彼のために泳ぐ魚
部活帰りにこんなところに立ち寄る予定ではなかった。だからどうにも仕方がないのだが、人混みの中を歩くのにこのスポーツバッグは邪魔だったなと今になって流川は思う。夜になれば最近ではずいぶんと肌寒い日もあるというのに、大勢の人間がここには溢れていて熱気を放っている。
こんな日に限って、汚れたバッシュを取り換えて持ち帰ろうなどと滅多にないことを考えてしまった。そして、それを実行した。このタイミングの悪さときたら、一体なんなのだろう。二十八センチのごついバッシュを収めたバッグは当然のように重くて嵩張っていた。替えのシャツも入っている。飲み残した水筒も。それでもまあ、誰にもバッグを当てることなく我ながら上手く人波の中をすり抜けていると自負している。
すれ違いざまに迷惑そうな顔を流川に向けるのは大抵が男で、彼よりも背が低かった。肩から掛けたバッグが少しばかり身体の面積からはみ出していたから、頭にでも当てられたらたまらないと思っているのかもしれない。その迷惑顔には、長身で整った顔立ちの見るからに女受けが良さそうな男子高生に対する妬みや反感の気持ちがほんの少し滲み出ていたが、それを向けられている当人は、赤の他人からの評価には無関心だった。巧みに人を避けることと、早く歩きすぎないように気を付けること、彼はただそれだけに神経を使っていた。普段の速度で歩いたら「早すぎて見れねーよ」と、背後から文句を云われたからだ。
そういうわけで流川はいつもよりゆっくりと歩くことを強いられていたが、いずれにしても、この人混みでは急げはしないし、急ぐ必要も特になかった。
人を避け、背後の男に意識だけは残しながら、流川は前へと進む。
どこからか聞こえてくるのは祭り囃子で、演奏している人間は、少なくとも視界の範囲には見当たらない。テープで音が流れているだけなのでは、と流川は疑っていたし、祭りの仕組みをよく知らない。祭り囃子の意味も分かってはいない。ただ、この音がなくてはこの場所が完成しないことは知っている。
目的地も特になくフラフラと彷徨う人々にぶつからないよう躱しながら、流川は自分自身どこに向かって歩いていけばいいのかよく分かっていなかった。人混みは嫌いだし、興味がない。本当は、来る予定ではなかった。
だが、何故かなりゆきでここに居る。鼻歌を歌うような気分ではないのだが、重い溜め息を吐くほど嫌なわけでもない。そんな中途半端な気分でのろのろと歩いていたら、Tシャツの裾を背後から引っ張られたので足を止めた。シャツを引っ張れられると伸びるので、別の手段で合図してくれないかと思うのだが、なんとなくそれを言葉にして云えないままこれで四回目だ。
喧噪の中、立ち止まった流川はシャツを掴んだ三井を振り返った。並んで歩いていた筈なのに、余所見ばかりする三井はいつからかずっと流川の一歩後ろを歩いている。
三井の視線の行き先は流川ではなく、地面に置かれたブロックの上に設置されたコンテナの中だ。夜の屋台を演出する白熱灯の下で、けして優雅とは云えない赤や黒の素朴な淡水魚が、忙しなくエアーポンプから送り出される酸素の粒の中を静かに泳いでいる。
揺らめく水面につられて目をやった流川は、僅かに眉を顰める。
「まさかコレ、やりてぇんすか?」
「……やりてえ」
流川は金魚すくいの屋台から視線を戻してまじまじと三井を見た。自分よりも三つ年上の彼はようやくチョコバナナを食べ終えたが、まだ左手には食べかけのじゃがバターが入ったトレーが握られているし、中指には水風船を引っかけている。おそらく三井は祭りというものに対して守りに入るつもりなどなく、ここに来てからずっと臨戦態勢だ。
その姿を見れば、返事は聞くまでもなく予想通りだった。
それでも、流川は絶句した。
祭りなんて下らないから行かないと云って体育館に居残った人間と同一人物だとは、到底思えなかったからだ。
日曜日の今日、近所の神社で年に一度の例大祭があることを流川は部活に出るまで知らなかった。
正確には、地元なので知識としては知っていたし、行ったこともあったけれど、単にこの日だと流川は忘れていた。
祭りへの興味は小学生で卒業し、中学の頃はもう無関心だった。だが去年──中学三年生の時に、気まぐれで軽く付き合っていた女子が、どうしても祭りに行きたいと流川に訴えた。仕方なく一緒に回ったが、彼女は隣に居る流川をただ友達に自慢したかっただけらしい。まるで新しく買ったバッグのように扱われたので、その日の内に流川は彼女を振った。
