制服から練習着へと着替えを済ませ、三井はロッカーを閉めた。隣のロッカーを使用中なのは居るのか居ないのか分からないほど無口な流川で、扉の向こうでごそごそと着替えていたと思ったのに、三井が目を向けるとすでに着替えを終えていた。タオルを肩にかけてじっとこちらを見ている彼といきなり目が合って、三井は眉根を寄せる。
「なんだよ?」
部室には他に誰もいなくて気詰まりな空気を感じていたから、三井の声は必要以上に棘を含んだ。朝練開始時刻よりもだいぶ早く出てきたのに、校門の前に着いた時、ちょうど流川が自転車で三井を追い越した。小さな声で挨拶をしてきたので軽く返したが、部室へはそれぞれ一人で向かった。部室に入って再び顔を合わせたが、着替えている間はお互いに無言を貫いた。
寡黙な男だとはいえ、流川とは今まで上手くやってきた。三井が話を振れば、流川はちゃんと答える。二人きりの時なら自発的にも喋るし、ワンオンワンをした後なら、機嫌良く冗談だって云う。居残り練習の後に三井は自転車の後ろに乗せて貰うこともあるし、時間が許せば二人並んでとりとめのない話をしながらわざわざ歩いて帰ることも少なくなかった。
けれど、今は彼とはなるべく二人きりになりたくない。喧嘩をしているわけでもないのに、今までとは違う居心地の悪さを感じてしまうからだ。それがいつから起きているのか三井には分かっていた。居心地の悪い空気を作り出しているのは自分の方だということも。それを敏感に察した流川も、三井に対して一線を引いているのは間違いない。二人を取り巻く空気は、今までのように気安いものではなくなった。
「行かねえのかよ?」
三井は続けて質問した。さっさと体育館に向かうはずの流川は押し黙っていて、少しの沈黙の後、開かれたままのロッカーから何かを取り出して、三井に寄越してきた。
「は? なんで……?」
思いがけない展開に、三井は目を見張った。流川が差し出してきたのは、小さなスナック菓子の袋だった。
ただし三井が知っている日本のメーカーのものではない。見たところ外国産の、カラフルなデザインのパッケージだ。思わず受け取ってしまい、袋をひっくり返したが、やはり日本語は一文字も載っていない。
「土産っす」
ようやく流川が口を開いた。
「土産ぇ?」
「アメリカの」
「アメ……ああ、そっか……」
三井は納得して、手の中のスナック菓子を眺めた。後輩はアメリカに行ったばかりだ。
毎週一回、流川が練習を早退するのはそのためで、流川と一緒にいることを三井が避け始めたのもそれと同時期だった。原因はアメリカだから、流川は悪くないし、三井も悪くない。何故アメリカが後輩との関係悪化の要因なのか、あまり深く三井は考えていない。そんなことを真面目に考え始めたら都合の悪いものを掘り当ててしまいそうだったからだ。
「なるほどな」
三井は小さく呟いた。
流川の通うアメリカは、相模原市と座間市に跨っている。
流川がアメリカに通い始めたのは十月の初旬、国体が終わった直後だった。
それよりも数日前、練習を終えて二人で家に帰る途中、習い事を始めるから部活を休みたいと聞かされ、三井は驚いたと同時に腹が立った。
湘北バスケ部の全員に共通する目標はウインターカップただひとつで、一日だって無駄には出来ないし、みんなが同じ目標に照準を合わせていると三井は信じていた。
それなのに、一番熱くなるはずの男が部活を休みたいと云ったのだ。週に一度だけ、英会話のレッスンに通うことに決めた、と。独学では一向に上がらない英語力をそろそろ本気でどうにかしたいと彼なりにいろいろ調べたり考えたりした結果らしい。
相模原にある米軍基地の中で、一般の家庭が英会話レッスンをしているのだと流川は説明した。すでに体験レッスンも済ませ、これから本格的に始めることにした、と三井に語った。
