昼食時間のひとけのない校庭を屋上から見下ろして、水戸は懐のポケットを探った。得意ではない英語の授業を我慢した自分への褒美に、と煙草を取り出しかけたところで、タイミング悪く背後の扉が開く音がした。仲間かもしれないが念のためにセブンスターのソフトパックから指を放して振り向くと、扉の向こうから出てきたのは二個上の上級生だった。正確には、友達が所属している部活の先輩だ。
「なーんだミッチーか」
本人に聴こえるように云って、水戸はフェンスに背中を預けた。予想外だったが、彼が屋上に現れること自体は別に不思議なことではなかった。
「なんだとはなんだ、この不良高校生」
大股でこちらに向かってくる三井の眉間にはいつもよりも深い縦皺が刻まれていたが、険しい表情、と表現するほどのものではない。
「それ笑っていいの?」
ツッコミ待ちかなと水戸は苦笑する。だがどこから突っ込んでいいのかわからない。そばに来た三井は視界を塞ぐように前に立ち、極端な身長差を利用して水戸を見下ろしてくる。
「煙草吸おうとしてただろ」
屋上での水戸の行動パターンからの想像か、三井が断言した。煙草を取り出そうとしていた時は扉に背を向けていた。三井の目にはパッケージすら見えなかったはずだ。
「ああ、よくわかったね」
「やっぱりな。それより飯はどうしたんだよ? 食堂行かねえの?」
煙草を咎める意図は別にないらしく、三井は更に数歩近づいてきて水戸の隣に座り込んだ。校庭に背を向けて、長い足を邪魔くさそうに前に投げ出す。
「飯より、まずはこっちだよ。ミッチーは? 手ぶらだね」
水戸は立ったまま、綺麗に巻かれた三井の旋毛を横目で見下ろしながら尋ねた。ニコチン補給のために、水戸はチャイムとほぼ同時に教室を出てここに直行した。昼休みはまだ始まったばかりで、三井の方が屋上までの距離が教室から近いとはいえ、自分の数分遅れでやって来たのだから昼飯を食べ終わっているとは到底思えない。
「飯よりこっちだぜ。俺、ねみーんだよ、昨夜、遅くて……あーあ、まいった」
水戸の台詞を真似した三井は盛大な欠伸をした。どうやら彼は眠るためにここへ上がって来たらしい。
「夜遊びでもしたの?」
「……NBAの生中継観てたんだよ」
「冗談だよ」
「マジで少し寝ないとダメだ俺。授業中も寝たけど足りねえ」
「昨夜はどのくらい寝れたの?」
「んん……三時間くれえ」
三井は足を曲げ伸ばししながら尻の位置を変えて身体を横たえた。顔は水戸の方へ向けているが、横になった途端に目を瞑ってしまった。体育会系の男子高校生が昼飯よりも優先するくらいなのだから、相当眠いのだろう。安眠を妨害する気はないし、好きにすればいいが、枕代わりに腕を頭の下に入れた三井の体勢が気にかかる。それでは腕が痺れるだろうし、腕を外したくなった時に下がコンクリートでは痛いだろう。
「上着貸そうか? 枕代わりに」
暑かったので上着を脱いでもかまわないと水戸は思った。畳んで頭の下に敷けば少しはマシなはずだ。
「い……らねえ」
「そう」
当人がいらないと云うのならそれまでだ。深追いはせずに水戸が黙ると、三井がもぞもぞと体勢を少し変える。顔はこちらに向いたままだが、足を曲げて背中を丸め、ラクな姿勢を模索しているらしい。
その様子が、水戸の目には新鮮に映った。基本的に、水戸は三井がバスケをしている姿ばかり見ている。興味深く見下ろしていたら、 一度開けていた目を三井は再び瞑り、更にもう一度薄っすらと開け、目が合った。すると三井は口も開いた。
「やっぱ、貸してくれ」
「いいよ」
水戸はポケットから煙草のパックを取り出して尻ポケットに移し替え、学ランを脱いだ。適当に折り畳んでそばに寄せると三井が頭を浮かせたのでその下に挿し入れた。こんな風に世話を焼くのには慣れている。誰とは云わないが手のかかる友達がいる。これくらいどうということはない。
