Sleepless Sheep

 少し前から夢と現の間を意識が彷徨っていたのだけれど、自分のベッドから人が這い出す気配がして三井は本格的に覚醒した。
 控えめな光度を保つ間接照明が、見慣れた部屋の様々な輪郭をぼんやりと浮かび上がらせる。それらを他所に三井の目を惹くのは、ベッドの縁に座ったまだ少し未成熟な白い背中だ。そこそこ逞しくて綺麗に筋肉がついているけれど、まだどこかに柔らかさが残っていそうな男の後姿。
 眠りに落ちる前、その背中に幾度も三井は縋った。両手を絡みつけて自分のすべてを委ねた記憶が脳裏によみがえる。
 今は縋るよりもその背中に話しかけたかったけれど、まだ少し眠くて頭が重たかったから黙っていた。肩甲骨の上の、しがみついた時にいつもちょうど指が触れてしまうホクロが目に留まる。あまりホクロに触るのは良くないと、昔誰かに聞いたことがあった。具体的に何がどう良くないのか何一つ覚えてはいなかったが三井はその話を信じていた。見つめることさえ禁物な気がして、なだらかな肌の凹凸が作った陰影に視線を移す。そうして眺めていても相手は一向に感知しないらしく、三井を振り返らない。その内に、白い背中は羽織ったシャツに隠されてしまった。シャツを羽織った上半身を屈めた男は、ベッドの下に落ちていたらしい下着を拾って身に着ける。手繰り寄せたジーンズも履こうとし始めたので、ようやく三井は声をかけた。
「もう帰んのかよ?」
 思っていた自分の声とは少し違った声が出た。なるべくなら執着なんて欠片も見せたくなかったのになんだか失敗した。後輩相手にあまり未練がましい声音を出すのはみっともない。けれど、寝起きの上に事後の三井の声は低く掠れていたし、必要以上に咎めるような調子を含んでしまったかもしれない。かと云って、出てしまった声はどうしたって取り戻せない。
 流川が首だけで三井を振り返った。
「起こした?」
「別にいーよ。帰んの?」
「……いつも、遅くなるとマズイから早く帰れってあんたが云うんだろーが」
「そうだけど……今日は、まだちょっと早いだろ」
 自分の体内時計が正しければ、まだ眠ってから一時間程度しか経っていないだろう。だとすると、二十一時になる頃だ。確認するために、三井は頭をめぐらせてベッドのヘッドボードの棚に納めてある小さな時計に目をやった。大体、予想通りの時刻だ。最近は寝不足気味で、身体が疲れていても時間をかけなければなかなか寝付けなかったから、こんな時刻に眠ってしまったのは久しぶりだった。
「大体、おまえも寝てたんだろ? 起きたばっかじゃ、チャリあぶねーよ」
 もっとここに居て欲しいと素直に云えたらいいのに、三井にはそれが出来なかった。相手は年下だし、よりにもよって流川で、甘えたりする事は難しい。意地だとかプライドといったやっかいなものがいつも三井の邪魔をする。
 普段の三井だったら、やるコトをやった後に流川が帰ったって何ということはない。だけど少しだけ心が参っている時は、なるべく多くの時間、彼にそばに居て欲しかった。
 言葉には出せなかった三井の思いが通じたのか、流川はしばらくの間何かを考えるように深い瞳でじっと三井を見下ろしていたけれど、穿きかけのジーンズを放り出し、シャツをもう一度床に脱ぎ捨てて、ベッドの中の三井の隣に戻ってきた。
「今日、泊まる」
「あ? それはマズイだろ……」
 流川は明日も早朝から練習があるし、学校もある。とどめに、ここから流川の自宅まで結構な距離がある。
「へーき。その代わり、朝すげー早く起きて帰るけど。いい?」
「おまえ、起きられんのか?」
「アラーム鳴らして。五時でいいっす」
「チャリで一時間近くかかんだろ? それで間に合うのかよ」
「飛ばせば四十分で帰れんから」
「じゃあ……家に電話しとけよ」
 流川は上半身を起こすと枕をクッション代わりにして、ヘッドボードの上から受話器のコードをギリギリまで引っ張って使い始めた。電話ならそうやって瞬時に繋がれるのになと、三井は思う。
 大学に通う三井が一人暮らしを始めたアパートは神奈川と東京の境目に近く、住所は東京都だ。流川との物理的な距離は遠く離れてしまった。高校生と大学生が付き合っていくのは大変だ。時間の使い方が違うし、この距離が、小さなすれ違いを生む事もある。そんなすれ違いが何度か連続してしまった時は、喧嘩に発展することも当然ながらあった。