「フェンスから向こう側は本当にアメリカで、日本人も働いてたけど、建物の感じも日本と違うし、音とか匂いも日本じゃない感じ。空気まで違うような」
珍しく冗舌な流川は、笑みを浮かべているわけでもないのに今まで見たことがないほど楽しそうに見えた。
「大きい体育館があって、バスケやってるって云うから見たかったけど、まだ体験レッスンだからって見せてくれなかった。今度、ぜってー混ぜて貰う」
──やれるといいな、頑張れよ。
夢に近づこうと努力している後輩にかけるのはそんな励ましの言葉だろう。けれど、三井は口にしなかった。ときどき相槌を打つ程度に反応しながら、ほとんど黙って後輩の話を聞いていた。
来年、流川はアメリカに留学するらしい。そのことは、夏が終わる頃に聞かされた。来年のインターハイには参加出来るか分からない、だから今回のウインターカップは絶対に出る。自分で、そう云っていた。「先輩とも、最後のチームだから。燃える」と、付け加えて。それを聞いた時、絶対になにがなんでも出場権を獲得する、と三井は改めて自分に云い聞かせたし、それ以来今まで以上に練習に励むようになり、実際に湘北高校バスケット部は年末のウインターカップ出場を決めている。
そのやりとりは、まだそんなに過去の話ではない。
けれど、今の流川はウインターカップよりももっとずっと先を見据えている。
「……どっか悪いんすか?」
気がついたら歩調が遅くなっていた。顔の半分だけ振り返っている流川よりも一歩後ろを歩いている。
「別に」
答えた後、三井は軽い溜息を吐いた。
「別に、って感じじゃねー。なんかあんの?」
「ねえよ」
「……嘘だ。云って」
一方的に基地の中での体験を語っていたわりには意外にも三井の変調に気が付いたようで、流川は引き下がらなかった。
「──なら、云うけど。おまえさ……自分のことばっかじゃねえ?」
突き放すように云いながら再び隣に並んで、訝る流川の顔を見つめた。乏しい彼の表情が、三井の目には複雑に変化して見えた。
「今って部活を休む時か? 練習のことは大事じゃねえのかよ? エースのおまえが休むってことは他のヤツらのモチベーションに影響するんだぜ、それは解ってんのか?」
「……休むわけじゃない。四時に上がりてーだけ。それも、週に一度。他のヤツのやる気については、知らねー」
「知らねえじゃねえよ。知っとけよ」
「俺が途中で消えたからって、練習は出来る。関係ねーと思う」
「関係なくねえ。時間の問題でもねえよ。おまえが、ウインターカップに集中してねえってことがはっきりしちまうってことだろうが。他のヤツらの意識がそこに引っかかるかもしれないだろ。少なくとも、みんなが手放しでおまえの勝手を受け入れてくれるわけじゃねえってことは解るだろ」
みんなで同じものを見ていると思っていたのに、ひとりだけ、もっとずっと先を見据えている。自分の夢の形を明確に描けるのは部員たちの中で彼くらいではないのか。少なくとも三井は、自分の夢がどんな形をしているのかいまだに分かっていない。
大きな夢を実現しようと前へ進む後輩を応援してやるべきだ、と頭ではもちろん解っているのに、感情のほうがその理屈に付いてこなかった。部員を引き合いに出して流川を責めたが、引っかかっているのは三井自身だ。
おまえなら出来ると後押ししてやるどころか、今は先のことなんか考えるなと大声で云ってやりたいくらいで、心穏やかとは到底云い難い。嫉妬や羨望ももちろんあるが、それよりももっとやっかいなのは気分が落ちていることだ。自分にとって不都合な感情が深いところから少しずつ浮かび上がってくることを実感している。決して口には出来ない言葉がいくつか頭の中で明確になったが、すぐに打ち消した。
「……ソレは、先輩が引っかかってんの?」
「ちが……俺は──」
