甘くちのスパイス

 雪だるまはそのカラダの中に本当のプレゼントの包みを隠し持っているのだが、彼はまだ知らない。


 スチーム式の加湿器が、時折ポコポコと音を立てている。
 物の多い部屋だなと、自分と比べて改めて思う。散らかっているとは云わないが、どこか雑然としている。
 置いてあるのは19インチのテレビとソファ、勉強と食事をするための小さなテーブル、五段もある壁のような木製のオープンシェルフ。その死角に、セミダブルサイズのベッド。チェスト。家具の色は、黒・茶・シルバーで大体まとめてあるが、ポールハンガーだけは何故かポップなマルチカラーで、鞄や帽子や上着が幾つかかかっている。
 自分との共通点は、部屋にボールがあること。それと、シェルフに飾られた未使用のバッシュ。好きなメーカーは違うが、似たようなことは流川もやっている。
 もう何度も来たマンションではあるけれど、そうして暇つぶしに部屋の観察をしながら、流川は誰にも気づいて貰えない溜息をそっと吐く。
「──ですよねー……ああ、なるほどね。あー……それ、わかります。でも、なんなら俺から云っといても……大丈夫ですよ、たぶん」
 よそいきに作った声とよそいきの言葉が加湿器の音を時折掻き消す。耳触りだが、それでもどうしたって意識はこの声に集中していた。
「……そうそう……ははっ。それ嘘ですよ、モテナイですよ俺。……昔の話ですよ、過去の栄光みてえな? ……あーあれって大体が嘘だし。俺じゃなくて……そうそう。あ、云ってました? どれがホントの話なんだかわかんないっすよね、あの人の場合」
 あのヒトって誰だ。嘘をつくのはどっちだ。あんた、モテナイわけがないだろう。
 いや、そもそもこの電話の相手は誰なんだ。
 電話中の三井に放置されている流川は、三井のマンションでクローゼットの扉に寄りかかって突如空いてしまった時間を潰しながら、心の中で問う。


 十分ほど前、三井の携帯に着信があった時、電話に出た三井の声の調子が確実に上がったのを感じて隣に座っていた流川は少しだけ眉を顰めた。
 相手の言葉までは聞き取れないが、端末から微かに漏れて聞こえるのは男の声だ。
 電話に出てからずっと、相手の機嫌を取るような低姿勢で三井は話し続けている。流川にしてみれば、そんな三井の姿は極めて珍しい。しかしいくら珍しくても、別に見たい姿でもない。
 電話が終わるまで眠るという手もあるが、どうもその気にはなれない。いつもなら呼び込まなくても自然にやってくる強烈な眠気が訪れない。それでも暇には違いなく、流川は退屈に流されるままズルズルと姿勢を崩し、ソファに座って電話中の三井を湿っぽい目で見上げた。すると、さっきまでは合わなかった視線がようやく交差する。
 三井は耳と肩で携帯を挟み、片手でゴメンの合図をしながら、ソファに転がっていた雑誌を流川に放ってきた。腿に当たった雑誌の表紙を見ると、三井の愛読しているファッション誌だった。退屈ならこれでも見てろの意味らしい。この電話は長くなる、という意味でもあるかもしれない。
 表紙には有名な若手俳優。興味は湧かないが、見る分にはかまわないので仕方なく雑誌を開きページを繰る。文章は読まずに、モデルの男がポーズを決めているページも飛ばし、時計や靴やアクセサリーの特集を見る。あとは、風景の写真を眺めた。文字は読みたくないが、写真を見るのは嫌いじゃない。パラパラと流し見ながら、部屋に上がったばかりの時に三井に入れて貰ったコーヒーを飲み干す。それから、部屋の中を出歩いて狭いキッチンへ向かい、中型サイズの冷蔵庫を開けた。実家を出て大学近くで一人暮らしをしている三井の冷蔵庫には、ろくなものが入っていない時と良いものが入っている時があって、良いものが入っている時は三井の母親の作り置きの料理が差し入れられた直後だ。三井自身はろくに料理をしないし、時間もないらしく大抵が外食かコンビニ頼りだ。学生の多く住む街には安い店が多くて、自分で作るよりもよほど安くあげられると三井は云う。
