十六歳の確かな未来
どうか神様
横にいるコイツの願いを
叶えてやってください
新年の挨拶もそこそこに、流川は三井家の門の前で白い息を吐きながら三井にそう伝えた。まだ、年が明けていくらも時間が経っていないが、なによりも優先して三井に伝えたかったことだ。
「なにが違わないって?」
ずっとこの時が来ることを今か今かと待ち望んでいた流川の心はひそかに高揚していたが、三井は置き去りにされた者の顔をして首をひねり、尋ねてきた。
話が通じなかったことに流川は動じず、もう一度呼吸を整えてから口を開く。
「十六になった」
「は? えっ? って、もしかして」
流川の言葉を反芻するようにしばらくの間をとった後、三井が目を見開いた。ようやく流川の云う言葉の意味を理解したらしい。
流川は三井の目をじっと見つめて返事の代わりに頷いてみせた。
「え、いつだよ?」
「ついさっき」
「さっきって……じゃあ、元旦生まれってことか?」
流川がもう一度頷くと、三井はポカンと口を開けた。
「なんだよ、早く云えよそーいうことは。そしたらなんか、その、用意しといたぜ俺だって」
流川が十六になった事実よりも、たった今それを知らされたという不満のほうが心を多く占めているらしく不貞腐れた口調で三井が云う。
「別にいらない」
流川は、ずっとこの日を待ち侘びていた。なにも貰えなくてかまわない。なによりも重要なのは、十六歳になったという事実だ。
高校に入ってから、今まで以上のスピードで背が伸びたし身体つきも変わってきた。部活でも恋愛でもさまざまな経験を重ねた。そうして、身体も心ももう中学生の頃とは大きく違うのに、年齢だけが十五のままで止まっていることを歯がゆいと感じていた。三井は意識してやっているわけではないのだろうが、流川に対する言動や扱いの端々から子供扱いされていることも感じていた。だから早く十六になって、この年齢差が少しでも縮むことを強く望んでいたのだ。
「なんでいらねんだよ、変なヤツ」
理解出来ないという顔で三井が云う。
「まあ、とりあえず歩くか。あっちな」
立ち止まっていれば寒いだけだ。道案内されて並んで歩き出す。目指すはここから少し行ったところにあるという神社で、目的は初詣だ。
三井はダークグレーの見慣れたコートを着た上からマフラーを巻き、物を掴み辛そうな分厚い手袋も嵌めて防寒対策は完璧だ。流川は三井の家までは自転車で来たから、三井と比べれば薄着だった。自転車を漕げば身体は温まるし、過剰な防寒具は邪魔になるからだ。それでも外気は冷え切っていて、お互い喋る度に、口や鼻から白い息が舞い上がる
「二コって歳のことかあ。おまえが十六で、俺が十八だろ? ニコでも三コでも大して変わんねえよな」
風に流される雲に時折遮られてしまう濃紺色の空を仰ぎながら、三井がイヤなことを云う。
「んなことねー。だいぶチガウ」
流川はムッとして即座に否定した。
三井は五月の終わりには十九歳になっている。二つしか歳が違わないのはそれまでのたった数カ月間だ。この貴重な期間を流川は大事に思っているのに、大して変わらないなどと無神経なことを云われては面白くない。
「同じだろぉ?」
「チガウ」
「ほぼ一緒じゃん」
「ぜんぜんチガウ」
「なにムキになってんだよ?」
「……別に、ムキになってねー。もういい」
年上の三井にはどうせ解らない、と流川はなかば諦観の境地だ。どんなに頑張っても埋められない年齢差のことなんて、きっと考えたこともないだろう。そんな小さなことを後輩が気にしていると想像したことすらないに違いない。
「……まあ、十六っつうと色々変わるよな、えーっと……原付とれるし」
否定ばかりされてムキになった流川に同情したのか、三井が気遣いらしきものを見せた。しかし、原付免許なんて取得する予定もない。流川の不満は解消されず、かと云ってわざわざ話を引っ張るつもりもない。消化出来ないモヤモヤは溜息に変えた。細く白煙のような息がすぐに闇夜に散っていった。
「すぐとれっからとれば? 原付」
「乗らないからいらねー。……それより、結婚」
「はあ?」
訊き返す三井の視線を受け止めて、流川はもう一度答えた。
「十六だから、もう結婚出来るでしょ」
「は? 結婚出来ねえぞ」
「……え?」
「え?」
