試験前の日曜日は部活が休みだ。もちろん、勉強なんてほとんどやっていなかった。部活が休みだと会いたい人に会えないから、早く試験なんて終わってくれと心から思いながら、流川楓はただひたすらに自主練習をして惰眠を貪っていた。
ノートも教科書も、普段と同程度にしか開いていない。どうせテストは赤点ギリギリだ。試合に出られる点さえ取れたならそれで十分だったし、親も勉強のほうには一切期待していないだろう。
今も、昼間っからベッドに横になってうとうとしていたところだった。日曜でも、親は仕事で昼間は居ない。そんな時に、チャイムが鳴った。いつもならば当然無視して寝ているところだけれど、母親が出かけに「宅配便が来るかもしれないからなるべく出るように」と云っていたのを奇跡的に思い出した。
Tシャツの裾から手を突っ込んで腹を掻きながらインターフォンをチェックすると、驚いたことにチャイムを鳴らしていたのは二つ上の先輩の三井だった。インターフォン越しに見た彼は珍しく真面目な表情で青い顔をしていたので、流川は慌てて玄関を開けた。
「よお。俺さあ、なんか女になっちまったみたいなんだわ。どーしよう?」
ドアを開けた途端に、三井は流川にそう云った。
「……ナニ云った?」
聞いた言葉がまったく頭に入ってこなかったので、訊き返した。
「ああ、初めから説明するわ。昨夜の俺は、今まで通り男だったんだ。んで、フツウに寝て、朝起きたら身体が女になってたんだよ。あーこりゃ夢だなと思って寝直したんだけど、もっかい起きてから改めて確認したら、やっぱ女なんだよ、俺」
「……先輩、からかってるつもりなんすか、ソレ」
三井があまりにもくだらないコトを云うので流川は彼のことが心配になった。慣れない勉強なんかするからこんなことに……そう思った。前々から結構しょーもないことを云う人ではあったけれど、今日はいつにも増してヒドイと思った。
「いや、ホントなんだって。俺、どうしたら元に戻れんだか全然わかんねーし……なあ、どうしたらいいと思う?」
顔色は相変わらず青い。だけど、それほど切羽詰まっているという顔でもない。とにかく流川は、三井を部屋に入れた。本気でも嘘でも、玄関先でデカい声で話すような内容ではなかった。
「先輩、今日ヒマだったんすか? べんきょーに飽きて、ウチに来たんでしょ?」
ベッドの上に胡坐をかいて座った三井と向かい合って座った。さて、どこまで相手をすれば彼の機嫌を損ねないでいられるかと流川は探りを入れる。ギリギリのラインで三井の相手をする術を、流川は知っている。三井ときたらいつも人を騙したりからかったりして、反応を楽しむのが趣味なのだ。
女になってしまったと云われて、それを信じるほど流川の頭の中は園児レベルじゃない。いくら三井が真に迫った演技をしたとしても、それはさすがに無理がある。しかも、どう見ても真に迫った演技ではない。寝て起きたら女になっていた、などという非常時にも関わらず少しも三井は焦っているように見えないし、口調も淡々としている。見た目はどこも変わっていない。いつもの三井だ。流川にとって、非常に好ましい姿のままだった。
「暇だから来たわけじゃねえよ」
「……遊びに来たって、素直に云えばイイ」
「信じてねえのか。じゃあ、俺の胸を触ってみろよ」
「……」
流川は今の状況を再確認する。親のいない家で、部屋に二人きり。流川のベッドの上で三井が胸を触れと迫ってくる。いろいろと問題あるような気がした。
「今、親いねえし……無理っす」
「いねえ方がいいよ何考えたんだよバカ。こんな身体、誰にも気づかれるわけいかねーんだよ」
三井が強引に流川の手を掴んで、自分の胸に持っていった。彼のだぼついたパーカー越しに掌を押し付けさせられて流川は目を見張り、その手を引いた。想像していた三井の胸の固さとは全然違った感触が返ったことに驚いたからだった。とても柔らかくて、弾力があった。よくよく見れば、三井の胸はいつもより厚みがあるような気もする。
「……タオルとか、入れてんでしょ」
「おまえはタオルの感触と本物の女の胸の区別もつかねえのかよ。童貞か」
酷い云われように、流川も思わずムッとする。
「そこまで云うなら、じゃあ見せて」
「なにをだよ?」
「女になった証拠に決まってる。服まくって見せて」
「この、スケベヤロウ……」