思い出としては良いものではなく、いくら家から近くても、もう二度とこんなところに来ることはないだろうと思っていた祭りの喧噪の中を、何を間違えたのか、流川は三井と二人で歩いている。
元々は、普通に部活をこなして家に帰る筈だった。流川にとって、今日は特別な日ではなかった。
日曜日の部の練習時間は他の部との兼ね合いもあって不確定だ。この日のバスケ部の練習は十五時から十八時までとなっていた。練習が始まる前、体育館の隅で石井や桑田が祭りの話を始めたので、そこでようやく今日が祭りの当日であることを流川は思い出したのだった。
「え、流川行かないの? だって地元じゃん」
「部活だろーが」
流川は呆れを含んだ低い声で答えた。
「今日は五時半で上がりだってよ? 宮城キャプテンが監督に頼んだって。ここのお祭りってお神輿がすごいんだろ? 流川も一緒に行こーよ」
「残って練習すんから、いい」
祭りのために練習時間を早く切り上げるなんて勿体ないと頭の中では思ったが、わざわざ口に出して云う程のことでもなかったので流川は黙っていた。
一人でも練習は出来るのがバスケットの長所の一つだ。部員が全員帰ってしまっても、流川は困らない。
上がる時間が近づき、体育館の隅で話し始めた部員たちの話題は、やはり祭りのことだった。
一年生はモップを出して来て掃除を始めた。流川以外の一年生の動きはどことなく忙しない。むしろ手抜きに近い雑さだ。早く片付けて祭りに行きたいのは明らかだ。
「ねえアヤちゃん、誰かと約束してたりとかする? 良かったら……一緒にちょっと寄ってかない?」
振られても振られても懲りもせずに彩子を誘っているのは、宮城だ。照れ隠しなのか、ボールを必要以上に指先で回している。
「そーね、みんなにも訊いてみましょ」
「えっ、そーじゃなく、二人で、っていうか……」
「あ、三井センパーイ、リョータがみんなでお祭り行きたいって。行きますよね?」
少し離れた場所で壁に凭れて座り込み、スポーツ飲料を飲み干そうと水筒を大きく傾けている三井に彩子が声をかけた。
「ちょ、三井サンは別に誘ってねえよアヤちゃん!」
「ああ? なんなんだよ宮城、その嫌そうな顔は」
首からかけたタオルで口を拭いながら、三井が宮城を睨め付けた。
「三井サン、空気読んでよ」
「あ? どんな空気になってたんだか知らねえし」
「だーから、それを想像して読めよおってコトでしょ! そこまでしてようやく、空気を読んだって云えんだよ!」
「オイ、いきなり無理云うな!」
「くっそー……もお、いいよ。みんなで、一緒に行きます?」
「祭りのことなら、俺いーや。残って練習すんから」
「えー、ホント?」
「祭りなんてくだらねーもん。俺は忙しいんだよ」
ヤッタと云って喜ぶ宮城に三井はうるせえなと返して、再び水筒を呷った。
聞こえてきた会話の内容が意外だったので、流川はモップを動かしながら三井の姿を目の端に入れた。まさか、今日居残りをする人間が自分以外にも居るとは思わなかった。それが誰でもなく三井であることは、余計に違和感がある。
別に、彼が居ても特に困ることはない。桜木でもない限り、自分の邪魔をしては来ないだろうと思えた。その桜木花道は、訊かれたわけでもないのに、俺は洋平たちと行くのだスマンな、などと大声で叫んでいた。リハビリで前のように動けるようになり、彼は完全に復活している。
思い立ったら動くのが早い流川は、三井のそばに近寄った。
「先輩」
モップの柄の先を握り締めるように包みながら、全身から疲労感を漂わせている三井を流川は見下ろした。練習後の三井はいつもそうなのだ。彼は顔を上げると、珍しく自分から声をかけた流川を見て若干訝しげに目を見開いた。
「なんだ? 流川」
「俺も残るつもりなんすけど、半面使っていーすか」
「ああ、いいよ。ってか、おまえ行かねえのか。じゃあ、ワンオンワンしよーぜ? あ、そこは俺らこれから使うから拭かなくていーぜ石井!」
彼の言葉の後半は、掃除をしている他の一年生たちに向けられた。
ワンオンワンの相手をしてくれると聞いて、流川は思いがけず心が弾んだ。口は悪いが、三井のバスケの実力は本物だ。相手にとって不足はなかった。
十八時を過ぎても居残って、一時間ほど二人で練習を続けた。それぞれ勝手にシュートを打ったり、それを見ていた三井にアドバイスを受けたりもした。約束通りワンオンワンもして、二人で大量の汗をかいた。
練習相手として三井は流川にとって理想的で、湘北バスケ部の中では一番競い合いたい相手だった。
