恋は前傾姿勢で

「三井先輩が居なくて寂しいんじゃない?」
 眠いのか、疲れているのか、水飲み場の横の壁に凭れて流川が座り込んでいた。俯けた顔に落ちた長い前髪の間からどこか遠くを見るように呆けた様子で一人きりでいるのを見て、松井は思わず声をかけてしまった。
 今まで、この男と口をきいたことなんて一度もない。
 あんなに長いこと体育館に通い詰めていても、話す機会もなければ、話したいとも別に思わなかった。進級してクラスメイトにならなかったら、この先もきっとずっとそうだったろう。
 予想通り、流川は面食らったように松井を見上げたが、でもきっと、驚いたのは突然話しかけられたせいじゃない。
 心の内を云い当てられたことに彼は驚いたのだ。松井はそう推察する。
「──なんで、そー思う?」
 戸惑いを隠しきれない様子ではあったものの、それでも流川は淡々と尋ね返してきた。
「違うの?」
「……べつに」
「まあ、あたし……観察力すごいの」
 手品には、必ず仕掛けがある。彼女は流川のプライバシーに関わる情報を本当は秘かに持っていた。だが、それを正直に語るわけにはいかなかったので、適当な言葉で誤魔化しすぐにその場を離れた。納得したのかどうかは不明だが、流川はそれ以上何も訊いてこなかった。
 それから数日後に教室内で顔を合わせた時は(コイツは同じクラスの女だったのか)という顔をした流川にしげしげと見下ろされた。そう考えているのが手に取るように分かったので、松井も腹が立ち、なにも云わず無視した。だが、次の授業の前に彼は松井の席までやってきて、一言云った。
「古典のプリント、やってある?」
 流川が初めて話しかけてきたことに驚きつつ、松井は無言で頷いた。
「貸してほしーんだけど」
 断られると思っていない調子で云われたので、断ってやりたくなった。だから考えるそぶりを見せて、即答しなかった。
 けれど流川はずいぶんと真っ直ぐな目をして犬のように大人しく返事を待っていて、体育館でスーパープレイを見せる彼とかけ離れている姿が可笑しかったので、「いいけど」と云って結局は貸してしまった。
 しかし、それは対応として間違いだったらしく、それ以来、流川は松井にいろいろと頼み事をするようになった。主に宿題関係。ときどき、部活のこと。マネージャーに尋ねれば済むようなことを、何故か松井に訊いてくる。初めはいちいち「晴子に訊きなよ」と答えていたが、晴子はクラスが離れているせいか一向に訊きにいく様子もないので、次第に松井も情報を持っていれば流川に教えてやるようになった。
 そして担任も、流川の面倒を見てやってくれて助かるよと気軽に伝言などを松井に頼むようになった。ときどき話すようになった桑田や佐々岡などに自分の境遇を愚痴ったところ、一年の時はこの役目を石井がこなしていたらしいと教えてくれた。
 どうやら、三年に上がってクラス替えをするまでこの状態は続くようだ。

*

 松井が流川の秘密を知ったのは偶然だった。
 気軽に誰かに話していいレベルの秘密ではないと彼女はちゃんと理解していたので、胸の奥に納め、彼女の唇が彼の秘密を誰かに語ったことは今まで一度もない。
 その偶然に遭遇したのは、まだ一年生だった頃。冬の日の体育館で、松井は流川の私的な領域を思いがけず覗いてしまった。彼女が約束の時間に親友の晴子を学校まで迎えに行った時の話だ。
 この日、松井は晴子の家に泊まることになっていた。
 晴子がマネージャーをしているバスケット部の活動も一段落し、練習も早目に終わるというのでたまにはゆっくり語り明かそうかと、二人で夕飯をファミレスで済ませてから赤木家へ向かう予定だった。松井は一旦帰宅して、晴子が部活を終える頃を見計らって学校に出向いた。明かりが点いていたので、松井は真っ先に体育館に向かった。バスケ部の体育館使用日だと知っていたからだ。
 明かりはあっても、ボールの音は聞こえてこなかった。注目を浴びたりしないで済むように音を立てず扉を細く開いて中を覗くと、そこに晴子は居なかった。それでも無人ではなく、三井と流川だけが残っていた。二人はボールを脇に抱え、物云わず対峙していた。
 空は陽が落ちかけて、すでに大部分を群青色に変えている。地平線に近い場所だけが、赤から青へと何重にも色を重ねて明るさを残していた。思わず立ち止まって見惚れてしまうような切ない色をした空だったが、体育館の中の彼らはそんなことも知らない様子で、どこか不穏な雰囲気を纏い、距離を取って向かい合っていた。
 いつになく真剣な二人の横顔に、空気が重たいとひと目見て松井は感じた。喧嘩でも起きている最中のような、タイミングの悪いところに来てしまったらしい。松井は慌てて、彼らに気づかれていないうちに扉を閉めて早々にその場を立ち去ろうとした。
 けれど、流川の方が彼女よりも先に動いた。動物が、一気に距離を詰めて獲物を捕獲するみたいに、彼の足は迷いなく三井の元へ向かっていった。三井から少しも目を逸らさない流川の顔には、怒りと呼ぶべき要素が明らかに含まれていた。ほんの数歩で彼は距離を詰める。
