最高の休日

 じわじわと上がり始めた気温の中で目覚め、三井は眩しい日差しから顔を隠すように手で覆った。眠る前はきっちりと引いたはずのアイスグレイのカーテンが、すでに一部開かれている。このオーダー品の遮光カーテンはそのまま引いていると部屋の中が暗すぎてなかなか自然には目が覚めないから、先に起きた方が開けておくのがこの家の暗黙のルールだ。
 今日は早くからよく晴れているようで、部屋の中には明るい光がたっぷりと射し込んでいる。窓の外から聞こえてくるタンタンという耳慣れた音を聞きながら、三井はずっと同じ体勢だった身体をベッドの中で伸ばした。庭には一本のバスケットリングが立ててあり、家人がいま使用中らしい。
 好きな時間にこうしてボールをつくために、人家から少し離れた土地を買って家を建てた。昔は後輩でありチームメイトだったのに、どこで間違えたのか今や一生を共にすると誓い一緒に暮らしているパートナーの流川は、毎日かかさずそのリングを使っている。
 三井は現在時刻を確認しようとナイトテーブルの上に手を伸ばしたが、携帯電話が見当たらなかった。休みの日にまで三井が仕事のメールをやりとりすることを嫌がる流川がまた勝手に移動させたのだろう。たぶんまだ七時前、とぼんやりした頭で見当をつけながら、もそもそとベッドから抜け出す。窓の前に立ってもう一度伸びをしたら身体が震えるほど気持ちが良くて、思わず言葉にならない声が出た。だんだんと頭が冴え始め、窓を開けて風を入れる。平屋ゆえに窓を開ければ目の前は庭だ。手前に屋根付きのテラスがあり、その奥で朝から汗をかいている流川がこちらに気がついて振り向いた。門の向こう、道路を挟んだガードレールの外に、白っぽく光る海が見える。
「風呂、先使うからな」
 三井は声をかけた。ボールを持って頷く流川を見届けてから、部屋を出ようとドアを開くと飼い猫のアンがするりと寝室に入って来たので、ドアは開けたままにした。
 ちゃんと宣言したにも関わらず、使用中のバスルームにあとから流川が勝手に入ってきた。シャワーは二つ並んでいて、海外暮らしをしていた流川の「日本の家の狭い造りがイヤだ」という強い主張によりこの家はどこも広く設計されているものの、大きな体格の中年男二人が風呂場に並んで立てば、特に夏は、暑苦しさに拍車がかかる。
「もうちょっと外でやってりゃいいのに。こっちは、ゆっくり一人で洗いたいんだよ」
「待ってたら遅いし。あんたはのんびり細かいとこまで洗ってるから」
「誰のせいだと……」
 昨夜、日付が変わる頃まで二人で起きていた。三井は眠かったが、流川が離さなかった。その時に一緒にかいた汗をこうして丁寧に洗い流しているのだから、文句を云う権利はある。腹を立てた三井は手にしたボディ用のスポンジで新たに作った泡を悪戯心で流川の顔に擦り付けてやろうとした。だが、流川は見越していたとばかりにその手首を掴んできて、逆に三井の顔に泡の着いた手を押し付けようとしてくる。
「やめろバカ、顔につけたら殴るぞ」
「そっちが先にやめたら」
 引き際を探りながら、攻守が何度か入れ換わった。流川が攻撃の一部としてキスも迫ったので、それも躱した。いい大人が泡を武器にしてなにをやってるんだと自分自身でツボに入った三井は、我慢がならず途中で笑い出した。たぶん流川は勝ったと思っているが、三井からすれば引き分けで終わった。かかなくてもいい余分な汗を冷たくしたシャワーでもう一度洗い流していると、流川が口を開く。
「ハラ減った」
「俺も」
 三井は頭から被ったタオルに濡れた髪の水分を吸わせた。
「そういや、もう畑行ったんだな」
