部室には先客がいた。壊れかけている年季の入った椅子に座り、机に足を乗せて行儀悪く成人雑誌を読んでいたのは三井だ。彼は急に訪れた後輩を見て目を丸くした。
「おまえ、どうしたよ?」
「……そっちこそ」
態度に出すのはかろうじて踏みとどまったものの、驚いたのは流川も同じだ。どちらかと云えば場違いなのは三井の方だと流川は思う。バスケット部の部室に部員である三井がいることに異存はないが、今日に限っては違和感を覚える。今頃はきっと、仲間の番長あたりと校内を見て回っているのかと思っていた。
「俺さぁ、昼まで店番の時間なんだよ。めんどくせーだろ? だからサボってんの」
「……一緒」
「おまえもか。仲間だな」
同士を見つけた喜びからか機嫌良さそうに表情を崩した三井を見て流川は部室に来て良かったと心から思った。文化祭の真っ最中である今、サボれる場所は少ない。部室くらいしか流川は思い浮かばなかった。まさかここに三井がいるとは少しも想像していなかったが。
(……ツイてる)
そんな本心は言葉にして発声せず、胸の中に留めておく。
期待していなかった分、喜びは大きかった。ここ最近で蓄積されたストレスの分も。
校舎内は今、多くの学生や来場者で賑わっている。文化祭本番当日なのだから、それも当然だ。授業に出なくて済むのは有り難いが、準備に時間を取られるのも、それが部活に響いてくるのも流川は気に入らない。三日前から部活は完全に休みだったし、それ以前から文化祭準備で部活動の時間は短縮されていた。時間がなくて三井にワンオンワンの相手もして貰っていないのだから、流川は欲求不満だった。
「ここに居てもいーすか?」
「座れよ」
並んだもうひとつの椅子を顎で指し示しながら、三井は自分の椅子の向きを少し変えた。
流川は三井の柔らかそうな頭髪を見下ろしながら頷いて、秘かに恋愛感情を抱いている彼に並んで座った。
それでも、視線はいつでも三井へと向いていった。戦ってみたい相手としてばかりではなくて、もっと感情に直結した理由がそうさせるのだと薄々は自分でも感じていた。
夏の大会で敗戦した後、自分を縛っていた緊張の糸が解けて、身体の中から力が抜けた。そんな時を見計らったように中学時代の同級生が家まで押しかけてきて、前から好きだったと打ち明けられた。聞き慣れた告白を、自分にも好きな相手がいるから応えられないと初めて具体的な理由を口にして断った。あってはならないことだが、云いながら頭に浮かんだのは三井の姿で、子供のように笑いながら「俺の勝ち!」と宣言している得意そうな後ろ姿だった。いつかのワンオンワンの時の、大人げないのにどうしても憎めないその姿を思い浮かべながら、もうそろそろ負けを認めてもいいかなと諦めがついた。
その男がいま隣にいて、部室に二人きり。否応なく弾む心そのままに身体を寄せて、流川は三井の読んでいる雑誌を覗き込んだ。
「それ、潮崎さんの……?」
「そう。あいつ、ヤバいよな。マニアックなの結構持ってるわ」
湘北バスケ部内で『潮崎コレクション』と呼ばれている漫画や成人指定雑誌その他は、一番端の使われていないロッカーの中に収められている。少しずつ溜まっていって、いつの間にかロッカーをひとつ占領する程の量になってしまった。
「まあ、暇つぶしには良いけどな。おまえもなんか読めば?」
「いいっす。興味ねー」
「この変わり者が」
「先輩、いつからココにいるんすか」
「ずっと。ホントは外見て回りてえんだけど、クラスのやつらに見つかると連れてかれそうだしなー。クラスにさあ、やたらはりきってうるさい女がいるんだよ」
「うちにもいる」
「だろ? あれなんで必ずいるんだろーな? そんなにやりたきゃおまえが俺の分もやれっつうの」
流川はうんうんと頷いた。流川のクラスは模擬店で、カジノが出来る団子屋というよく分からない出し物を教室でやっている。団子屋をやりたい勢力とカジノをやりたい勢力が一歩も譲り合わなかったためにこうなった。流川にはどうでもいいことなので、事前準備の裏方を希望して話し合いの最中は寝ていたが、眠っている間にディーラーの役割を振られかけていたらしい。バスケ部仲間の石井がそれを食い止めてくれたそうで、最終的には普通のウェイターに落ち着いていた。彼はときどき凄腕のエージェントみたいだと流川はひそかに石井に信頼を置いている。
