朝から容赦なく蝉が鳴く。
ああ、五月蠅いなと思った。蝉ではなくて、朝から小さな集団を作っている流川のファンが、だ。早起きしてわざわざ朝練まで見に来るなんて信じられないと三井は思う。屋外コートの隣の水飲み場で、三井は首からかけたタオルで濡れた顔を拭いながら、隣で頭から水を被って他人事みたいに我関せずの後輩の横顔と、それを遠巻きにして騒ぐ女子生徒たちを見比べる。
濡れて筆の先のように尖った黒髪の先端から、とめどなく滴って落下していく透明な水滴の向こう側で長い睫毛が瞬いているのが見えた。どれだけ通い詰めたって、彼女たちは決して至近距離で見ることの出来ない練習終わりの流川の顔。
たとえ疲弊しきっていても、その造作が崩れるわけじゃない。高い鼻梁も切れ長の目も、どれをとっても一級品の作り物みたいだ。夏の蒸し暑いさなかにそばに居ても暑苦しさをまったく感じさせない。バスケ部のエースで、見た目がこれなら、女が流川を見て騒ぐのは当然と云えば当然だ。三井のクラスにも流川のことを好きな女子が数人いるので中学を卒業したばかりの男のなにがいいのかと訊いたことがあるが、口を揃えて全員が「カッコイイ」と馬鹿っぽく答えた。
男の目から見てもあまりに端整な横顔を見つめながら、まあこいつとなら俺もキスくらいは出来るかもしんねえ、と三井はふと思った。肌は綺麗だし毛穴も見えないし、頬の肉なんかを見ているとつい指で押してみたくなることがある。キスくらいなら、いけそうな気がする。
しかし、即座にその馬鹿げた想像を却下して三井は笑った。いくら綺麗な顔をしてるからって、男同士でそれはない。
馬鹿馬鹿しい発想に自分で呆れていると、蛇口を止めた流川が顔を上げた。
「なんすか?」
首からかけたタオルで頭を拭きながら、流川は三井の顔を不思議そうに見つめて云った。
「なにが?」
「先輩、人の顔ずっと見て、最後に笑った」
「は? 見てねえし」
「でも」
こちらのことなど一度も見なかったくせに、流川はちゃんと三井の観察に気づいていたようだ。油断ならないやつだ。
「そんなことよりさあ、今ってもしかしてもう二十八度超えてんじゃねえ? マジで蒸し暑いよな」
今年の夏は猛暑らしいと気象予報士がテレビで云っていた通り、連日真夏日が続いている。今日も時間と共に気温が右肩上がりなのは間違いないだろう。
「ぜったい、俺を見てた」
「だから、見てねえってば」
「見てたし、笑ったでしょ?」
三井が話を変えても、流川はついてこない。うんざりするほど粘り強く同じことを繰り返す。
「おまえって、いつもなんかしつけえよな」
「だって見てたもんは見てたから。なんで笑ったんすか?」
一見すると温かみを感じさせない目でじっと見下ろされながら問われ、しかも確かに流川の云うことは正しかったから三井は口を噤んだ。流川とはしょっちゅうこんな下らないやり取りをしているような気がする。彼は決してこういう時に自分から引いてくれないので、先輩の威光を使ってなんとか黙らせるパターンに持っていくしかないのだが、あれこれと画策する程頭が回らない。暑さのせいだ。
こいつの周りだけは温度が低いんじゃないかと思わせるような涼しい顔を五秒ほど眺めて、三井は諦めて正直に答えた。
「別にさぁ……大したことじゃねえし。なにげに顔見てたら、おまえとならキスくれーは出来っかも、とかふっと思っちまったんだよ。そんで、馬鹿馬鹿しくなって自分を笑っただけ。暑くてどーかしてたわ」
流川が動きを止めて、目を見開いた。珍しく、子供っぽい表情になった。おまえの目、そんなに開くんだ? と云ってやりたくなったけれど、こんな話を長引かせるつもりもないので、流川を置いて三井はさっさと先に歩き出した。
太陽は容赦なく照りつける。それが毎日続いている。外からずっと蒸し焼きにされている脳味噌はあまり使い物にならない。血迷ったことをうっかり思い付いたって、仕方がないだろうが。
