加湿器なんて物を置いていない部屋の中は、喉の痛みを覚えるほど乾燥していた。
そして何より、この部屋は白く立ち込める煙草の煙で空気が悪かった。窓をほんの少し開けて外気を取り入れていても追いつかないくらいに。
大体、人数オーバーなのだ。物が少ないから広く感じるとはいえ、六畳ほどの居間に身体ばかりデカい男が八人もひしめき合い、その大半が酒に酔っているときている。常に出しっぱなしらしい長方形のコタツと、急遽誰かが家から持ってきた折り畳み式の卓袱台が部屋の空間のほとんどを占める形となっていて、空いている隙間にそれぞれが勝手に座ったり寝転んだりしている状態だ。
局地的に熱風を吐き出すばかりのヒーターはおそらく耐用年数を超えていて、その役目を半分程度しか果たしていないと思われた。コタツになんとか潜り込めたのは、ラッキーな人間だ。三井は運よくコタツ組の一員として膝下の温もりを堪能していた。卓袱台を囲んでいる連中はテレビの前を陣取っていて、毛布をかぶってテレビゲームに興じている。
酒の回った身体は寒さなんてあまり感じず想像よりは快適なのだろうけれど、やっぱり十二月の寒い夜はコタツの中に居たいと、寒いのが嫌いな三井は思う。こんな日くらいは良いだろうと自分も結構飲んだので、まあまあ酔っているのは間違いない。アルコールによる身体の火照りを感じてはいたけれど、コタツからは出たくない。トイレに行くことさえ諦めているくらいだ。実を云えば、出たくないのには寒さの他にも理由がある。
「だから俺が云った通りだったろうミッチー、そんな奴は呼ばんでもいいと。どうせ寝てばかりだ。思ったとーり!」
三井の心の中を読んだかのように、家主である桜木花道がよく通る声で高らかに云った。家主の特権か、彼はコタツの長い辺を一人占めして座っている。三井の真正面だ。
桜木の左隣の短い辺には野間が居る。その向かい側に水戸が座っていて、残った奴らは卓袱台組だ。
桜木は一際大きな図体と真っ赤な頭という人を威嚇するようななりをしている癖に、食べ物と飲み物が並んだコタツの天板に頬杖をつくような可愛らしいポーズをして三井をじいっと眺めている。彼もすでにビールを何本も空けていて、おそらく酔っているのだろう。
「寝てる方がおまえらケンカにならなくていいだろ」
背中を丸めただらしのない姿勢で、三井は返事をした。コタツ布団を胸元いっぱいまで引き上げた状態で、両手もコタツの中に仕舞うという完全防寒体勢である。
「そうだよね」
水戸が云う。
「こんな日に女っけもない寂しい人間がこんなに集まってるのに、ケンカまで始めたら虚しいだろ花道」
「悪いのは全部ソイツだ!」
「洋平! 俺らがモテナイ君だとはどういうことだ! おまえだって同じだろーが」
ゲームをしている高宮が口を挟んだ。
「だから全員だよ。いーから、画面見とけよ高宮」
「画面は見てるが、この耳はちゃんと話も聞いているんだぞう」
「こら高宮、そこにゾンビ出っから集中しろバカヤロ! 気軽に扉開けんなつったろ!」
「ぬああっ、こっちに来るな! 弾が足りん!」
「あーあ、どこ撃ってんだよ、弾のムダ」
「下手くそ」
「モテねえ筈だな。次は俺だぞ。さっさと代われ」
テレビ画面の中では高宮の操るゲームのキャラクターが壁や天井に無駄に発砲しまくった後、ゾンビに食われて血しぶきをあげて死んでいった。コントローラーは、高宮の手から大楠の手に渡った。
三井はそのグロイ画面をコタツの上のミカン越しに横目で眺めた後、桜木に視線を戻す。
「桜木、寝てる奴の文句は云うな。そういうことは起きてる時に本人に云え」
「むう……だってそいつは起きてる時が少なすぎるんだから、しかたがないのだ。それに、云ったらケンカになるけど、いーのか?」
「いや、やっぱダメだ。めんどくせーんだよ、止めんの」
「まーまー花道、今日はケンカはやめとけ。いーじゃん、人数多くて楽しくって、へへ」