 今日はまあまあ良いものが入っていて、冷蔵庫の中にあったひとくちクロワッサンと残り物らしきラップのかかった冷たい唐揚げを流川は立ったまま勝手に平らげ、三井の居る部屋に戻ると、まだ電話は終わる気配を見せず盛り上がっている。
 相手が誰だか知らないが、下手に出て男と笑っている三井に腹を立てて、流川は禁じ手のテレビを点けた。
 電話中だから音の出るテレビは遠慮していたのだが、もうかまわんと思いリモコンをいじる。適当にチャンネルを変えていき、ドラマの再放送やつまらないバラエティを避けNHKに行き着いた。三井を見ると、彼は少しも流川に注目せず、それどころかいつの間にかソファに寝転がり、楽な体勢に入って話し込んでいた。少しはこっちを気にしろよと腹立たしく面白くない気持ちのままに、流川はテレビの音量を聴き取りやすいレベルまで上げた。
 テレビの中ではドキュメンタリーをやっていた。築地から豊洲への移転が決まっている卸売市場が舞台だった。そこで働くさまざまな業種の人々への取材やインタビューで構成されているようだ。
(……つまんねーのしかやってねー)
 流川好みの番組とは云えず、三井にかまって貰えなくてただでさえささくれ立った気持ちが余計に荒みそうになったが、することがないので仕方なく画面をぼんやりと眺めた。
 築地で何十年も前から働いている店主や、新たに修業を始めた若い弟子、多岐にわたるプロの面々が画面に次々と現れて、興味はないがとりあえず流川は番組に集中し始めた。馬鹿みたいによそいきな三井の声は遠くなり、気付けばニ・三十分ほど視聴していて、番組が終わる頃にふと、ここが三井のマンションだと思い出した。
(エビのヒト……もっと続けりゃいーのに)
 声には出さず、流川は思う。エビ専門仲卸業者の店主が移転を機に店を閉めるというくだりが印象に残ったのだった。店主に跡継ぎはいないが、彼を師と仰ぐ次の世代の存在が救いだ。
 なんとなく心残りな気持ちのまま番組を見終えてソファを振り返ると、この気持ちを共有したい相手は壁の方を向いて寝転んだ体勢でまだ電話をしている。話し声から想像する限り、重要な会話ではないと流川は判断した。
(……にゃろう。もー許さん)
 電話が始まった当初から面白くなかったが、流川はずっと耐えていた。我慢を重ねて、そろそろ限界だ。
 ただでさえ時間の合わせ辛い恋人同士の貴重な時間を見知らぬ男に全部持っていかれては堪らない。電話さえかかってこなければ、今頃とっくに三井とベッドの中にいたはずなのだ。
 床に手をついてゆらりと立ち上がった流川は、背中を向ける三井にそうっと近寄った。背後に迫った脅威にまったく気付かない無防備な片足をやにわに掴んだら、弾かれたように振り向いた三井が目を丸くして流川を見上げた。問うような視線に構わず掴んだ足と背中を背もたれ側に押し付けてスペースを空け、流川は三井の隣に強引に寝そべって、その背中に抱きついた。
 三人掛けのやや大きめのソファだが、奥行きは普通のサイズなので大柄な二人が並んで横になるようなゆったりしたスペースはない。そのため、流川は下に落ちないように無理やりにでも三井にひっつくしかない。細いウエストに腕を絡め、グレーのスウェットを履いた両足にジーンズの左足を絡め、背中にくっついて襟足に頬を寄せながら、三井の匂いを確かめる。心に出来た隙間を埋めるかのように馴染み深い匂いを鼻腔いっぱいに吸い込んで、目を閉じて意識を集中させると、幸福感さえ湧いてきた。一瞬で気持ちは塗り変えられ、眠りに落ちる瞬間のような心地の良さに、流川は安堵の息を吐く。
 困った顔で流川を振り返った三井だが、若干の甘えが入った後輩を冷たく振り払ったりすることはなく、いくらか集中力の欠けた様子でだらだらと電話を続けている。
 背中にくっついていると電話の相手の声が流川にも鮮明に聴こえた。相手の男は最近行ったという中華料理屋の話をしていた。あまりにもどーでもいい話題だったので呆れた。こんな電話はさっさと切ってやればいいのにと思うが、三井の態度からみて、逆らえない立場の相手であることは流川にも判る。