三井は心の中で言い訳を重ねた。
「……俺も、先輩となら出来るかもしんねー」
一拍遅れて後ろから付いてきた流川が云った。
「は? なに云ってんだよ」
想定外の返事が返ってきたことに動揺して振り返った。流川は一メートル離れた場所からいつものポーカーフェイスで三井を見ていた。何を考えてるのかよく分からないその顔を見ると、試合中は頼もしいと思えることも多いが、今はただただ不安になった。
先に馬鹿を云い出したのは三井だったが、おまえが云うのはマズイだろ──そう思った。この後輩は冗談なんてほとんど云わない男だと三井は知っている。そうだとすると、今のはまるで、流川の本心みたいに聞こえてしまう。
動揺を隠すように三井は前を向いたが、歩く速度が落ちたのか、それとも流川が急いだのか、いつの間にか三井に並んで歩く流川が背丈の差の分だけ三井を見下ろしていた。何か云いたいのだけれど言葉が思いつかないから一生懸命ない頭を使ってモノを考えている途中──彼はそんな顔をしていた。
後輩との物理的な距離が無闇に縮まったことに三井が焦りを感じて歩みを止めると、同じように流川の足も止まった。
「……なんだよ?」
三井は怯えながら上目で流川の視線を受け止めた。相手は年下なのに、いつもなら頭をはたいたり命令することだって出来る相手なのに、蛇に睨まれた蛙のように身体がすくんでしまった。
流川の目が笑っていないのが、なにげに怖い。
「……出来るかどうか、試してみねーすか?」
「はあ!?」
口説かれた気分になった。練習終わりでただでさえ熱を保持した三井の身体の温度が更に上がった。
後輩が本気で云っているのかは、よく分からない。いくら冗談を云わない男だからといって、これを本気の発言だと断定するには言葉が足りなすぎる。だから、真面目に断るわけにもいかなかった。流川が本気じゃなかった場合、真面目に答えた自分はとんでもない大バカヤロウになってしまうと三井は恐れた。
相変わらずの無表情で本音のまったく読めない流川に不安を覚えながら、三井は喉の奥から声を絞り出す。
「バカじゃねーのおまえ……」
どっちつかずの無難な回答を三井は選んだ。
流川がわずかに不満そうな顔を見せたが、それは眉が少し動いた程度の変化だ。
頭が回り始めて、こんな会話を誰かに聴かれたらどうするんだと思い至り、三井は辺りを見回した。声の届く範囲には誰もいない。遠巻きに見ているだけの流川のファンも、会話までは聞き取れない距離だ。
「っていうかよ……最初に変なコト云った俺がぜんっぶ悪かったのは分かったから、もうこんな話やめようぜ」
不本意ながら、三井は自分から折れた。とりあえず謝ってでも、収拾をつけるしかないようだ。
「……やめねー」
「おまえなぁ……」
なんて我儘な後輩だろう、と三井は思う。
「まだ話終わってねえ」
「終わらせろって俺は頼んでんの!」
「先輩、俺とキス出来るかもしんねーってホントに思った?」
「暑くてどーかしてたって、云ったろぉが」
「やってみる」
「だからあ」
「出来るか試す」
「しつけえぞ流川」
「試す」
「だから試さねえ」
「試そう」
「無理だし」
「あとで」
勝手に話を締めくくった流川が三井を置いて歩き出した。
含みのある言葉に動揺し、足がその場に縫い止められてしまったかのように三井は動けなかった。
「あ、あとでってなんだよ! 試すわけねえだろーが!」
自分よりも少し背の高い後ろ姿に向けて三井は叫んだ。地団太を踏みたい気分だった。タイミング悪く他の部の男子生徒が数人通りかかり、叫んだ三井にぎょっとした顔を向けてきたので、即座に睨み返した。八つ当たりだ。
(あいつ、本気なんじゃねえか!? 冗談まったく通じねえのかよ……ってか、あとでって、あとでって……いつだよ!?)