屈んだついでにその場に座り、姿勢を崩しながら水戸は「いい天気だから眠たくなるよね」と云ってみる。
「……水戸さ」
「なに?」
「ここで誰か待ってんのか?」
上着を枕にして、三井が視線を上げた。自分の上着が三井の頭の下にあることを面白いなあと思いながら、水戸は肯定の意味を込めて軽く頷く。
「ああ、あいつらが来ると思うよ」
「げっ」
あいつら、で通じたらしい。仲間はみんな購買に行っているはず。そのうち、ここへ上がってくるだろう。
「あれ、嫌なの?」
三井の反応が見過ごせず尋ねた。
「嫌とかじゃなくてよ……あいつら来たら俺、寝れねえじゃん、絶対」
「あーそりゃ大丈夫。あっちの方に連れてくから睡眠の邪魔はしないよ」
屋上の隅に向けて水戸は顎をしゃくった。眠る三井を囲んで昼食なんて摂れるはずがない。確実に三井いじりの会が開催されてしまう。
「おまえも行っちゃうのかよ」
「……なに、それ?」
行って欲しくないというニュアンスを感じさせる台詞に驚いて思わず聞き返した。まじまじと三井の顔を見下ろしたが、しかしその瞬間に水戸は、まんまと引っ掛かった自分の敗北に気が付いた。三井は悪戯を成功させた子供のような目をしていた。聞き流せば良かった、と思いながら、もはや苦笑する以外にはどうしようもない。
人を翻弄して三井は楽しそうに口元を上げている。
「おまえがいれば日よけになんのに、ってことだぜ」
「なるほどね……それなら、俺じゃ無理だよ」
身体の小さな水戸に三井の日よけは務まりそうもない。今だって三井の身体の半分以上が陽の下に晒されている。もっと近づいて、三井の上に覆い被さるくらいのことはしないと。そんな突飛な想像をして、それはそれで別の問題が生まれるしなぁ、と水戸は心の中で笑う。本当にやる気なんてない。
「無理じゃねえよ。もっと、おまえがこっちに寄るとかして──」
三井が云い掛けたとき、がこん、と重い音を立てて分厚い扉が開いた。三井は口を閉じ、水戸は顔を上げた。開かれた扉からのっそりと出てきたのは流川だった。目線を上げてその姿を確認した三井は「なーんだ流川か」と、聞いたことのある台詞を呟いた。
「……探した」
近づく流川が三井に向けて言葉を発した。その言葉から、二人がここで待ち合わせていたわけではないことを水戸は知った。流川の切れ長の目から伸びる視線は真っ直ぐ三井に向かっていて、視界に入っているはずなのに、水戸の方には一度も明確な視線を寄越さない。
「俺を? なんでだよ」
三井が学ランを枕にしたまま少しだけ頭を上げて流川に問うた。
「教室行ったら、ここにいるって」
「徳男か。なんか用か?」
頷いた流川は、横に回って三井の頭の傍らにしゃがみ込んだ。三井を挟んで水戸の反対側だ。水戸はその様子を目で追っていた。三井の隣で膝を折って屈んだ流川はなんだか聞きわけの良い動物のようで可笑しい。流川の方が三井よりも背が高く身体の厚みもあるように思うが、それでもやっぱり先輩である三井には、自分本位な流川でさえ従順なところを見せるらしい。
だが、次に流川が発したのはその態度とは裏腹にかなり現実的な言葉だった。
「先輩、金貸して」
「はあ?? なんで俺がおまえに金貸すんだよ」
「財布忘れた。今日、弁当作ってくんねー日だったから金がなくて昼メシ食えねー」
今日は良い天気だからこんな平和な会話が合うな、と水戸は頭の隅で思った。昼飯をまだ食べていないと云う流川はきっと飢えているのだろう、じっと動かず熱い視線を向けて、三井から発せられる次の言葉を、おそらくは、期待に満ちた心で待っている。他の存在など眼中にはないという顔をして。
「財布って…おまえなあ、財布ごと家置いて来たのかよ?」
「そう」
「はー……信じらんねえヤツ」