 しかし、だからと云って三井が見知らぬ男に話を合わせているのを見るのは気に食わない。自分を完全に放置していることも納得いかないので、流川は無言の抗議に踏み切ることにした。
 三井のスウェット生地に、流川は手を這わせる。腰骨を包み込むように撫でて脇腹へゆっくり進むと、手の下でびくりと身体が反応した。それでも邪険にはされなかったので、何往復か撫でたあと、裾から服の内側に手を突っ込んで生身の肌に指を這わせてみた。三井はくすぐったそうに少し身じろいだが、電話を続けている。振り返りもしないが、それでも明らかに会話は雑になった。
 爪の先で引っかくように、肌の上を指は蛇行する。鳥肌を立てた薄い皮膚を這い上り、行き当たった乳首を摘んだら「イテッ」と三井が反応した。
 端末からは『どおした三井?』と男の声が返った。
「あ……ス、イマセン……ちょっと……タンスに小指ぶつけたっていう」
『タンスぅ? なにやってんだ、ダイジョブかあ?』
「一瞬ちょっと痛かっただけで」
 よりによってタンス扱いかと思い、流川は心ひそかに憤る。
『あー俺もね、タンスじゃねえんだけどこの間やったんだぞ、車に足の指を轢かれたんだよ聞いてくれ。仕事中のことなんだけどさ──』
 しかも電話は終わる気配を見せない。
 猛烈に暇らしい電話の男は自分の話を始めてしまった。それに対して三井はずいぶんとやっつけな相槌を打ちながら、流川の頭を肘でゴンと突いて反撃してきた。
 電話の相手は空気が読めず、三井は恋人に優しくない。流川はとうとう決意した。絶対にタンスがやらないようなことをやってやる、と。
 思い立ったら、もう本能のままだ。流川は片肘をついて上半身を起こす。そして、携帯を耳元に寄せている三井の手首をがっちりと掴み、耳から遠ざけるように腕を伸ばして頭の上まで離した。
 突然だったせいか流川の行為をうっかり受け入れたらしい三井は目を見開いて流川を見上げてきたが、流川は振り解く隙も文句を云う隙も与えずに圧し掛かって、開く前の唇をキスで塞いだ。
 予想に反してろくに抵抗もされず、角度を変えながら差し入れた舌は簡単に受け入れられた。いつも以上にゆっくりと舌を絡め唇を吸いながら、流川は体重の半分くらいをかけて三井の上に跨る。
 ときどき息継ぎをしながらしばらくキスを交わし、見つめ合って、ほんの数秒、無言の会話を交わす。
 携帯は、三井が左手で握ったままだ。
『──うぉおい? もしもし? どしたー? あれ、三井? 聞いてるかぁ? おかしいな、電波かなあ? これって独り言状態か? 聞こえてる?』
 離していても漏れ聞こえる男の声に、俯いた三井は手の甲で口を押さえて笑い声を堪えている。
 流川は溜息を洩らしながら、遠くへ離して掴んだままだった手首を戻し、三井の耳に携帯を当てた。そして、してほしいことを三井に目で訴えた。
 いい加減この電話に疲れたのか、それとも流川の真摯な訴えに心が動かされたのか、三井はよそいきの声を作って、電話の相手に云った。
「──スイマセン、寝落ちしてました。朝が早かったんで。明日も朝練あるから……そろそろ」
『おー、そうかあ、なんかいっつもおまえと話すと長電話になっちまうんだよな。すまん。じゃあ、さっきの話、もしも出来たらで良いんだ。無理はしなくていいぞ』
「りょーかいです」
 会話が終わりかけているところで流川は三井から携帯を取り上げて、勝手に通話を切った。
「あっ、てめ、まだ途中──」
「なげえ」
 一言で切り捨てると、流川は腕を伸ばして携帯をソファの前に鎮座する小さな黒いテーブルに置いた。
 放り投げなかった自分を偉いと思う。
「……悪かったよ。あの人、話止まんねえんだよ」
「いまの誰?」
「うちの大学のバスケ部OBでさ……俺が入学したときはもう卒業してるんだけど、ちょいちょい部に顔出して世話焼いてくれるんだよな。皆でよく奢って貰ってんだよ。肉食わしてくれるし」
