キツネの八つ当たり

「チョコ欲しいんすけど」
「あ?」
「俺にチョコください」
「は?」
「先輩から、チョコレートが欲しい」
「はあ?」
「オネガイシマス」
 人に向かって下げたことがあるのかと思われる頭を、流川楓は三井寿に下げた。
 部室棟から体育館へと繋がる廊下の一角での出来事だった。

 補習のために学校に出てきた三井が、後輩と数日ぶりに直接交わした会話はそれだった。三日前の朝に一緒に近所の公園でトレーニングをした時は主に部のことや下らないバカ話をして、こんなに不可解なことは云っていなかった。流川楓が人に頭を下げる姿なんて、いまだかつて見たことがない。少し会わなかっただけで性格がこれほど変わるわけがないので、見た目はそのままで中身が別人と入れ替わってしまったかのようだが、まさかそんなドラマや漫画のような事態は起きていないはずだ。
「なに云ってんだよ。なんで俺がおまえにチョコおごんなくちゃなんねえんだ」
 当然の疑問を口にしながら、三井は廊下の壁に寄り掛かって腕を組んだ。こちらを見下ろして何か云いたそうにしている流川は、言葉を探しているのか黙り込んでしまった。沈黙の時間が、妙に重く感じられる。
 二月に入って三井が自由登校になってから、部員たちに会う機会がなくなった。もちろんこの後輩とも、本来ならそうだ。けれど彼とは、朝の自主練習に使っている公園や浜でばったり会うことがあり、三日前も一緒に練習をした。流川の家からは遠い場所だが、何故ここまで来るのかと尋ねたら、たまに気分を変えて違うところで練習したくなるのだと云う。彼が現れる日は不確定なので、今日は来るんだろうかと毎朝気にしながら、三井は練習をこなしている。
 この後輩は基本的に一人でいることが好きなくせに、何故か三井には妙に懐いているところがあった。前々から三井はそう感じていたし、宮城や彩子にも指摘されたことがある。そんなことを云われたおかげで少しばかり流川に対する言動が甘くなってしまうことも自覚していたが、顔を合わせるなり人を拉致して「チョコくれ」はさすがにないだろう。
 三井はときどき補習を受ける必要があり、今日もどうせ登校するのならば部の朝練に顔を出そうと思った。久しぶりに使い慣れた体育館を使えるのが嬉しくて朝も早い内に登校したところ、部室から体育館に向かう途中の流川に行き合った。多分バスケ部一番乗りの後輩は顔を合わせるなり挨拶もそこそこに腕を掴んできて、三井は廊下の隅に連れて行かれた。そうして、この不可思議な会話が始まったというわけだ。
 そもそも三井には、後輩の云っている意味がよく分からない。チョコが欲しいらしいが、会うなり先輩に集るような後輩ではなかったし、もっと云えば、彼はチョコには困っていないはずだ。
 三日前の朝に会ったとき、会話の中でチョコレートの話が出たことは出た。だがチョコが欲しいとは云っていなかったし、むしろ流川は甘いものがあまり好きじゃない、という内容の話だったと三井は記憶していて、たったいまチョコをくれと云った姿とは大いに矛盾している。
ただ、『抹茶のチョコは食べられる』とかなんとか、そう云えば云っていた。
(そうだ──云ってたな)
 三井はその時の光景を詳細に思い出した。やたらと人の目をじっと覗き込んで、訊いてもいないのに自分の好みを語り出したので寡黙な後輩らしくないなと少し意外に思ったのだ。その時は、『明日になったらいくらでも手に入るだろ』と三井は湘北一のモテ男に云った。実際次の日はバレンタインだったし、貰う母数を考えれば、抹茶味のチョコレートの一つや二つ混ざっていたっておかしくない。それを見越して云ったのに、流川は面白くなさそうな顔をして黙り込み、三井からボールを奪って公園の貧弱なリングを壊しそうな勢いでダンクシュートをかまし、飛び降りる前になんだか恨みがましい目で三井を見下ろしていた。怒っているようにも見えたが、怒る理由が分からないし、時間が来たので問い質すこともなくすぐに解散した。あの日からすでに少しばかり流川の様子はおかしかったのだ。いま、思い出した。
