オフェンスの男
ひとつも落とせない大切な試合の中、一向に治まる気配のない自分の荒い息遣いを聞きながら、流川は利き腕を頭の上へ持ち上げた。その手を力いっぱい弾くように、三井の手の平が重なって音を立てる。彼のロングシュートが、綺麗な弧を描いてリングを通過したばかりだった。
流川は左腕のリストバンドで額の汗を拭った。足が止まると汗が吹き出してくる。すぐにディフェンスに戻らなくてはならない。頭で考えるよりも先に、身体は動いている。それは何度も反復して身体の奥に深く刻み込まれた動作で、ほとんど反射で走っている。
ボールの行方を追える目は必要だ。自分にとって大事な物から、流川は決して目を離さない。
今までずっと、そうやって勝利を掴みとってきたのだ。
流川は初め、ブランクがある三井の実力に期待していなかった。二年間バスケから離れていた三井に、学ぶべきものがあるとは思っていなかった。
けれど初めて見た三井のバスケットに、流川は目を見張った。
まず、音がよかった。正確な距離と角度で高く弧を描いたボールがネットを揺らしたときの、あの音が。
身についたシュートフォームは無駄がなく端整で、思わず見入り、呼吸を止めた。振り返った三井の自信に溢れた強い眼差しが眩しかったので、流川は彼から目を逸らせなかった。
あれが始まりだったと今思う。
視界に入るすべての景色の中で、彼の姿は特別になった。
ただ純粋に、三井の持つバスケセンスが自分の好みのタイプにはまっているだけ──そう考えて頭から彼の姿を追い出そうとしたこともあったけれど、それは上手くいかなかった。
三井の存在そのものから目が離せなくなっている自分を、流川はとうに自覚していた。とっくに心が奪われた後に足掻いたところで、無意味だ。 雨の日の体育館には、生温い空気が滞っていた。
湿気が多くて滑りやすくなった床の上では、バッシュの機能もやや低下気味だ。
流川の使用するリングの反対側では、三井や桜木たちがどことなく気の抜けた緩い練習をしていた。今日は安西監督が居ない。
三井があえて外したシュートを放ち、桜木がリバウンドをとる。そんな練習を繰り返す中、三井の手が桜木の赤い坊主頭を勢いよく撫で回しているところを、流川は目にした。
桜木はその手を掴み返して、激しい抗議のジャスチャーをしている。他の部員の笑い声と被り聞き取れる言葉が届かないから何を云っているのかまでは分からなかったが、おそらく桜木のリバウンドを三井が褒めたのだろうと流川は思う。褒められたクセに桜木花道が怒っているのは、子供のような扱いを三井に受けたからか。
県を制した元中学MVPに素人が褒められただけでも充分だろうに、素人すぎる桜木は理解していない。褒めなければ怒り、褒めたら褒めたでこんな調子の、困った素人──それが桜木なのだ。
(あんなのに、かまわなけりゃいいのに)
流川が思うに、三井はきっと桜木の坊主頭の触り心地を気に入っているのだ。反省という名目で最近坊主になった桜木の頭を、三井がああして触っている姿をよく見かけた。その姿を目にする度、小さな棘のようなものが、けして柔らかではない流川の心をいとも簡単に刺激した。発散出来ない苛立ちは誰にも知られることのないまま、波紋のように流川の中で時間をかけて広がっていく。 まったくもって、厄介なことだった。
(バカみてえ)
ときどき、こうして見たくない場面に出くわすこともある。
それでも、いつの間にかまた流川の視線は三井を探して彷徨うのだ。
(……俺がいちばん、バカだ)
三井に出会って以来確実に速度を上げて進行していく自分自身の心の変化について、流川はあまり考えたくなかった。末期的な事態に陥っているのだけは、冷静に理解していた。
桜木よりももっと困った奴は、一体誰なのか。
「オイ、集中してっか流川? どこ見てんだ」
自分のワンオンワンの相手である宮城リョータが、流川を目の前の現実に引き戻した。
インターハイを控えているにしては、集中力が足りない自覚がある。現在のオフェンスは宮城だ。腰を落として低めのドリブルを続けながら、宮城が一瞬だけ背後の賑やかなコートを振り返った。流川はその隙を見逃さずボールカットしようとしたものの、察した宮城に避けられてしまった。
「ああ、わかった。三井サンがあっちにいるからあっち加わりてーなぁって思ってるんだろ」
赤木の指示の下、幾つかのグループに分かれての練習中だった。反対側の桜木や三井たちに親指を向けて、宮城が笑う。
(いま……何て云われた? どーいうイミだ)