云い当てられて、思わず否定した。三井がどう感じていようと、流川の未来は流川が作るに決まっている。流川の夢と自分の気持ちに関連があるかのように云うことには抵抗を感じた。三井の感情なんてものはどう考えても流川の未来には不必要だった。
そんな無価値なものを消し去るように三井は軽く首を振り、後頭部の髪を撫で付けながら声を絞り出した。
「……もういいよ。好きにしろ。どうせおまえは決めたことは絶対やるんだろ。安西先生には、云ったのか?」
「これから」
「そうか……早く云えよ。というか真っ先に先生に相談しろよそういうことは」
まだ未消化な蟠りが残っていると表情から窺わせながらも頷いた流川を視界の隅に捉えたまま、三井はいつもの調子を取り戻そうと努めながら歩いた。とりとめのない話をして、感情は表に出さなかった。辺りはすっかり暗く、街灯がときどき二人を照らした。いつもは気にも留めない流川が引いている自転車のカラカラという音が、三井にはどこか物悲しく聞こえた。その音を我慢してあっという間に辿り着いた三叉路は、流川は家へ、三井は駅へと向かう分かれ道だった。なにか云いたそうな素振りを見せる流川を寄せ付けずに「じゃあな」と別れを告げて、三井は駅へ急いだ。
結局のところ三井の努力はその場を凌いだだけであまり上手く行かず、この日から、三井は流川との間に見えない壁を作った。練習後のワンオンワンもやめて、これまでのように並んで家に帰ることもなくなった。好きにしろと云ったものの、本当は、アメリカ行きに照準を合わせた流川の行動に納得していなかった。
要するに三井は、自分の感情と向き合う苦しさから逃げ回っていた。何度目かのアメリカ行きを経た流川が初めて買ってきた小さなスナック菓子が、二人の関係を一変させる役割を担うまでは。
部室から体育館への移動中、三井と流川は上階へ向かう階段に立ち寄った。階段の途中に座り、三井は貰ったばかりの小さなスナック菓子を開いた。
三井の手先を眺めながら、英会話スクール内のルールにより本当はあっちでモノを買ってはいけないのだと流川は云った。
「ルール? じゃあ、どうしたんだよこれ。貰いものか?」
流川は首を振る。
「家にアメリカのコインあったから、使ってみたくて持ち込んだ」
「ああ、それなんか分かるわ」
「寂れた場所に古い自販機が立ってて、一人になる隙見つけて、内緒で買った」
「自販機か。なんかこれ、すげえ色だな。味が不安」
開けた袋からは強烈なコーンの匂いが立ち昇ってきた。見た目は日本にもよくあるスナック菓子だが、ただし妙に色が赤くて濃い。香辛料の香りはしないので、辛味はなさそうだ。
「たぶんマズイ。他のはほとんど売り切れてたけど、それだけ残ってたから」
「はあ? これ大丈夫か? 賞味期限とか切れてんじゃねえの」
そんなに極端に売れ残っていた物をマズそうだと思いながら買ってくる神経が分からない。
「自販機だから買うまでわかんねーし。でも、見てもアメリカの賞味期限の見方が謎」
「俺もわかんねえよ」
「たぶん、へーき」
「根拠ねえよなそれ……俺一人じゃ食わねえからな。おまえも食えよ」
口の開いた袋を差し出して、三井は流川に先に食べさせた。もともと表情が変わり辛い男なので食べる様子を注意深く観察したが、汚れた指先を舐めながら、流川は眉を少し寄せただけで感想は一切云わなかった。
「マズイんだろ? なんとか云え」
「食べれば、わかる」
「そんなのぜってーマズイってことだろうが」
摘まんだスナックを、三井は渋々口の中に放り込んで食べた。思った通りの味だった。日本のものとは違い、味が濃い。噛み応えも三井の好みではなかった。もう少し歯に優しくあって欲しい。
「やっぱアメリカって感じだな」
「うす」
「うすじゃねえ。責任とって半分はおまえが食えよ」
美味いとは云えない菓子を、二人で片付けた。少量タイプで良かった、と三井は心から思った。アメリカらしいビッグサイズだったなら、食べきるのは苦痛だっただろう。