「おまえさあ、この間からどっか変じゃねえ?」
「……変じゃない。バレンタインのチョコが、欲しーだけっす」
「あのなあ」
 嫌味か、と三井は贅沢な造りをした顔の後輩と対峙しながら眉根を寄せた。
 そもそも、この後輩は色々と間違えている。
 まず、三井は男であるから、後輩にバレンタインのチョコを買ってやる謂われはないということ。更に、バレンタインはすでに終わっているということ。加えて、この後輩はバレンタインに死ぬほどチョコを貰ったばかりだということ。
「チョコならもう充分貰ったろうが」
 二月十四日、三井は登校していないから話を聞いただけなのだが、それはすごい光景だったらしい。体育館には普段の何倍もの女子生徒が押し掛けてきて、練習もままならないほどだったそうだ。邪魔だからといって彼女たちを排除するわけにもいかず、彩子がチョコの回収作業を行ったという。加えて、学校宛てに届いたチョコとファンレター。『あいつだけに段ボール五箱分っすよ?』と宮城が電話で嘆いていた。すっかり流川の名は全国区になっていて、FCの支部もあちこちに増えているとかいないとか。
 しかし、学校で渡されたチョコも届けられたチョコも、流川はすべて職員室に置いて帰ったらしい。流川楓の武勇伝に新しい話が加わった。
「致死量のチョコがあちこちから届いたんだって?」
「貰ってねえす」
「ウソつけ、聞いたぞ。しかも置いてったろ」
「持って帰ってねーから貰ったとは云わねえ」
 好きじゃないものを好きじゃない人間に貰っても眼中にない、ということなのか、流川は頑なに否定する。
 後輩の足元にも及ばないが、三井は今年合計七個のチョコを貰った。マネージャー二人と、同級生の女子が三人と、三井のファンだという二年生と一年生の女子がそれぞれ一人。どうやって住所まで入手したのかは知らないが、わざわざ家まで届けてくれたのと郵送が半々。先輩の三井がそれで充分満足したというのに、何倍も貰ったはずのこの後輩の不遜な態度はどうだ、と少しばかり腹が立ってきた。
「なんかムカツクな……大体、変な話だろ、チョコ好きじゃねえって云ってたろうが。俺に頼むほどチョコ食いたいなんておかしいだろ? 置いて帰っといて」
「別に食いたいわけじゃない」
「はあ? さっきチョコ欲しいって……もうおまえさ、云ってる意味が──」
「一個でいい」
「だからあ」
「先輩からの……一個」
「え……?」
 どういう意味だよ、と勢いに任せて尋ねかけた。だが、訊けなかった。強い視線を感じて、三井は視界を広げた。廊下の途中に、こちらを窺っている女子生徒が二人いる。どこかの部員が朝練に出てきたのだろう。なにか囁き合うような仕草をしているので気になった。揉めているとでも思われているのかもしれない。
「……ちょっと、こっち来いよ」
 手首を掴んで促し、部室まで一緒に戻った。誰もいない部室で、三井は引っ張って連れてきた後輩と対峙する。
「先輩から一個って、まさか俺のこと云ってんのか?」
 話を再開すると、流川が素直に頷いた。
「さっきから、そー云ってるハズっすけど」
「そうか? いや……だけどそう云ったって……それって、どういう──」
 頭の中の混乱が、そのまま口から出た。後輩の主張は一体どういう意味を持つんだ、と考えながら、三井は途中で口を噤んだ。
 三井だって、頭の回転は悪い方ではない。