(ヤバ……やっぱ、喧嘩だわこれは)
 松井はそこから動けなかった。まさに今動きを見せた事態のなりゆきが気になった。今更見なかったことにして、その場を離れることは出来なかった。
 松井がそうして躊躇った一瞬の間に、流川は抱えていたボールを床の上に落下させた。
 今の彼にとっては必要ないらしいバスケットボールは、つるつるした床の上を跳ねて転がっていった。
 三井は目の前に迫った後輩に背中を向けて距離を取ろうとしたようだが、しかし結局のところそれは叶わず、数歩移動しただけで足を止めた。
 流川が三井の足を容易く止めたのだ。
 固唾を呑んで見守る松井の視界の中で、流川が背中から三井を両腕で抱きすくめていた。そのせいで、三井はどこにも動けなくなった。
(──え? え?)
 松井は彼らに見つからないように扉の陰に出来るだけ姿を隠した。それでも目だけは二人から逸らせないでいた。自分が見ているものが何なのかは、よく分からなかった。思考がついていかなかったのだ。
 本当に捕獲でもしたみたいに流川は三井を捕えていて放さなかった。力強くしっかりと回された腕や、肩口に押し付けられた流川の横顔からは、彼が三井を簡単に解放しないことが容易に想像出来た。
 なんで流川が三井に抱きついているのだろうという疑問は当然浮かんだが、それよりも、そもそも流川は間違いなくなにかに腹を立てていたのにという疑問が大きかった。怒った顔で、人は人を抱き締めるものなのだろうか。少しずつ働き始めた頭で、この抱擁の意味を松井はぼんやりと考えた。
 三井はまったく抵抗もせずに、後輩の腕の中で俯いていた。松井が見ている限り、二人は一言も発していない。体育館の中はただただ静かで、動くものはひとつもない。
 松井は呼吸を殺して二人を見ていた。そこからどうしても動けなかった。やがて、身を任せていただけだった三井の手が持ち上り、流川の腕を緩慢に撫でた。触れ方がずいぶん優しい、と松井は見て取った。
 それでも、流川の横顔や肩はまだ怒りを含んでいるようだった。解かれない腕はけれど少しは緩んだのか、腕の中で三井が流川に向き直った。もう一度視線を交わしあったように見えたその直後、流川は押し付けるようなキスを三井にした。
 三井は、拒絶しなかった。
 そこで、松井は扉からそっと離れた。ようやく足が動いた。
(……信じらんない)
 心臓がドキドキと高鳴っている。顔が熱い。逃げ出すように、二人から遠ざかった。
 部室棟に早足で向かいながら、白い息をたっぷりと吐き出して松井は上空を見上げた。他人が見たら、その様は怪獣が口から火を吹くようだっただろう。
 見上げた群青の空は昼と夜の境界をあと少しで通過し終えて、もうすぐ完全に夜空となる。どこか切ない光景だった。今見た体育館の中の二人にも、同じようなことを松井は感じていた。
 あんな流川を松井は初めて見た。普段、バスケ以外のことに対してはどこか冷めている様子の流川があんな熱情を持ち得ていることも知らなかったし、普段は後輩をあごで使っている三井が、感情の昂りに突き動かされたような流川の行いを受け入れたりするのも意外だった。
 呼吸は整いつつあって、冷静さも取り戻したが、松井の胸の奥は穏かとは云い難かった。これは嫉妬心だと彼女には分かっていた。醜い心が顔に出てしまうのを恐れながら、ひたすら早足で歩いた。目にした場面の経緯も意味もすべて理解出来たわけではなかったが、感傷的な時間を彼らが二人だけで秘かに共有していたことだけは確かだった。他人など目に入らないくらいに、真剣だったことも。
 しばらく一人とぼとぼと歩いたところで、晴子たちを見つけた。着替えを終えた晴子と彩子が手を振りながら松井の元へ向かってくる。彩子はいつも通り明るくて踊りながら歩いているし、晴子に至っては、見るだけで落ち着く効果のある顔をしていて、思わず口元が緩んだ。ホッとして気が抜けたら今度は涙がじんわりと松井の目を覆ったが、それは暗闇に溶け乾燥した空気にすぐに乾いていった。
 三井先輩が引退するよ、とファミレスでたらこパスタを食べながら晴子に教えて貰った。絶句するほどショックを受けたが、さっき見た光景が腑に落ちたので少しスッキリした。
 湘北バスケ部はウィンターカップで初戦敗退した。勝ち進めればそれだけ三井の引退が伸びたはずで、きっと、それを悔しいとみんなが思っていて、特に悔しくてたまらずに怒りを溜め込んでいたのが仏頂面のエースなのかもしれない、と松井は想像した。きっと、力が及ばなかった自分自身に一番怒っているんだろう。
 だからか、と松井は思う。だから彼はこの上なく不機嫌そうな顔で三井を抱き締めていたのかもしれない。理不尽な現実に抵抗したくて。あの人のことを、好きだったから。時間が止められたらいいのに、現実にそうはいかないから。
 なにをしようと三井を体育館に留めることは出来ないと、分かっていても。
 三井は、後輩の想いを受け止めたのだろうか。松井は考える。
 あれは、二人の関係が終わった瞬間だったのか? 