そう云えば、今日の部活の後、居残って二人でワンオンワンをする約束をしていた。
(なんか……こええ)
約束はすっぽかして速攻で家に帰ろうと三井は心に誓った。
「なあ徳男ぉ、今日部活終わる頃バイクで迎え来てくんね?」
「え、いいけど……珍しいこと云うな、三っちゃん」
「悪ぃ。今日は速攻で家帰りてえんだよ。今お前が手に持ってんの、奢るからさあ」
購買のパン売り場で、三井は堀田徳男にコロッケパンとチョココロネとメロンパンを奢ってやった。いつもならば部活の後は流川と自主練習をしたり、宮城たちと帰ったりするのだけれど、今日はそんな気分ではないし、少しでも早く家に帰りたかった。
朝練の時の流川とのやりとりが頭から離れず、授業には集中出来なかった。あんなの冗談に決まってると断定出来るような分かり易い相手じゃない。もしも向こうが本気で試すつもりだったならどう対処するべきだろう。本気である可能性はゼロではない。
「あとで」という三文字が、三井の行動を半日縛った。教室移動の時も絶対に一年の階には近づかないように避けたし、屋上や保健室で授業をサボるのも控えて、教室から出ないようにしていた。流川に会ったら何かが起きてしまいそうで怖いからだ。
(なんで俺が逃げなきゃなんねーんだ、くそー)
学食の隅のテーブルで堀田たちと昼ご飯を食べながら、三井は後輩のことばかり考えていた。不本意だが必然だった。キス出来るか試そうと提案してきた男のことを速やかに忘れられるわけがなかった。
(ってえか、なんであんなこと思いついたんだ俺は……)
元はと云えば、流川とならキス出来るかも、という自分の思いつきから始まった。自業自得なのだけれど、まさか流川が同意してくるなんて思いもしない。
食後の煙草を吸いに行くという堀田たちを無理やり引き留めて、気が緩んだ三井が先頭に立って教室までの階段を上っていると、はかったようにちょうど上から流川が降りてきた。向こうは一人だ。思いがけない偶然に三井はいくらか緊張したものの、後ろに堀田たちがいるので心強くはあった。
「よ、お」
「うす」
完全に無視するわけにもいかないので仕方なく後輩に声をかける。挨拶くらいはしないと却って気まずい。若干眠そうな顔をした後輩は、数段上から三井を見下ろしながら足を止めた。
「……あ! そーだ流川。そういえば、よ」
ちょうど良いから、今日の居残りをキャンセルしておきたい。今思い出した、というふうに三井は切り出した。
「今日さあ、俺、夜ちょっと……用事入れてたんだわ。部活の後はおまえと残れねえから、練習相手が欲しかったら他のヤツ誘え」
「……そーなんすか」
「おう、そうなんだよ。じゃな」
三井は流川の目をあまり見ないようにしながら、横を通り抜ける。無口な後輩が振り返って自分を見ている気配を感じたが、後ろを付いてくる堀田たちの巨体がその気配をすぐに遮断した。
とりあえずこれで良しとホッとして、三井はいくらか軽くなった足取りで階段を上った。
用事が出来たから今日の居残りはナシだと一方的に言い渡されて、流川の気分は下降の一途をたどった。
用事があるだなんて、絶対に嘘だ。流川の前に立って怯えた様子を隠し切れていない馬鹿な男は、朝、自分で云った一言が自分の首を絞めたことをよく分かっているのだ。
怯えるくらいなら云わなけりゃ良かっただろうが。云わないでいてくれたら、こっちだってこんな気持ちに気づかなかったかもしれない。もしくは、気づかぬままでいられるように自分の心を制御出来た。流川はそう思う。
──おまえとならキス出来るかも。