 ささやかな疑問は、自然とひとつの答えに至る。
 いままでの、後輩のすべての言動がその意味を裏打ちする。わざわざ三井の家の近くまで彼が練習しに来る理由。誰ともつるまないはずの男が懐き、その目はいつも真っ直ぐ三井に向けられていた。
 つまりは、そういうことだ。
「マジかよ……」
 思わず呟くと、寡黙な後輩が視線だけで返事をした。いままでは、その切れ長の目もただストイックな印象だったけれど、その目の奥にある熱っぽい輝きが、いまなら見えた気がした。
「先輩からのが一個あればいい」
「ちょ、ちょっと待て、落ち着け。もうおまえナニ? 頭整理する時間がいるだろうが」
 どうやら自分はこの後輩に恋愛対象と見られているらしいと、しっかり三井は理解した。不思議と嫌悪感はない。意外にもすんなりとこの状況を受け入れている自分には、少し驚いている。
「なんで、こんな急展開なんだよ?」
 この間まで普通に接していたくせに、いきなり流川は別の扉を開いたのだ。これまでただの先輩と後輩としてやってきたのに、突然心の距離を縮めようとしてきたのには、なにかきっかけがあるのではないか。三井はそう感じた。
 思った通り、眉を寄せて子供っぽい表情を歪めた流川が、云い難そうに口を開いた。
「……どあほう」
「なんだと? あ、桜木か」
「どあほうが、本命からチョコ貰ったって自慢してきた。くだらねーって云ってやったら、俺に嫌味云いやがった」
「嫌味?」
「数が多くても本命からは一個もねーだろって」
「ああ……けっこう痛いとこ突くな」
 桜木はああ見えても頭が回る。ライバルだと思っている流川に対しては、特にそうだ。流川のプライドを傷つける方法もよく分かっている。
「あんなヤツに負けるなんて冗談じゃねー」
「おまえら……くだらねえこと張り合うなよ」
 数では流川の圧勝だが、桜木は本命である赤木晴子からチョコを貰い、流川に勝った気分になって煽ったのだろう。そしてそれは多分、的確に流川の痛いところを突いたのだ。
「でも、勝ちたいだけじゃない。どーしても先輩からのチョコが欲しい」
 流川は今度は頭を下げなかったが、上目遣いに三井を見上げる顔からはその必死さが嫌でも伝わってきた。
「……おまえの本命は、俺……ってことだよな」
 もはや尋ねなくても分かり切っている。だが一応言葉にして確認する。
 流川は頷いて、もう一度「オネガイシマス」と多分あまり云ったことのない台詞を繰り返した。今日一生分云い尽くすのではないかと思える。その姿は、健気と云ってもいい。土下座して頼めと云ったらしそうな気さえする。
 大人しく返事を待っている後輩を前にして、三井は思案する。この状況でチョコをやると答えるのは、ただの情けではなく、もっと深い意味を持つ。
 しばらく考えたのち、三井は腹を括った。ふっと息を細く吐き出して目を伏せる。
「……しょうがねえな」
「いいんすか……?」
「いいぜ」
 流川の目が分かり易く輝いた。とてつもなく単純だ。
 男の後輩にチョコを強請られて嫌な気がしないなんて本来の三井なら有り得ないが、しないものはしないのだからしょうがない。流川のことを好きだとか嫌いだとか恋愛対象として見ていたわけではなかったが、いまにして思えば、三井だって彼が傍にいることを受け入れていた。それは、宮城たちを相手にした時に感じる気持ちとは少し違っていた。いまなら分かる。
「おまえ、ウンって云うまでしつこそうだし」
 からかうと、流川は不満そうに口を尖らせた。反応が面白くて、楽しくなってきた。
「でも、そうだな、一回ちゃんとした言葉で云ったらチョコやるよ。えーっと、なんで俺から欲しいんだっけ?」
 腰に手を当てた三井はわざと流川から視線を外して、首を傾げる。