缶チューハイの空き缶を何故か必死に積み上げている宮城が口を挟んだ。彼は卓袱台組だが、特に寒さを感じていないのか、毛布もかけずに床の上に座り込んでいる。カラフルな色彩のチューハイの缶が気にいったらしく、彼は今日そればかり飲んでいた。チューハイタワーを壊しては作り直し嬉しそうにしている宮城は、もしかするとこの中で一番酔っているのかもしれない。三井だって酔ってはいるが、意識ははっきりしているし、チューハイタワーを一緒に完成させる気はさらさらなかった。
「ねえミッチー、これ好きでしょ。ひとつ残ってるから食べちゃってよ。そしたら、皿一枚片付けられっから」
咥え煙草の水戸の手が動いたせいで空気が動いて、三井の顔の前を紫煙が掠めた。有害科学物質の混じった煙の刺激と香ばしい匂いには、バスケを辞めていた頃の事を思い出させる効果があるからか、三井は煙草の煙を嗅ぐ度、不快になるよりもまず物憂い感傷を覚える。
去年の今頃は、今とは違ったメンツでやっぱり酒を飲んでいた。そこには女も居たし、年齢もバラバラの連中が集まっていたけれど、そして今よりもずっと金をかけた飲み会だったけれど、なんだかアクの強い欲望にまみれていて終わった後は疲労した。そこにはちゃんと三井の居場所があったし、居心地だって良かった。でも、気負わなくても良いこのくらいの空間が今の三井にはちょうど良い。ここに居る連中には、三井が持っていた意地やプライドが粉々に打ち砕かれるところをしょっぱなからすべて見られてしまった。今更、どうやったって恰好のつけようがない。
人懐こくて気安い連中とこうした時間を過ごすのは気が楽だが、かと云って完全に慣れ合っているというわけでもない。この中で一番慣れ合いから遠そうな男が三井に差し出しているのは、最後にひとつ残っていた枝豆スティックだ。みんなで持ち寄ったつまみの中から、さっきまで三井が好んで食べていた。
「俺、もう飲んでねえけど」
今飲んでいるのはアルコールではなく黒ウーロン茶だ。だからつまみはもう要らないと言外に云ったが、あとひとつだからと水戸が皿を寄越してきた。
「じゃあ、貰うわ」
コタツの上の秩序が保たれているのはマメな水戸のおかげだろう。家主がまったく動かない代わりに、食べ尽くしたピザの箱もいつの間にか水戸が片付けたし、氷がなくなったら補充したりもしてくれる。嫌味なくらいに気が利く男だ。
三井はコタツの中から左手を出して枝豆スティックを摘んだ。ふたくち程度で口の中に収めて咀嚼した後、ついでにその手で自分のグラスを持ち、黒ウーロン茶で喉の奥に流し込んだ。
「ミッチーってさ、左利きだったっけ?」
「ん、いや……ちがうけど」
「そーだよね」
「……手ぇ冷えてっから、こっちは温めてる」
「ああ、そっか」
目聡い水戸に指摘されて、態度には出さず三井は内心で焦った。なんだって水戸はこんなどうでもいいことにまですぐ気付くのか、と。
三井は左利きではないけれど、水戸の云う通りもう三十分も前から左手だけで飲み食いをしている。右手はコタツの中に入れっぱなしだ。初めはただ、寒かったので両手をそうしていた。
けれど、今は違う。訳ありなのだ。
「俺、スゲエ寒がりなんだわ」
寒がりなのは本当だが、それでもこれはその場凌ぎの出まかせだった。たとえこの部屋が南国並みに暖かかったとしても、右手はコタツの中から出せない。何故なら、隣で横になって寝たフリをしている男が、三井の右手をずっと握っているからだ。
三井の手を掴んだまま放さないのは、流川だ。彼はコタツ布団の中に頭まで潜って、眠っているように動かない。二人の仲が先輩と後輩以上の関係であることをここにいる連中は誰一人知らないし、三井以外の全員が流川は寝ていると思い込んでいる。
最初、コタツの下でこっそり伸びてきた流川の手に右手を握られた時、三井は心底驚いた。声を出さずに済んだのは奇跡に近い。手を握られること自体は悪い気はしなかったので、三井は表情が不自然に崩れそうになるのをみんなの前で必死にごまかした。
流川がいくら拗ねているとは云っても、本気で怒っているわけではないのだろう。この状況にただ納得出来ていないだけなのだ。三井の手を包んで放さない彼の掌はとても温かくて、そこから怒りのようなマイナスの感情は読み取れない。どちらかと云えば、一途に母親の手を一人占めしようとして放さない子供に近かった。だから、三井は右手だけは流川の好きなようにさせてこの時間を過ごしている。