 それでも、高校を卒業する前から始まっていたこの関係は今も変わらない温度を保っていると三井は実感していた。ただ、人恋しいのにすぐに流川に会えない時、ときどき、心細くなるだけだ。
 まだ慣れない一人暮らしをしながら、三井は大学バスケットに奮闘している。今はとにかく忍耐が必要な時だ。身体が疲れて、心も疲弊している。
 この前の日曜、練習の後に時間が空いたので地元へ帰った。流川に会うついでに、湘北バスケ部の練習を久しぶりに見に行った。
 懐かしい母校の後輩たちとのゲームに少し参加して、散々喋ったり笑ったりして久しぶりに心から楽しい気分になった。そうして、自宅へ戻るために良い気分で駅前を歩いていた時、知っている顔を見つけた。

 電話を終えた流川がベッドに全身を潜り込ませてきた。仰向けで天井を見ていた三井の裸の腹の上に腕を投げ出し、うつ伏せの体勢で首だけを動かして三井を見上げてくる。電話連絡という務めを無事に終えたからか、流川は機嫌の良さそうな顔をしていた。
「なあ俺さ」
 後輩と視線を合わせ、三井は口を開く。
「この間おまえらに会いに行った日に、昔の知り合いにばったり会ったんだ」
「昔の?」
 すっかりここでの居場所を獲得したように寛いだ様子で三井を見上げる流川に、三井は小さくうんと答えた。きっと当人は知る由もないだろうが、落ち着き払ったその眼差しには、ほんの少し艶気も混じっている。最近こいつは随分大人びてきたなと三井は感じていた。
「その知り合いと、なんかあった?」
「そういうわけじゃねえんだけどさ……」
 脳裏に、駅前で再会した昔の仲間内の一人の女の姿が浮かぶ。わだかまる様にいつまでも消えない影となって、最近の三井の心を緩やかに縛っているのが彼女だ。
 一人で居ると、要らないことまで考えてしまう。けれど今は流川が居て、三井の身体に触れている。流川の体温が身体や心を甘やかし、三井のすべてを癒そうと作用する。それが誰のものでもなく流川の温もりであることが三井には嬉しかった。
 だから、今なら彼女のことを考えても大丈夫だと思った。流川が隣にいるだけで心強い。彼さえいれば心配は要らないと、根拠もなく思う。 反応が薄かったり、不機嫌そうな顔をしている時ですら、実は流川は三井の話にいつも耳を傾けてくれる。
「その女がさ──」
「女なんすか?」
「そう。えっと、ほら、S女って学校あるだろ、あそこに通ってる奴」
「先輩の、知り合いの女の話、あんま聞きたくねえ」
「バカ、そういうんじゃなくて。別にそいつ、元カノとかじゃなくてさ。まあ、仲間の一人っていう感じかな」
 渋い顔をして口を噤んだ流川に、三井は一週間前の些細な出来事を語った。

 彼女を駅前で見つけた時、面倒だなと三井は思った。多分、自然と眉根が寄って目つきも悪くなった筈だ。周りに人がいなければ、舌打ちもしていたかもしれない。
 最後に彼女に会ったのは、確か体育館に土足で入り込むよりも少し前だった。三井が髪を切ってからは自然と昔の仲間と縁を切る事になったので、バスケ部に入り直してからは一度も会っていない。
 別に彼女とは深い仲ではなかった。それでも、久しぶりに会って気まずい思いが芽生えた。気づかない振りが出来たら一番良かったのだが、手を振って向こうから近づいてきたものだから、無視することもままならなかった。
 一個下だったから、ちゃんと進級出来ていれば今は高三だ。一時期は仲間の一人と彼女が付き合っていたから顔を合わせる機会はそれなりに多かった。顔を見たらすぐに下の名前を思い出したけれど、苗字は思い出せなかった。向こうは三井の事を「ミツイ」と舌足らずな調子で以前のように呼んだ。
 久しぶりに会った彼女は、よく喋った。三井が突然集まりに来なくなったのは部活動を再開したのが理由だと知っていた。誰かに聞かされたのかインターハイに出たことまで知っていて、「スッゴク強い高校に勝ったんでしょ?」と彼女は云った。更には、バスケのおかげで大学に推薦で入学出来たことも知っていて、しきりに三井を褒めた。
 天井を見上げながら、三井は彼女の笑顔を思い返す。
「俺さ、昔の友達はみんな俺のコトを怒ってると思ってたんだ。だから、誰にも会いたくなかったんだよな」
 三井の話を、流川は相槌を打つこともなく黙って聞いている。
「でも、その女がさ、すげえ嬉しそうに俺に云ったんだよ」
 ──みんな、ミツイはスゲー奴だったんだなって云ってたよ。ミツイとトモダチだったコト、みんな自慢に思ってるよ。