理由は色々あったが、第一に三井の実力を流川は認めていた。バスケに関しては、才能があって尊敬出来る先輩であることに間違いはなかった。
第二に、例えばこれが木暮や赤木なら一緒に居ると気疲れてしまうところだったが、三井が相手の場合はそうではなかった。真面目すぎない相手は気疲れもせず、決して慣れ合ってなどいない筈なのに、一緒に居ても自然体でいられた。
無口な流川から話題を引き出すためか、三井にときどき質問責めにされることならばあったが、不思議とそれも不快ではなかったし、慣れてしまった。
最近では、むしろ三井との練習や会話が無い日は物足りないような気にさえなっていた。
「あー、ヤバいだろこの匂い。たこ焼き食いてえな」
完全に日が落ちているにも関わらずいつもよりも人が多い街の中を、流川の自転車はのろのろと駅へ向かっていた。居残り練習後、散々相手をしてくれた三井を駅まで自転車で送っていくことにしたのだ。
極端に速度が遅い理由は、祭りの人出のせいでもあるし、三井を後ろに乗せているせいでもあった。自転車の荷台で足を前に投げ出した三井が、流川の背後から前を見たがって頭を左右に傾けるので、自転車も同じようにふらついて、まるで酔っ払い運転をしているようだった。
駅へ向かう途中の殊更に人の出入りが激しい脇道は、神社へと続いている。歩いているのは子連れの家族が多かったが、学生や老人、会社帰りのサラリーマンも居たし、子供同士のグループは広がって歩き、騒がしかった。それを整理誘導する、法被姿の大人も居た。
辺りには甘いソースの匂いが漂っていて、部活帰りの男子高生の胃袋を刺激した。三井はたこ焼きが食べたいと云ったが、流川は焼きそばが食べたいと切実に思った。
祭りの中心地は石段を上った先の境内だったが、屋台の数は神社の敷地内にとどまらず、近隣の古い住宅が立ち並ぶ市道は交通規制され、カラフルな暖簾を掲げた露店がずらりと軒を連ねている。
「なあ、ここでチャリと待ってんから、たこ焼き買ってきてくんねえ? あと、じゃがバターな。金渡すから」
屋台に群がる人だかりを外側から覗いて、流川の背中越しに三井が云った。
ペダルを漕ぐ足を止めて、流川は三井を振り返った。
「一人で……この中に行けと?」
「たこ焼き、半分やるからさあ」
「メンドクサイ」
「てめえはホント、先輩によくそーいうコトをはっきり云えるよな」
「どうも」
「褒めてねーし。あー俺、腹減って死にそう。おまえと残ってワンオンワンなんかしていつもより疲れたから、余計空腹だし」
空腹の原因のように云われて、流川はムッとした。別にこちらから頼んで残って貰ったわけでもない。
今日ぐらいは居残りなんてせずにみんなと祭りに行けば良かっただろうに──流川はそう思う。
「……先輩、なんでみんなと祭りに行かなかったんすか?」
流川はずっとそれを疑問に思っていた。
だって、見るからに祭りが好きそうなのだ三井は。
三井が祭りに行かずに練習に残ったことが、流川はどうにも腑に落ちない。
「バカおまえ、こんなところはヤンキーの溜まり場だろーが」
「……話、見えねーす」
「縁切った俺の知り合いが居るかもしれねーだろ。というか、絶対居るんだよ。今ちょっと会えねーっつか、もう、なに云われんかわかんねーじゃん。それくらい察しろよ」
想像もつかないような話に、流川は思わず無言になった。察しろと云われても、絶対に思い至らないようなくだらない理由だった。
だが、三井はいたって真剣らしい。その顔には諦めのような色が浮かんでいる。
「……高校生のフリョーって、祭り来るんすか?」
流川の頭に、新しい疑問が浮かんだ。
「中学ん時は、そーいうのよく見かけたすけど」
「おまえ絶対バカにしてるよな。どうせ俺は、去年も一昨年もここで大騒ぎしてたよ、ワリィかよ!」
去年は自分もここにいた──流川は回想する。仕方なしに連れて来られた、という点が三井とは違う。
その時は彼女と一緒だったが、今日の相手は素行不良な前科のある男の先輩だ。なんだか一年の間に道を踏み外したような、複雑な気分だ。
もしかすると、その頃の三井とは神社のどこかですれ違うぐらいはしていたかもしれない。有り得ないことでもないが、もちろん記憶はない。
「別に、バカにしてねえ。悪いとも云ってねー」
「あのなあ、祭りで騒ぐのは不良の習性なんだよ。おまえ、知らねーの?」