「え?」
即答で否定されて、思わず三井の顔をまじまじと見返した。ハテナマークの応酬が止まらなくなり、途中で三井が笑い出した。
「おまえマジで云ってんの? 出来ねえぞ。十六で結婚出来るのは女だけだろうが」
「……そーだっけ?」
「男も出来ると思ってたわけ?」
「……ウス」
「うわぁ……マジなのか」
それはこっちの台詞だ、と流川は思う。ずっと十六になれば結婚出来ると思い込んでいたから、三井の話がにわかには信じられなかった。だがどうやら彼の態度からみて、世間では常識らしい。
男同士では結婚が出来ないことくらいは知っている。それでも、三井と二人で約束を交わして将来を誓うことは自由なはずで、結婚出来る歳になれば、その約束には子供の口約束とはまったく違う効力が生まれると信じていた。
「納得いかねー」
なんて不平等な制度なんだと腹が立ち、流川は口を尖らせる。
「深く考えるなよ。十六歳には違いないだろ。おめでとーな」
肩と肩が触れ合うほどに密着しながらぽんぽんと背中に当てられたのは三井の左手だ。笑いの形に変えられた目で優しく見つめられて悪い気がせず、細かいことはどうでもよくなった。
十六の誕生日は、絶対に三井に会いたかった。もしも三井が会えないと云うなら押しかけてでも、と考えていた。幸いにもそんな心配は杞憂で、三井は初詣に行こうと誘ってきた。本当に一緒に居たい人が誕生日に隣にいるのだと思うと、自然と心は明るい方へ傾いていき、子供のように心が躍る。去年は年越しそばを食べてこたつで寝ていたらいつの間にか誕生日を迎えていた。会いたい人はいなかったし、人混みにわざわざ出かけて行こうとも思わなかった。それと比べると、今年は百八十度違っている。
「そこ右に曲がったらすぐな」
目指す神社が近づいている。並んで歩きながら、三井が寒そうに首をすくめる。
日付が変わっているというのに、何人もの人間とすれ違った。いつもだったら静寂に包まれているはずの夜の住宅街は一年の初めに日常を忘れてしまったらしく、空気までどこかいつもと違っていた。
「混んでんなあ」
五分も歩いたところで神社に到着し、人混みを掻き分けた。流川にとっては初めて来る神社だったが、混雑ぶりからして、それなりに人気があるようだ。
「あ、あったアレアレ」
境内では無料の甘酒が振る舞われていた。三井にとって一番の目的はこれだったらしく、二人で並び紙コップを受け取った。薄手の手袋越しに温もりが浸み透る。鼻先にコップを近づけたら、なんともいえない甘い匂いが立ち上った。
「久々に飲むと美味いよなー」
「甘酒って酒だっけ?」
「違うだろ? 子供も飲んでんじゃん」
そうだ、確かに子供の頃に飲んだ、と流川は思い出した。記憶にある限り、それ以来だ。独特の匂いにむせそうになりながら、流川は目を瞑って飲み干した。あまり好きな味ではないが、飲めないなどと云ったら三井に馬鹿にされそうな気がした。
その後は参拝のための列に並び、他愛のない話をしながら順番を待つ。三井が財布から小銭を取り出すのを見て流川も五円玉を取り出した。
「おまえその五円で願い事なにすんだよ?」
「……今から考える」
願い事は特に用意していなかった。何列も前の誰かがガラガラと鳴らした鈴の音を聞きながら思案する。
「まあ、おまえはアメリカ留学でも願っとけよ」
「先輩の願い事は?」
「云うと叶わねえ気がするから秘密だ」
そっちは訊いてきたくせにと思いながら流川は自分の願望について考えたが、改めて考えるとどれも特には困っていないことが分かった。健康だし、恋愛はこの上なく順調だ。悩みの種である年齢差はどうしたって埋められないので、願ったところでどうにもならない。
やっぱり色々な希望が絡んでくるのはバスケだろう。具体的には夏の雪辱を晴らしたくてインターハイ優勝が頭を過ぎった。アメリカにも行きたいが、先ずは目先のインターハイ。
案外と待たずに順番が来て、三井と二人で拝殿の正面に立った。並んでいる間に前の列の参拝マナーを見ていたので流川はそれを真似した。
けれど、手を合わせたまま願い事を思い浮かべたようとした時、さっき思いついた願いがすべて頭から消えた。