 さっきダイニングを通った時、籠に入った山のようなトマトがテーブルに乗っていた。流川はずいぶんと早起きをしたようだ。
「良い色になったから。食べごろ」
 朝食に使うのもいいが、今日は休みだから二人でゆっくり夕飯を作ってもいい。トマトソースのパスタが食いてーなと云うと、流川も同意して頷く。完熟したトマトは確かに食欲をそそる色をしていた。
「こっちも食べごろ?」
 三井の腰に、流川が腕を巻き付けてきた。
「あ? 寝ぼけてんじゃねえ」
 握った拳で殴って、腕を引き剥がす。なにを求めているのかは分かるが、数時間前にしたばかりだし、せっかく浴びたシャワーがまた無駄になるのはご免だ。一応聞き分けたのか引き下がった流川は、それでも不貞腐れた顔を隠しもせずに、三井のタオルを奪って自分の頭を乱雑に拭いた。しつこく粘らなかったのは、昨夜充分満足したということだろうか。
 しかし脱衣所に戻って洗面台の前に立つと三井は背後から抱きすくめられた。引き剥がそうとしても離れないほど強くしがみつかれ、耳の裏や首にキスの嵐が来た。鏡に映ったその姿に苦笑するしかない。
「くすぐってえって。ホントでかい子供みたいだよな。せめてタオル巻けよ」
「そっちもだろ」
 素っ裸なのはお互い様だし、流川はこのまま引き下がりそうもない。そんな様子を見て、しょうがねえなあと自分を包む腕にキスを返してやると、ちゃっかり腕が解けた。
「ハラ減ってんだろぉが。飯は?」
「休みだから急がなくていいでしょ」
 鏡に背中を向けて向かい合うと、すぐに流川の唇が降りてきた。言葉の通り、性急ではなくゆっくりと、堪能するように舌を絡ませあう。スポーツ記事の記者として仕事をしている三井の休みは不規則だ。三井はここのところ忙しく仕事をしていたから、たぶんそのぶん流川も甘えてくるのだろうし、三井だって甘えたいのは同じだ。
「……今はとりあえず、ウォームアップな」
「……しねえの?」
「今日はあとでいくらでも時間あるだろ」
「……わかった。ウォームアップね」
 裸の腰に添えられた流川の手は優しくて、三井の身体に幸福な感情をもたらした。三井も彼の身体に触れて、隆起した腹斜筋に手を這わせる。せっかく冷たいシャワーを浴びたのに、身体が温まって、脱衣所のテラコッタタイルが足の裏をひんやりと冷やすことが心地好かった。開けておいた小さな窓から入ってくる鳥の囀りを聞きながら、三井の休日は、最高に上手く始まろうとしている。
「で、朝食どーする? 家で食う?」
 これ以上は限界というところまで存分にキスを堪能した後、流川がのんびりと云った。
「面倒だし、食いに行こうぜ」
 どこへ、と云わなくても通じる。晴れた日が特別に良い、海の見えるカフェが二人のお気に入りだ。

 その小さな店は、国道沿いに建っている。店の名は「メロウ」だ。朝七時から開いていて、小さな店だが今風の映えるパンケーキから卵かけごはんまで、裏メニューを含めれば幅広い品目を揃えている。この辺の海を拠点にしているサーファーがこぞって食事をしていることもあるし、近所の老人たちが集まってよもやま話に花を咲かせている時もある。いつもの場所に車を駐車して、三井と流川は店の青い扉をくぐった。
「いらっしゃい」
 日に焼けた顔で、カウンターの中の店主が笑った。店内にはテーブル席が幾つかと、カウンター席がある。海が見えるテーブル席の半分程が客で埋まっていた。空いているテーブルもあるが、三井と流川は大抵いつもカウンター席に座る。店主とのお喋りが、ここへ来る目的のひとつでもあるからだ。
「いらっしゃいませー。今日は早いですね」
 若い店員のマリちゃんが、やっぱり日に焼けた顔で微笑んだ。店主もサーファーだが、彼女も趣味でサーフィンをやっている、元常連だ。