しかし今回は少しばかり石井の力が及ばず、裏方という流川本人の希望は通っていない。団子や飲み物を配るウェイターなどまったく乗り気がしなかった。それでも仕方なくさっき三十分ほど店番をしたが、すぐに疲れてしまった。一般を含めたものすごい数の女が店に押しかけてきて一年十組の教室は異様に混雑したのだ。
これ以上はもう付き合えないと思い、支給品のソムリエエプロンを石井に押し付けて逃げてきた。
「大体よお、文化祭って別にいらなくね? いちいち部活がつぶれるし、準備めんどくせえし、妙に熱くなって喧嘩して泣くやつとかいるし、うぜえよな。まあ百歩譲って文化祭はあってもいいけどよ、やりたいやつだけ──」
「自由参加」
「そう! それだよ」
(文化祭なんてやってられねー。先輩に、ぜんぶ同意だ……けど)
「先輩は、こーいうの好きなのかと思ってた」
「俺?」
流川の知っている三井はどうも寂しがり屋で、楽しいことや派手なこと、賑やかなことが好きだ。祭りごとには目がないのかと勝手に思っていた。
自然と周囲に人を集めて、真ん中で楽しそうに笑っている三井を少し離れた場所から見ることが、流川は好きだ。少しでいいから自分のことも見て欲しいという欲求も、同時に湧いてしまうのだが。
「まあ一年の時はそれなりに参加したけどな。去年は俺、どっかで酔い潰れてて学校休んだっけなー。行く気あったんだけど、目ぇ覚めたら知らねえ奴が隣に寝てて、なんかもういいやって」
さらりと出てきた三井の過去の話に流川の顔は曇ったが、三井は気付かない。
(どこで、誰と、何をシタ?)
浮かんでは消えるクエスチョンはしかし声にはならないし、三井の顔を窺うように見れば、彼は過去の話を後輩に笑い話として語って見せるほど今の自分の足元を確かにしていていつもの流川の好きな顔をして笑っているから、湧き上がりかけた焦燥感はすぐに沈静した。
「今年はさあ、部活のが大事だし。俺ら選抜控えてんじゃん? 体育館がこう何日も使えねえのは困るんだよな」
「そのとーりっす」
「だろ?」
予選にあたる大会で優勝して、湘北高校男子バスケットボール部はウインターカップの出場権を獲得した。三井にとっては高校生活最後の大会だ。今はとても大事な時期なのだ。もちろん流川にとっても。
「俺ら文化祭なんてやってるほどヒマじゃねえよな。今はとにかくバスケがしてーんだ。バスケしてる時だけ、生きてるって感じがするんだよなぁ、俺」
まったくその通りだ。流川は同意の意思を込めて三井の目を真っ直ぐに見つめながら頷いた。三井がお祭り騒ぎよりもがバスケットを優先して考えていることがなによりも嬉しかったし、高らかに宣言する三井は男前でもあった。たとえ手に持っているのが『別冊パンスト艶姫ローアングルコレクション』だとしてもだ。
部活する権利を一方的に奪う文化祭なんぞは即刻廃止にするべきだ──流川は切実に思った。カジノ団子屋なんてくだらない出し物も即時撤収するべし。
「そういえば、先輩のクラスって、何やってんすか」
ふと思い立って訊いた。三井のクラスがどんなことをやっているのか知らないが、大した内容ではないだろう、と自分の経験も含めて流川は思う。どこのクラスも皆、大体が似たようなものだ。
「ああ、うちのクラス? くっだらねえのやってんだよ。猫カフェをパクった猫耳カフェっつーやつ。付け猫耳と付け尻尾支給されたんだぜ俺ら。んなの、やれるかっつうの」
(──いまなんて?)
流川の思考は一時停止した。
「先輩、ソレ、ドンナノ……?」
「俺ら男子が猫の代わりっつう体で、常にネコ語で喋りながら客の相手しなくちゃなんねえんだってよ。ありえねーよなあ」
(……ナンダソレ)
「要はさ、猫カフェとキャバクラを併せたよーな仕組みなわけ。あ、男ばっかだからホストかあ? 客に指名受けてぼったくり価格の菓子とかを買わせるのが目的。あ、それエサの代わりな。俺らは猫としてそれを食わして貰ったり、あと──」
(ナンダソレ)
「頭撫でさせてやったり、一緒に写真撮ったり──」
(ナンダソレ)
「あとはモフモフさせてやったりしろって云われてんだけど。よくわかんねえ」
(モフモフ……)
「な、くだらねえだろ? 金払ってそんなのやりたがる客なんかいねえよな」
(なんで──)
流川は俯いた。そして、密かに拳を握り締めた。
(なんで、そーいうことを早く云わねーんだ、どあほう……!)