「……本命だから」
 渋々、といった風情で流川が答える。
「てことは、つまりどういうことだよ?」
 三井は重ねて尋ね、流川は口を噤んだ。分かってるだろうと云いたげな顔を三井は意地悪く見返して、促すように顎をしゃくって容赦しなかった。
「俺を動かしてえなら、さっさと云え」
 流川は上目で天井を見上げながら口元に手を添えて、しばらくなにか考えていた。そして、ようやく口を開いた。
「好きだから」
「ふーん?」
「たぶん、初めてそー思った」
「初めて? 初恋だってことか?」
「そう」
 開き直ったのか、流川にしてはよく喋った。表情の変化はいつものように最低限抑えられているのに、いままでに見た記憶のない、人間くさい顔をしているように見えてくる。
「だから、チョコください」
『勝ちたいだけじゃない』なんてさっき云っていたが、実際にはよっぽど桜木に負けたくないのか『チョコくれ』一辺倒の後輩を見て、三井はついに吹き出した。必死だ。
「抹茶がいいんだろ?」
 流川が頷く。
 しかし、心なしか表情の緩んだ後輩の顔を見ていたら三井の頭には新たな疑問が浮かぶ。
「あれ? 順番変じゃねえ?」
「順番?」
「だって、おまえこのあいだ抹茶チョコなら食えるって唐突に云ってきたけど、もしかしてチョコくれって俺にアピールしてたんじゃねえの? でもあれってバレンタインの前の日じゃん。桜木関係なくねえ?」
「……ホント云うと、バレンタインの日に先輩に貰えねーかって、少し期待して云った」
「それはちょっと……期待が大きすぎだろ?」
 いまにして思えば、あの時、流川はチョコの話を意図的にしていた。それに気づかなかった三井が話を流したために彼は落胆して不機嫌そうにしていたのだろう。
 けれどその時の三井は流川にチョコをやろうなんて思いつきもしなかった。三井にとってバレンタインチョコは貰うものだ。三日前の流川はそもそも恋愛対象ではなかったし、友チョコなんて贈り合う習慣もない。
「好きなチョコの話されただけじゃあな。俺はエスパーじゃねえぞ」
「わかってる。……だけど、それでも期待してた」
「……へえ」
 期待と不安に満ちたバレンタインデーを流川が過ごしただなんて、生まれて初めてのことではないのか。そう考えると、三井だって気分は悪くない。
「おまえでも、そういうことあんのな」
「あるみてーす」
「そういうのも、初めてか?」
「そう」
「ふーん」
 こいつは、あの『流川楓』だ。その男の初めてが自分なのだと改めて理解して、三井は薄く笑った。素直に嬉しいと感じている自分の心を認めるしかなかった。ここまで心の内を晒してきた相手に対しては、こちらも真面目に向き合うしかない。
「でも、おまえさ」
 三井は手を伸ばして、後輩の左右の手首を掴んだ。目を見張る後輩と、真正面から視線がぶつかった。
「チョコが手に入ればいいわけ? 違うだろ」
 掴んだ手を軽く引き寄せながら三井は云った。
 戸惑いを見せながらも歩み寄った流川が、三井の領域に踏み込んだ。
 先輩と後輩という間柄ではまずあり得ない近さで、三井は相手を観察した。後輩が隠し持っている幾つもの面をもっと深く探りたくなっていた。艶やかに光る彼の瞳はこうして見るとそれなりの男っぽさと色気があり、誰にもなびかないと誰もが思っているはずの流川楓の視線を自分が繋ぎ留めていることにこの上ない高揚感を覚えながら、三井は囁く。
「別の期待にも応えてやろうか?」
 喉を上下させて流川が唾液を飲み下した。それが彼の返事だと三井は判断した。
 繋がった手をゆっくりと引いて、三井は手近なロッカーの扉に背中を預けた。流川が三井の背後に両手を突いてスチール製のロッカーが独特の金属音を立てる。まるで自分を占有しようとしているみたいな後輩の振る舞いに、三井は秘かに興奮した。