何かとんでもないことを宮城にさらりと云われたような気がしたが、流川は顔には出さない。
「イミフメイっす」
流川は目の前のボールと宮城に意識を集中する。しかし今日の宮城は調子が良いのか、素早い動きで隙をついて流川を抜き去り、一瞬のうちにシュートを決めた。
振り返ってニヤリと笑う宮城を、流川は無言で見下ろすことしか出来ない。リングを通ったボールは、床で何度かバウンドして、転がっていく。
「なーんでバレたんだーって考えたろ流川。動揺してんな? 動き固いぜ」
動揺しているのかどうかなんて、自分では分からなかった。分かっているのは、あっさり抜かれて悔しいということ。
「おまえさ、いつも三井サンばっかりよく見てんじゃん」
「……見てないす」
流川が反応すると、宮城は楽しげに笑った。
「いや、見てるよな。バレバレだ」
「見てねえ」
「俺の目はごまかせねーな」
着地の見えない押し問答に言葉を無くして流川は押し黙る。宮城に押し切られた格好だ。しかし彼の言葉は当たっていたので、それ以上反論するのは難しかった。
「まあ、しかたねーよな、気になっちまうもんは。いいじゃん別に、三井サンは確かに見てるとなんか面白いし。見た目も悪くねえし。男だけど」
(面白くて見た目まともなら男を意識してもいいっていうのか)
宮城の口からそんな言葉が出たことに流川は驚いた。返ってくる反応が、一般的ではない気がする。こんな話を真に受けて良いのか疑問だ。
「つい誰かを見ちまうっつー気持ちがさ、俺にはわかんだよ。俺だってずっとアヤちゃんのこと気にしてんからな。ついつい探しちまうんだよな」
たまに試合中も全然集中出来なくて参るわと、聞き捨てならないセリフを付け足した宮城が、転がったボールを拾おうとした流川の背中を思い切り叩いてきた。
「そーいう相手がいるのってさ、悪くねえじゃん。頑張ってアプローチしてみんのも、いーんじゃねえ? 三井サンてけっこー軽いとこあるからさ、おまえなら、もしかして意外とノリでイケるかもな」
(なにを頑張ればいーんだ。全然わかんねー)
ボールを拾い上げ、流川は三井たちに背を向けて宮城と対峙する。ワンオンワンはまだ続く。流川のオフェンスの番だ。
(つーか あの人、軽いのか……?)
なんだか、いろいろな思いがどっと押し寄せて流川は溜息を吐きたくなった。
「──先輩」
「あ?」
「ホントに、頑張ってもいーものっすか?」
「お? それはつまり、頑張って三井サンと仲良くなりてーと……おまえ、やっぱ、そういうことなんだな?」
肯定はしなかったが、流川は否定もしなかった。
相手は自分と同じくらいデカくて可愛げのない男なのに、アプローチなんて本当にしてもいいのか。頑張る以前の話だった。
「頑張って良いのか悪いのかで悩んでる段階だっつうんなら、おまえが思うように好きにやったらいいと思うぜ。それで起きる問題なんて、おまえにとっちゃ大したことじゃねえだろ?」
宮城が本当に不思議そうな顔をしたので、流川の力が抜けた。
男のことが気になるなんて、健康な男子高校生としては末期的症状だと思っていた。誰にも受け入れられないと思った。
なのに、笑い飛ばすみたいにしてそれを覆す人間が身近に居た。
おそろしく単純な宮城の一言に、天地がひっくり返って、目の前が違う景色に変容する。
「……じゃあ先輩、もうひとつ訊きてえんすけど」
「マア、いーけど。今日よく喋るよなあ、おまえ」
「どーやって、頑張るもんなんすか?」
「はあ?」
頑張ってもいいとお墨付きを貰えても、頑張り方が分からない。
ボールを持たずに攻めろと云われても、流川にはよく分からない。そんなことはしたことがない。
マネージャーの彩子のことを好きらしい宮城なら、そういったことに詳しいだろう──そう思った。
「甘えんな流川。そんなの人によって違うんだよ。っつーか、マジに好きなら深く考えずに動けばいいだろ。おめーはオフェンスが得意だろうが」
(ああ──そーだった)
考えなくても自然と動くのだ、自分の身体は。
大事なものから目を離さず追い続け、ゴールを目指し、奪い取る。その方法は、この身に深く染み付いている。
腰を落とした完璧なディフェンスを続けていた宮城を、流川はドリブルのスピードをあげて抜いた。ドライブには自信がある。
放ったシュートは、リングに吸い込まれた。
「くそーっ、相変わらずはえーな。おまえを止めるのは、三井サンも骨だろーなー」
宮城が悔しそうにリングを振り仰いだ。 おわり