「……あれでそんなに年上なんすか? 社会人?」
「云うなよ……まあ、ちょっと天然入ってんだわ……悪い人じゃねえから冷たくも出来ねえし」
「先輩、猫かぶってた。ナンカ気持ちワリィ」
「うるせえ、しょーがねえだろ、俺は大学では可愛がられてんの。上手くやってんだよ」
 三井はどこにでも馴染んで生きていけるタイプだとは流川も思う。それでも、普段の三井の口調とのあまりの違いに驚いてしまう。疲れないのかと。
「それにしても電話がなげえ」
「付き合いがあるんだよ。だからゴメンって」
「いまの人、バスケうめえの?」
「云うなって」
 流川にしてみれば、バスケの上手くないOBなどにあそこまで付き合ってやるなんて三井はお人好しだと思う。
「あんなどうでもいい電話さっさと切ればいーでしょ。いま恋人が隣にいるって云えば」
「バカ、俺はみんなの前ではフリーってことになってんだから、云えねえし」
「云っても、俺はかまわねえ」
「俺はかまうんだよ! 云ったら絶対詮索されんだろ」
「そういえば、先輩ってモテねえの?」
「はあ? 誰に物云ってんだよ。俺だぞ? モテるに決まってんだろーが!」
 電話口でモテナイと自分で云っていたから訊いてみただけなのだが、三井は本気で憤慨している。面倒くさいので、それ以上はつっこまないことにした。
「……結局は、なんの電話だったんすか」
「この間、女に振られたばっからしくてさ。誰か紹介しろって話」
「女? 男が好きなわけじゃねーの?」
「なんで? そりゃノーマルに決まってんじゃん。俺の一個上の先輩が最近部を辞めて読者モデルとかやってんだよ。で、だいぶ遊んでるらしくて。さっきの先輩もよく知ってる人だからさ……要は合コンあったら呼んでほしいんだと。俺の方が話しやすいからって俺に云ってくんだよ、いろいろ」
「よく知らねーけど、たぶん……あのひと合コンしても上手くいかねえと思う」
「だから、云うなってば」
 どうやら三井も同意見らしい。


 話はもう充分にしたと判断して、流川は三井を組み敷いた姿勢のまま彼の頬やおでこの上に沢山のキスを落とした。ここに到達するまでは長かったが、どうやら電話の相手はノーマルで無害な男のようだし、三井も彼に同情的なだけで好意を寄せているわけではないようだ。そうと分かれば、もう話なんてしている場合ではない。時間は有限なのだ。
 頬から顎、首筋へと順にキスしていくと、首のところで三井が笑った。
「ちょっとタイム」
「だめ」
 タイムなんてもうとっくに全部使い切っている。流川はかまわず続けようとしたが、三井にやんわりと手で拒否されて仕方なく顔を上げる。
「アレいるじゃん。持ってくるからちょっと待ってろってば」
「そんなの俺が取ってくる。それか……あっちに移動する?」
「いいから、ちょっとどけ。ここに居ろよ」
 上半身を起こした三井に促されて流川は渋々上から退いた。乱れたスウェットを引っ張って整えながら、三井はシェルフで仕切った奥のスペースへ消えた。そこにはベッドと小さなチェストがあって、いま必要な物はチェストの上から二番目の引き出しに入っているはずだ。
 三井が準備をしている間に流川は着ていたパーカーを脱いだ。下はジーンズだが、それを脱ぐのはまだ早いだろうかと思い迷った隙に三井が後ろ手になにかを隠しながら戻ってきた。


 ソファの上で、思いの外、三井は積極的だった。
 左手を後ろに隠した三井に肩を掴まれて流川はソファに沈められた。悪戯をしかける時のような目付きで三井が腿の上に跨ってくる。いつも以上に積極性を見せるパートナーの姿に、自然と流川も甘い期待が膨らむ。
 触れたくなって手を伸ばし、腰のラインを撫でつつ引き寄せたら、三井は背中を撓らせながら柔らかく微笑んだ。軽いキスを交わしながら身体に触れて、まだ流川に隠している左腕をやんわり掴んだら、三井がそれを阻止して身を捩った。
「なあ流川ぁ、目つぶって」
「なんで?」
 キスをするためなら目も閉じるが、三井は上から流川を見下ろしながら笑いを堪えるように表情を崩している。閉じる理由が分からないので、云われた通りにするには少々抵抗がある。