 どう考えても脈なんてない。期待するのは馬鹿だ、と理性は残酷な真実を頭の中で繰り返し告げていた。
 けれど、もう遅い。無関心を装ってもそれは本心ではないのだ。一度でも意識したことを完全に記憶から排除することなんて出来ない。
 淡い望み程度だった思いはいまや期待と名を変えた。バレンタインデーに朝からそわそわと浮き足立っている男の気持ちを流川は生まれて初めて理解した。
「あー、もう袋が破れるかもね。段ボール欲しいわねえ。あと、私も誰かになにか貢いで欲しいぞっと」
 流川宛のチョコレート回収係と化して仕事の増えた彩子が、聞こえよがしに云った。迷惑をかけているのは理解しているが、俺のせいじゃない、と流川は聞こえない振りをしながらリングにシュートを放った。この騒動について、自分は何のリアクションも起こしていない。直接受け取ったチョコレートは彩子と晴子が配った義理チョコだけだ。それは礼儀として持ち帰ることにしたけれど、他の人間が置いていった物については、一切持ち帰る気はない。
 体育館に一時溢れていた女子生徒の数は五十人を下らなかった。見たこともない制服を着た生徒まで紛れ込んだ集団は、流川にとっても部員たちにとっても練習の妨げでしかなかった。チョコの回収を行わないことにはどうにもならないと判断した彩子がてきぱきと場を仕切り、女子生徒たちはまるで奉納でもするかのようにうやうやしくチョコレートを預けていった。
 上手く生徒を捌き、体育館はようやくいつもの環境に戻ったが、それでも流川は時折入り口を盗み見た。いまにもその扉が開いて、いつもの自信を湛えたあの男が軽い挨拶をしながら入ってくるのではないかと心待ちにしていた。
 流川は昨日、いつもより早起きをして三井の家の近くまでトレーニングに出かけた。すでに何度か偶然のように彼と遭遇し、行動パターンは把握していた。いつもの公園に自転車で入っていくと、リングをひとつ確保して練習を行っていた三井は流川を見つけて「また来たのか?」と笑った。学校に行っても三井がいないから、流川はそこに行くしかなかった。
 三年生が登校しなくなった教室に、一度流川は入ってみたことがある。視聴覚教室からの帰りだった。静まり返った廊下を一人で歩いた。三井がいる時に何度か用事を作って会いに行った三年三組の教室に入り、三井の椅子に座った。誰もいない教室で、流川は横向けた顔を机に伏せてしばらくじっとしていた。眠ってしまうかと思ったけれどそうはならなかった。机から三井の匂いがするような気がして、ただ離れ難かった。
 あの時に感じた気持ちは、言葉にして云い表せない。いろいろな感情が混然として、一言ではとても片付けられない。ひとつだけはっきりしたのは、三井に会うためには自分が動かなければどうにもならないという簡単な事実だ。
 だからトレーニングの場所を変えた。短い時間ながら、何度か一緒に朝の自主練をした。そうして一緒に過ごしているうちに、三井もこちらを気に入っているのではないかと思うようになった。流川が押しかけても、彼は一度だって迷惑な顔をしなかったし、むしろ歓迎されていると思えた。態度や仕草、近くで声を聞き、そう思うに至ったのだ。
 だからつい、期待した。昨日、三井にチョコレートの話をふった。自分の好みまで伝えた。そんな話をする予定はなかったのに、気がついたら勝手に口走っていたのだ。
 思い切って告白でもしてしまえば良かったのかもしれないが、それはまた別のタイミングだと思った。もしも三井が自分に少しでも好意を持っていてくれるならこういったイベントに乗ってチョコを貰えるかもしれない、と流川は単純に考えた。バレンタインにチョコを貰うという行為が流川にとってあまりに普通のことだったので、この発想の違和感には気づかなかった。