何故か三井に力説された。そういえば、コンビニの前だとか境内の裏の暗がりには見るからに素行不良な若者が集団を作り騒がしかった。それが習性と云われれば、そういうものなのかと流川は納得するしかない。自分とは違う常識の中で生きているのだ。
けれど、それはそれとして、そんなことでいいのかと流川はまた別のことを考えた。
「先輩は、前の友達からこの先ずっと逃げてなきゃいけねーんすか?」
「……まあ、それはだって、しょうがねーし……今は、喧嘩売られたら困るしな」
「おかしくないすかソレ」
「あ?」
「先輩はそこまで悪いことしてねーと思う。一緒に居た友達なんかよりもバスケの方が好きだって気づいただけ」
「おまえな、なんかよりも、とか云うか……?」
三井が呆れたように云う。
「つうか、それは立派に悪いことしたって云えるだろ」
「なんで? 確かに先輩のやったことはどうしようもねーほどバカだったけど、気づくのが遅くて素直じゃなかっただけ。だから、しょーがねえ」
「うるせえ、バカって云うな! あと、しょーがないじゃすまねーだろ? 俺のせいで、振り回してんだよ……いろんなヤツを」
固く尖ったものを無理やり飲み込もうとでもしているかのように、三井が表情を歪めた。体育館に乗り込んできた時からだいぶ月日が過ぎたが、三井はまだ反省を続けているらしい。
「振り回されるのは簡単に回りやすいヤツで、そいつらは自業自得だから放っとけばいい」
「……おまえ、口悪すぎねえ?」
「バスケが楽しいなら、自分を貫くしかねえ」
「貫くったってな……」
奥底に眠っていた自分の気持ちと、三井はようやく向き合った。要らないものを削ぎ落として、原始的な欲求に素直になっただけだ。それの何が間違っているのか、三井が逃げ回る必要はあるのか、流川にはよく解らない。
ただ、何よりも誰よりも優先するくらいバスケが好きな気持ちならば理解は簡単だ。
体育館で大騒ぎした「革靴を履いた先輩」は流川にとって迷惑なだけの人物だった。だが、バッシュを履いて戻ってきた三井のバスケを見て、彼は本来在るべき姿に戻ったのだと感じた。
やめる気がないのなら、誰に何を云われようと、三井は自分のやりたい道を選ぶべきだし、そこに生じた些細な問題なんて払い除ければいい。確かな目的のためならそれは簡単なことだと流川には思えた。
「部に戻ったコトを先輩自身が後悔してねーっつーんなら、別にいーんじゃねーの」
バスケをしている三井を見れば、後悔しているとはとても思えない。
「……おまえってさ、もしかして、人としての常識がすげえ欠けてんじゃねえか?」
「そーすか?」
常識不足を指摘されたぐらいでは、別に腹は立たなかった。おまえは普通過ぎると云われるよりは断然マシな評価だと思えた。
「でもまあ……」
三井が云い淀む。
振り返っている流川に視線を合わせた後、余所見をするように斜めを向いた。
「おまえみたいな自分勝手なヤツって、いーよな。今までのことをいちいち悩んだりすんのがバカらしくなるほど、もっと非常識で変わったヤツがそばに居ると、なんか気がラクんなるぜ」
三井も好き勝手なことを云っている。けれど、一緒に居ると気が楽と云われたので、流川は良いほうに受け取ることにした。
「なら、一緒にこの中入りましょーよ。先輩なら平気でしょ」
流川は神社へと繋がる道を指し示す。
「いや、それはそれとしてだな。おめーは他人事だと思って簡単に云うだろーけどよぉ」
「たこ焼き買いたいんでしょ? 俺も腹減ったっす。動くから掴まって」
「え、どこ行くんだよ?」
「まず、どっかにチャリ停める」
三井が足を浮かせたのを確認して、流川は自転車を漕いだ。
すぐ近くのスーパーの駐輪場までは、一分もかからなかった。小学生の頃も、ここに自転車を停めてから祭りに行ったような気がする。神社の駐車場は今日は使えないため、同じようにここを利用している不届きな人間が多いらしく、広い駐輪場にはいつも以上に自転車が溢れていた。奥の方に追いやられた自転車を出すのは苦労しそうだった。
カゴの中のスポーツバッグを肩から掛けて、流川は自分の先輩を振り返った。
三井はポケットの中に手を突っ込んで、どこか拗ねたような顔付きだ。だが、覚悟は決まったらしい。
「俺がもしも誰かに絡まれたら、おまえ上手いこと助けろよな」
「俺は、焼きそばを食うダケ」
「使えねーな。あ、たこ焼と焼きそば、半分ずつ食おーぜ」
「いーすよ」
ようやく観念したらしい三井と、流川は神社に向かった。
「おまえだってさあ、金魚飼いたいだろ? 飼いたいよな?」
金魚すくいの屋台の前で、本当にやるのという言葉を飲み込んだ流川に、三井は甘えた声を出した。