流川が不貞腐れている理由は、極めて単純だ。
クリスマスイブの今日、本来なら三井と流川は二人で過ごす予定だった。表情こそまったく変わらなかったものの、例年とは違うクリスマスの過ごし方をどうやら流川なりに楽しみにしていたようだし、三井だってそうだった。顔見知りにばったり出くわすことのないような場所に行くつもりだった。そして、山の中の湖でやっているイルミネーションをあえて男同士で見に行ってやろうというふざけた予定が決まりかけていた。しかし、三井が桜木花道に家飲みの誘いを受けたので、状況は変わった。
三井にとって、なんだかんだで可愛がっていた宮城や桜木とのクリスマスなんておそらくは最初で最後だったし、部を引退した直後でまだ寂しい気持ちが大きかった。だから、ついこちらを優先した。流川とは元旦にも会う予定があったし、それ以外だって時間を作ればいつでも会える。
話を持ちかけると流川はイヤダと即答したが、三井が全然退かなかったので最後には折れた。桜木の家は両親が離婚していて、父親はずっと入院しているから、彼は一人暮らし同然だ。こういうイベントの時くらいは大人数で押し掛けてやったほうが良いと三井は流川に訴えた。ただ頼んだわけではなく、少し身体を張って頼んだのも良かったか、渋々だけれど流川は頷いた。
桜木は桜木で、キツネだけは呼ばんと文句を云っていた。三井は桜木にも頼み込んだ。友達のいない寂しい流川も混ぜてやれと桜木の良心に訴えてみた。彼も本来はそこそこの優しさで出来ている男で、憎まれ口を叩くのは忘れなかったけれど最後には納得した。
その時は承諾したくせに、それでもこうして自分の前に流川が存在すると悪口を云わなくては気が済まないのが桜木だ。おそらくは、もうそういうふうに身体に刻み込まれているのだろう。
「まあキツネはな、寝ている方がジツに静かで平和だから、寝てたって別にいいんだオレは」
「花道が絡まなきゃ起きてても静かじゃん」
酔っ払いの宮城が口を挟んだ。
「あのさ、みんなで部活の後にラーメン屋行った時とかさ、ああ流川も居たんだって帰る時に気づく時ねえ?」
「だろう! 良いこと云うなキャプテンリョーちん! そんだけルカワは影が薄いんだ」
三井の利き手に関する水戸の小さな疑問は誰の心にも留まらなかったらしく、話題が流川に戻った。これに乗っかった方が懸命だと判断して、三井も会話に加わることにした。
「ああ、あるよなソレ」
宮城たちに同意した瞬間、強い力で右手を握られた。思わず「いてぇな」と口から出そうになった。どうやら会話はコタツの中にもばっちり聞こえているらしく、本人からの抗議だ。悪いなと少しは三井も思ったが、だからといってどうしようもない。
「なあなあ知ってるかミッチー、この間キツネは二年の女子に告白されたというのに、まーた冷たく振ったらしいぞ。まったく冷血な。影薄いクセに」
「は……? んだよ、それ、そんな話は俺知らねーぞ」
思いがけなく未知の情報が桜木の口から飛び出したので、三井は身を乗り出した。そんな話は初耳で、聞き捨てられない。
「どういうコトなんだよ?」
三井の声は自然と尖る。桜木の方を向いてはいるが、意識はコタツの中の流川に向いていたし、これは彼に対する詰問に違いなかった。
三井の問いに返答するかのように、強く握られていた手が緩んだ。かと思ったら、指の腹で柔らかく手の甲を撫でられた。恋人を宥めようという意図は感じたし、実際に心は若干落ち着いたので、三井はほんの少し機嫌を回復した。
ただ、これで丸め込まれるほど三井は単純ではない。
「あー、俺その話知ってますよ〜。シオと同じクラスの女子なんだよな、ソレ。すげー美人だから、自信あったんだろーになー。カワイソ」
チューハイタワー作成の手を休めて宮城が云う。
「マジか。なんだよ、みんな知ってんのか? なんで俺だけ知らねーんだよ」