 そして今日、三井は学校に来ていない。しかし部活の時間に合わせて登校し、ひょっこり現れるという可能性もまだ残っている。よって流川は扉の観察から目が離せず、集中力を多少欠いていた。リングの周りに数人ずつ集まってシュート練習をしていたが、パスされたことに気がつかず、取り損なって跳ね返ったボールが身体に当たったことに桜木が文句をつけてきたので、ちょっとした喧嘩になった。
「いい加減にしなさい!」
 彩子がどこからか取り出したハリセンで二人揃って頭を叩かれその場は収まったが、部活を終えて部室へ戻る準備をしていたら、まださっきの喧嘩を根に持っている桜木が絡んできた。
「いつも以上に今日は腑抜けてやがるみてーだな、キツネ」
 結局最後まで三井が部活に現れることはなく、虫の居所が悪い流川は桜木を無視した。いまは付き合う気分ではなかった。だが、桜木は結構しつこい男だ。
「そーか! ワカッタぞ」
 どうせなにも分かっちゃいないと思いながら流川はさっさと水飲み場に向かう。
 桜木が後から付いてきた。
「オレにはお見通しだ! てめーのことだ、さてはバレンタインデーがもうすぐ終わってしまうから焦ってるんだろう!?」
 俺がなにを焦るんだ、と思いながら流川は水を飲んだ。呆れて云い返す気にもなれない。
「やはり……」
 無視したことを肯定ととったのか、桜木は独自の考察を続ける。
「てめーはキツネだ。本当は油揚げが好きなんだろ」
「……どーいう意味だ」
 無視しようと思ったのに、突然出てきた単語が聞き捨てられず、口を拭いながら桜木を振り返った。他の部員たちはすでにこの場を後にして声の届かないところへ移動していた。この意味不明な会話は誰にも聞かれてはいない。
「本当は油揚げが欲しいのに、オマエが貰うもんは肉とかコロッケとか、そういうもんばっかりなんだろ。だから焦って落ち込んでるに違いねえ。バレンタインの日に落ち込んでるヤツは一個もチョコを貰えない可哀想な男に決まってる。だが、てめーはいちおう何個かは貰っているみてえだからな。欲しいものが別にあるってことだろ」
「……落ち込んでなんかねー。云ってる意味もわかんねー」
 流川は表情を変えずに云い返した。だが、そう的外れでもない桜木の指摘に内心では動揺していた。
「ウソつけ、いつも眠そうだが今日はいつも以上にぼーっとしてやがったクセに」
「別に。いつもと変わんねえ」
 桜木が妙な観察眼を発揮している。
 実際流川は練習に集中していなかったし、三井は現れず僅かな希望が消え、気持ちが萎んでいた。
 だが指摘が当たっていてもどうせ本当のことは云えないので、流川は誤魔化すために桜木の様子を観察し返した。彼はさっきからずっと手に赤い紙袋の包みを持っている。
「そんなことより、さっきからこれ見よがしに持ってんなソレ」
 桜木の身体つきに似合わない小さくて可愛らしい包みなので、なんだか妙な感じだ。
「これはオレがハルコさんからいただいたバレンタインチョコだ! チョコレートタルトというシロモノだぞ。いまのおめーには酷な話だろうがな」
 桜木が紙袋の口を開いて見せてきた。中にはまた透明な袋が入っていて、ハート型のタルト生地の中にチョコが流し入れられたものがいくつか見えた。数秒目にして、流川はすぐに視線を戻す。
 いちいち桜木を相手にすると本気で疲れるし、そんな気力もなかった。だから溜息を吐いてやりすごそうかと思った。だが、いまチョコレートの話はやはり勘に触った。
「そんなの俺にはどうでもいい」
「なんだとうっ! ヤセ我慢か!」