馬鹿な男が今日の朝、軽はずみに流川にそう云った。そんな台詞は、反則だ。ファウル五つ分くらいに値するだろう。よく考えもせずにそんなことを口にした愚かな男のおかげで、流川は気づいてしまった。この男とならキスくらい簡単に出来そうな自分に。そのことに気づいた瞬間、流川の身体の中を熱い血が狂ったような速度で駆け巡っていった。
他のヤツにそんな気は起こらないと断言出来る。いくら綺麗な顔をしていたとしても、人として好きだったとしても、普通はキスしようなんて思わない。
もともと、三井に対する流川の意識は、他の人間に対するそれとは違っていた。
なにがどのように、などと理屈では説明出来ない。ただ、とにかくいつでも距離の近い相手だった。そばにいても気が重くはならなかったし、いないと思えば違和感があった。接触が他の人間よりも過剰で、いつも気軽に流川の背中を叩いたり、肩に腕を絡ませてきたり頭を撫でてきたりする三井のことを、瞬間的に腹が立つことはあっても、自分のそばから排除したいと思ったことはないのだ。
好きだと考えたことはなかった。けれど、三井とならキスをするくらいなんてことない気がする。つまりそれは、普通とは異なる気持ちを三井に抱いているからだと、恋愛経験値の低い流川でもさすがに気づいた。
(でも、本当にキス出来るかどうか、やってみないとわかんねー)
やってみたいと思った。出来るかどうか、試してみたいと。いつも五月蠅いことばかり云う唇を自分の唇で塞いで黙らせたら、どんな気分になるのかと。
だけど向こうは逃げ腰で、危険な橋を渡るのは嫌らしい。
「……そーなんすか」
「おう、そうなんだよ。じゃな」
居残りには他のヤツを誘えだなどと嫌なことばかり云う三井が、流川の横をすり抜けた。横を通った三井の身体からは誘うように仄かに香水が香った。もしも二人きりだったなら、手を伸ばして腕を掴んでしまったかもしれない。けれど、三井の後ろには堀田たちがおまけのようにくっついている。
(……あんた、いつも勝手すぎる)
他人とは最低限の関わり合いしか持ちたくない流川の懐に、出戻りの男は平気でズカズカと入り込んできた。そうしていたと思ったら、今度は流川を拒絶し、自分の都合で出て行こうとしている。
三井の後姿は、堀田たちの広い背中が壁となってすぐに見えなくなった。
あからさまに怖気づいて流川に背を向ける三井を見て、ひどく傷つけられたような気分になっているのがショックだった。云い出したのは向こうなのに、こっちが乗り気になった途端に手を振り切って逃げるなんて卑怯だし、すぐに心をリセット出来ず不満を募らせている自分にも呆れている。
だけど、三井はきっと元々そんな男なのだ。そしてそんな馬鹿でズルい男のことを、自分は気に入っているのだ。キスを試してみたいと思うのは、それが三井だからに他ならない。
(今日は……仕方ねーから諦める)
未練を断ち切るように前に向き直り、流川は階段を降り切って予定通り購買に向かった。弁当だけでは足りなかった分、残り物のパンを買うためだ。
今日じゃなくても、試す機会はある。流川は思い直した。部活は休みなく続くし、合宿だってもうすぐだ。
「あとで」が「いま」になる日はきっと、すぐにやってくる。 おわり
こんなところで終わるのか。
いつもなんか前フリだけで、肝心なところが無くてスミマセン! 代わりに書いて欲しい…。
みっちー、最初は警戒してるけども、脇が甘いからそのうち忘れてゆるゆるガードになって、オフェンスの鬼である後輩はそういうとこ見逃さずモノにすると思います。