三井は目を瞑って呆れたように溜息を吐く。その一瞬の間に、流川が水戸を一瞥した。目つきは悪いが、睨まれたわけじゃない。道端の看板でも見るように、ふと存在に気がついて視線を寄越してきたという感じだ。水戸は、友好の意思があることを示そうと流川に軽く微笑んで見せたが、お返しはなかった。
そのせいではないと自分では思いたいが、次の瞬間水戸は衝動的に口を開いていた。
「昼飯代借りるためにわざわざここまで三井さんを探しに来たんだ? 三井さんよりもっと借してくれそうなヤツいそうだけど」
首を突っ込むつもりなんてなかったのに、思いがけず発言していた。しかも、『三井さん』と慣れない呼び方で。流川が僅かに目を見開いたのは、道端の看板が喋ったことに驚いたのかもしれない。それとも、なんで三井の隣にこんなものがと今頃になって訝しんだのか。どれにせよ、流川は答えないだろうと水戸は返事を期待していなかった。そして、流川の代わりに三井が反応した。
「そーだよ、石井は? 石井に借りればいいだろ」
「石井には百円までしか借りねーことにしてるから」
「は? なんで」
「返すの忘れてても石井は取り立てて来ねーから困る。先輩なら絶対返せって云うでしょ。その方が気楽」
「なんだその理由、それって逆に百円なら踏み倒してもいいみてえな云い方じゃん」
流川の云い訳じみた回答に三井が笑った。
「あーでも石井はなー、あいつはそうだよな。ってかおめーがすぐに借りたもん返せばいいだけの話だぜ、それ。ちゃんと、明日返せよ」
上半身を起こした三井は、学生ズボンのポケットから革の財布を抜き取った。結局、三井は断らないのだ。そうなると思っていた。水戸は、取り立てなら出来るから俺が貸すよ? と云って流川の反応を見てみたい誘惑に駆られたが、子供じみた意地の悪い発想だという自覚はあるし、三井を困らせてしまいそうな気がするので、内心に留めた。
「で、いくらだよ。五百円でいいか?」
小銭を探ろうとする三井の腕を遮るように流川が手を添えた。
「……先輩、一緒に購買ついて来て」
「はー? なんでだよ」
「行ってみねえといくら使うかわかんねー。足りねえかもしんねーから、一緒に来て」
「めんどくせーよ。俺いま寝るとこなんだよ」
「……ここで寝んの?」
「そう」
三井は小銭ではなく千円札を取り出した。
「千円ありゃあ足りんだろ。明日の朝練で返せよ」
話を切り上げるように、三井が千円札を押し付ける。流川はどこか不満げにそれを受け取ったが、なんの関連かちらりと水戸に視線を寄越してきた。視界の中の流川から反対に水戸は興味を失いつつあり、三井の隣でゆっくりと姿勢を崩して欠伸をした。釣られたように三井も欠伸をし、ここに居る意味を失った流川は、しばらくの間を置いた後に立ち上がった。無言で上から見下ろされた水戸は流川と視線を合わせたが、今度は微笑まなかった。
「いいの? 一人じゃ寂しいんじゃない? 一緒に行ってやれば良かったのに」
流川が出ていき、水戸は一番楽な姿勢をとった。三井同様仰向けに寝転がり、頭の下で腕を組む。気がつかないうちに気を張っていたのかもしれない。流川の姿を思い出しながら、本人が聞いたら気を悪くしそうな台詞をつい口にする。
「俺が行く意味ねえしな」
「でも、あっちはミッチーに来て欲しそうだったよね」
「別にんなことはねえだろ」
「あるでしょ」
「なんで……?」
「ホントはなんでかわかってるんでしょ?」
気が緩みすぎたのか要らないことを云ってしまい、水戸はすぐに後悔した。自分の立場を思えば、踏み込みすぎている。二人の間になにかがあるのかどうかも実際には知らない。
「……まあ、基本的に犬みてえなんだよ、あいつ。だから、ああいうトコあって」
云い訳のように三井が云う。
「懐いてるだけって云いたいの? それはそれで、そういうタイプのヤツじゃない気がするんだけど」
踏み入れてしまった足を引っ込めるタイミングが掴めず、水戸はその場に踏み留まった。