 流川が冷たく云い放つと、桜木が流川の胸倉を掴んできた。チョコレートを見たら無性に苛々して云わずにはいられなかった。彼が赤木晴子のことを本気で好きなのは知っている。だから、チョコを貰った喜びの度合いも想像がつく。それを理解しているからこそ、余計に流川は自分を制御することが出来なかった。
「チョコなんてくだらねー。大体、一個くらいで自慢するヤツはおめーくらいだ」
「て、てめーはちょっと人より多めに貰ったからって、エラソーに!」
「ちょっと? ああ、おめーの百倍くらい」
 桜木の手を払い除けて云った。
 本当はその他大勢から貰ったチョコなんて嬉しくもないし、自慢する気にもなれない。自惚れてもいない。けれど桜木を挑発するためだけに、抑制できない言葉たちが次々と零れる。
「一個貰えてヨカッタな。義理かなんか知らねーけどよ」
 云い捨てて、この場を離れようと流川は歩き出した。
「待てコラァ!」
 歩き出していた流川の足を桜木の怒声が止めさせた。振り返ると、桜木は両手の拳を握り締めて不動明王のような顔をして立っていた。
「上から目線でエラソーにしてるが、てめーのは数が多くても本命からのが一個もねーんだろ!!」
 流川は息を飲んだ。身体が凍りつく。返す言葉が見つからない。
「ちょっとしたキツネの八つ当たりくれえはことわざでなんかありそうっぽいから許してやってもいいかと思ったがもう許さん! 云っていいことと悪いことがあるだろうが!」
 キツネの八つ当たりなんてことわざは、聞いたこともない。しかしいま、そんなことは大した問題ではなかった。
「……おめーには、云われたくねー」
 それしか云い返せなかった。云っていいことと悪いことがあるのはお互い様だ。先に攻め込んだのは自分だとは解っていても、流川はひどく傷ついていた。そして今度こそ桜木を置いて足早にその場を離れた。
 部室には真っ直ぐ向かわず、流川は部室棟のトレーニングルームに入り込んだ。部員たちが帰るまでは、そこで時間を潰した。誰とも口を聞きたくなかったし、これでまたチョコレートの話をされたら血が上って誰かと喧嘩になってもおかしくなかった。
 時間を置いて部室に戻り、一人で黙々と着替えをした。
 不要なチョコレートは職員室に持っていくように彩子に頼んであったから、流川は登校時と同じ量の荷物を持って家に帰った。
 有り得ないことだが、その日の夜はなかなか寝付けなかった。眠ることがバスケの次に好きな流川にとっては、滅多にない経験だった。
 翌日も、少し引き摺った。三井に会いたいと漠然と思ったけれど、気持ちの整理がつかず会いには行けなかった。
 翌々日、学校で三井の姿を見つけた時はすぐに行動した。難しいことはなにも考えていない。ただ後悔はしたくないと思った。身体が勝手に動き、云いたいことを云った。そして、それは三井に伝わった。十分すぎる最高の結果だった。


「待てどあほう」
「ぬ、ルカワか……」
 部活に向かう途中、無駄に目立つ赤頭を昇降口の手前で見つけて、背後から流川は呼びかけた。
 訝しげな顔で振り返って足を止めた桜木に追いつき、差し向かいに立つと、挑発するように顎を上げて云った。
「俺も本命からチョコ貰った」
 いきなり流川は、とっておきの一撃を桜木に放った。この機会がくる瞬間を、ずっと狙っていた。
「な……ウソつけ!!」
「ウソじゃねー」
 スポーツバッグのポケットに数日間仕舞っていたモノを流川は取り出した。証拠品の『メルティーキッス抹茶マーブル』だ。スリムタイプである。三井に買って貰った。
「フ、フハハハハ! キツネ、いい加減負けを認めろ!」
 証拠の品を見せても怯んだ様子はなく、逆に桜木が笑った。その不可解な様子を流川は訝しむ。