「おまえが留学したら、日本から定期的に美味い菓子送ってやろうか」
「……よろしくお願いします」
二人で他愛のない会話をするのは、本当に久しぶりだった。流川に部活の早退を相談されたとき以来、こんな時間を作らないようにあえて彼のことを避けてきた。だが、時間が経過したおかげなのか、案外元のように喋れるものだ。お互いに無言で着替えをしている時より、ずっと良い。
不味いスナックを食べた口の中を濯ぐために、水飲み場で水を飲んでから二人で体育館へと向かった。いかに不味かったかを云い合いながら練習を始めて、ついでに、フェンスの向こうのアメリカについて三井はいくつかの質問をした。今日まで、基地のことは訊かないようにしてきた。他の部員たちに流川が質問攻めにされている時も、三井は話に加わらなかった。
避けていた話題を自分から振ったら、ずっと気詰まりだと感じていた空気は明らかに変わった。
その後の朝練を順調にこなし、放課後の練習もすっきりとした気分で終え、「久しぶりにやってく?」という流川からの一対一の誘いも、三井は受け入れた。しばらくぶりのワンオンワンはかなり気合が入り、自分がずっと彼との対戦を望んでいたことを知った。
そして、それから一週間後、流川は部活を早退してまたアメリカに行き、同じスナック菓子を土産と称して再び買ってきた。
本格的な冬が始まって以降も、それは続く。
十二月に入って暖かい日が続いたある日の昼休み、屋上の片隅に座り込んで、三井は流川が差し出すスナック菓子を手にとった。一週間に一度ある、二人だけのおやつタイムだ。
「昨日の土産っす」
「またか」
もう何回食べたのか数えていない。流川は毎週同じものを買ってくる。どうやら、彼からこの不味い土産を貰っているのは三井だけらしい。何故自分にだけ、と尋ねてみたい気はするものの、いまだに訊けないでいる。
「気に入ってるくせに」
「毎回はっきり云ってるだろ、マズいって」
「でも残さねーし」
「仕方なくだっつうの。たまには別のもん買ってこいよ。飽きるぜ」
「内緒で買ってるからしょうがねー。これ以外はいつも売り切れてる」
「これ以外売ってねえって実は嘘で、おまえの嫌がらせじゃねえの。俺が確かめられねえからって」
冗談のつもりで笑いながら云ったのに、流川は急に表情を変えた。なにかを思い付いたという様子で、目を見開いている。
「おい、どうした?」
「……なら確かめに、行く?」
「え?」
そういう返事が返ってくると思わなかったので、反射的に訊き返していた。右手にスナック菓子の袋を持ったまま、流川の目を見つめた。
「先輩も一緒にくればいい」
こんな会話を始めてしまったことを三井はなんとなく後悔した。流川の顔からやんわりと視線を外す。
「別にそこまではいいって。おまえたまに冗談通じねんだよな」
引き摺られてしまいそうだったので、三井はあえて軽い口調ではぐらかした。
「アメリカに行こう」
コンビニに行こう、と云う時と同じ声の調子で流川が云う。
「アメリカって……」
「俺と一緒に行って、自分で確かめたらいい」
困惑している三井に、流川は動じた様子もない。一瞬の閃きを、それが合理的で唯一の理だと信じているかのように。
「俺も一緒に英会話習えってのか」
心を乱さないように、と三井は強く意識する。
「そうだけど、それだけじゃない。フェンスの向こうじゃなくて、本当のアメリカで暮らして、同じ空の下でずっと一緒にバスケをする。そのために、まず基地に通う」
途方もない将来を淡々と口にする流川に呆れて、三井はしばらく口を開けたまま二の句が継げなかった。前フリもなしに、こんなに無邪気に吐いていい台詞ではないだろうという思いでいっぱいだった。