変わりに何故か頭の中に浮かんだのは、見慣れた海と砂浜だった。 引いたおみくじは二人とも中吉で、持ち帰っても良かったけれど境内の木に結んだ。混雑しているからもっと時間がかかるかと思ったが、一時間も経たずにすべての目的を果たし終えて、二人で来た道を戻る。これから三井の家に戻って仮眠をとった後、夜明け前に起きて初日の出を見に高台の公園へ行く計画だ。予定通りに起きられるかは自信がないが、お互いに起きなければそれはそれで流川としてはかまわなかった。狭いベッドの中でくっついて朝までぐっすりコースも悪くない。
夜道をいくらか歩くうち、流川は三井の歩みが鈍くなったことに気が付いた。どうしたのかと気にかけていたら、外灯の下でとうとう三井は立ち止まった。
寒そうに息を吐きながらマフラーを口元へと引き上げた三井が、振り返った流川を上目遣いに見上げてくる。
「なあ」
「なに?」
流川は呼びかけに応じた。
「さっき、結婚がどうとか云ってたじゃん?」
「云ったっす」
「だよな。云ったよな」
三井はそこで押し黙った。
まさかそれで話が終わったとも思えず、流川はじっと三井の顔を見ることで続きを促した。
辛抱強く待っている流川の目を見つめ返した三井の表情は、なにかの覚悟を決めたとでもいうように少し硬い。そして、重そうな口を再び彼は開いた。
「たとえばだけど、さ。もし、男が十六で結婚出来たとしても、結局は男同士でどうにもならねえじゃん? おまえはなんか怒ってたみてえだけど、どうしたかったんだよ?」
例え話は無意味だと流川は思ったが、誤魔化すことでもないので答えることにした。
「誓いを立てる」
「誓いって?」
「俺たちが、これからもずっとパートナーでいるってことを、どっかでちゃんと誓いたかった。二人で……婚約みてーなこと」
「は……?」
薄っすらと開いた三井の口から白い息が漏れた。
「おま──そんなマジメな顔して……よく云ったなオイ」
「本気だし。嫌なんすか」
硬かった三井の表情はさっきよりもだいぶ和らいだが、逆に流川は顔を顰めた。想像していた反応とは違うものが返ってきたことに納得がいかない。
「嫌とは云ってねえ……けど──ふっ……ふはは」
云いながら何故か三井が吹き出した。
「ダメだ、耐えらんねえ。さすが考えることが十六歳様だよなー」
笑いが止まらないらしい三井はマフラーを上に引っ張って口元を隠した。寒空の下だというのに、笑いすぎたせいか頬を赤くしている。
「バカにすんな」
からかわれて良い気がするはずもなく、流川は三井を睨みつける。
「違うって。意外となんか可愛いトコあるんだよなおまえは」
「やっぱバカにしてんじゃねーか」
「怒んなよ。そういうのも可愛いから」
「どあほう」
もう本当に怒った。可愛いだなんて悪い冗談だ。腹を立てた流川は三井のそばに一歩で迫り、彼の腕を取った。意表をつかれたように三井が身体を震わせたが、かまわずに自分の腕をからめた。三井の嵌めているもこもこした手袋は手を繋ぐのには適していなかったが、流川は強引に指を指し込み、深い付き合いでなければ決してしない絡め方で手を繋いだ。この繋ぎ方をすると何故か安心出来るし、幸福な気持ちで身体中が満たされる。だから、溜まった怒りと不満をどうにかするのにはとても適している行為だった。
強制的に繋いだその手を三井は振り解いたりすることもなく、それで少しだけ機嫌を回復した流川は、首を傾けて三井の耳元に頭を寄せた。
「俺は、とにかく先輩と約束がしたかった。ちゃんとしたやつ」
確かに、子供っぽいことを云っているのかもしれない。流川は、頭の中でそれを認めた。子供だって、すぐに指切りだと云って約束を交わす。それと同じことかもしれない。
でも、理由がある。
「離れてる間も、約束があれば不安じゃねーと思ったから」
三井は卒業する。流川はいつかアメリカに渡る。二人の間に物理的な距離が生まれた時に、きっとその誓いが役に立つと思った。
「……わかってるよ。バカにはしてねえ。ちゃんとわかってる」
三井は戯れのように頭をぶつけてきて、耳と耳が一瞬触れ合って離れた。氷点下に近い外気に晒されているというのに三井の耳は熱かった。それで逆に流川は自分の耳が冷え切っていることを知った。
「でも、俺らは離れてたって大丈夫だ。そうだろ?」
