無口な後輩

 素肌に貼りついたトレーニングウェアを脱ぐのは一苦労だ。
 タオルで汗を拭きとってから制服に着替えて、三井寿は壁付けの時計で現在時刻を確認した。時刻は十九時四十五分。一週間前ならば、仲間達と湘南辺りに出て遊び始める時刻だ。
 三井は最近、今までと180度違う健全な高校生活を始めた。
 その生活は思っていた以上にしんどい。授業が終われば体育館に直行して、暗くなるまでバスケットをする毎日だ。
 以前ならば普通にこなせた練習メニューも今はこなすのに苦労している。あの頃とは、いろいろなことが違う。二年間ろくに体を動かしていなかった生活は三井から体力を奪った。練習を終えてふらふらになって家に帰っても、疲れすぎて神経が昂ったまま、眠れずに朝を迎えることもある。
 もっとも、三井にしてみればそれもまた望むところに違いなかった。好きなだけボールに触れる今の生活は、自分でも気付かないままに心の底から欲していたものだ。
 きつく結んだバッシュの紐がどうしても解けない苛立ちに似たものを、ずっと抱えて生きてきた。それを結んだのは自分自身なのだから、尚更厄介だった。
 そのことから目を逸らすように遊びに興じて一時的にそれを忘れても、心の底に残った虚しさからは逃れられなかった。バスケットがしたいという、ただそれだけのことが、とても遠かった。こうした密かな願望は、自分一人では決して叶えられることはなかっただろう。部員たちの情けと桜木軍団や堀田徳男たちが罪をかぶってくれたおかげだ。
 だから今度こそ、絶対に道を誤ることはない。
(こいつだって、あれだけ血を流してたくせに──)
 隣のロッカーで黙々と着替えている一年生に視線を移し、三井は改めて思う。
(よく、俺の入部を受け入れたよな)
 三井の遊び仲間だった連中は、喧嘩に関して相当に場数を踏んでいた。そんな彼らを相手に一番先に反撃したのはこの流川楓という一年生だった。
 血の気の多い連中ばかりを連れて行ったのだ。そんな連中にひどくやり返された彼が、一時は貧血で動けなくなっていたことを三井は思い出す。
 後で聞いたところによると、流川は一応病院には行き、数針縫って即日帰宅出来たらしい。もしももっと大事になっていたら、三井の部活復帰は無理だっただろう。
 物怖じしない流川の度胸は大したものだ。目つきも相当に悪いので、生意気な新入生が入ったと堀田たちがシメようとしたらしいのも頷ける
(まあ、徳男たちじゃ敵うわけねえよな)
 流川に殴られた痛みを、三井は覚えている。ついこの間まで中学生だったとは思えないほど彼の拳は重く響いた。
(そういや俺、こいつにまだ謝ってねえ……かも)
 あの時の流川の反撃は、当然だ。
 遅かれ早かれ誰かが反撃してきて当たり前だった。もしもバスケ部員としてあの場に居たら、真っ先に反撃していたのは自分だっただろうと三井は思う。
(俺のせいで、傷だらけだな)
 流川の整った顔を三井は盗み見た。その作り物のような顔には、幾つか絆創膏が貼り付けてある。彼とやり合った竜という男は、綺麗なものを壊すことに躊躇などしない。最終的に流川から意識を失わせた鉄男に至っては、年中喧嘩が絶えない男だ。容赦はしなかったと思う。
(でも、いまさら謝りづれーんだよな。謝んのは苦手だし……それにこいつ、無愛想で何考えてんだかよく分かんねえタイプだから、なんかなあ)
 三井の視線に気付いた流川が、疑問符を貼りつけた顔を上げた。極端に無口な男が表情だけで問いかけてくるので、何かを云わなくてはと三井は焦って口を開いた。
「あー、えーと……あ、そう、おまえってさぁ、なんつーかこう……省エネって感じだよな」
 云ってから気づいた。傷の具合についてまず訊くべきだった。なのに、流川の態度についての評価を述べてしまった。
 このふてぶてしい一年生は、どうやらバスケット以外のことにはエネルギーを使わない傾向がある。三井は彼が誰かとはしゃいだり笑ったりしているところをまだ見たことがない。短い言葉や仕草や表情でやりとりを済ませる人間だ。他人に興味がないのかもしれない。それでも、そういった性質はバスケをやるには特に支障はないと三井は考えている。最低限のコミュニケーションが取れるのなら。
「……省エネって?」
 流川が喋った──バスケット関係以外のことを。少し嬉しくなって、三井の顔の筋肉が緩む。
「無駄がなさそうじゃん。おまえって、なんか面白いよな」
 それは三井の素直な感想だった。
 薄い唇を少しだけ開いた流川が、驚いたように三井の顔を凝視した。