「いいから。ちょっと」
「なにすんの?」
「つぶれってば」
 三井の右手が伸びてきて、流川の両目を覆う。
「……なんか、SMっぽいすね」
「は? どっちがSでどっちがMなんだよ。おまえ自分をなんだと思ってんの? いいから、とにかくつぶれよ」
 この状況で悪い展開になるとも思えないので、流川は云われた通り目をつぶった。すると、カラカラと乾いた音がすぐ近くで聞こえた。そして、唇になにかが触れた。キスされたわけではない。もっと別の物だ。触れたと同時に、甘い匂いがした。
「口開けろ」
 今度は口かと思いながら云われるままに薄く開けたら、歯と歯の間になにかをそっと押し込まれた。舌で舐めると、微かなイチゴ味。ここまで来ると、口の中に入れられたのが食べ物であることは明白だ。菓子類であることも推測し、口の中で転がす。流川は目を開けた。
 すると、好奇心を抑えられない子供のような目で三井が自分を見下ろしていたので、思わず笑みが漏れる。
「おっ、そんな美味いか?」
 微笑みの意味を勘違いした三井に問われ、まだ噛んでねえ、と思いつつ三井のしたかったことを理解した流川は口の中の物体を咀嚼した。思った通りチョコレートだ。
「めちゃくちゃ甘ぇけど、嫌いじゃねえ」
 ほのかに甘酸っぱい、イチゴ味。甘党ではない流川でもなんとか食べられる。小さいし。イチゴは好きだし。
「だろ? だから云ったじゃん」
 なにを云ったっけ? と流川はしばらく考えて、記憶を手繰り寄せた。思い当たったのは、去年のバレンタインデー。まだ二人揃って高校生だった頃。学校で、三井とキスをしたり、チョコの話をした。
「……これ、アポロっすか?」
 確か『来年のバレンタインはアポロをおまえにやる!』などと三井が宣言していたように思う。
「俺の子供の頃の懐かしい味な」
 手品の種を見せるように、三井が手の中の小さな箱をカラカラと振って見せた。白地に敷き詰められたイチゴのイラスト。流川の想像よりも小さくて可愛くて、確かに子供のお菓子という感じだ。
 それにしても、まさか今日こんな展開が待っているとは思ってもいなかった流川は、少しばかり焦っていた。バレンタインは来週だ。今日は普通の日だと思い、なにも用意して来なかった。
「……バレンタインて、まだ先だと思ってたけど」
「云ったじゃん、来週は忙しくて会えねえんだよ。ちょっと早いけどいいだろ」
 そういえばそんなことを先週電話で聞かされたなと流川は思い出した。
「俺はなんも用意してねえ。ゴメン」
「なに云ってんだ? おまえはホワイトデーに返せよ」
 そうかそれでいいのかと思い、ホッとした。
 それから、流川は「ありがとう」と云って、自分の上に跨っている三井を引き寄せてキスをした。三井の腕が、流川の首にするりと絡められる。
「なあなあ、さっきの読んだか?」
 キスの合間に、幾分甘えの入った声で三井が云う。
「さっきのって?」
「さっきの雑誌だよ。ページに折り目付けといたんだけど」
「折り目?」
 電話中に雑誌を放り投げられて暇つぶしに見たが、折り目なんて気にしていなかった。
「あったかわかんねえ」
「なんだよ、見とけ」
「なにが載ってんの?」
「シャツだよ。ホワイトデーはそれでいいから」
「……欲しいんすか?」
 服の載っているページはほとんどパラパラと流し見ただけなので、三井の付けた折り目のページにどんなシャツが載っているのかは分からないが、雑誌に載っているのだからそれなりに高いものだろう。三井は洋服や小物にこだわりがあって好みがうるさいし、結構高額な物を身に着けていることも多い。
「安心しろ! たぶんセールで買えっから」
 アポロの箱を後ろのテーブルに放りながら、流川の心を読んだかのように三井が答えた。箱の行方を目で追いながら、この小さな箱入りチョコレートとブランドシャツの交換は割に合うのだろうかと少し考えてしまった流川だが、思考を妨げるようなタイミングで、三井の手が流川のジーンズのベルトにかかった。