一緒にアメリカへ行って暮らすなんて、三井は想像したこともない。流川の実力を間近で一番体験して誰よりも深く理解しているのはおそらく自分だ。否応なく、彼とは立っている場所が違うのだということは心得ていた。
「……それはすげえ夢だな」
三井がやっと呟くと、流川が頷いた。ひたむきな目をして、彼は三井の次の言葉を待っているようだった。
現実的ではない夢だ、と笑い飛ばすことは出来なかった。願望だけ口にしてもいいのなら、最高に悪くない夢だった。それどころか、一発で落ちるような甘い台詞だと三井には感じられた。現実には叶わないとしても、この夢を思いついたのが流川の方だということは三井にとって重要な意味を持つ。
「……悪くねえけど、俺はアメリカには行かねえ。っていうか、まあ、行けねえしな」
「……なんで」
流川は不服そうに表情を曇らせた。
「なんでって……アメリカは俺の夢じゃねえもん。おまえの夢だろうが」
「俺の夢には……先輩もいる」
地を這うような低い声で、流川が再び大きな爆弾を落とした。それは、強烈な威力で弾けた。
これまで一度も告げたことがないし、認めたくはなかったが、流川に対する自分の気持ちはおおよそ自覚していた。自惚れかもしれないと自制しながら、流川が三井に向ける思いも薄々は感じ取っていた。
今、流川が落とした爆弾はすべてを無に帰し、抑えていた心を解放するきっかけとしては充分だった。
「……おまえ、基地に通い始めたらアメリカナイズされたんじゃねえ? 気障なヤツに口説かれてる気分になるぜ」
どうにか口を開いたら、とぼけた台詞しか出て来なかった。けれど流川には通用しない。
「先輩の夢に、俺は?」
自分を見ろと云うように流川が三井の腕を掴み、止まっていた空気が動く。
返す言葉に迷い、三井は強い視線をただ受け止めた。強い志を持つ黒い瞳は迷いなんてなさそうに見えて、それでいてどこか無邪気で、甘えも含んでいる。自分だけに向けられるそんな視線に対して、胸の高鳴りは抑えられなかった。もしも自分がすべて受け入れたらどうなるのかと一瞬想像もしたが、それは無理だと即座に否定する。三井はアメリカには行かない。
「俺は、夢なんてまだちゃんと決めてねえ。アメリカ行ってバスケやるなんて相当覚悟がいる夢だろ、俺を道連れにする気か」
「先輩だって、アメリカのバスケットが好きでしょ」
もちろん三井だって、バスケットボールの本場に憧れている。ただ、自分がそこでプレーする夢を見ていたのは中学までの話だ。
「見るのは好きだけど、俺は日本でやるよ。とりあえずは、大学でバスケやりてえ。あと、もっと先の将来的にはバスケを人に教えられたらな、とか」
「それが、先輩の夢?」
「あー、まあそうか。そうだな、今思いついたんだけどな」
「……いま?」
「そう」
本当に、たった今すらすらと出てきた思い付きだ。だが、口にした瞬間からしっくりときた。将来のことはずっと考えていたけれど、夢の形は定まっていなかった。アメリカ行きを否定したら、自分のしたいことが少し見えてきたのだ。派手ではないけれど、自分に相応しい夢だと思った。だが、どうやら流川は不満らしい。
「なんか……アバウト」
「うるせえよ。これでいいんだ」
思い付きには違いなかったので、三井は一人で笑った。
「ほら、その、つまんねーって顔やめろ」
納得出来ない様子の流川は、いつにも増して凶悪な顔をしていた。
「大好きなアメリカの菓子でも食って、切り替えろよ。マズイけど」
三井はずっと握っていたスナック菓子の袋からひとつ取り出して、自分では食べずに彼の口元に近づけた。寄り目でそれを確認した流川は、しばらくの間を置いた後に三井の手首をにわかに掴み、口を開いてぱくりと食べた。
指まで食いつかれるかと思ったら、指の先に付いた菓子の汚れを舌先で舐め取られて心臓が騒いだ。
「……指まで舐めんな」
三井が手を引っ込めると、それを追うように流川が身体を寄せてきた。