「オマエの貰ったそれはコンビニに売ってるやつだろうが! オレのはハルコさんの温かい心で溶かして固めた手作りのチョコレートだぞ!」
「む」
 温かい心で溶かしたと桜木が勝手に云っている代物は確かに手作り風だったと、バレンタインの日に無理やり見せつけられた流川も覚えている。ちなみに流川が彩子と晴子から貰ったチョコは中身を見ないで母親にあげてしまったので同じものだったのかどうか分からないし、そのことをわざわざ桜木に教えるつもりはない。
 三井から貰ったチョコは、桜木の云う通りコンビニで買ったものだ。だが、桜木が勝者を気取るにはまだ早い。流川はほんの少しだけ、目を細めて笑った。まだ強いカードを残している。
「云っとくが、俺はチョコだけじゃねーぜ」
「なんだとう? チョコ以外もナニカ貰ったのか?」
 流川は少し間を置いて、正面から桜木を見つめ返す。
「……キスした」
「な!?」
「キスした」
「きっ……キス! キスってあの……キッスか!?」
「声でけーなどあほう」
 部室での三井とのキスを思い出して、流川の心は浮き立った。あの時、誘われるままにキスをして、本能のままに三井の身体を抱き締めた。触ってみたいとか、キスしたいとか、頭の中だけで考えていたことが急遽現実になって多少たじろいだが、流川は起きたチャンスを決して無駄にはしない。
 けれど、そんな夢のような時間はいつまでも続きはしなかった。ぞろぞろと他の部員たちが登校してきて、すぐに離れなければならなかった。
「てっ、てめえはなんて破廉恥なコトを……!」
 桜木が憤慨する。
 高校生にもなってキスくらいでガタガタ云うなと思ったが、桜木が大層なロマンチストで恋愛慣れしていないことは知っている。
「おめーは奥手すぎだ」
 云いながら、流川は自分の靴箱へ向かう。別に応援してやるつもりもないが、尻くらい叩いてやろうかと思った。一歩踏み出してみれば、世界はこんなに変わるのだ。足取りだって、こんなに軽くなる。夜寝る前にあれこれと空想したり、思い出し笑いをしたくなったりもする。流川が初めて知った世界だ。
 昨夜は声が聞きたくなって、三井に電話をかけた。いままでにしたことのない時間の使い方をしている。
 生まれて初めて、他人に心を奪われた。
 数日前の惨めな自分が全部嘘のようだ。
「エラソーにするな! ちょっと自分がイイ思いしたからって……」
「もたもたしてる時間が勿体ねーって教えてやってんだ」
 行動しなければ始まらない。桜木の相手はあの赤木晴子だから、自分から踏み出さないと永遠に距離は縮まらないに違いなかった。
「おい、待てキツネ」
 桜木は自分のクラスの靴箱に向かわず、流川の後をついてきた。
「オレにはオレの考えがあるんだから放っておけ。それよりてめーの本命ってのは、どんな子だ? そんな仏頂面とキスしてくれる子なんてものすごい女神のような女性だろ。この学校に居るのかよ? 一年なのか?」
「……オトナ。すげーエロい」
 流川は、いま云えることだけを答えた。三井は自分より二学年分は大人だ。そして相当にエロい。嘘はひとつも云っていない。
「と、年上!? くっそぉ……このスケベ野郎!!」
「俺の勝ちだ。おめーは負け」
 ぷるぷると怒りに震えながら打ち返す言葉もなく立ち尽くすだけの敗北者を放置して流川は靴を履き、さっさと昇降口を出た。いまはここに居ない年上の男について思いを巡らしながら部室棟へ向かう。ただ歩いているだけなのに喜びが込み上げて、小さな灯が灯ったように胸の奥が温かい。
(早く、会いてー)
 流川は明日の予定を考えた。
(明日、雨じゃねーよな……?)
 雨が降るのは困る、と流川は思った。早起きをして、彼の住む街まで自転車を飛ばすからだ。

おわり
★ちょこっと一言