「この話はあとでいいよ」
 流川が頭の中を整理する前にベルトが外された。ジッパーを下ろされる時はいつも、軽い緊張が走る。意識はすべて、自分の身体と三井の次の挙動に向けられる。
 固いジーンズの生地が押し広げられ、三井の手が下着の上から流川を煽る。
 期待の高まった単純すぎる身体は、さらに次の展開を待って待機する。
 至近距離で視線を絡め合い、流川は何も要求しなかったけれど、笑った三井が腿の上から降りた。いつも流川に見せる気の強さは失わないまま、流川の足の間に跪く。
 悪戯するように腿の付け根を擦られて、くすぐったさと微かな快感に、流川は大きく足を開いた。
「おまえ、ここ弱いよな」
 もどかしいところをそうして触られるだけでは満足できず、流川は腰を上げてジーンズを自分で下ろした。全部脱ごうとしたが、腿に引っかかった状態で急いた三井に押さえ込まれ、下着の中に入ってきた彼の手に次の展開をゆだねる。
 三井は躊躇ったり臆したりすることなく、むしろ上機嫌な様子で流川の腿の間に顔を沈めた。
 あとはもう、余計なことは頭の中から消える。
「先輩……来月、一緒に買いに行こう」
 髪の流れに沿って三井の頭を撫でながら、流川は云った。つい云ってしまった。
 この状況はズルいと思いながらも、愛情が込み上げて、どうしても云いたくなってしまったのだ。まんまとハマったように思うが、三井がくれる快感がたまらなく心地好くて愛おしくなり、ブランド物のシャツくらい買ってもいいと思ってしまった。
 プレゼントというのは選ぶのがとても難しいと流川は常々思っていたので、欲しい物を指定されるのは逆に助かって有難いとさえ思えてきた。
 三井は顔を一瞬上げたが、嬉しそうなその顔は再び足の間に沈んだ。


 ソファの上からベッドに移動した後は、流川が主導権を握った。
 一度溜まったものを出してしまった流川は時間をかけて三井を攻めにかかり、「おまえ、やらしーよなあ」と最初は余裕の笑みを浮かべていた三井だったが、顔からも態度からもその余裕は次第に消えていった。
 喘がせて、時折名前も呼ばせて、満足した流川が三井を放すと、ベッドに沈んだ三井は「喉渇いた」と云って流川を顎で使った。流川は動けない三井の代わりにいろいろな後始末をして、自分のボクサーパンツだけはソファの近くから探し出し、キッチンへ行って冷蔵庫に入っていたオレンジジュースをマグカップに注ぎ、ベッドまで持って行った。ベッドの上では起き上がった三井が布団に包まって座っていて、待ちわびたという顔で流川を見上げた。
 なんだか、そうして包まっていると雪だるまのようだ。
「暑くねーの?」
 散々動いて汗を掻き、流川は暑いと感じていた。寒がりの三井の部屋なので、常に暖房も強めにかかっている。布団をかぶるなんて信じられない。
「だって裸だしよ」
 今更なにを云うのかと思いつつ、隣に座ってジュースを渡した。見るだけで暑苦しいが、布団から手を出してカップに口を付ける三井は可愛いと少しだけ思う。
「俺も飲む」
 残りを少し貰って飲み干して、カップをテーブルに置きに行った。すぐにベッドに戻って、また三井の隣に座って軽いキスをする。
 カップを置いてきたついでに、テーブルに放置してあったアポロを持ってきた。流川は三井の隣でピンク色のチョコレートを手の平に出して食べながら、箱を振ってカラカラと鳴らしてみた。
「これ、美味いす」
 イチゴ味といっても酸味は少なくだいぶ甘めだが、三井に貰った物だから許容範囲だ。自分にとっても、いつか懐かしい味になりそうな気がする。
「パンイチでアポロ食ってんのシュールだな」
 雪だるまが隣で笑いながら云った。

おわり
★ちょこっと一言
流川が、甘えるわ、甘やかすわでとにかく甘い人でした。
流川が見ていたテレビ番組は実際にこの間やっていたやつなのです。ちょうど見てたんで出してしまいました。築地移転とか、現代風になっちゃいました。携帯出てきたり、時代が適当でごめんなさい!