「今日休みなんだけどさあ、もう暑くなってきていつまでも寝てられねえんだよな。あ、俺アイスコーヒー」
「俺、四時前に起きた。アイスコーヒーもうひとつ」
 並んで椅子にかけながら、流川がとんでもない台詞を吐いた。前半の部分だ。
「は? 嘘つけ」
 流川が四時起きだなんて早々ないことだ。三井は即ツッコミを入れた。確かに流川は最近睡眠が浅く、あまり寝付けていないように見えたが、さすがに四時は早い。
「ホント。トマトのことが気になってたし。鳥に食われねーかって」
「ほう」
 低い声で相槌を入れた店主が、三井と流川の前にグラスを置いた。注がれたコーヒーに崩された氷が涼しげな音を立てた。
「鳥除けのネットは張っているのか? 流川」
「張ってるけど、ネットも食いちぎられたことあるから油断出来なくて」
「なるほど、すでに経験済みか」
「すげーよな、鳥の執念」
 流川が大事に育てている野菜や草花が駄目になるのは三井だってやはり少し心が痛いが、立場としては傍観者だ。彼が家の隣の土地を買い足して家庭菜園を始めてからもう二年目だが、まだまだ慣れないことも多く、バスケをしていた時のような完璧主義には程遠い。鳥に食べられ、虫に食い荒らされ、葉が謎の病気に侵されて、その度に流川は近所に畑を持っている農家に教えを乞うている。
「三井も少しは手伝っているのか?」
「俺はそういうの向いてねえし、暇がないしな」
「先輩は、いちいち虫に驚くからムリ」
「……しょうがねえだろ!」
 アメリカでのプロバスケットボール選手時代に始めた不動産投資で、流川の収入は安定的に確保されている。その件で年に数回ほど渡米してなにやらやっているようだが、基本的には時間が有り余っているし、現役時代に手にした報酬も同様に余っているので、バスケ以外に趣味を持たなかった流川はなにを間違えたのかある日唐突に広い菜園を作った。今まで、物を作ることなんてしたことがないという流川が、毎日畑に行き、庭でバスケをして、家の中を清め猫の世話をして、時々は料理を作って三井の帰りを待っていてくれたりもする。
 虫に耐性がないのは事実だが、もともと流川が暇だったから始めたことであり、畑のことに三井はまったく関知していない。
「そうか、三井は食べるほう専門だな。今日はどうする?」
 注文がまだ最後まで済んでいない。促されて三井は唸った。
「ん? どうすっかなぁ」
「俺、モーニングプレート」
 流川は大体いつも決まったものを注文するが三井はその日の気分によってまちまちだ。
「そうだ、二人ともルバーブのパイも試してくれないか? 試作品だが……ちょうど良かった。生産者本人にも食べて貰いたい」
「え、あのフキぃ? あれってパイなんてもんになれたのかよ」
 店主の提案に三井は心底驚いて、アイスコーヒーのストローを口から離した。流川が育てていたルバーブの行方については知っていたが、パイにされるとは思ってもいなかった。
 ルバーブはやたらと大きな葉を持つ野菜で、収穫直後は茎しか食べられないと聞いて途方に暮れた。食べたこともなかったし、どう料理すればいいのか分からなかったから「メロウに持ってけばいいんじゃねえの?」と流川にアドバイスして、それきり忘れていた。
「あれ、どうすか? 色、薄かったから……」
「いや、味は悪くないぞ」
「この辺りの気候じゃ、あんま赤くなってくれねーらしい」
 上手く育たなかったことに、流川は悔しさを滲ませている。収穫の時期になっても本来は赤くなるはずの色があまり出ていなくて相当ガッカリしている姿を三井も見ていた。試合で負けたときの姿には、もちろん及ばないが。