 部室には、二人の他に誰も居なかった。掃除のために残っていた桜木や他の一年生たちは、一足先に帰宅している。
 放課後の時間が、三井にとっては物足りない。二年間もバスケットを離れていた飢餓状態からようやく脱したため、時間はいくらあっても足りない。決められた部の活動時間を終えて上級生が帰り、下級生たちが掃除を始めた後も、三井だけはいつまでも隅のリングを確保して、練習を続けている。
 いつまでも帰らない三年生が居ることで、下級生は気を使ってやり辛いことだろう。それを自覚していても、三井はどうしても時間通りに体育館から出ることが出来ない。
 下級生が掃除を終え、先に帰らせた後、自分の使ったリングの下は自ら掃除をするつもりでいるのだが、いつも誰かしら一年生が残っていて、掃除の手伝いをしてくれる。今日は流川がその当番だったらしい。
 一年生には、やっかいで恐ろしい先輩だと思われているのだろうと三井は考える。
 第一印象を植え付けたのが体育館でのあの出来事なのだから、それも仕方がなかった。むしろ、怖いと思われているぐらいが上級生としてはやりやすい。
 怖いものなど無さそうな流川ですら、練習中や掃除中に三井のことをまるで盗み見るようにしてちらちらと見てくる始末だ。三井は気付いていたが、何も云わなかった。多分流川はスタメンに入る男なので、三井としては一応チームメイトとは上手くやっておきたいところだ。怖がられるのはかまわないが、嫌われたらいろいろ支障が出てくるかもしれない。
「あ、そーだ。なあ、おまえ腹減らねえ? どっかでなんか飯食ってくか?」
 手伝ってくれたお礼と、言葉ならない謝罪の気持ち、そしてチームメイトとしてこれから上手くやっていくために、三井は着替えを終えた流川を誘ってみた。しかし返事はなく、電池が切れたように手の動きを止めて、彼は三井を見下ろしている。
 数センチだけ流川に身長が負けているなと、三井は関係ないことを一瞬考えた。
「……減ってねえのかよ?」
「……減ってるっす」
「だよな。奢ってやるから、食ってこーぜ」
 有無を云わせない口調で、三井はスポーツバッグを肩に掛けた。
 腹が減ったと流川が自分で口にしたからには、よほど嫌われていない限り断ってこないだろうという意識が働いた。
「行くだろ?」
 念のため、三井は確認する
「行く」
「よし」
 今度は流川が一拍も置かず迷いなく答えたので、三井は破顔した。自分の誘いが断られなかったので嬉しかった。奢ったぐらいで過去が無かったことにはならないと、知っているけれど。
「んじゃ、早く行こうぜ。腹は減ったし喉もカラカラなんだよ俺」
 三井が呟くと、流川がものすごい勢いでロッカーから自分の荷物を取り出した。その素早い動きは流川本体の電池を新しいものに入れ替えたせいだとしか思えなくて三井は少し驚いた。
 けれど流川は何故かそこでまた動きを止めると、三井を見下ろして何か云いたげな表情をした。何か喋るのかと三井は待ったが、流川は無言のままバッグを開けてペットボトルを一本取り出した。ポカリだ。
「あ、いーもの持ってんじゃん、おまえ」
 ポカリの味を知っている喉の奥が疼き、三井は口の中に浸み出した唾液を飲み込んだ。練習直後に水を大量に飲んだけれど、喉の渇きは癒えていなかった。一瞬眉根を寄せた流川が、ポカリを三井の目の高さまで持ち上げる。そして、ぐいと押しつけてきた。
「俺は、さっき自分の分飲んだんで」
「……それ、俺が飲んでいいってこと?」
 無愛想で自分よりもでかい一年生がこくりと頷くので、三井の心は躍った。
(こいつにも可愛いとこあんじゃん)
 意外だったが、三井はそう感じた。
「なんか……わりーな流川。じゃあ、貰う」
 あんなことがあって、まだ数日しか経っていない。ほとんど会話を交わしたこともなく、無愛想すぎて心も読めない流川と、こんな会話をしていることが不思議だ。けれど、もちろん悪い気分ではない。
 後輩のことを、もっと知るべきかもしれないと三井は思い直した。あれほど生意気に見えた流川だって、付き合ってみればただの一年生だ。
 解けなかったバッシュの紐が、するすると解けていくかのように爽快な気分だった。それはひどく快感に似ていた。
 バスケットにまたどっぷりと浸かれる喜びや、チームメイトとこうしてそれなりに上手くやれそうな予感。そして、安西先生に恩返しができるかもしれないという期待。自分の周りの世界がうまく転がっていく幸福感が、三井の心を満たしていた。
 脳内物質に支配されて、踊り出したいくらいに。
 自転車通学だと云う流川と駐輪場まで並んで向かいながら、だんだん可愛く思えてきた後輩の首に腕を回して、三井は耳元に顔を近づけた。
「俺、今日すげー気分イイし、おまえのこと好きになったわ。今日はもう、大盛食っても許してやる」
「……」
 三井の横顔に向けられたのは、流川の強い視線だった。あまり表情を出さない彼の瞳が、珍しく揺らめいた。
 その微妙な表情の変化も、部の仲間の誘いを流川が受けたのはこれが初めてだということも、三井が知ることはない。

おわり
★ちょこっと一言
初めてSDのSS書いたので、難しくてびっくりしました〜。普通の学生たちって難しいなー。
対の話「天然な先輩」があったのですが公開終了です。