「飼わねー」
流川は即答した。考える余地もなかった。
「クソ……なんでだよ、ウチは金魚なんて飼えねんだよ。俺が自分で金払ってすくって、おまえにタダで金魚やるっつうオイシイ話だぞ」
「いらねー。世話メンドクセー」
自分も飼えないものを人に押し付けようというのか。金魚の世話なんてごめんだったので、再び流川は拒否した。
「つまんねえ……金魚すくい得意なんだよなぁ、俺」
「やって、池に放せば?」
神社の境内には鯉が住んでいる大きな池があって、子供の頃、友達の誰かがそこに金魚を放していた記憶がある。
「あー、それやると鯉に食われちまうんだってよ」
「そーなんすか?」
「昔、池に放したことあんけどさあ。それ聞いてからはもうやってねーわ」
鯉の餌にするために金魚をすくうのは確かにどうかと思う。
「じゃあ、その辺歩いてる子供にやれば?」
大抵の子供なら金魚を欲しがる筈だ。ここには金魚の数ほど子供が居る。
「それ不審者丸出しだろうが。親に迷惑がられるかもしんねーし、やだよ。おまえ、声かけてくれんの?」
「絶対にイヤダ」
「じゃあダメじゃねえか」
そこで、流川の頭に別の案が浮かんだ。これは名案なのではないか──己の閃きに自信を持って、流川は口を開く。
「先輩は、とにかくすくいたいだけなんでしょ。すくうだけすくって、金魚はまた水ん中に戻せばいーんじゃねえ?」
「おまえはバカか? 金払って金魚すくって、その場でリリースすんのかよ。やる意味分かんねーし、屋台のおっさんが儲かるだけじゃん。カネの無駄」
三井が金魚をすくいたいと云うから流川は後輩として色々と知恵を絞ったのに、どんな案にもうんと云わないのでさすがに嫌になった。流川は眉を寄せて、溜息を吐く。
「じゃあ、諦めるしかねえ」
「あーあ。誰かが飼ってくれりゃあなー」
三井は聞こえよがしに云って、つまらなそうに唇を尖らせた。
金魚なんて飼うつもりは毛頭ない流川にはどうすることも出来ないので、そんな顔をされても困る。池も子供も駄目、リリースも駄目となっては、もはや策は尽きた。
「まあ……しょーがねえ、もういいよ。次は、飲み物でも飲もっかなあ」
ようやく三井が歩き出して、金魚の前から離れた。今度は流川が三井の後をついて歩く。
金魚をすくいたいという望みは断ち切ったのか、先刻までの顔は奥に引っ込めて再び三井はきょろきょろと屋台を見回し始めた。手にしていたじゃがバターの残りを食べながら歩いているので、機悪は悪くなさそうだ。
流川の意識は、さっき見た三井のつまらなそうな顔にまだ支配されていた。脳裏にこびりついて、消えてくれない。あんな顔をさせるぐらいなら出来れば金魚すくいをやらしてやりたいが、良い案がなにも思い浮かばない。
たかが金魚すくいぐらいで、同情なんてするほうが可笑しいのは分かっていた。それなのに、何故だか歯痒くて気持ちが収まらないのだ。
やりたがっていた本人が頭を切り替えたのだから、もう放っておけばいい。けれど流川は自分のことのように悔しくて、気持ちが切り替えられない。
再び出そうになった溜息を、直前で押しとどめる。仕方がない、と自分に云い聞かせ、流川は三井の後について歩いた。ゆっくりとした歩みに合わせて辺りを見回していると、偶然、さっきまで部活で一緒だったマネージャーの赤木晴子の姿を見つけた。
柔和でどこか平和そうな顔が、流川にとって救世主に思えた。「あ」と思わず声まで漏れたほどだ。
これだけ人の多い中、このタイミングで彼女と出会うなんて、自分にはツキがある。
流川は、弾かれたように動いた。背中のバッグが人に当たるのも構わずに人の間を抜けて、晴子たちの行く手を塞ぐように前に立った。晴子の横には、彼女の友達の松井と藤井が居た。
部活の後、晴子が部員に誘われているのを流川は見たが、彼女は友達と約束があると断っていた。
「流川くん、どーしたの!? 来ないって、云ってなかった?」
「アンタんち、金魚飼ってたでしょ?」
「え?」
「飼ってんの見た」
「ええっ?」
「金魚。イラナイ? この人がすくうから」
流川は遅れてついてきた三井を指差した。世界を救ったりはしないが、金魚をすくうのは得意だと自負する男だ。
以前、赤木家に赤点軍団の一員として勉強会で泊まり込んだ時に、流川は居間で水槽を見た。水槽の中では、小さな魚が沢山泳いでいた。
晴子の姿を偶然見つけた瞬間、流川はそのことを思い出した。あれは金魚が二・三匹増えたところで問題なさそうな大きな水槽だった。