「そうか、やはり涼しい場所で育つものなのだろうな」
「寒暖差があるほうがいいって聞いた」
「まあ、食べてみて意見をくれ。いま、切ってくる」
 店主は皿を出して作業を始めた。
「私食べましたけど、美味しいですよ」
 奥に引っ込んだ店主に代わり、マリちゃんが傍に寄って来た。身を屈めて、小声で二人に向けて話す。
「実は店長、そのパイを娘さんに食べて貰おうと思ってるんですよ」
「え、娘って──」
「……東京に住んでるって、前に聞いたけど」
 店主は数年前に離婚して、娘は母親の方で暮らしているはずだ。確か、もうすぐ小学校を卒業するんだといつだったか酔った勢いで話していたなあと三井は思い出す。今は中学一年生だろう。
「娘さんにときどき会ってるんです。来週泊まりに来てくれるって、店長すごーく楽しみにしてて。そのための試作品ですね」
「なるほどなあ、泣ける話だなそれ」
「年頃の娘って、父親に会いに来たりする?」
「え、私なら絶対会いますよ、毎週でも。ぜったい、店長はお小遣いくれますもん。服欲しいって云ったらこれで好きなだけ買ってこいってカードくれそーですよね」
「打算……」
「あー分かる。俺も会いに行くぜ、それは」
「全部聞こえているぞ」
 昔、海南高校バスケ部の帝王と呼ばれた牧伸一が、ボールの代わりにパイを乗せた皿を両手に一皿ずつ持ち、渋い顔をして三人の前に立った。

「えっと、三井さん注文どうしますぅ? 流川さんはモーニングプレートでした」
 上司に軽く睨まれて仕事モードに戻ったマリちゃんが、ニコニコしながら尋ねた。どうせ牧は本気で怒っていたりはしないのだと、この店にいれば皆知っている。
「えっと、そうだな……今日ってさ、そうめんとか、冷たい麺出来る? あと、焼きおにぎり食いてえ」
「出来ますよ、うちはメニュー豊富ですから。誰のおかげかって云うと、三井さんですよね?」
「ああ三井のせいだ」
「ワガママ云うから」
「うるせーな。おまえだってときどき変なもん思いついて注文してただろ! 牧は真面目に云われたもん全部に応えようとすんからだろうが。自業自得」
「先輩ほどじゃねーと思う」
「その通り。流川はまだ可愛いもんだった。全部三井が悪い」
「なんだよ二人して」
 急に二人に手を組まれ、三井は不貞腐れた。確かに三井のワガママでメロウにはメニューが増えたので、云い返すことが出来ない。客の要望をなるべく聞き入れようとする牧に甘えていたらそうなってしまった。いや、甘えていたというよりも、挑戦していたという方が正しいかもしれない。あんまりなんでも応えようとするので、意地になってあれこれ注文していた。通い始めた当初は、もっといわゆるカフェメニューしかなかったし、客層も分かり易く一定だったが、今やなんでもありで、尋ねれば寿司くらい普通に握って出してくれそうだ。
「じゃあ、三井さんは冷やしそうめんと焼きおにぎりで良いですね」
 マリちゃんがカウンターの中に戻り調理を始める。牧にも相手にされなくなったので、三井は並べられた皿を改めて見下ろし、フォークを手に取った。薄く焼き色が付いた牧お手製のルバーブパイは、三井のお気に入りのファイヤーキングに乗せられている。ほんのりと赤いフィリングがパイ生地の下にたっぷりと詰まっていることが、切り口から分かった。その様子は、フキのような茎だった時の姿とはもはや別物だ。すっかり変わったなあ、と思いながらフォークでひと口分切り崩して口に運ぶと、甘酸っぱい味が咥内に広がった。
「どうだ? 俺も初めてでな。ジャムにしてみたんだが」
 仕事をしながら、牧はちゃんとこちらの様子をチェックしていた。