 それとも、始まる瞬間だったのか?
 彼女がその疑問を解消するのは、三学期が始まってしばらくしたある日の午後。五時限目の授業をかったるい気分で受けながら、窓の外を見るともなくぼんやり見下ろしていた時のことだ。
 荷台に三井を乗せた流川の自転車が、校門の外を走ってどこかへ向かうのを、彼女は見た。
(あ、サボってる)
 ちゃんと一緒にいるんだ、と思い、他人事ながら何故かホッとした。頭が冴えてきたので、心を入れ替えてその授業は真面目に聞いた。

*

 流川が教室に居ない場合、保健室か屋上か体育館か食堂のどこかを探せばいい。
(なんであたしが、こんな急がないといけないわけ?)
 次の予鈴が鳴るまでもういくらも時間がないというのにどこに居るのか。腹を立てながらも松井は真っ先に屋上へ駆け上り扉を開いた。すると見事に的中し、屋上には大きな体躯をコンクリートに横たえた流川が居た。確かに誰もが眠りたくなるような、五月の日差しの下に。
「ちょっと、いい加減にしなよね! 朝貸したプリント、写し終わったならちゃんと返してよ。次使うのよ次! あんたの机ん中、勝手に漁ってもいーわけ?」
 他に誰も居なかったので、松井はそこそこの大声で怒鳴ってやった。流川は眠りが浅かったのか、耳には届いたようで、もそもそと動き始めた。貸してやったプリントを返さないまま、こんなところでサボられては困る。本当は机を漁りたかったが、クラスの女子の目がとても怖いので、流川が相手の場合それは出来ない。
「ああ……」
「ああじゃない。プリント終わってるんでしょ? 勿体ないからサボんないで出たら」
「いい……寝る。机、漁っていーから」
「教室で寝ればいいでしょ、授業は出なよ」
「うるせー……ほっとけ」
「誰のせいでうるさいのよ。好きで来たんじゃないんだけど」
 しつこく急き立てると、流川は観念したのか身体を起こして、座ったまま頭をぼりぼりと掻いた。眠たそうで顔が凶悪になっているが、もう慣れてしまったのでそんなに怖くはなかった。
「授業なんか、出たくねえ」
「みんなそう思って出てんのよ」
「つまんねえ。先輩に会いてえ」
「──は?」
「二週間くらい会ってねーから。会いてえ」
「えっと……急になに? っていうか……それって、云っちゃってもいいんだ?」
「ナニが……?」
「なにがって、あんた……」
 流川は不思議そうな顔をして眉を寄せ、松井の顔を見上げた。それから欠伸をして、渋々といった風情で立ち上がった。松井は混乱していた。彼の云う『先輩』というのは、三井のことに決まっている。
 三井との関係について、初めて会話をした時にそれらしきことを匂わせただけで、好きなのかだとか付き合っているのかだとか流川本人の口から詳しい話を訊き出したことはないし、彼女から核心を突いてみたこともない。そこまで踏み込むのは行き過ぎだと思っていた。一応は気を使っていたのだ。それなのに、脈絡もなく最高機密レベルの恋バナをさらっと口にされては、当惑するしかない。
 松井にはどうせバレていると思ってのことか、なにも考えていない馬鹿だからなのか、よく分からない。
 常識の通用しない相手を前に、松井は溜息を吐いた。
「まあ、あんたが秘密にしてないなら、別にこっちはなんでもいいんだけどね……」
 心を入れ替えて授業に出る気になったらしい流川の後に付いて校内に戻りながら、彼の大きな背中に松井は呼びかける。
「ねえ、会いたいならさぁ……会いにいけばいいんじゃない? そんな遠くないでしょ。ダメなわけ?」
 気軽に会いにも行けない関係しか築けていないのかと、探りを入れてみる。その可能性だってなくはない。壊れる寸前の関係という場合もある。卒業して環境が変われば、いろいろあるだろう。
 流川がちらりと松井を振り返った。