「スケベとか、そういうことじゃねー。見もしないで、そんなくだらないコト信じられるわけない。大体、触らしといて見せるのはイヤダとか、意味がわかんねー」
「生で見られんのはヤなんだよ、やっぱデリカシーねえなてめえは」
「無くてもイイす。証拠見せて。それが一番手っ取り早い」
「……だって……見たら、気持ち悪いって、きっと思うぜ」
「なん──」
流川は勢いで云い返そうとしたが、三井の声が震えたことに気付いて途中で言葉を飲み込んだ。
三井が下を向く。
「なあ、俺さ……もう、おまえらと一緒にバスケ出来ねえのかもしんねえ」
急に思い詰めた口調でとんでもないことを三井が云うので、流川はびっくりして自分の掌をギュッと握り締めた。
「先輩がなに云ってんのか、全然わかんねえ」
「だって、女だったら出られねえよ試合……」
「俺にわかるように最初っから説明して」
「だからずっと云ってんじゃん……本当に起きたら身体が女になってたんだよ」
三井の手が流川に伸びてくる。
さっき胸に押し付けたのと同じ腕をそっと掴まれた。流川の手は三井のパーカーの裾から内側へ導かれた。突然の行為に驚いて固まった掌が三井の隠された素肌に触れてしまい、流川はびくりと反応した。どうしようかと三井の顔を窺う。けれど、彼は俯いたまま流川の目を見ようとはしなかった。
ほとんどなすがままに胸のほうまで押し上げられた流川の手が、なにか柔らかいものに当たった。その温もりと生身の感触に、流川は慌てて三井のパーカーの中から手を引き抜いた。
「今の──」
「見なくても、これでわかっただろ」
三井の柔らかいなにかに触ってしまった掌を開いたまま、流川はじっとその手を見下ろした。
確かにフツウじゃないなにかに触れた。今のは絶対にタオルなんかの感触じゃない。
「まさか……ホントウに? 胸だけが? 下は? 下のアレも確認したんすか?」
「当たり前だろ、俺トイレ行ったもん。無くなってた」
「え?」
思わず三井の急所に視線を向けると、三井は胡坐を止めて横座りになった。
「女子のそういうトコ、じろじろ見るなよ」
「え、あ……スンマセン」
「もうなんか、俺の身体ってさあ、どうなってんだろうな?」
「先輩、病院……行かねえと」
三井があまりに落ち着いた感じなので信じがたいが、これは本当にフツウじゃない事態が起こっているのだとようやく流川も納得した。
とにかく、身体に異変が起きたら行くべき場所は病院だ。流川はすぐにでも三井を病院に連れていく手段を考え始め、パニックになって、本棚の上に小学生の頃から放置していた552円入りのポスト型貯金箱を掴み、自分の健康保険証を用意した。
「金はあるから、タクシーで行こう先輩」
しかし、三井はブンブンと首を振る。
「やだよ。病院なんか行ったらどう考えても俺はとんでもねえ見世物だろうが。どうすんだよ、アメリカの機関とかに送られてガラス張りの部屋に入れられて、毎日食事と排泄を記録されて、血を採られたり電極をつけられたりするかもしれないだろ、冗談じゃねえ。監視モニターかなんかで二十四時間観察されんだよ。俺の将来真っ暗だよ。バスケだって出来るかどうかわかんねえし。絶対いやだって」
「でも、病気かもしれない」
「こんな病気ねえよな? でも、絶対医者のオモチャになんだよ。もし男に戻れなくても、病院は絶対に行かねえからな」
「……じゃあ、どうするんすか?」
「さあな。もしも元に戻れなかったら、俺はもう女子バスケ部で頑張るしかねえよ」
そういう問題なのかと少し思ったけれど、とにかく現実的にはそれしかないかもしれないと流川は納得した。自分たちにとって、バスケが続けられれるかどうかは一番重要な問題だ。男バスにいられないのなら女バスに入るしかない。
ただ、難題がひとつ残っている。
「ウチのがっこー、女バス無いっす」
「わかってるよ! だから俺が作んだよ。あ、彩子と赤木の妹は経験者だから引き抜くからな。おまえら、新しいマネージャー探せ」
「それはいーけど……」
「あと、体育館の使用は半分ずつだからな。安西先生には女バスの監督もやって貰う。頼んだらさ、やってくれると思うか?」
「監督は、やってくれると思うっす」
「だよな、先生は優しいもんな。あと、もしも男に戻れなかったらさ、将来はモデルやろっかなとか考えてる。この背なら、なれんじゃねえ?」
「……先輩ならなれそう」