「いや……なんつうか、普段から人とつるまねえヤツだからさ。たまに、距離感がおかしいんだよな、あれは。うん、そんだけだ。まあ、付き合いが長くなるとあいつのことはわかるようになるぜ」
「ミッチーに甘えてるんじゃないの?」
否定されると深追いしたくなり、重ねて問う。
「甘える人、選んでるよね。ミッチーだって気がついてるでしょ?」
あれはどう見ても犬じゃなくてただの男だろ、と水戸は思う。三井の隣にいる自分を見下ろした目は、明らかな敵意を含んでいた。
「あんな、デカくて基本仏頂面のヤツは甘えるなんて技持ってねえよ。甘えても可愛くねえし」
「あはは。三年の女子からは流川クン可愛いとか云われてない?」
「あ……云ってるヤツいるな……」
三井はもう眠気がとんでしまったらしく、身体を起こして深く息を吐きながらフェンスの土台に寄り掛かった。
「購買、行ってきたら?」
「……だから、行く理由ねえって云ったろ」
「でも、犬なんでしょ。尻尾垂れてたんじゃない?」
流川を犬と云うのなら、三井にはしょんぼり下がった彼の尻尾が見えていたのかもしれない。水戸には、見えなかった。縄張りの印を無視して入ってきた厚かましい犬、というほうがどちらかというとしっくりくる。
「尻尾なんてねえよ。あれはそんな可愛いげはないつってんだろーが」
「さっき犬つったじゃん」
「そうだけど」
「一人になる俺のことなら気にしないで良いから行ってきなよ」
三井が吹いた。
「誰が、誰をだ」
そうだよね、と内心で答えて水戸も笑った。ただの軽口だから、流して貰ってかまわなかった。
三井が腰を浮かせて立ち上がった。制服の汚れを手で払う。
「しょうがねえなあ……ちょっと行ってくるか。あいつのポケット平気で穴とか空いてそうだし。俺の貸した金が心配だからな」
だから致し方ない、というニュアンスを三井は必要以上に主張している。つまらない云い訳、と思いながら水戸は笑顔で三井を見上げた。「こっちもちょうどいいよ」と云って、ポケットから煙草を取り出す。
「そろそろこれが必要なんだよね。だから」
スポーツマンの前では煙草が吸いづらいから、むしろ好都合──これも云い訳かもしれないが、理由なんて本当でも嘘でもどうでもいいや、と水戸は一本抜いた。
「ああ……」
三井の視線が煙草に向かい、それから水戸の顔へ移った。
「そっかよそういうことか。そりゃ我慢させて悪かったな」
素直に信じてくれたのか、三井は一瞬目を伏せた。そういう表情は寂しそうに見えるからやめろ、と思ったが、とても口には出来ない。
「上着サンキューな」
云ったそばからもう三井は背中を見せて歩き出している。ライターをかざして一口吸い込みながら、水戸は務めを終えた自分の上着を見ていた。
──俺の尻尾がもしも下がったら、ミッチーはここに残ってくれたかな。
演技でも本気でも、甘えることくらい自分にも本当は出来る気がした。けれどやらない。きっと彼の前では。少なくとも、今のところはそんな予定はない。
おわり
自分の心に気付いてるけど踏み止まる水戸かっこいいとか妄想してしまって、こんな話になっちゃいました。
流川はもうどうしても手に入れたがりって感じで、水戸とはまた違う魅力がある。
みっちーは、水戸に心が惹かれるけど、流川もほっとけない。そして、みっちーは求められることにとても弱いので、やっぱり流川のとこ行くんですよね。
この話の中では、そういう感じです。 書かないと思うのですが、この話の今後はたぶん、先輩を誰かに取られちまうかもという危機を感じた流川の猛攻で落ちた三井は流川と付き合う→卒業後、流川アメリカに行き続かなくて別れる→数年後に三井と水戸は久しぶりに再会し、なんの駆け引きも躊躇いもなく自然な流れで寝てみる→その後も何回か寝るが、水戸には女性の恋人がいるし、三井も恋人から奪おうとかそういう気はない不思議な関係を続ける→更に数年後流川が帰国して、元さや。
みたいな感じかと思われます。妄想楽しいです。