「あ、え、金魚? えっと、うちの水槽に居るのはグッピーだから、金魚を入れるのは無理だと思うの……ご、ごめんね」
「るーかわー、おまえやっぱ常識ねえな。金魚と熱帯魚の区別つかねーのかよ」
極めて慣れた動作で、三井が流川の頭を後ろからはたいた。
目の前で叩かれた流川を見上げて晴子は口元を手で覆い、彼女の隣に立つ藤井と松井は目を丸くした。
「一緒には飼えねーんすか?」
三井と晴子を交互に見やって、流川は不満を訴えた。
晴子は困った顔を通り越して、もはや泣きそうな顔になっている。
金魚と熱帯魚の同居生活は種類や環境によってはまったく不可能な訳ではなかったが、グッピーの場合は小さすぎて身の危険を心配しなければならないということなど、流川は知らなかった。
「もう金魚すくいは諦めたって云ったろ。マネージャー困らすなよ」
「……でも、本当はやりてーんでしょ?」
やりたいことを押し殺すということが、流川には我慢ならない。彼の知る三井だって、本当は諦めが悪い性分なのだ。数ヶ月も一緒に部活をやっていれば、そのぐらいのことはもう知っている。
「あの〜三井先輩。この子んち、金魚たくさん飼ってます」
やや低音気味だけれどはっきりした発音で、晴子の隣の松井が云った。彼女の指差す方へ、視線は一斉に集中する。
「ああ! そうだよねえ、藤井ちゃんち、大きな水槽あるよね! お兄さんの水槽だっけ?」
さっきまで泣きそうだった顔を輝かせて、晴子が口を開く。
「あ……飼ってる、けど……え、えっと、たぶん五匹くらいまでなら、増えてもダイジョウブかもしれない……」
その場に居る全員の視線を一身に浴びて青白い顔をした藤井が、消え入りそうな声で云った。
「おしっ三匹目。マジで上手いよな、俺」
閑古鳥が鳴いていた金魚すくい屋を選んで三井たちは陣取った。
どうせ口だけで、云う程大した腕前ではないだろうと流川は想像していたのだが、思いの外、三井の腕は良かった。彼の左手の容器には、朱墨を水に流したような小さな小赤が二匹と、黒い出目金が一匹。ポイはまだ破れていない。
行儀悪く足を開いて金魚の群れを前にしゃがみ込んだ三井の後ろから、流川は水色をしたコンテナの中を覗き込んでいた。影のあるところに金魚が集まるのだと力説する三井に、後ろに立って影を作れと申し渡されたのだ。暖かく灯った白熱電球に照らされて赤味を帯びた小さな店の中で、ゆらゆらと静かに波打つ水面を見下ろしながら、真剣に金魚を狙っている三井の小さな後頭部を、流川は時折盗み見た。
「あ〜、松井ちゃん上に引いたらダメなのよう、破れそう!」
「ああもー! なんで? またダメ!」
三井の隣では松井が、二回目の金魚すくいに挑戦していた。彼女はまだ一匹もすくえていない。
「松井、斜め四十五度に抜けって教えただろーが」
「そう云われても、金魚が暴れるし、重いんです」
「初心者は、もっと小さいの狙えって」
「私、大物狙いのタイプなんですよ」
「三井先輩、こっちのヒラヒラしてるやつとれません?」
少し大きな、ひれの長い金魚を指差して晴子が云った。晴子と藤井も流川の隣で腰をかがめてコンテナを覗いている。
三井が大物を狙っている動作で、息を潜めている。
その様子を見守りながら、どうして自分は晴子を見つけてあんなに安堵したのか、と流川は考えた。
たぶん、自分は絶対に三井に諦めさせたくなかったのだ。
あんな顔をして何かを諦めることが、三井には一番似合わない気がする。
昔の仲間が居るからと、祭りに行くのを躊躇することも、そうだ。
三井はいつも堂々としていればいいと、そうあるべきだと、流川は思うのだ。
結局、三井は合計五匹の金魚をすくった。
松井は一匹もすくえなかったが、おまけとして二匹の金魚を貰った。一回につき一匹は必ず貰える仕組みになっているのだ。
五匹までなら大丈夫と最初に云っていたのに、合わせて七匹の金魚を押し付けられた藤井は、それでも「ありがとうございます」と礼を云った。困った顔をしているようにも見えたが、もしかすると元々そういう顔なのかもしれなかった。同級生ではあったし、藤井も松井も体育館でよく部活を見学していたが、クラスも違うので流川は彼女たちのことをよく知らない。
それでも、今日、流川は彼女たちの名前を覚えた。
「それにしてもビビったぜ。おまえ急にあいつらんトコに寄ってくからさぁ。ナンパでもすんのかと思ったら、云うことアレだからな」
晴子たちとは金魚すくいの後すぐに別れ、広い境内を流川は三井と並んで歩いていた。屋台は堪能し尽くしたようで、三井はもうあまり余所見はせずに真っ直ぐ前を向いている。