「いや、なんでって云われても、そんなの知らないっすよ。まあ、いつものコトじゃん、流川が女を振るのなんて。だからいちいち話題に上がらないんじゃねーの?」
「まあ、それはそうだろーけどよ」
「そこで寝てる男はきっとむっつり系のスケベなのだ。もしくは、熟女とかが好きなんだろうきっと。だから女子高生には見向きもしないのだ」
「あー、それって案外ありそうだね」
「だろう!?」
桜木に同意したのは水戸だ。三井は異議を唱えたかったが、心の中で押し殺して無言を貫いた。代わりに桜木軍団が次々に口を開く。
「確かにそれなら、やたら流川が女子に冷たいことも納得だな」
「マジでー? 流川ってそうなのかあ〜もったいね。俺ならうちのガッコの女子ならいつでもOKなのにな〜」
「うちの学校の女子はもっとキツネのそーいうところをキチンと見ないとイカン。みんな騙されているのだ」
勝手なことを云って勝手に納得し始めた連中の声が聞こえているだろうに、流川は無反応だ。
熟女ではないが、現在進行形で流川が年上を好きなのは事実だ。
三井は、流川がまたしても告白されていたという話をまだ消化出来ないでいた。宮城による相当な美人という評価が妙に頭に残って、不安を煽る。部屋の中に立ち込めた紫煙に似たものが三井の心の中を侵食する。それはゆらゆらと炎のように揺らいで胸の奥をざわつかせる。
「くそ……やっぱちょっとムカつく。なあ、そこのビールとって」
「お。ミッチーまだいくのか?」
「三井サン、何にムカついてんすか?」
「それは……流川一人だけ別次元でモテっから、ムカつく」
今日はもうこれ以上飲まないでいようと思っていたのだが、やっぱりアルコールの力が必要だ。気の利く水戸がプルタブを予め開けてくれて、三井は渡されたビールを勢いよくガブガブと飲んだ。喉の奥を引き締めるような苦味の塊が胃の中に落ちて、身体を震わせた。内側から身体が熱くなる。
流川がモテるのは今に始まったことではないけれど、こういう事実を内緒にされると不安になるものだ。振ったとはいえ、なにか面白くない。飲むことで三井が気を紛らわしていたら、沈黙していた流川の指がふいに動いた。手の甲を指でとんとんと叩かれる。
ねえねえ、と呼ばれているような気がした。
なんだよ、と不貞腐れた心で三井は思うが、返事をするわけにはいかない。放っておいたら、流川の指の爪先が、三井の手の甲に素早く何かを描いた。
──ん? 今のって? なんて描いた?
読み取れなかった。だけどなにかを描いた。もう一回やれよと念じたら、流川はまた同じようなものを描いた。とても単純な、一筆書きのようなもの。一旦止めては、何度も同じ動作を繰り返す。これは長文ではないなと三井は見当をつける。文字ですらないのかもしれない。こんな文字はどう考えてもこの世にないから、日本語で読み取ろうとする意識は捨てた。
なかなか読み取れない三井が反応しないからか、次第に指の動きは丁寧になった。子供に教えるような確かさで何度も何度も辛抱強く同じことを流川が繰り返すので、少し時間はかかったものの、さすがに三井も後輩の指が象るものに思い至った。最初は素早くて判らなかったけれど、ゆっくり描かれて初めて理解した。ああこれはアレか、と確信した時、堪え切れずに三井は鼻で笑ってしまった。
「ふはっ」
三井の顔が赤いのはアルコールのせいだと思って誰も疑わないけれど、これは流川のせいだ。手の甲に何度もハートマークを描いた、百八十七センチの男。
隣に居る恋人のことを、たまらなく愛おしいと三井は思った。右手だけでは到底物足りない。こんなところでこんなことをしている場合じゃない。
「どした、ミッチー?」
「あー、いやちょっと」
無口で生意気でなにを考えているのか分からないと評判の流川の指先が意外にも雄弁に色々な本音を語るからついに笑ってしまったのだなんて、誰にも云えない。彼がどんな顔をして三井の手で遊んでいるのか、三井の想像の範疇だって軽く飛び越えている。
「俺、そろそろ帰らねえとやべえなって思い出してさ」
「え、そうなの? まだ九時半だけど」