「じゃあ、どこなら舐めていい?」
「バ……やっぱおまえ外人ぽいぞ。どこも駄目だ」
なにがしかのスイッチが入ったのか前のめりに距離を詰めてきた後輩に気圧されて、三井は身をすくませる。視界の中がぼやけるほど顔を近づけてきた流川に、胸の前で握り締めたスナックの袋を取り上げられた。口では駄目だと云ったものの、心が彼を受け入れていることは三井自身よく分かっていた。隠しきれない高揚感と容認のサインを、流川だってきっと見破っている。
「マズイ味が、するかもしんねーけど」
スナック菓子をさっき飲み込んだばかりだということが気にかかったのか、流川がぽつりと云った。それは、彼がこれからすることの予告だった。
そんなことで、文句は云わない。三井は無言でいたが、腹は決まっていた。こうして至近距離で流川と視線を絡ませていることで幸福感が込み上げてくるのだから、今更自分に嘘はつけない。すっと近づいた流川が顔を傾け、身構えていた三井の唇に熱い息がかかった。そこに柔らかな感触が押し付けられて三井は目を瞑る。流川とキスなんて信じらんねえ、と意識する余裕があったが、徐々に増していく特別な空気の中でそんな意識は舌の上のラムネ菓子のようにすぐに溶け崩れていった。流川はゆっくりとした動きでキスの角度を変えてくる。どこかまだぎこちなく青いキスをしてくる後輩に対して、胸の中に温かい気持ちが湧き上がる。
しばらくして、助走は終わったとばかりに流川の舌が口内に滑り込んできた。お互いの舌先が絡み、二人の初めてのキスは、まるで甘い戯れそのものだった。
「……味、しねえじゃん」
息を吸うタイミングで唇を離して呟いた。
「……まだ。もっと」
流川は物足りないらしく、再び顔を寄せようとしてくる。
「もう時間切れだろ」
黒い制服の塊を手で押し戻して流川に身体を退かせた。昼休みはそろそろ終わる頃だ。誰も屋上に上がってこなかったのは、ただ単にツイていたから。
「なあ、さっきの話だけどさ」
立ち上がって、制服の汚れを大雑把に手で払いながら三井は話を元に戻した。
「とりあえず、おまえはもう余計なこと考えるなよ。自分とアメリカのことだけ考えろ。おまえの夢に俺がいるってのは悪くねえけど、でも、おまえに夢があるように、俺は俺の夢と向き合わねえと」
身体を屈めた流川が地面からスナック菓子の袋を拾った。
「先輩の夢って、さっき思いついたばっかのやつでしょ?」
安直に閃いたと思われて見くびられているらしい。手の中のパッケージを弄びながら、嫌味を云って流川は俯いている。突然吹いた強い風に、髪の毛を巻き上げられた流川の白い額が露わになった。意志の強そうなくっきりした眉が、ほんの少し下がり気味だ。不満があることは明らかだった。
「そうだけど、文句あんのかよ。しっくり来たんだから、あれが俺の夢だ」
「……俺も、別の夢をたったいま思いついた。聞く?」
顔を上げた流川が問う。
「別の夢ぇ?」
差し向かいで会話をしながら、少しだけ自分の身長を超している後輩を見上げ、三井は腕を組んだ。
「今度はどんな夢だよ」
「俺がアメリカに行かねえ夢。先輩と一緒に日本の大学でバスケをする」
言葉を失った三井は薄く唇を開いたまま、呆けた顔で流川を見つめた。おかしなタイミングで息を吸い込んで乱れてしまった呼吸を整える努力をしながら、今聞いた言葉を頭の中で反芻する。
「そんなの……ありえねえだろ」
「ありえない夢じゃねー。だって、俺次第だ」
「だけど……」
アメリカに行かない流川を、三井は想像した。一緒の大学に入れるかは分からないが、お互い日本にいれば少しくらい離れていても簡単に会うことが出来る。北から南まで、飛行機に乗れば数時間で行き来できるのが日本だ。