「うまいす。アメリカで食べたやつは、もっと色赤かったけど」
 赤い色が出なかったことが流川はまだ許容出来ていないようだ。
「いいじゃん、うまけりゃ。娘喜ぶぜ」
 三井は二口目を食べた。パイ生地と甘酸っぱいジャムは相性が良い。
 何口か食べていた流川が、口を開く。
「酸味は、もっとあるといいかも」
 そう云いながらも手は進んでいて、彼はもう食べ終えそうだ。
「えー、俺はこのくらいの味でいいけどな」
 好みの問題かもしれないが、三井は反論した。
「でも、せっかくルバーブだから……たとえば、ジャムにしてない茎もそのまま少し加えてみるとか」
 流川はしばらく間を取ってから、提案する。ルバーブは独特の強い酸味が特徴なのだという。
「そうすれば、もう少し酸っぱさを感じられるかも」
「なるほど」
 牧が頷く。
「食感にもいいメリハリがつくかもしれないな」
「娘の好みはよ? 女の子だろ、酸っぱいより甘い方が良いんじゃねえの」
「三井、うちの娘はもう甘いもので喜ぶような歳じゃないぞ」
「そうなのか? いくつんなったっけ?」
「十二だ。中学に入ってバスケットを始めてる」
「え、確かピアノやってたよな?」
 ピアノが上手いんだと以前自慢していた。
「やめたんだ。……母親は、ピアノを続けさせたかったようだが。本人がもういいってな」
 手を動かしながらそう云って、牧は笑った。その顔が嬉しそうで、嬉しそうな牧を見て三井も嬉しくなり、流川の顔を見ると、向こうもこちらを見ていた。精悍で整った顔が少し緩んでいる。
「はは、やっぱおまえの子供ならバスケをやるべきだぜ。ずっとパパのプレー見て育ったんだろ」
 三井も牧も、日本のプロリーグに籍を置いてプレーしていた。娘だって、小さな頃はきっと牧の試合を観戦していたに違いない。牧なら、子供に教えるのだって上手いだろう。
 流川にも子供がいれば絶対バスケ上手くなったろうなあ、と頭の片隅を過ぎった思いにほんの少しだけ心が軋んだ。だがすぐに三井は気持ちを切り替えて、尋ねる。
「かなり上手いんじゃねえの?」
「どうだろうな。親の目で見るとつい甘くなる」
「そりゃあ、しょうがねえよ。女の子だし」
 男親にとって、女の子は大変だと聞く。他人事ながら牧の苦労が偲ばれる。
「……実は、二人に頼みがあるんだが」
 牧が改まった声を出す。シュウシュウと音を立てて厨房の鍋から湯気が立った。三井はアイスコーヒーのストローを摘んで答えた。
「なんだよ? 珍しいな」
 牧の頼みなんて考えても思いつかない。
「今度来たとき、娘に渡したいんだ。サインしてやってくれないか」
 今時どこで手に入れたのか、現役時代の二人のユニフォームをカウンターの下から取り出した牧に、三井と流川はおおぉ親バカ、と胸を熱くした。

 三井が頼んだそうめんは、涼しげな色の器に盛られていて食欲をそそった。焼きおにぎりの付け合わせには、和え物とトウモロコシのかき揚げ、綺麗に巻かれた卵焼き。
 流川のモーニングセットから半分に切ったトーストを一枚貰い、三井は代わりに焼きおにぎりをひとつ、流川の皿に入れてやろうとした。だが、流川が口を開いて餌を待つ鯉のような真似をした。ここでやるなよと思いながら、仕方なく三井はその口の中に卵焼きを箸で押し込んでやった。
 他の客はもう全員帰ったが、店員のマリちゃんは見ていた。その証拠に、くすくすと笑っている。
「なんですかね、仲良しアピールにはもう腹も立たなくなりました」
「そういうんじゃないって。おっさんをからかって遊ぶんじゃねえの」
 いい歳をした男同士のカップルが人前で仲良しアピールもなにもない。だが、流川がときどきこうして人目を無視して奔放に振る舞うので、付き合わされる三井まで恥ずかしい目に遭ってしまう。