「ああ! ミッチーの家は門限にウルサイのだったな。勉強合宿の時も大変だったもんなあ……ホラ、親不孝してたから。信用ないから」
「オイ、最近はもう信用ぐらいされてんだよ! でもまあ、そうなんだよな……そう、うるせえんだよ、うち」
今更門限などあるわけもなかったが、桜木の勘違いは三井に都合が良かった。
「えーそんな! じゃあミッチーと俺のマリオカートの勝負の続きはどうなる!?」
トドのように床に転がっていた高宮が顔を上げて、メガネのレンズを光らせた。さっきゲームで対戦をして、三井は何度か勝利を収めている。
「もういーだろアレは。今度な」
「勝ち逃げなんてズルイ!」
「またいつでも相手してやるよ」
腰を上げかけた三井の手を、流川がコタツの中で解放した。
この飲みかけ飲んどいて、と三井は桜木に残りのビールを押し付ける。
じゃあ俺も帰ろうかな〜と云い出した宮城のことは、慌てて制止した。
「おまえはそのチューハイタワーを完成させろ。つうか、かなり酔ってんからここ泊まってけ」
「えー、だってこんな日に一人で帰んの寂しいっしょ、ねえ。大体アンタ、駅までの道覚えてんすかー?」
ここから最寄り駅までの道のりは三井にとって確かに不案内だ。来る時は、宮城と流川が一緒だった。桜木の家に来たのは初めてで、土地勘はまったくない。
「寂しかねえし。それに、コイツもついでに俺が連れて帰っから。こいつが道覚えてんじゃねえの」
「ああ流川?」
三井はコタツ布団を捲って中を覗いた。すると、そこにはいつもの涼しい顔があった。三井と視線がぶつかると流川は切れ長の目を細めて、口元をほんの少しだけ上げた。なかなか見られない稀な光景だ。
不意打ちの笑顔に崩れそうになる顔と心を立て直しつつ、三井は努めて冷静な声を保った。
「起きろよ流川。おまえ遅くなるとヤバいんだろ、帰んぞ」
三井の呼びかけで、流川は速やかにコタツから這い出してきた。
ここに居る人間がもしも完全なシラフだったなら、誰か一人ぐらいはこの状況に違和感を覚えたかもしれない。けれど程度に差はあれどみんな酔っていた。だから、流川が一声呼ばれただけですぐに起き出してくるような男ではないことを思い出して不審に思う者は居なかった。 桜木家から一歩外界に出ると、師走の冷たい風が火照った顔や手の表面を撫でた。住宅街はひっそりとしていて、まだ遅い時間ではないのに寝静まっているように思えた。三井は反射的にさみぃと呟いたが、すっかり熱くなってしまった身体にこの空気は案外と心地好いものだった。呟きと共に漏れた白い息だけは見た目に寒々しくて、冬の夜を実感させる。アパートの敷地内をいくらも歩かない内に立ち止まった三井はなんとなく空を見上げて、澄んだ空気に映える星々の輝きを確認した。
「やっぱこの時間は冷えてんなあ」
「俺はアツイ」
「だろうな」
すぐ後ろに立つ流川を振り返ると、いつもはどちらかというと青白い顔を赤く染めた流川が三井を見下ろしていた。アルコールのせいもあるだろうが、コタツの中にずっと潜っていたのだから暑いのは当然だ。潜っていたせいで髪も乱れている。
それでもそれは流川の見映えを貶めるものとは成り得なかったが、整えることもしない無頓着な彼の頭に、三井は両手を伸ばした。
「ったく、しょーがねーヤツ。気にしろって」
正面に立ち、流川の頭を両側から挟んで、艶のある髪の隙間に指を入れた。夜気に晒されてあっという間に冷えてしまった髪は手櫛で少しいじっただけで落ち着いた。整った頭を両手で包んだまま満足した三井が笑ってみせると、流川の手が三井の手を上からぎゅっと押さえてきた。重なった手は滑らかな髪の表面を滑り、耳の上を通過した後、血の通った頬に辿り着いて止まった。
三井を見つめる流川の瞳は澄み渡る冬の空に負けないぐらいきらきらと輝いて、好奇心の強い子供のようだった。
「手に、なんて描いたかわかったんすか?」
「……てめぇは、どんな顔してああいうの描くんだよ?」
「別に、フツウの顔で描いた」
三井は苦笑した。悔しいけれど、あんなに単純な記号一つで流川にすべて持っていかれた。流川が美人に告白された事実もどうだって良くなった。
