「三井くん、ちゃんと私の目を見て話をききなさい」
机を背にして回転椅子に座り、組んだ足の上に置いたファイルをきつく握りしめながら、目の前の女教師が云った。床ばかりじっと見ているのがお気に召さなかったらしい。仕方がないので、自分だけ座っているエラそうな教師の顔に三井は形だけ目を落とす。彼を見上げて細い眉を顰めているのは生活指導の教師だ。
(ったく、なんだってんだよなー)
放課後の職員室は意外にも人影がまばらだった。
三井はこの教師が苦手だ。
この教師に呼び出され、職員室で晒し者になることには慣れているとはいえ、あまりに不条理だと三井は思う。
遊び回ってまともな学生ではなかった時のことは仕方がないので、今更文句もない。だが最近の三井は部活に復帰して、遊んでいる暇もない。確かに出席日数はギリギリだったし、そのくせ気が乗らなければ授業をサボることもある。けれど、すぐにキレて誰彼かまわず喧嘩を吹っ掛けていた頃の生活態度に比べれば、むしろ褒められてもいいくらい大人しい、草食動物のような生活していると三井は自負していた。
今の自分に、生活指導にちょくちょく呼び出される覚えなどない。
部活動でクタクタになって暴れる気力まで残っていない、というのが実際のところ正しいのだが。
「インターハイ、出るのね。あなたがバスケそんなに上手かったなんて先生知らなかったな。部活を始めてから、確かにちゃんと規則正しく生活して学校にくるようになったみたいね。そこは先生たちみんな、あなたを認めてるの」
この教師の回りくどいところが、三井の好みではなかった。不満があるから呼び出したに決まっているのだ。要点だけを云えばいい──三井は早く部活に行きたかった。
この苦痛な時間を早く終わらせるため、三井が今出来る唯一のこと──すなわち、真面目に聞いていますという大袈裟なまでに殊勝ぶった顔──を頑張って作っていると、向かいの机の島に見慣れた姿が現れて三井は目を見張った。
一年生の担当教師たちの机が並んだ島の向こう側を、三井より三センチほど大きな背の男がひょこひょこと泳ぐ。腕に大量のノートの束を抱えて、島の机をひとつひとつ何やら確認しているのは流川だった。
(あーもー、サイアク)
よりによって部の後輩の前でこの状況は笑えない。
教師を挟んで、三井と流川との距離はおよそ三メートル。こちらが気付いたのに向こうだけが気付かないわけもなく、流川とばっちり目が合って、三井は天を仰いだ。
一年生の担当教師は皆出払っていて、島の机は無人だ。目の前の教師は、やたら大きな一年生が背後の島をうろうろ彷徨っていることに気付いていない。彼女の、目の前にあるものしか見えない性質を表しているかのようだ。
「あなた進学したいんだって?」
「あー……まあ……」
どうも担任から漏れたらしく、三井の進学希望は他の教師も知っていて、すでに何人かの教師から激励の声をかけられていた。一年二年と素行が悪かったので、色々な教師に迷惑をかけてきたせいか、皆意外にも三井の先行きを心配してくれている。それは素直に有難かった。
しかし、この女教師だけは三井にとって鬼門だ。一見すると親身にも見えるが、三井は彼女にだけはまるで尊敬の念が湧かない。
「推薦とるつもり、なんだってねえ……。三井くん、バスケットでインターハイに出られる程度のことはそんなに万能じゃないからね。決勝ぐらいまで行けるレベルなら、話は別だけど。あなたの場合、色々ハンデもあるし」
(こいつは、こーいうヤツだよな、やっぱり)
部外者の云い様に腹を立てても仕方が無いし、過去の行いの悪さが招いた自業自得と、そうも思う。彼女の云うことが大きく間違っているわけでもない。
けれど、この教師は知らないのだ。インターハイに出るために自分も含めたチームメイト達がどれほど力を尽くしたか。それがどれだけ大変なことだったか、この教師にはどうせ何一つ理解出来ないと三井は思う。深い関わりを持たない教師に、その程度呼ばわりされる謂われはない。
確かに、昔から三井はこの教師を完全にバカにしていたから、授業中に大騒ぎをして泣かせたこともあった。
だから、目の敵にされても仕方はないけれど。
励ませとは云わないが、それでもやっぱり、大人げないのではないかと三井は思うのだ。
(こーいうヤツと話してると、キレそうになんだよな。早く終わってくれよ)
せっかく作った神妙な顔が少しずつ崩れていくのが自分でも分かったが、三井には止められなかった。
「ところであなた、最近また堀田とつるんでるの?」
三井の顔に僅かに残っていた偽物の表情が、今度こそ完全に消えた。本題にようやく入ったのだと悟った。
「この間見たの、堀田とあなたが廊下で話しているところ。ずいぶん楽しそうだったわね。あなたがバスケ部に戻る時に、堀田たちに引き留められて大騒動になったのに、どうして? あなたも殴られてボロボロだったでしょう? 他の部員たちだって、ケガさせられたでしょう?」