なんの根拠もないが、三井が断言するので心強く思えた。鼻の頭を赤くしていてもなおも甘く端整な、何故か人を惹きつける恋人の顔を見つめながら、流川は深く頷いた。
「あ! おまえ、もしかしてさっきの参拝でそれ祈ったとか云う……?」
「願いごとじゃなくて誓いだから、チガウ」
この先も一緒に生きていく、という決意は、願望ではない。賽銭を払って頼むようなことでもないし、そもそもこの誓いは二人で立てなければ意味がない。
「んだよ、ビビったわ」
「ビビるようなことじゃねーはず」
いちいち三井が驚いたり焦りを見せたりするので、そんなに誓いたくないのかと、流川としては気が気じゃない。
「あのなあ、誤解すんなよ。別にそういうのが嫌なわけじゃねえけど、さすがに気が早すぎるぜ。おまえが十八になったら、また考えたらいいじゃん」
「意味わかんねー。二年もあんのに」
やっと十六になって目標に到達したと思ったのに、その先に本当のゴールがあると云われたようなものだ。流川はうんざりした気分で天を仰いだ。宇宙の色をした空には千切れた雲が浮かんでいて、深い奥行きを感じさせた。手の届かない遠い空にこの先の長い歳月を重ねてしまい、別に悲しくて泣きたいほどではないのだけれど目の前がぼやけた。乾いた空気の中で、瞬きの回数が極端に少なくなっていたせいかもしれない。
「二年なんてすぐだって」
他人事のように三井が云う。
「あ、前から人来んぞ。もういいだろ、手」
「イヤだ」
三井は大事な話をしながらでもしっかりと周囲に目を配っているようだ。だが流川にとってはどうでもいいことだったし、こちらの話にだけ集中して欲しかった。だいたい、どれだけ親密に指を絡めているかなんて、すれ違うだけの人間に分かりっこないと思う。この暗さと上着の厚みが紛らわしてくれる。隣を歩くこのニコ上の男に流川がどれだけ心惹かれているかだって他人に分かるはずがない。揺らぐことのない強い意志を持って手を繋いだまま、それでも一応目立たないように身体を寄せて、更に密着しながら歩く。
「しょうがねえなあ」
三井は苦笑している。本気で嫌がったり、困っている様子ではない。
前から来た中年夫婦を無事にやり過ごした後、どちらからともなく顔を見合わせて二人で笑った。
「おまえ、結局なに願ったの?」
話が参拝のことに戻ったので、流川はさっき神様に伝えた願い事を頭に思い浮かべた。
「夏に、先輩と海行きてえって、頼んだ」
「ぁあ!? なんだソレ」
夜中だということを忘れたようで、三井は大声を出した。
大袈裟なまでに驚かれてしまい、そんなに変だったかと流川は首を捻る。
「願い事ってそーいうのでしょ」
「……アメリカとか、インターハイとか、あんだろうが色々」
「夏の海に行きてーって思ったから」
賽銭箱の前に立ったら頭に浮かんだのが海だったのだから仕方がない。流川がときどき走りに行く海岸で、砂浜からすぐ近くに江の島が見える。去年の夏は付き合い始めで、一緒に出かけたりする機会は少なかった。そのことが、ずっと心のどこかに引っかかっていたのかもしれない。
「ハァ……そんなの初詣で願うか」
三井が溜息を吐く。なんだか脱力しきった顔をしている。そんなに変わった願い事なのだろうか。
「人の願いにいちゃもんつけんな。そっちこそ、なに願ったんすか?」
さっきは教えて貰えなかったので、もう一度尋ねてみた。三井はなんと賽銭箱に五百円玉を入れた。だから、余計に気になった。流川だったら賽銭に五百円は使わない。よほど切羽詰まった願い事をしたのだとしか思えない。
「それはぁ……秘密だっつったろ」
自分だけ云わないのはズルい、と再び思ったが、三井が繋いでいた指を一旦解いて絡め直してきたことに気を取られて、意識はそちらに集中した。どうやらずっと、流川が強引に絡めた指の収まりがしっくりこなかったらしい。
「まあ、俺らの願いは絶対叶うぜ。それだけは確かだなぁ」
「さっきんトコ、そんなすごい神社なんすか?」
「んー? まあ、そういう感じ……」
絶対願いが叶うと云い切るからにはよほどご利益のある有名な神社なのかと思ったら、それに対する三井の返事は頼りない。どっちなんだと訝しんだ流川の耳元に三井が囁いた。
「夏の海な。行こうぜ」
きらきらと眩しい光を反射する夏の海を頭に描きながら、流川は頷いた。
おわり