「ナンパなんかしねえ」
「わかってるよ、だからビビったんだよ。おまえ普段、女とあんま喋らないしな」
流川が慣れない行動に出たのは確かだった。
晴子を見つけて嬉しかったのは、それが彼女だったからではない。水槽を持っている赤木家の人間だったからだ。あの瞬間は、本当に彼女を救世主だと感じた。
いくら三井に諦めて欲しくなかったからとはいえ、振り返ると、自分でも何をそこまで必死になっていたのかと思うのだが。
「それにしても、おまえのクセによく思い出したなあ。赤木んちの水槽なんか」
若干引っかかる云い方が気になったが、流川は聞き流した。口が悪いのは三井の性質だ。いちいち突っかかってはいられない。
「中の魚は忘れてた」
「まあそーみてえだけど。でも、一応おまえのおかげだし。でかした」
褒められたようなので、本当は笑ったりするべきだったのかもしれないが、表情を変えずに流川は僅かに頷いて見せた。前髪がさらりと揺れただけの、本当に小さな相槌だった。なんと返していいのか、よく分からなかった。
「なあ、あそこに居んのって、宮城たちじゃねーか?」
それ以上は特に言及されることもなく、三井はもう今の話を忘れたように話題を変えた。
「ほらあの、後ろ向いてんの。青い旗の横でビン持ってる女は彩子だろ。まだ居たのか、結局あいつ、彩子と二人きりで来られなかったんだな」
三井の指す方へ、流川は視線を向ける。だいぶ前に帰った部員たちが固まってラムネ屋の前に陣取っているのを遠くに発見した。
宮城の隣には彩子が居たが、すぐ近くに安田や角田も居る。よく見れば一年生も側に居て、飲み終えたラムネの空瓶をケースの中に戻しているようだった。
瞬時に判断して、流川は方向転換した。
「先輩、こっち」
「あ?」
三井の手首を掴む。二人で境内の横の暗い斜面に下りて、部員たちから遠ざかる。木立の中を案内するように、流川が先頭になって歩く。
「ちょっと待て、どこ行くんだよ?」
「祭りなんか行かねえとかくだらねえとか云い切ってたクセに、みんなに会ってもいーんすか?」
「あ〜、それは確かにそーだな」
結局来たのかと、宮城あたりに笑われるのは間違いない。しかも三井は水風船まで持っていて、くだらないと云った祭りを明らかに堪能しているのだ。
手を引いても三井は振り解いたりせず、素直に後をついてきた。
人の集まる露店から離れたので、一気に辺りが暗く感じた。それでも、境内に灯る様々な照明のおかげでまったくの闇ではなかった。緩やかな赤土の斜面は木の根がはびこり少し足元が悪いが、歩けないほど荒れてもいない。ここをずっと真っ直ぐ下ればいずれ市道に辿り着く。
だが、ここで下りると自転車を停めたスーパーとは反対側に出てしまうので、道路まで下りるつもりはなかった。宮城たちから姿を隠すための一時的な避難場所だ。
神社を取り囲む林の中は静かだったが、薄暗い場所を好みそうな若者やカップルがそこかしこに散らばっていた。祭りに飽きた様子の子供とその親たちも歩き疲れて休憩しているようだ。子供は両手を振り回して、手首に付けたサイリュームのブレスレットで残像を作って遊んでいた。足元には、何故か犬までいた。家族総出で祭りに来たらしい。
薄暗いのは都合がよく、流川が三井の手を引いていても、誰も気にかけなかった。
「あっちの辺りの金髪が何人か混じってる集団のヤツらは、もしかすんと知り合いの知り合いかも。あんま、近く通るなよ」
「じゃー、もっと奥に行く」
高校生らしさがあまり感じられない数人を見て、三井が云う。流川は足を止めずに方向を変えた。三井は誰からも逃げるべきじゃないというのが流川の意見だが、わざわざ争いごとを引き寄せる必要もない。
市道まで下らず斜めに横切って、足元の少しマシなひらけた空間に辿り着く。クヌギの木の下で足を止めて、流川は掴んでいた三井の手首をようやく解放した。
「日が当らない場所って、昼でも夜でも寒いよな」
ひび割れたクヌギの樹皮に背中を預けた三井は、金魚すくいの後に買ったペットボトルのコーラを一口飲んで、流川に回してきた。
三井の云う通り、九オンスの長袖Tシャツ一枚ではそろそろ寒い季節だったが、流川は不思議と寒さを感じていなかった。
「おまえってさ、実は祭りで女を暗がりに連れてくタイプなのか?」
からかうように云われて不服に思った。まさか、と答えながら、前の彼女を思い出した。冗談じゃない。
