目を覚ましたら目の前に三井が立っていた。辺りを見回すと、そこはひとけのない公園だった。どうやら自分はベンチに座ったまま背中を丸めて、いつの間にかうたた寝をしていたらしい。
流川は腕を持ち上げて、手首の時計を見た。約束した時間がとっくに過ぎていることを確認したかったのだ。そして口を開きかけたが、それを遮るように三井が先に口を開いた。
「わりー、遅れちまった。っていうか俺ずっと起こしてたんだけど、おまえ全然起きねえ」
「約束したの、十一時。いま、十一時四十五分」
「いや、ちょっと遅れてんかなーと思って、これでも駅から走ってきたんだぜ?」
「四十五分はちょっとって云わねー」
長い前髪の隙間から、流川は若干の恨みを込めた目で三井を見上げる。
「ったくよぉ、電車は混んでっし。観光客がうんざりするほど乗ってて座れねえし、大変だったぜ」
「四十五分待ってた」
「あー走ったからアチイ。どっか店入ろうぜ」
「四十五分は──」
「だー! わかったって! だからその……わりーって云っただろうが」
「……すげー匂いが充満してる中でひとりで四十五分待った」
この時間がいかに苦行だったのかを、流川は訴えた。
「はあ? 匂い〜? あ、これか」
三井は首を突き出して、くんくんと匂いを嗅ぐ仕草をした。
「おまえな、臭そうに云うなよ。これ金木犀の香りだぜ。この公園、いっぱい植わってんなあ……ほら、あそこのオレンジ色のやつ。あ、あっちのもそーだろ」
「キンモクセイ……聞いたことあるかも」
三井が指差す方へ顔を向けると、薄い橙色の花を沢山つけた木がそこかしこに植えてある。あれが匂いの元凶と知り、流川は溜息を吐く。ならばこの公園は待ち合わせには不向きだ。
「確かさあ、この時期になると花が咲くんだよな。芳香剤とかに使われてたりとか」
「ああ……だから。ヒトんちの家ん中みてーな匂い。トイレとか」
「はあー!? おまえの感覚って……いや、まあ確かに芳香剤……いや、でも外で嗅いだら良い匂いだろーが。ちょっと甘ったるくてさあ。俺はキライじゃねーぞ」
「好きなんすか? 俺は、四十五分間ずっと落ち着かなかった」
「好きってほどじゃあねえけど、まあ良い匂いだとは思うぜ。……ってか、しつこいなおまえも。四十五分間どーせほとんど寝てたんだろ?」
遅れてきた癖になんでもお見通しという偉そうな態度で腕を組み、三井は流川を見下ろしている。
「最初の十五分はちゃんと起きて待ってた」
流川だって、寝たくて寝たわけじゃない。
三井はぜんぜんやってくる気配がないし、幾人かの親子連れが遊んでいるのを眺めて時間を潰したけれど、彼らはほんの少し滞在しただけで帰っていった。動くもののない代わり映えのしない風景を見ていたら、とうとう睡魔に襲われてしまったのだ。この公園にはあまり大した遊具もないので、人気がないことは分かっていた。もちろんバスケットのリングだってない。けれどこのひとけの無さが待ち合わせにはちょうど良い具合で、前にも三井と一度ここで待ち合わせをしたことがあるのだけれど、その時はこんな匂いが充満したりはしてはいなかった。
「お、十五分も起きてたのか。偉いじゃん」
そんなことを褒められても嬉しくないが、待たされたという怒りは時間の経過と共に少しずつ小さくなっていく。流川はベンチから立ち上がって、自分が着ているパーカーの腹の辺りを摘まみあげた。そして鼻を近づけて、生地の匂いを確かめる。
「え、なに嗅いでんだよ?」
「キンモクセイの匂い。四十五分待ってる間にこの匂いが服に染みついたと思う。来て」
云いながら流川は三井に向けて両手を広げて見せた。
三井が目を丸くする。
「は? なんの真似だそれ……」
流川の行動にたじろいだように一歩足を引いて、三井は握った手の甲で自分の口元を押さえた。
「この匂い好きなんでしょ」
流川は両手を開いてじっと三井を待つ。
三井は明らかな動揺を見せて、挙動不審な動きをしている。
「なっ……だから? だからって、なんでそのポーズなんだよ!?」
「来ていーすよのポーズ。っていうか早く来ねえと腕がダルイ」
「バッ──おま、無理云うな、こんな明るかったら丸見えだし、大体ここをどこだと思って──日曜の公園だぞ子供とか親とか──」
辺りをきょろきょろと見回した三井だが、子供はおろか野良ネコすら居ない園内を見て、再び流川に向き直る。
「……っていうか! 人はいてもいなくてもどっちにしてもダメだけどな!」
真面目でもないクセに、と流川は不満に思い、無言で口を尖らせる。
「大体、ここにちょっといたくらいで匂いが染みつくわけねえだろうが。いや、染みついてたとしてもだな、俺は別に、抱きつきたいほど大好きってわけじゃ……」
「え……」
「あ! いや違うって!」
言葉だけみれば意味深に聞こえる台詞に流川が傷ついた顔を作って見せると、三井が慌てた様子で否定する。
「おまえのことを云ってンじゃねえぞ、金木犀の匂いのことだって分かんだろ流れで!」
もちろん分かっている流川は少し遊んだだけだ。
広げた両手を揺すって、三井を更に促す。
「来てくれたら『四十五分』ってもう云わねーす」
「ほ、ホントかよ? そんなこと云っておまえ」
「ホント」
「……絶対だろうな?」
「ぜったい。約束」
「……誰も見てねえだろうなぁ」
「いねーから大丈夫。来て」
三井はちらちらと視線をあちこちに走らせながら、仕方なくだと云わんばかりに小さな歩幅の一歩を流川に向けて踏み出した。
広げていた腕が疲れてきた流川が待ち切れずに自ら一歩前に出ると、三井が身体を寄せてくる。凭れかかる身体をぎゅっと胸の中に抱き込んだら、「やっぱ匂いしねえぞ嘘つき」と三井が悪態を吐いた。
(こっちのほうが絶対イイ匂い)
三井の首元に鼻先を埋めながら、流川はそう考えた。
金木犀の花言葉はなんだか沢山あるらしくて、「謙虚」「陶酔」「初恋」「変わらぬ魅力」「気高い人」「真実」「真実の愛」などなどだそうです。どうよこの、流三感ときたら。すばらしい。
匂いって、匂い以外のことも一緒に記憶しませんか。匂いを嗅ぐと、その時なにがあったとか、楽しい気分だとか、嫌な気分だとかも蘇ったり。
流川にとって、金木犀の香りが「初恋」の甘い香りになればいいな〜と思う。金木犀も、先輩の匂いも、甘い思い出も、セットでずーっと記憶されて、あの匂いを嗅ぐ度に高校生の頃を思い出せばいいし、思い出す時もやっぱりそばにみっちーがいれば私が幸せになる。