくなるようなことを口にしながら、三井が立ち上がった。まるで、いま起きたことはすべて夢だったのではないかと思わされるような涼しい顔だ。実際のところ、ここでさっきまで不埒な行為が行われていた証拠はろくに残ってはいない。タオルは捨てればいいし、赤木はすでにきちんと自分の性器をズボンの中に仕舞った。三井に至っては元々服装が乱れていない。乱れているのは風紀だけだ。
「三井、このことは──」
「誰にも云うなよ赤木」
三井に先に釘を刺された。当然、赤木だって同じ意見だ。云えるわけがない。
「もちろん、云わん。流川とのことも云わん。だから……だからもう、流川とは、あんなことはやめろ」
「キスがそんなにダメかよ?」
「当り前だ」
初めての口淫は済ませたものの、赤木はいまだにキスをしたことがないままだ。順番が目茶目茶だが、どうしてもその行為には尊い価値があるという強い思い入れがある。
「それって、やっぱ嫉妬じゃねえ?」
「ち──違うと云っとるだろうが! 相変わらず自惚れてんのか」
入部した頃のことを不意に思い出して、赤木は呆れた。あの頃から、三井は自尊心が強くプライドが山よりも高かった。
もっとも、プライドが高いのは赤木自身も同様だったが、三井の前でさっき晒した醜態によって誇りも自意識もだいぶ説得力を失った。
「バーカ、俺のは自惚れじゃねえ。認めろよ、赤木」
部活の時には決して見せないような顔で三井は笑った。美しくも清楚でもなく、可愛げもない。決して好ましいとは云い難いインモラルなその表情に赤木は不覚にも見惚れた。もしも、こんな顔を三井が他の誰かに向けていたら。流川にも、ここで同じようなことをしていたとしたら。
赤木は胸苦しさを覚え、三井の云う通りこれは嫉妬というやつなのだろうかと自問する。まさか、冗談じゃねえと即座に否定しようとしたが、上手くいかなかった。 おわり