流川はその姿を想像した。綺麗な顔だし、なんでも似合うからきっとなれる──そう思ったものの、そこまでは云わずに小さく頷いてみせる。
「だろ? あ、そうだ。露出度たけえ恰好してその辺歩いて、男引っかけまくろうかな。そんで、高いもんばっか貢がせよっと。そのほうが楽に稼げんじゃねえか。女だから、いろいろ欲しいし」
「それはダメ」
流川は即答した。綺麗な顔をして、この先輩はろくでもないことを思いつく。
「なんでダメなんだよ?」
「……そーいうのは、良くねえと思う」
「いーじゃん、もうどうせこんな身体になったらなんでもありだろ? あーあ、俺どうせならもっと巨乳になりたかったわ」
「きょにゅう?」
「そりゃあそうだろ、こんなハンパなサイズ……。男はデカいのが好きだろ」
生で見たわけじゃないけれど、触った感じや、パーカーの上から見た膨らみ具合からして、確かに三井は巨乳とは云い難い。そのくらいは、流川にもわかった。
「俺は、そのくらいも好きっす」
「……そんなの……おまえの好みなんか、関係ないだろ……」
三井が下を向いてしまった。心なしか、頬が赤いような気がした。
確かに今の自分の台詞は意味深だったし、女子に向かって云う言葉としてはセクハラ感に溢れていたかもしれないと流川は反省した。
「今のはジョーダンす」
「わ、わかってるよ! あーもう……むかつく」
「怒ったんすか?」
「おまえに怒ってるわけじゃねえ。俺の人生に呆れてんだよ」
そこで三井は、ふうと大きな溜息を吐いた。
「……なあ、俺さ。これからどうなるんだろうな? 不安しかねえんだけど」
「先輩はつえーから、心配ない」
「強くなんかないし。元に戻れるって、云ってくれよ」
「きっと戻れる」
「きっとかよ」
「……たぶん。もし戻んなかったとしても──」
俺が先輩のそばにいるからダイジョウブ──そう続けたかった。けれど流川は言葉に詰まってしまった。突然、膝立ちになった三井が身体を寄せてきたからだ。流川は後ろ手をついて三井を受け止めながら身体を硬直させた。二人分の重みが一箇所に集中したせいでベッドがギシギシと悲鳴を上げた。
「おまえさ、ちょっと足開いて」
云われるまま素直に流川が足を開くと、三井が揃えた両膝で足の間を割って入ってきた。そして長い腕を流川の首に回して、控え目に抱きついてきた。
「先輩……? 気分わりぃの?」
「ちげーよ」
こんなのは初めてのことだったので、流川はそれ以上なにをどうすればいいのかわからなかった。
三井は抱きついたまま、じっとして動かない。
「戻んなかったら、なんて簡単に云うなよ。ホント云うと俺、怖くてたまんねえんだよこの無神経男。もう黙って、しばらくこのままでいてくれよ」
「……ソレハ、イーケド」
三井の身体からは甘い匂いがした。それを意識したら心臓がドキドキと走り出したけれど、流川は後ろに手をついたまま努めて冷静な声で云った。冷静さを意識しすぎて、棒読みになっていたかもしれない。勘違いをしてはいけないと、自分に云い聞かせる。きっとそばにいて寄り掛かれる相手なら彼にとって──いや彼女にとって、誰でも良いのだろう。
──でも。
よくよく考えてみれば、自分が三井のそばにいるのは、三井のほうから会いに来たからだ。三井には他にも仲の良い友達が沢山いるのに、誰でもなく、彼女は流川の元へ来たのだ。
一番不安な時にわざわざ会いに行く相手は、一番大事な人だ。流川はそう思う。
「どうして先輩は……ウチに来たんすか」
尋ねながら、流川は三井の身体をそうっと抱き締め返した。女になっても三井自身のサイズが小さくなったわけではないのに、華奢な身体はとてつもなく頼りなくて、簡単に腕の中に収まった。
「それは……おまえならこんな身体でもぜってー笑わないだろ」
流川の肩に、三井の小さな顎が慎ましく乗った。腕の中の身体が小動物のように震えた。
「あとさ、『大丈夫』っておまえが云うと、なんか本当に大丈夫な気がしてくんだよな」
胸の奥が熱くなる。酸素が足りない魚のように流川は何度も呼吸を繰り返しながら、三井の短い髪の表面をぎこちなく撫でてみた。怖がらせないように、出来る限り優しく。そして云った。
「ダイジョウブ」
女になってしまったわりに、三井は最初からずいぶんと落ち着いていた。流川は、そう思っていた。けれど、そんな筈がないのだ。
きっと三井は心にもないことを云ったり受け入れたフリをして、平常心を保とうと努力していたのだ。