 とは云え、すっかりそんな生活に慣れてしまったので、今は少々感覚が麻痺していることも否めない。
「アピールじゃなく、ウチでは普通のこと」
「余計なこと云うな」
 更に余計なことを付け加えて流川は澄ましている。どう思われるか理解した上で云っているのだから困ったものだと思いながら、三井はそうめんを啜った。
「家でもいつもこうなんですね。店長、どう思いますぅ?」
「ああ。羨ましいよ」
「マリちゃんは彼氏がいるだろ」
「あ、とっくに別れました」
「え、マジかよ?」
 思わず軽い口調で反応してしまった。
「つまらない男だったんで」
「うわ……こわいって」
 マリちゃんはどこかサバサバした性格で、接客態度は悪くないのに、こうやって話をしていると少しばかり気の強い部分が見えてしまう。なのに不快に感じないのは、それだけ打ち解けた証しなのかもしれない。
「まあ、私には海がありますから」
「……かっこいい」
 海を愛するサーファーの決め台詞に流川は感銘を受けたようだ。
「流川さんほどじゃないですー」
 云い返されて流川は首を傾げた。三井は無視して、牧に話を振る。
「なあ、おまえは再婚しねえの?」
 空になったそうめんの器を片付ける牧は、三井の言葉に苦笑いをした。牧ほどの男ならば相手には困らないだろう。娘だってもう小さな子供ではないし、今更、元の妻に遠慮することもないはずだ。
「俺は結婚には向いてないらしい」
「そんなことねえだろ?」
 なあ、と流川に同意を求めると、腕を組んでうんうんと頷く。
「ハッキリ云うけどよ、おまえ女を見る目がなかったんだよ。一回失敗しただけだろ? 次行けよ、次」
 牧の元妻には会ったことがないが、美人だったが気が強かったと誰かに聞いた。噂だから実際のところは分からないし、夫婦の問題はどちらかが一方的に正しいということもないのだろうが、三井たちから見て牧は真面目な良い男だから、相手のほうに少々問題があったのではないかと三井には思える。
「いや……俺も悪かったんだ。向こうからしてみれば、男を見る目がなかったということかもしれない。だから、俺は向いてないと云うんだよ」
「ふざけんな。おまえが夫に向いてない男なら、世の中の夫なんてどうすんだ。駄目な奴ばっか溢れてんじゃねえか」
 実際、牧は頭が良くて人に対して優しい男なのだ。女も男も区別なく。学生の頃から知っているが、彼について悪い噂を聞いたことはない。
「おまえが独りなのは勿体ねえよ。向いてないっつうなら俺らなんかしょっちゅう喧嘩してるし、こいつなんて自己中で絶対折れねえし、毎回血を見てるけど、なんとかやってるぜ」
 三井は隣に座っているパートナーの肩に肘を置く。少々大袈裟に云ったが、実際に喧嘩はよくしている。
「でも、結婚して良かったでしょ」
 流川がアイスコーヒーを飲みながらこちらも見ずに云う。生意気な横顔をちらりと見て三井は返す言葉を探ったが、素直にはなれない性分だ。トーストに齧りついてから、答えを誤魔化す。
「おまえこそ良かったろ? 一生俺と一緒にいられる貴重な権利手にしたんだぜ」
 幾つになってもこんな云い合いをしていることが、三井は楽しい。返し易い球を放ってやったつもりだが、流川は考えた様子で少しの間組んだ手に顎を乗せて天井を見ていた。そして、短く答えた。
「まあね」
「……そこ受け入れんなよ」
 流川は阿呆だなと三井は思った。調子が狂ってしまう。
「確かに──」
 と、カウンターの向こうで牧が笑った。
「おまえたちを見ていると結婚はいいなと思えてくるよ」

「道、違うだろ?」