「どっちかとゆーと連れてかれるほうっす」
貰ったコーラを飲みつつ半ば本気で云ったら、何故か大笑いされた。
「意外すぎるだろ。笑える」
信じたのかどうか、三井はいつまでも笑っている。
嘘は云っていなかった。こことはちょうど反対側だったが、一年前、こんな風に人気のない所へ彼女に引っ張り込まれたのだ。
ただ、三井の想像と現実はおそらくかけ離れている。
彼女は帰るのが嫌でもっと話がしたかっただけかもしれない。けれど流川はその場所で彼女を振って、一人で帰宅した。その頃ちょうど、バッグ扱いされ続けたことに対する苛立ちが最高潮に達していたのだ。
「一緒に居んのが俺でワリィな。あのさ、うちのマネージャーとか、おまえどうなんだよ?」
白地に縞が綺麗に入った水風船を右手で上手に突きながら三井が云う。ドリブルしてるみたいだな、とその手元を見つめながら、流川は質問に答えた。
「彩子先輩すか?」
「違うって。赤木の妹に決まってんだろうが」
「どうって?」
「ああいう、控えめなタイプの女はもしかしてあんまり好きじゃねえ?」
「別に……嫌いでも好きでもねーけど」
「イイ女とはちょっと違うよな。ああ、でも桜木が居るからなあ。そういやアイツ、こういう時こそ誘えばいーのに何で男同士でつるんでんだ? それとも断られたのか?」
どうしてそんなどうでもいい話題を三井は持ち出すのかと、流川はつまらなく思った。どうにも興味が持てなくて、思考力が低下する。
もっと、別の話がしたかった。どこかの誰かのことではなくて、自分のことや三井のことをだ。心に霧がかかったように、気分が晴れない。くすぶった何かを言葉にして吐き出したらすっきりしそうなのに、何を云いたいのか自分でもよく分からなかった。
「それより先輩」
話を手っ取り早く変えたかったので、とりあえず呼びかけた。それ以上、何の言葉も思い浮かばない。
いつもよりもずいぶんと近い距離に居る三井が、続きを促すような表情で流川を見上げている。
それを見下ろしていると、何故だか気が逸った。落ち着かない気分を誤魔化すように瞬きをする。喉の渇きを癒そうと、再びコーラを飲んだ。三井が先を待っている。
「来年も、祭り来る?」
頭で考えるのをやめて本能に従ってみた。流川は一年後のことを尋ねた。
「なに云ってんだよ、俺、来年は大学生だぜ。忙しいっつーの」
「浪人生かも」
「てめえは、たまにすんげえ嫌なコトを真顔で云うよな」
「受験勉強の息抜きで来ればいいでしょ」
「浪人生確定で話進めんなよ」
「その時は、ついでに学校で監督に挨拶して、バスケもして行けば」
「ああ、それはいーかもな……」
満更でもなさそうな顔をして、三井は流川を見て笑った。右手は相変わらずドリブルをしている。水風船の中で水の塊が綺麗に跳ねている良い音がした。
三井の笑顔に釣られて笑いそうになったものの、流川はなんとか顔を取り繕った。
「俺は絶対その頃大学生になってるぜ。でもまあ、ヒマだったらここに来て、まだコーコーセーやってるおまえに、なんか奢ってやるよ」
「じゃー、焼きそば」
「おまえ、好きだなあ焼きそば」
そうだ、好きなのだ。
いま、気がついた。
全部、腑に落ちた。
三井が男だったから盲点になって見逃していたけれど、自分は彼のことが好きなのだ。
秘かに発見した気持ちに付けた名前がしっくり来たので、流川は心から安堵した。自分を縛るものからようやく解放された気分になった。
笑顔を向けられると嬉しいと感じてしまうのは、このせいだ。彼の願いを叶える手助けが上手くやれたことに途方もなく充足感を覚えるのも、全部この気持ちのせいだったのだ。
自分で自分に明言したら、酷くすっきりした。名前の分からない感情はじわじわと流川の中を蝕んで、もどかしく落ち着かない気分に陥れたけれど、辿り着いてみれば単純なことだった。
いつの間にか、自分が来年もここに居ることを流川は想像している。
その時、隣に居て欲しいのは三井だ。
そして、やっぱり自分は焼きそばを食べるだろうなと思う。
だけど、焼きそばよりも三井が好きだ。勿論、そんなものは比較にならない。もしかすると、バスケと同等。もしくは、何よりも誰よりも優先して。
なりふり構っていられないくらいに。
そうでもなければ、自分はこんな所にのこのことやって来なかった筈だ。金魚の住み家に頭を悩ませたりもしない。ましてや、一年後の今日のことなんて考えたりする訳がない。
もう来ることもないと思っていた神社の片隅で、流川は今日とても大きな発見をした。
彼のために泳ぐ魚