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卒業式の朝、早目に登校した三井は赤木や木暮と数日ぶりに顔を合わせた。初めは三人きりの立ち話だったのに、わざわざ上の階まで上がってきたバスケ部の後輩たちが加わって、教室が並ぶ廊下は賑やかになった。今日が最後の登校なのに、こうしていつものように騒いでいると、最後だという気がしてこない。
正装をした担任がやって来るまでお喋りは続き、教室に入れと注意されながら集団は散ったが、ずっと喋らなかった流川が去り際に三井の手になにかを押し付けてきたので、誰にも気づかれないように素早く手の中に握り込んで三井は教室へ戻った。
自分たち以外に、他に人はいない。少なくとも、この部屋と隣の教室には人の気配がない。最後だからいいか、と三井は思い、眠り続ける後輩の大きな身体を両腕で挟みながら、艶やかな髪に鼻先を寄せて、彼にだけ聞こえるように囁く。
「来てやったんだから起きとけよ」
朝、流川から手渡された小さな紙片はまだポケットの中に入っている。四つ折りを開くとそこには身体に似合わない丸めの文字で『ぜんぶ終わったら、教室』と書いてある。流川からはよくこういった短い手紙を貰ったが、これが最後かもしれなかった。
「全部終わったぞ」
三年間の学生生活が終わった。短かい間だったけれど完全燃焼した部活も。みんなへの挨拶も済んでいる。
三井の腕の中で流川が身じろいだ。眠りが浅い。熟睡はねーよなさすがに、と思いながら三井は深く呼吸をして、流川の全身が発散する青い匂いを鼻腔に吸い込んだ。何故かもう、その匂いを懐かしいと感じる。これはきっと、学生の匂いだ。抗うような自覚もない内から、身近なものがいつの間にか過去に変わっていく。途端に惜しいような気がして、三井は後輩の制服の生地に鼻を押し付けて何度もその匂いを堪能した。
「……あんた動物みてえ」
眠りから覚めて、少しだけ顔を上げた流川と目が合った。
「おまえに云われたくねえよ」
動物っぽさでは、明らかに流川の方が上だ。
「俺の匂い、そんな好きなの?」
身体を起こした流川が目を細めて笑った。
「おまえこそ、俺のことが好きだろうが」
云い返しながら、三井は立ち上がって流川を見下ろす。
動じることもなく涼しい顔をした流川は、今まで突っ伏していた机の表面を爪の先でコツコツと叩いた。
「好きなヤツがなかなか来ねー間に、これが完成した」
「は……?」
三井の視線は、後輩の指の先に釘付けになった。そこにあるのは、インターハイをかけた試合の前、発奮するために三井自身が机の表面に刻んだ自分の背番号。けれど三井が目を奪われたのはその隣にある、さっき教室を出る時にはなかったはずの、新たに刻まれた後輩の背番号だ。
「なにやってんだおまえは」
数字が四つ並んでいるだけなので、他人が見たらただの数字の羅列だ。だが、三井にとってはただの数字では済まないし、少し気恥かしく、胸に込み上げるものがある。
「人の机に傷付けやがって」
「もう先輩のじゃない」
素直になれず三井が云うと、流川に云い返された。その通りだった。
「俺が三年になったら、ぜってーこの机を使う」
「ふ。じゃあもう分かりやすくルカワ専用って書いとけよ。ずっとここにあるとは限んねえぞ、別の教室に移動するかもしれねえじゃん」
やることがガキだよなあと思いながら、悪い気はしない。緩みそうな顔の筋肉を誤魔化しながら、机に刻まれた新しい数字を三井は人差し指でなぞってみた。彫られたばかりで、少し縁がギザギザしている。この数字は流川と自分がチームで一緒にプレーをした証だし、流川とはチームメイト以上の深い関係を持った。ただの数字さえ、愛着がある。
「名前はいい。この数字があれば」
「ふーん。どっちにしても、おまえがこの机に当たる確率低いぜ?」
「他のヤツがもし使ってたらぜってー取り返す」
こんな日に、可愛いことを云うのは反則だ。三井は堪らず流川の上から屈み込んで、彼の唇を求めた。教室で、自分の席を挟んでこんなことをするのは初めてだ。窓の向こうからは生徒たちのはしゃいだ声が聞こえていたが、教室の中では少しの間だけ時間が止まっていた。瞬間的に研ぎ澄まされて、くすぐったいような感覚が、身体の中を浮遊する。
「ボタンが、ねえ」
口づけの合間に、流川が云った。三井の上着の変化には、起きた時すぐに気が付いたはずだ。制服のボタンは後輩たちに強請られて全部なくなった。
「バスケ部エースの卒業だぞ、当り前だ。でも、ボタン以外は全部おまえの前にあるぜ」
三井の答えが気に入った様子で頷いた流川が、前が開いた学ランを掴んで二度目の口づけを強請ってきた。
教室の黒板には誰かの手によって卒業おめでとうの文字が描かれていたが、三井には分かっていた。この日を以てしても、この恋は卒業できないのだと。 おわり
ツイッターでUPしたものです。2019/04頃。