 あまりの不意打ちに、三井は言葉を失った。
 そんなことを云われるなんて思ってもいなかった。
 毒もなく無邪気な様子で彼女は自分のことのように誇らしげだった。
「なんで、そーなるんだって話だよ。調子狂うんだよ。フツー、そんなわけねえだろ。急に誰にも連絡しなくなって、電話も無視したし、一回も会いに行かなかったのに。絶対みんな、散々俺の文句云ったと思うんだよな。なのに、何云ってんだろコイツはって」
 なんだか分からないけれど、彼女の言葉に、三井は泣きそうになった。
「まあ、あれからもう一年以上経ったからさ。ソイツ頭わりぃから、文句云ってたこととか綺麗に忘れてるだけかもしんないけどな」
 自分は彼女に会って面倒だなと感じたのに、向こうは嬉しそうに近寄ってきた。その姿が、よく撮れた一枚の写真みたいに三井の頭に焼きついている。何かの作業をしている時にうっかり瞼の裏に浮かんだりすると、胸が少しだけ苦しくなる。
 ある筈だったものを失ったと思い、それを取り戻す事にただ必死にやってきた。それ以外のことはあまり考える間もなく三井は高校を卒業した。一人で生活を始めて、ようやく立ち止まって、自分を振り返る時間が持てるようになった。
「今更……どうしようもねえって、分かってんだけどさ」
 彼女と駅で別れた後、色々と堪えるのが大変だった。彼女の前では泣かなかったけれど、電車の中で三井は我慢出来ず、ひそかに泣いた。
 ずっと許されたかったんだと、その時、気づいてしまった。
「あいつらに、もっと云うことがあった筈なのによ」
 無駄に過ごしたと一度は断じたあの二年間だって、呼吸を止めていたわけじゃない。自分はちゃんとあの場所で生きていたのに、その事実をどこかに置き去りにして先を急ぐように走ってきた。
 上手くいかない事態に遭遇して躓く度にしょっちゅう溜息を吐いている現在の三井だって、同じように呼吸をしている。数年後に今を振り返った時にどんな感想を持つのかは分からないが、そこにどういった価値を見出すかは本人次第だ。
「ゴメンって、素直に言葉が浮かんできたのにさ、結局ソイツに何も云えなかった。みんなに謝る機会は、もうきっと、ねえんだろーな」
 軽いノリを作って彼女の話を笑って聞いて、云いたい事は何も伝えられないまま駅で別れた。その時の三井はそうするだけで精いっぱいだった。屈託のない顔で近寄ってくる彼女の姿が頭から離れなくなるなんて、その時点では思いもしなかった。
「やっぱ、ソイツより俺の方が頭わりぃよな。相変わらず、後悔ばっかりしてんだよ」
 隣に横たわる後輩に顔を向ける。彼の腕は今も三井の上に重ねられている。三井の知っている彼は、迷いや後悔なんてものとは無縁だ。今も、底の知れない瞳で三井を見据えている。
「どう思うよ、こんな先輩」
 自嘲するように三井は小さく笑った。
「俺も、その人と同じように先輩を自慢に思ってる」
 ずっと黙って話を聞いていた流川からようやく発された簡潔な言葉が、三井の鼓膜に優しく響いた。
「おまえに云われるとなんかすげえプレッシャー感じるから、やめろ」
 三井は苦笑しつつ、云い返した。言葉にはしないが、自分こそ、誰かに流川を自慢したいくらいに想っている。
「じゃー、別の云い方にする。俺も、あんたが好き」
 彼女が云いたかったのも、きっとそれと同じことだ。三井にだって分かっていた。嬉しくないわけはない。ただ、自分はみんなに甘えてばかりいる。そのことも知っている。だから、後ろめたさに逃げ出したくなってしまうだけだ。
 また泣いては堪らないから、三井は流川の真っ直ぐな視線から逃れるために再び仰向けになって天井を見上げた。返事は出来なかった。彼のように、揺るがない心でいつもありのままでいられればいいのにと、ただ思う。
 目を瞑ったら暗闇に色々な顔が浮かんだけれど、それを打ち消すような勢いで流川が覆い被さってきた。ベッドのスプリングが軋む音、圧し掛かる重み、人肌の温もり、全部が一度に三井を襲った。欲しいものをちゃんと認識している硬い指先が、三井の表面を這う。素肌を重ねてきた流川に、迷いのない力強さで求められる。いつでも安定した精神状態の男にそうされると、とても安心する。
 意識が、再び時間を巻き戻して余計なことを思い返すことがないように、三井も彼の身体に腕を回して応えた。
 きっと、今日はよく眠れる。

おわり
★ちょこっと一言