もしも宮城がこの場にいれば、流川がやりたいことをすぐに理解しただろう。頭の中が「それやりたい」という一念で占領された流川は、高揚する気持ちを抑えようと、溜まった唾液をごくりと呑み込んだ。
「……先輩、やっぱ、クラスの出し物は、出たほうが良いんじゃないすか?」
努めて自然に、かつ丁寧に、三井が興味を持つように流川は発声する。
「は、なんで?」
「……猫耳カフェどうせ流行んねえから出てもヒマでラクだろーし、それってここに居んのと一緒でしょ。クラスのやつがあとでいつまでもうるせーかもしれねーから、出たほうがいい」
「俺の分も徳男が二倍働いてっから、文句は云わせねえって」
それでは余計に流行らないからクラスメイトが気の毒だと流川は思ったが口にはしなかった。猫耳を付けて接客をする堀田徳男を想像してしまい少し気持ちが沈んだが、三井の姿で想像を上書きし、すぐに立ち直る。
「クラスのみんなでせっかく考えた出し物でしょ。バスケだってチームワークは大事だし。一度も参加しないで終わっていいんすか?」
「おまえ、さっきまでとなんか云ってること違わねえ? 自由参加でいいつってただろうが。っていうかチームワークをおまえが語るのかよ?」
三井が痛いところを突いてくる。
「それは……俺はともかく、先輩は高校最後の文化祭だから」
「ああ、ま、そーだけどよー……」
「戻ったほうがいいと思う。あとで、後悔するかもしれないし」
「そうかあ〜? だって猫耳カフェだぞ……やったほうが後悔するだろ。俺の黒歴史増えるだけだろうが」
いまさらひとつ増えてもあんた一緒だろーが。四の五の云わずに猫耳と尻尾付けろ。流川は喉の奥で本音を飲み込みながら、上辺だけの台詞を吐く。
「……でも、もう二度と高校の文化祭には参加出来ねーってこと、本当に解ってるんすか? やらない後悔よりやって後悔するほうが、まだマシ、かも」
「そうだけど、だってよぉ、知らねえ客の相手なんか出来ねえぞ俺は。なに喋ればいいんだかわかんねーし、なんかキモいのが来たらどうすんだよ。キレない自信ねえぞ」
それはそうだそんなのは困る。猫耳三井が高い指名率を上げるのは間違いないと流川は確信する。その分、おかしな客もきっと増えるだろう。調子に乗った客が必要以上に猫耳三井を可愛がろうとする可能性もある。モフモフの強要など、あってはならないことだ。そんなことを流川だって見過ごすわけにはいかない。
だが、解決方法はないこともない。
「俺が付いてって、客のフリして先輩を指名する。自分の番が終わるまで、あんたはずっと俺の相手してればイイ。仕事はちゃんとしてるから、あんたのクラスのやつも文句云えないでしょ。ちゃんと、エサも買う」
完璧な計画だ。ネコ語で話す自分専用の猫耳三井がずっとそばにいるなんて夢のようだ。頭を撫でたりモフモフしたとしても今は猫だからとシャレで済むのだ。エサとしてポッキーなんかを口に咥えさせたりも出来るかもしれない。それがすべて合法で行えるというのだから、金を払ってでもその権利が欲しい。そして誰にも譲る気はない。
「ん〜、俺の客、おまえだけかよ。それってわざわざ俺が働く意味あんのかあ?」
「ある!」
大事な試合の時よりもよほど大きな声が出た流川に、三井は少し驚いたような顔をしつつも、考え込む様子を見せた。
「そ、そうかあ? んー、どうすっかなあ……潮コレ途中なんだけどなあ」
なんだかんだで潮崎コレクションを愛読しているらしい三井が天井を見上げて悩み始めた。彼がウンと云うまで辛抱強く粘ろうと心に誓う流川は、三井の制服の尻ポケットから支給品の猫の尻尾らしきものが少しはみ出していることに気づいて更に気持ちが昂った。
(三毛猫か……嫌いじゃねー)
どんな柄でも猫には目がない流川だが、珍しくて希少なオスの三毛猫は、三井にぴったりだ。愛らしい三色の色が混じった尻尾の一部を盗み見ながら、流川は猫に変身した三井を想像して潮コレよりよほど楽しめそうなことに秘かに笑ったが、悩める三井に気づかれることはなかった。 おわり