ケガをしたバスケ部員と聞いて、三井は流川に視線をやる。やられた以上にやり返していたのが流川だ。彼はいまだにノートを抱えて手近な机をひとつひとつ物色していた。ノートを提出すべき担当教師の机がわからないのかもしれない。
「まさか、また昔のグループに戻るつもり? 結局みんなそうやって、楽な方へ流されて行くのよね。そういう子、いっぱいいるの。もし本当にあなたが大学に行くつもりでいるのなら、堀田みたいな連中とつるむのはもうやめなさい」
(何云ってんだろう、こいつは)
きつく拳を握りしめて、三井は教師を見下ろす。
(俺がバスケ部に戻れたのは、堀田たちが代わりに全部かぶったからだよ)
三井がバスケ部に戻ることが出来たのは、彼らが居たからだ。当の堀田は、捏造した騒動との辻褄が合わなくなるからと、校内では三井を避けている。この間はたまたま少し話すことが出来たけれど、三井から堀田の元へ行っても、昔のように接してはくれない。
その代わり試合には、ちょくちょく顔を見せるのだが。
(スポーツの試合なんかを見に行くようなヤツじゃなかったんだ、あいつは)
この教師はそんなことは何も知らない。作られたストーリーをみんな信じているのだからそれは仕方が無い。
それでも、部外者に堀田のことを貶められたくない。
(なにも分かってねえクセに、俺に関わろうとすんな)
三井の怒りだって、どうせこの教師には届かない。
「ああいう連中といつまでも繋がっていると、損するわよあなた」
的外れで卑しい言葉に、頭の芯がすっと冷えた。静かに、頭の中が沸騰し始める。
損をしたのは、自分じゃない。この、激しく間違えている教師の罪を糺したいと思った。間違いを思い知らせてやりたかった。
そうして、三井が勢いに任せて口を開こうとした、その刹那──。
その憎たらしい顔をした教師の頭の上に、怒涛の勢いでノートの束が降ってきた。
(あ)
「痛っ──ちょっ、なにっ!? なんなの!? ちょっと!」
音も立てず、いつの間にか三井と教師の近くに立っていたのは、職員室徘徊男の流川楓だった。
「──スイマセン、手が滑った」
表情を変えずに流川が云い放つ。
「なっ、危ないじゃないの!」
椅子を鳴らして立ち上がった教師は、一年生相手に怒り狂っている。その姿を見て、三井の怒りは彼女に吸い取られたかのようにかき消えていった。
立ち上がった拍子に教師の膝から落ちたノートを、三井は一冊拾い上げた。
それは、見るからに真新しい、知らない誰かの英語のノートだった。
有耶無耶のまま解放された三井は、職員室で絞られている流川を廊下で待った。出てきた彼の腕を掴まえて、有無を云わさず昇降口の隅まで引っ張る。
「おまえ、俺を助けたんだよな?」
「いや。手が滑っただけ」
流川の腕を解放し、向き合って三井は黙り込む。無表情の彼に即答されると、それ以上突っ込み辛いのだ。
だが流川の言葉を真に受けはしない。彼は三井たちの話を聞いていたのだろう。三井よりも先に流川が動いた意味を、もちろん三井は理解している。三井があの教師に暴言でも吐いていたら、問題はもっと大きくなっていたはずだ。
「──それよりも、先輩」
内心で三井が流川に感謝していると、強い意思を感じさせる瞳で流川が見下ろしてきた。
「さっきのあいつに暗い所に呼び出されたら、行かない方がいいっす」
「……は?」
「きっと、襲われるから」
しばらく意味を考えて、三井は呆れた。
「何云ってんだ、おまえは」
「あれはきっと、Sの人。先輩に説教して楽しんでる」
「やめろ、気持ちわりーな!」
「呼ばれたら断ること」
「何様だっ」
本気なのだか冗談なのだか分からない流川の妄想に、三井は脱力した。
職員室のつまらない時間を、流川があっさりといつもの日常に戻した。
これは、誰かの犠牲の上に手に入れた日常だ。バスケットの練習をして、汗を流して、くだらないことを云いながらふざけ合う。そして試合に勝ったり負けたりして、泥のように眠る。そんな日々。
それだけを手に入れるために尽くされたのは、沢山の他人の手だ。
「くそー、なんか気持ちわりぃし、スゲー腹立ってきた、俺」
逆境にこそ燃える。それが、自分の持ち味だと三井は思い出す。
「もう、こーなったらインハイでぜってー優勝して、推薦もとって、無理だと思ってるヤツら全員黙らせてやっからな! 早く体育館行って、練習すんぞ流川!」
「ウス」
当然、といった顔で流川が大きく頷いた。
自分に出来ることはなんだろうかと、三井は考える。
(インターハイでもウィンターカップでも、なんでもいい。県内レベルじゃないとこへ、俺が連れてってやる。徳男も連れてく。安西先生もみんなも全員で、全国に行きてえ)
もう二年前とは違う。一人では手も足も出ない時に、差し伸べられた手を握れるようになった。その手を掴んでも、騙されて引っ張られたり手を放されたりしないと知ったからだ。
その手を引いて、今度は自分が連れていきたい。
どこまでも。 おわり