 メロウからの帰り、家までの道を外れてどこかへ向かう流川に気がついて、三井は尋ねた。道が空いていれば、家まではわずか十分もあれば着くのだが、これでは遠回りになる。
「寄りたいところがある」
「どこ? 夕飯のパン? あ、コメリか?」
 コメリは流川のお気に入りの店で、農業関連の商品が豊富なホームセンターだ。肥料や作業用具をいつも買っている。
「それは、着いてから教える」
「あ? なんだよ、気になるだろ? 新しい店でも見つけたか?」
「店じゃない。でも、あんたに見せたい」
「もしかして、俺に何かを買ってくれようとしてる?」
「……この会話で、どこでそう思ったの? すげえポジティブ」
 もしかしてという期待を込めて云ってみたが、即却下された。
「んだよぉ、じゃあなんなんだよ」
 だんだんと苛々してきて、三井は口を尖らす。気は短い方だ。
「怒んねえって、約束するならスグ教える」
「は?」
「怒んねえ?」
 ステアリングを握りながら、流川がちらりとこちらに視線を寄越す。
「約束って……なんだか分かんねえのにそんなの無理だぜ」
 そんな不利な条件が飲めるわけがないと、三井は当然拒否をした。流川は返事をしない。前を真っ直ぐ見ている。
「気になるから、早く教えろよ」
「怒んねえって約束をしたら」
 明らかに隣の男はなにか不味いことを隠している様子だ。三井は考えたが、なにも思い当たることがない。探りを入れるのも面倒になってきた。
「くそ、わかったよ。怒んねえから教えろ」
「新しい、土地買った」
「……は!?」
 三井はそれきり二の句が継げなかった。この展開は前にもあったなと既視感を覚えたが、言葉が出ないし、頭の中がまとまらない。
「おま──」
「怒んねえって云ったろ」
「おま──」
 怒る怒らないの次元ではなかった。これ以上畑を広げても手が足りないだろう、と云いたかったのに、呆れて言葉にならない。
「平坦で、いいところ見つけた。そこに体育館を建てようと思う」
「え?」
 耳を疑い、目を見開いた。次々と聴かされた衝撃的な言葉をもう一度頭の中で反芻してみる。信号待ちで、流川の車が静かに停車した。穴の開くほど流川を凝視していると、憎らしいほど整った横顔がこちらに向き直った。
「体育館て云っても、プレハブのちょっといいやつ、くらいで想像しといて」
「いや、え、待て、違うだろ? どういうことなんだよ?」
 そこは訊いてない、と三井は首を振った。
「その体育館でバスケットを教えようと思う。子供に。そういう仕事、しようと思ってる」
「はああ!?」
 狭い車内に三井の声が響き渡った。クラクションを鳴らされ、三井の心情を置いてけぼりにして車が発進する。信号はいつの間にか青に変わっていた。
「やっと寿に云えた。これで今日からよく眠れる」
 流川はスッキリした様子で、その顔を見ればもう後戻りはできないところまで計画が進んでいることが察せられた。
「おまえ……マジかよぉ……」
 始まったばかりの三井の休日は、穏かには終われそうもない。

おわり
★ちょこっと一言
いつだったかツイッターで、老後は牧さんがカフェやってて三井と流川が通ってて、三井はワガママな注文しそう、とか牧さんはバツイチ、とか勝手に妄想膨らませて楽しんでいたことがあって、それをSSにしてみました。牧の海岸物語(ウソ)。いつかやりたかったんですよね。
なので、もしもなにかこの話にキシカンがあったら、その呟きを目にされたのだと思います?。
でも今回は老後じゃなくて、選手生活引退して数年経ってる、くらいの感じにしました。
牧さん、他は完璧なのに嫁には苦労してそう。娘はしっかり者のいい子。