リフレイン
夏と変わらぬスタメンを揃えている海南相手に15点ビハインド、残り時間は僅か。肉体的にも精神的にも追い詰められていたものの、それでも安西は流川を交代させた。自分が休んでいるような状況じゃないと流川は不満を隠さなかったが、次に時計が止まったらすぐに戻すと云われて大人しくベンチに帰り、三井の隣に座った。三井は流川には目もくれず、コートをじっと見つめて試合経過を見守っていた。接触で激しく転倒した三井は、捻った足首の異変が傍目にも明らかで、この試合、コートにはもう戻れない。今日の試合に負ければ選抜に進めずこれが引退試合になる三井の心情を察すればかける言葉はなく、流川は自分自身の不甲斐無さに怒りすら覚えながら、三井と同じように前を向き、険しい目つきでコートを見据えた。
だが、彼の緊張はいつもの控室の空気を大きく変えてしまうほどで、それを嫌がった幾人かの選手は部屋を出てしまった。残っているのは、比較的気が大きくて温厚な性格をしたメンツだった。
「俺が緊張しない方法を教えてやるよ。神に祈るんだ」
くつろいでいたアーロンがヨルゴスに向けて云う。信心深いとは云い難いアーロンの口から出たそれはおそらくジョークのつもりで、数人の選手とスタッフが笑ったが、敬虔なギリシャ正教徒であり聖人の名を持つヨルゴスには通じなかった。
「そんなことはとっくにやってる……それでもキツイんだ」
項垂れたヨルゴスに、他にも次々と声がかかった。
「緊張しないまじないがあるぞ、掌にカエルの絵を描いて飲むふりをしろ」
「騙されるなよヨルゴス。それより、親や兄弟のことでも思い浮かべてみるといいぜ」
「いや、今までで一番良かった試合を思い出してみたらどうだ? 落ち着くだろう」
「待てよおまえら、いいか、こいつはこれから始まる試合に緊張してるんだから、むしろまったく関係ないことを考えるのが一番だろうが。よし、俺んちのマリーの新作動画を見せてやるよ」
猫好きのデニスがタブレット端末の操作を始める。
「もうおまえんちの猫動画はみんな見飽きたよ、いい加減にしろ」
「猫よりは女のことでも考えた方がマシだよな」
「おい、マリーに失礼なことを云うなよ彼女は最高なんだぞ」
「始まったよ。鬱陶しいな」
「なんだって? もういっぺん云ってみろ」
「ああ……もう、喧嘩はしないでみんな俺のことは放っておいて欲しい。余計にしんどくなってきた……」
ペットボトルのミネラルウォーターをひとくち飲み、ヨルゴスは周りの雑音を遮断するように頭から大判のタオルを被った。みんなわざと馬鹿馬鹿しい話をして若いルーキーの緊張を解こうとしたのだろうが、上手くはいかなかったようだ。
「そう思いつめるなよ、いつもの試合と同じだって。今まで散々コートに立っただろ。同じだよそれと」
「俺にとっては同じなんかじゃない……NBA選手としてコートに入ったら絶対違う景色が見えるはずだ。それに、母親も兄弟も、親戚もみんな来てるんだ。情けないプレーは出来ないって思うと……怖いんだよ」
アメリカの大学出身だがヨルゴスはギリシャ人で、数少ないギリシャ人NBAプレーヤーとしての重責を担っている。多くの人に注目され、決して失敗は出来ないという思い込みが、彼の緊張を余計に高めているのだろう。
「あ、そうだ。うちには緊張とまったく無縁の男がいたな。なあ可哀想なヨルゴス君に緊張しない方法を伝授してやれよ。起きてるんだろ、カエデ」
ポジションはセンターを務めるマルクが振り返り、瞑想中のポーズでじっと座っていた流川を見た。みんなの会話は耳には入っていたのでいきなり振られても流川は動じなかったが、期待には応えられそうもなかった。
「そんな方法は知らない」
流川は簡潔に答えた。無情に聞こえるかもしれないが、実際そんな方法は知らなかった。
「コツとかがあるだろう」
「ない。……思いつかない」
流川は少しだけ考えた後、答え方を変えた。
「でも、おまえが緊張しないのは確かだろ? おまえのデビュー戦の日のことを覚えてるが、まったく練習と同じ顔をして淡々とプレーしてたよな」
他人のデビュー戦のことなんてよく覚えてるなと流川は感心したが、目配りが利くマルクのことだから、驚くことではないのかもしれない。そういえば流川がチームの練習に初めて参加した時、一番最初に気さくに話かけてくれたのはマルクだった。その時も、特段緊張してはいなかったが。
「いつもそうして試合前は黙ったままだけど、その間はなにを考えて過ごしてるんだよ。それを教えてやれってこと」
別の選手に云われて、流川はうーんと唸りながら首をひねった。それを教えたところでヨルゴスの緊張が解けるとは思えなかったが、当のヨルゴスが捨てられた子犬のような目で流川を見ている。彼は若くて経験が浅く、まだ差し伸べる手が必要なのだ。
少しでも参考になればまあいいか、と流川は思い直した。
「俺は……試合の前はいつも、大事な人がずっとまえ試合中に云ってくれた言葉を思い返してる。その言葉を忠実に守るためにはどうすればいいだろう……ってことだけ考えてるから、緊張する暇がないだけかもしれない」