本当の気持ちを、三井はすぐに偽ろうとする。
意地っ張りで、危なっかしくて、だから流川はいつも三井のことで気を揉んでいる。
「先輩は、絶対ダイジョウブだから」
「うん……。サンキューな」
流川の肩口で発せられる三井の声が、少しだけ明るくなったような気がした。
「……で、さ。おまえは、どーなんだよ?」
「なんのことすか?」
「なんで、俺にこんなことしてくれんだよ」
合わさった胸の奥から、三井の心臓の音が聞こえる。
「先輩が辛そーなのは、困る」
「どうしてだよ?」
「先輩が辛い顔すんと、俺も辛いから」
「……おまえってさ、もしかして俺のコト好きなんじゃねえ?」
「それなら先輩だって、俺のコトが好きだからウチに来たんでしょ?」
三井が急に核心をついてきたので、流川も云い返した。
だけど、きっとこれは間違ってないと、流川は強く信じた。
「……うるせえ。自惚れんな」
言葉とは裏腹に、行動だけは素直になった三井がぎゅうぎゅうと腕を巻きつけてきたので、流川も精一杯素直になって彼女の肩や耳の横を撫で、指先で髪を梳いてやった。三井は大人しくなって、気持ちが良さそうにしていた。しばらくそうしてグルーミングのようなことを続け、愛おしさを募らせて離れ難く思っていたら、三井が声もなく泣いていることに気づいた。
健気に震える肩が小さく思えて切なかった。
もしも女のまま三井が一生を送ることになって生活が一変してしまっても、自分だけはずっと変わらず三井のそばにいようと流川は心の中で誓う。
時計の長針が五ミリほど進んだところで腕の中の三井が身じろいだ。
「なあ、流川ぁ」
流川は腕を少しだけ緩めて、三井と向かい合った。流川をじっと見上げてくる三井の黒い瞳は涙に濡れていて、それを流川は可愛いと思った。
この人を自分だけのものに出来たら最高にシアワセ。頭の中で、流川はひそかにそう考えた。
「もしもさ、俺が元に戻んなかったらさ」
「きっと戻るから、心配しないでいい」
「うん……もしも、な。戻んなかったらさ……おまえ、俺に触りたいって思う?」
「え?」
「俺の初めてをさあ、おまえにやってもいいかなあ、とか思うんだけど」
「……? ソレって、どういうイミっすか?」
「……おまえって、やっぱ童貞だな」
またしても貶されたような気がして、流川は口を噤んだ。悔しいけれど、云い返せない。事実だ。
「先輩、ナニが云いてーの」
「ったく。だからさ、身体が戻んなかったら、もう女として生きてくしかねえじゃん? で、おまえは俺とエロいことをスル気はあんのかよ?」
「え」
「俺とヤリたいかってきーてんだよ」
「──んなの」
ヤリたいに決まってる。漢らしく断言すると、三井はうっとりした目で流川を見上げてきた。
「意外とヤル気満々じゃん。云っとくけど、こっちだってこの身体でヤルのは初めてなのに下手クソなヤツを相手にすんのは嫌だから。勉強しとけよな」
「……うす」
流川は頷いた。しかし、バスケ以外のコトには疎いので、これは大変な勉強になるなと思った。学校の試験勉強なんてしている場合じゃない。
「あと、アレ買っとけよ。俺は女だからアレがねえとヤベーからな?」
「アレ?」
「だから童貞は困んだよ、ゴムに決まってんだろうが! おまえちゃんと保健体育の授業聞いてたか?」
「いつも寝てたっす」
「あんなんで寝るヤツおまえくらいだよ! フツー、楽しい時間だろうが! とにかく買っとけよ!」
「うす」
「でもさ、おまえマジで俺相手で勃つ? 恥かかせんなよ?」
「先輩は綺麗だからへーき」
「口うめえな……他のヤツにもそういうこと云ってんじゃねえの?」
「先輩にしか云うわけねー」
「じゃあ、俺とバスケとどっちが好きだよ?」
「先輩、云うことも女みたいになってきたっす」
三井は拗ねたように眉を寄せた。
「仕方ねえじゃん、身体が女なんだから。思考も女っぽくなるだろ」
「とにかく、好きなのはあんただけ」
「じゃあさ……俺とキス出来んのかよ?」
流川は三井に優しく口づけた。ずっとずっと好きだった。躊躇ったりするはずがなかった。
この唇や胸が柔らかくてもそうじゃなくても、いつだって三井に触れていたい。
事態は何一つ解決していないのだけれど、自分は幸運な男だなと流川は心から思った。
その夜、緊張しながら流川がドラッグストアを徘徊している頃、
三井の身体は元に戻りました。