これもまた、悪くない夢だった。この夢に縋ったら、先行きに対する三井の憂いはほとんど解消される。アメリカなんて遠いところへは行かない流川と日本でバスケットを続けられたら、と秘かに願ったことは一度や二度ではなかった。
だが、これが流川の本当に望む夢の形であるはずがない。確実にどこかで妥協をした結果であって、その原因は三井だ。目先のことに囚われたそんな生き方は、流川に似合わない。それでは、すべての前提が覆ってしまう。
どうして彼に惹かれるのか。それを考えれば、三井が選ぶべき答えはおのずと見えてくる。
「……流川。それ貸せ」
三井は、流川の手元に向けて顎をしゃくった。
無言のまま、流川は自分の手を見下した。
「食うから貸せ」
三井は流川の手からスナック菓子の袋をやんわりともぎ取った。
三井の突飛な行動に対して流川は驚いたように瞬きをしたが、構わず三井は袋の中から菓子をひとつ取り出して食べた。ぽりぽりと音を立てて、食べ慣れた味を噛み締める。
「やっぱマジーなって思うけど、癖になってきたかもな。おまえはまた来週アメリカに行って、このマズイ物を俺にだけ買ってこい」
ただフェンスで区切られただけの土地。でも、そこは日本じゃないのだという。
前へ進もうとすることを止めない限り、彼は限りなくアメリカに近い高校生のバスケット選手だ。だから、彼は越えて行くべきだ。
「で、来年はパスポートのいる本当のアメリカに行け。あっちから、もっと良い物を俺に送ってこいよな」
「……先輩」
「あとさ、マーク・プライスに俺を気安く紹介出来るようなすごい選手になれ」
マーク・プライスは三井の憧れのNBA選手で、スリーポイントの名手だ。
流川が眉を顰めた。
「……簡単に云う。NBAに入って、更に、すごい選手になれって?」
「当り前だろうが。夢はでけえ方がいいんだよ。そういうわけで、日本の大学バスケは俺に任せとけ」
「でも……本当はアメリカに行かなくたってバスケは出来る。日本でなら、先輩と、ずっと一緒に」
「俺は、どんな形でもいいから、アメリカでプレーするおまえを見たいんだよ」
それは本心だった。
「……だけど」
「高い山ほどおまえは簡単に諦めねえだろ。そういうところを好きなんだっつってんだ。解れよ」
部活を休みたいと云われた時は、行かないで欲しいと思った。
アメリカに嫉妬したし、英会話なんて一生上手くならなければいいのにと秘かに呪いをかけた。
あの時は出来なかったのに、いま初めて本気で流川の背中を押してやりたいと思っている。
挑戦しない流川なんて、空気の抜けたボールよりも使えないに決まっているのだ。
「行ってこい」
少しでも力を分けてやりたくて、三井は前に出て流川の顔を両側から手で挟んだ。彼の額に自分の額を重ねて、囁く。
「日本から俺がずっと見ててやる」
途端に強く抱き締められて、三井は苦笑しながら、日向の匂いのする制服の背中に腕を回した。
「先輩」
「……なに?」
お互いの肩に顔を埋め合う。流川の低い声が身体の中に直接響いているみたいで心地好かった。
「俺は……アメリカにずっと行きてーって思ってた。基地に通うことが決まった辺りから、具体的に先のことも見えてきたし、夢に近づいてると思えて嬉しかった」
「うん」
肩が熱くなるほど、流川が深い息を吐いた。
「でも今は、アメリカに近づくほど、気持ちがブルーになってく」
「……それでも、おまえは行くべきだ」
三井は小さな声で答えた。自分と流川に云い聞かせるように。 おわり
タイトルは村上龍の小説「限りなく透明に近いブルー」をもじりましたが、実を云うと読んだことなくて、どっちかと云うと、ルナシーの曲の方が私には身近です。
でも、その小説が横○基地近辺を扱っていることは知っていたので、本当は流川を福生に通わせたかったのですが、流川の家からは遠すぎるだろうと思い我慢して、キャンプ座○に通っている設定です。
続きも書きたいかもと思ってます。