「今……あっち忙しい──らしーから、来んなって云われた。だから、たまに夜、電話だけ」
「あっそ……」
 やっぱり二人の関係は今も続いているようだ。少なくとも電話でやりとり出来るなら上等ではないのか。心配するんじゃなかった、と松井は思う。
 三井は現在、神奈川の端にある大学でバスケットをやりながら寮のようなところで一人暮らしをしていると松井は聞いていた。生活に慣れていない新入生は忙しいに決まっている。その上、関東大学バスケ二部の強豪だ。今は高校生と遊んでいる暇なんてないだろう。
(でもさ……)
 なんだか納得がいかない。
 同じ県内だ。すぐには会えないというほどの距離でもない。
「流川って意外と、遠慮とかするタイプだったんだ? 似合わないわね」
 階段を降りながら、流川のつむじに向けて云った。振り向いて松井を見上げてきた不機嫌そうな顔が嫌になるほど整っていて迫力があり、一瞬「ゴメンナサイ」と謝りそうになった。しかし松井は挫けずに続けた。
「だって、会いたいならさっさと会いに行けばいいでしょ。向こうに時間がなくっても、少しでも顔が見れたらそれだけであんた嬉しくない?」
 校内に予鈴が鳴り響いた。再び前を向いた流川は無言だが、その背中はなにかを考えているように見えた。
 ぐだぐだ云ってる時間を使って、会いに行けばいいのだ。なにを迷うことがあるのだろう。
 なんだか、流川はそんなふうではいけないという気がする。
 遠慮して不貞寝なんかしている場合じゃない。頭なんて使わずに、速やかに行動に移すべきだ。
「……先輩、ぜったい怒んからムリ」
 予鈴が終わると、流川が口を開いた。ずいぶんと情けない台詞だった。
「そしたら、その時は謝ったら?」
「……怒らすと、うるせーし」
「だってそんなの、三井先輩はいつもそうじゃないの? デフォでしょ」
 松井は想像する。流川が会いに来たら、三井はどうするだろう。来るなと云ったのに忙しいところにやって来た後輩に一通りの文句は云うかもしれない。そうせずにはいられない人だから。それでもきっと、本心は別のところに隠して持っているだろう。なかなか見せないかもしれないけれど、流川ならそれを探り出す方法を知っているはずだ。
「……たしかにそれは、先輩のフツウだ」
「でしょ。あたしですらそれ知ってるし」
 急に足を止めてなにやら思案を始めた様子の流川を松井は追い越して、教室の扉に手をかけながら振り返った。廊下にはまだ幾人もの生徒がいる。予鈴なんてあまり意味がない。
「いつものことなんだから、怒られたって別にかまわなくない?」
 弾かれたように顔を上げた流川は、松井の顔を凝視している。人は恋をすると臆病になるというけれど、本当にそうなのかもしれない。
 こんな簡単な答えに自力で辿り着けないなんて、笑ってしまう。
「どうしても、会いたいならね」
 何を置いても会いたい、と思える相手がいるのは幸せなことだ。
 三井には、松井だってすごく会いたいと思っていた。
 口には出せない彼女の気持ちは、けれど少しずつ形を変えている。三年が卒業して寂しい寂しいと思っていたのに、今では三井のいない学校に慣れてしまった。そして、最近松井は桜木軍団のひとりが気になっている。見学仲間として一緒にいるうちに、夜遅くなった時は家まで送って貰ったりするくらい仲良くなった。あとひと押しで、もっと進展しそうな気がしている。
 だから、本当は流川の世話を焼いたりしている場合ではない。
「考えるの後にしてよ。とりあえず、早くプリント返して」
 流川の腕を引っ張って教室に押し込んだ。日常の中に引き戻されて不機嫌そうな態度の男は、それでも「会いてえ」などと口走って不貞腐れていた時よりも少しマシな顔になった気がした。

おわり
★ちょこっと一言