それでも、すぐに熱を上げようとする心と身体を冷たい空気が冷やして鎮めるから、こうして今思い返すとなんだかあれは夢の中の出来事だったような気がしてくる。
「酔った勢いで描いたとか云うなよ」
「酔ってねえ。あのぐらいの量、飲んでも全然へーき」
流川はどこか得意そうだ。彼が喋ると、三井の手の下で表情筋がほんの僅かに動いた。低い声は振動となって、三井の手を伝う。熱い頬と大きな掌に挟まれた手を下ろすタイミングを、三井は完全に失ってしまった。
後輩のいつも通りの不遜な態度と三井を見つめる目の輝きにどこか安心感を覚えながら黙って少し俯いて、三井は返す言葉に詰まって思いあぐねた。
しかし、流川はせっかちだ。三井に考える時間をくれなかった。一歩前に出た流川との距離が急速に縮まったので視線を上げると、何かを期待する目で見下ろされていた。いつも言葉が足りなくて目だけで訴えてくるのは流川の常套手段だし、その目は案外ものを語るから、何を期待されているのかは想像がつく。
実のところは、三井だって色々と期待していた。だから、二人は自然と同じタイミングで顔を寄せていった。アルコールのおかげで身体の芯はポカポカしていたし、クリスマスイブに大勢で集まれたのも楽しかったし、手の中には流川の顔があって、この見た目だけは完璧に近い男がさっき自分に一生懸命かわいい合図を送っていたことはまだ記憶に鮮明で、たちまちの内に気分は高揚した。
意識は、向かい合う男にのみ集中する。近づきすぎて、顔がぼやける。お互いが吐く白い息が、容易く混ざり合う。もうすぐ唇に訪れる筈の温もりを予期しつつ目を瞑って視覚を断ったら、温かい血液が身体の中を循環する音が聞こえたような気がした。それくらい身体が熱を上げ、それくらいこの場所は静かだった。
逸る気持ちを抑えながら静寂の中で密やかに行われようとした愛情表現行為は、しかし一方的に割り込んできた平凡な金属音にあっけなく中断させられた。
ガチャリという音で三井は瞬時にして我に返った。鍵が開く音だと認識し、やべぇと思った瞬間には、すでにドアノブは回転して桜木家の玄関扉が開かれていた。中から姿を現したのは水戸だ。彼は上着も羽織らず、サンダルを履いていた。ちょっとそこまでといった風情で、玄関から出ようとしたところ三井たちを見て足を止めたという感じだ。
驚きすぎて流川からとっさに離れることも出来なかった三井よりも先に立ち直ったのは、驚くべきことに水戸だったようだ。たった三メートル程度の距離を挟んで、水戸の方が先に口を開いた。
「あー、ゴメン。あのさ、ミッチーのでしょコレ。忘れ物」
「え……ア、うん」
流川の顔を手で包んだまま、三井はどうにか返事をした。
お互いに近づきすぎた三井と流川をしっかりと見ている筈の水戸は、しかし一切の動揺も見せずいつもと同じ声と態度を見せた。三井は巧い弁解をする余地もないまま、水戸の手に握られたマフラーに目をやった。それは確かに自分の物だ。どこかに適当に置いて、すっかり忘れていた。
「それは、わざわざ……悪かったな」
ようやく流川から離れて、三井はマフラーを受け取りに戻った。触れたら爆発する壊れモノを回収するような心持ちで恐る恐る水戸の目を見ると、そこにはいつもと変わらない水戸がいた。
「こっちこそ、なんかゴメンとしか。でもまさか、まだここに居るとは思わなかったんだよね。まあ、続きをどーぞごゆっくり」
二の句が継げない三井の前で扉は静かに閉められて、再び静寂が訪れた。だが、三井の心中はもはや穏やかとは云い難い。
「おいおい……」
見られた。不自然なまでに密着して、キスしかけたところを完全に見られた。絶対に水戸は見たのだ。それなのに、彼の顔色は少しも変わらなかった。見られてしまった事実よりも、見たクセに水戸が一切動揺しないことに三井は驚愕した。
「なんであいつ驚かねえんだよ!?」
「さあ?」
「おまえも少しは驚けよ!」