正直に答えると、控室が少しざわついた。
「おいおい大事な人って、もしかして、まさか例の」
「俺の先輩」
「出た!『センパイ』」
数人が同時に同じ台詞を吐きながら、笑った。
「『センパイ』って?」
事情を知らないヨルゴスが尋ねた。しかし、流川が答えるより前に、マルクが答えた。
「カエデのパートナーだ。日本のプロバスケの選手なんだ」
「へえ、カエデにそんな相手いたのか。初耳だ」
「それはラッキーだな、その内しつこいぐらい聞かされるだろうよ。マリーの話みたいに」
嫌味を云ったのはアーロンだ。
「俺は会ったこともあるぜ。一度だけカエデが彼をパーティーに連れてきたんだ。サインしてやったんだよな、良い男だったよ」
「えっ、パートナーは男なのか……? カエデって、そうだったの?」
目を丸くしたヨルゴスが頭のタオルを外して流川を見た。そんな反応にはもう慣れてしまった流川は、軽く頷いた。頭の中で、先輩こと三井の顔を思い浮かべる。アメリカでこんな風に噂話をされているなんて当人は思いもよらないだろう。
「プロだから、カエデの『センパイ』はネットで簡単に顔が拝めるぜ。後で見せてやるよ、俺は彼のインスタグラムをフォローしてるし」
「うわ見たい!」
「え、そうなの……?」
驚いたのは流川の方だった。マルクが三井のSNSをフォローしてるなんて知らなかった。嫌がる三井を一度だけでいいからと連れて行ったパーティで、サインを貰った後、ずいぶんと打ち解けてはいたが。
「で、その『センパイ』はカエデにどんなことを云ったんだ? その魔法の言葉をヨルゴスに教えてやれよ」
「それは……ちょっと。内緒」
「そこまで云ったら教えろって!」
「バカ、無粋なこと訊くなよ。カエデが内緒にするならイヤラシイ内容に決まってるだろうが」
アーロンが断言する。
「そういうんじゃねーから」
「へえ、じゃあ教えろ」
「いや、秘密」
「そう云われると知りたくなるんだよなあ」
「さっきカエデは『守る』って云ったぞ、つまり、誓いとか、約束みたいなやつじゃないか?」
「いや、約束……とは少し違う。一発で俺を奮い立たせてくれる言葉」
「ほらみろやっぱりスケベなやつなっ! だろ? な?」
「じゃねーから」
頭の中で何百回と繰り返し再生した言葉だから一語一句違えずに答えられるが、どうせ教えたところで自分以外に効果ないだろうと流川は思う。大切な人が直接自分にかけてくれた言葉でなければ、それは魔法の言葉とは成り得ない。
「あれ、ヨルゴスどこ行くんだよ?」
少し前からそわそわし始めたヨルゴスが、幾つかの荷物を持って席を立った。
「なんか急に、彼女の声が聴きたくなったから。ちょっと電話してくる」
急ぎ足で部屋を出る後姿を見ながら、誰かが云った。
「……なんだよあいつ、緊張解けたんじゃないか? さっきまで椅子から立てなかったんだから」
* 「流川」
力なんてろくに残っていないだろうに、その声は決して弱々しくはなかった。
振り返ると、ベンチから立ち上がった三井が、少し足を引き摺って流川の元へ近寄ってくる。
再びコートに戻ろうとしている流川と、それが叶わない三井が、コートの外で向かい合った。三井はまだ少し肩で息をしていて、きっと腕も上がらないほどに疲弊している。だが、目の輝きは失われていなかった。そんな目を向けられて、休息をとって少し落ち着きを取り戻した流川の心臓はぎゅっと握りこまれたように緊張し、再び早鐘を打つ。満員の体育館、二人にだけ訪れた静寂の中で、三井は流川に向かって右腕を伸ばしてくる。その手は後頭部に回され、頭を引き寄せられて、流川の額は三井の額にぴたりと接触した。目の前の景色が一変して、視界からはコートも選手も観客も消えて、目に映るのは三井ただ一人になった。
見えない力を注ぎ込むようにお互いの額をしっかり触れ合わせたまま、選手たちに贈られる歓声の中で、三井は流川にだけ囁いた。
「このコートの上で一番カッコいいのはおまえだってことを、証明してこい」
流川は打たれたように陶然と三井の目を見つめて、敬虔な信者のように頷いた。 信仰心なんて持ったことはなかった。だが、神から託宣を受けた時はこんな気持ちになるのかもしれないと思った。
審判の笛が鳴り、三井に背中を叩かれた。流川はスコアボードに目をやって、数字を確認した。
(ぜってー取り返してみせる)
さっきよりもずっと力強い足取りで、流川はコートの中に戻った。彼がコートに復帰することに歓声を降らせる満員の観客ではなく、たった一人に証明するために。 おわり
夢はでっかく。NBAプレーヤーな流川です。
流川が一番頑張れる言葉はなにかなって考えて、これになりました。ただ頑張れって云われるより頑張れちゃうんじゃないかなと。こういうこと云われたらやるしかないだろうと思ったのでした。
TVでフィギアスケートを見てて、出番の前に選手とコーチがガシッてやってるの見て「良い〜」とツイッターで呟いてた時に思いついた話でした。