流川の返事もいたって冷静だった。みんなどうなってんだよと思いながらも、いかなる時でも安定しているそつのない水戸と変わり者の流川だからしょうがないかと頭の片隅ではどこか納得している。そして、見つかったのが水戸で助かったと思っている自分もいる。見たのが水戸なら問題はないと、何故か信じている。
「あーいうヤツには、どうせいつかバレると思う」
流川が云った。自分を取り巻く人間関係に無関心に見える流川でも、水戸には一目置いているようだ。後輩二人の順応力に感心しつつも呆れ、真っ白な吐息を吐き出して三井は嘆いた。
「すげえな俺の周り、非常識なやつばっかかよ」
「ソレ、俺も入ってんすか?」
おまえが筆頭だろうがと声を大にして云いたかったけれど、三井はとにかくこの場から離れようと思った。流川の厚かましい問いは無視だ。
「とにかく、早いトコここから離れようぜ」
いつまでもこんなところに居ると、桜木の家から次は誰が出てくるか分からない。
一刻も早くこの場を離れようと、マフラーを掴んだまま三井が先に立って歩き出したら、コートの端を引っ張られて出鼻をくじかれた。
「ねえ」
心なしか甘えを含んだ呼びかけに、三井は仕方なく足を止めて振り返った。その声には何かを切望するような響きがあった。
「んだよ?」
「つづき」
三井の手からマフラーが奪われた。向かい合い、流川がそれを勝手に三井の首にかけて、ぐるぐると下手くそに巻きつけてきた。ウール100%の柔らかな感触が三井の襟足を甘やかすように温める。
黙って好きにさせていた三井に、マフラーの端を握ったまま流川が素早く顔を寄せてくる。
三井の視界は、流川でいっぱいになった。白い息が顔にかかり目を閉じると、流川の温もりが唇に落ちてきた。
本当は酔っているのか、寒さのせいか、それとも野外だからか、ぎこちなく前へ前へと押し付けてくるようなキスはいつものそれよりもなんだかあどけなくて、三井はくすぐったいような気分になった。胸が高鳴り始めても辺りはしんと静まったままで、時間がゆっくりと流れていくような錯覚を覚えた。
あどけなさとは裏腹に、流川から漂うアルコールの匂いが三井を唆す。夢の入り口に立ったような心地のまま、目を開いた三井は云った。
「なあ……」
「なに」
「どっか、二人で入れるとこ探そうぜ」
三井が発した言葉の持つ意味を流川は正しく理解したようだ。目を細めた後輩が嬉しそうに素直に頷いたのが少し可笑しかったので、さっきの桜木たちとの会話を思い出した。
「あのさ、おまえがすげー美人の女子高生まで容赦なく振りやがるから、みんなに熟女好きのむっつり系だと思われてんぜ。聞こえてたろ、アレどう思ったんだよ?」
「どあほうは本当のバカ」
「そうだよなあ。おまえはフツーに頭ん中エロでいっぱいだし、隠さないもんな?」
流川をからかうように三井は云った。
「人がどうか知らねーから、フツウかどうかは知らねー」
「でも、スケベはスケベだろーが」
「そのほーが健全でしょ」
「まあな」
それの何が悪いのという流川の開き直った態度を、三井は笑った。本人は自分からわざわざ話したりはしないけれど、三井から見た流川は人並みに好奇心も性欲もあり、普通の男子高生とそう変わらない。出来たらみんなにも彼の一面を教えてやりたいと思う三井だが、それが出来ないことは残念だ。
「ねえ先輩、探すんでしょ」
流川はいい加減焦れたような様子で三井の手首を掴んで引いた。
足早にさっさとアパートの敷地を出ようとする後輩に手を引かれて、三井は苦笑する。二人ともあまり土地勘がないから行き先は不確かで、だけどおそらくは駅の方に向えばどこかに休憩先が見つかるだろう。
気が急いている流川の姿はなかなかいーよな、と三井は思う。急いている理由がバスケとはまったく関係ないこともポイントが高い。
しばらく歩く内に掴まれていた手首は解放されて、気づけば手を繋いでいた。最近下ろしたばかりのスエードの靴で、三井は流川について歩く。身体を巡るアルコールの効果で、足元はふわふわしていた。心の中も、似たようなものだ。
普段は人目のある場所で手を繋いだりしないけれど、今なら他人に見られてもかまわない気分だった。さっき貰ったハートマークの効果は、まだ継続している。 おわり