クリームソーダ
緑色にきらめくクリームソーダは、底の見えない海だった。
晴天の日曜日。昼を挟んで午後までたっぷりと部活をした後に六人が求めたオアシスは、冷房の効いたファミレスだった。
「では、ご注文のほう繰り返させていだたきまぁす。ミックスサンドが二つ、山盛りポテトフライが一つ、熟成ソーセージのピザLサイズが一つ、アイスコーヒーが三つ、コーラが一つ、アイスカフェオレが一つ、クリームソーダが一つ、以上でよろしかったでしょうかぁ?」
「はい、お願いします」
応対したのは赤木だ。愛想よく会釈した店員は厨房へ踵を返した。 学校からほど近いファミレスの店内はティータイムに入っていた。休日にも拘らず、客の影は疎らだった。奥まった場所にある四人掛けのテーブル席二つを六人で占領しているのは、湘北高校バスケット部主要メンバーだ。県予選会真っ最中で勝利を重ねている彼らは、直近の試合に備えた軽いミーティングをするつもりでいた。少なくとも、この面子の中でキャプテンの赤木はそのつもりだっただろう。しかし、何事も段取り通りと都合良くはいかない。なにしろこのメンバーは、自由奔放な問題児ばかりなのだ。
「ルカワてめー、足がジャマだ! ソッチにもっと引っ込めやがれ!」
「なんでコッチが」
「大体てめーごときが、天才の真ん前に暗ーい顔して座るな!」
「好きで座ったわけじゃねー。コッチ見んな」
「このカンチガイ狐が! 見たくて見てるんじゃねーぞ目の前にいるのはてめーだろう!」
「そんなのコッチのせーじゃねー」
部室や体育館でのやり取りならばもう誰も見向きもしなかったが、公共の場でこのいつものテンションは居た堪れないものがある。湘北バスケ部の良心と呼ばれている木暮は口を出すタイミングを計っていたが、赤木が真っ先に彼らを止めた。
「やめんかっ、鬱陶しい! ここをどこだと思っている!」
「ちょっ──赤木、おまえの声もデカイぞぉ……」
喧嘩をする二人に引けを取らない大声を出す赤木に、木暮の顔が引き攣った。
「静かにしろって花道。ここが出禁になったらどーすんだ」
「ヒイキだ! なんで俺だけ注意するんだリョーちん!」
心底ショックを受けたような顔で桜木が喚いた。
「まとめてうるせーよおまえら。ガキか」
「ミッチーには云われたくねえぞ!」
「んだとう? どういう意味だコラ」
「あっ、ほら飲み物が来たぞ? 声のトーンはもう少し考えよう……全員だ」
良いタイミングで、さっきとは別の店員が飲み物を運んで来た。アイスコーヒーは赤木と桜木と流川の注文だ。コーラは宮城の元に渡り、カフェオレは木暮の前へ。最後に残ったクリームソーダが三井の前に運ばれて彼が笑顔を見せた時、テーブルに着いた三井以外の全員が三井に注目して、そしてようやく黙り込んだ。
(似合わねー)
対角線上の一番離れた席から三井を見て、流川は思った。
しゅわしゅわと泡を立てる深碧の液体を前にしてひどくご満悦な上級生の姿はなんとなく微笑ましくはあったけれど、やはり彼の普段の言動や初対面のイメージが強烈なせいか、違和感が拭えない。
(やっぱこの人、よくわかんねー)
最近、流川は三井のことが気になっていた。彼がバスケ部に復帰してから、まだ日が浅い。部員たちと打ち解けるまで時間がかかるかと誰もが思ったが、思いの外、彼の順応性は高かった。今では、まるで以前から在籍していたかのような存在感を放っているし、バスケットの実力も流川の想像以上だった。得点力がやや足りないかと思われた湘北バスケ部にとって、全国大会に出場するための強力な武器を三井が持っていることは本当に頼もしい。しかも、彼の武器は外からのシュートだけではない。自分の役割をしっかりとこなしながら、チームや試合の流れにも気を配り、判断も指示も早くて的確だ。中学時代、彼がキャプテンを務めていたことが影響しているのかもしれない。
(まあ、わかんねーけど頼れるのは確か)
三井の実力は信じてもいいものだ。予選で試合を重ねてきて、その思いは更に流川の中で強くなっている。
高校バスケともなるとみんな自分の役割を極めた者ばかりだが、三井の器用さやバランス感覚はキャプテンの赤木よりも上なのではないかと流川は思っている。これは、テクニックだけの問題ではない。
中学時代は流川もキャプテンを務め、その場その場でどんな役割もこなしながら、それほど強くないチームを引っ張っていた。
(先輩にも、そーいうところがある……だからか?)
だから、彼の存在がこんなにも気にかかるのか。自分と同じ匂いを感じるから—流川はそう考えて、自分を納得させる。
いずれにしろ、三井寿は湘北バスケ部に必要な人間だったし、彼のことを頼もしいと流川が個人的に感じているのは紛れもない事実だった。
けれど今、クリームソーダを前にしている三井の姿は、流川の知っているどの三井とも少し違う気がした。
「そういえば、おまえがクリームソーダ頼んだのか。似合わんもの飲むな」
三井の前に座っている赤木が正面切って云い放ったので、流川は少し驚いた。木暮の話から察するに昔から二人の仲は友好的とは云い難いらしい。多分、自分と桜木のような関係なのだろう。怒らせても別にかまわないという気持ちでいると、場所を選んだり加減したり出来ず、思ったことをそのまま口にしてしまう。
「うっせーな、似合うとか似合わないとかあんのかよ。差別すんじゃねえ」
「どう考えても似合わん。クリームソーダがこんなに似合わない男もいないだろうな」
「おまえにだけは云われたくねえぜ」
三井はさっきの桜木とほとんど同じ台詞を吐いた。
「俺はそんな子供っぽいものは頼まん」
「赤木、おまえ頭使ってねーんじゃねーか? 俺は頭も使ってバスケやってっから、練習の後は甘いもんが必要なんだよ」
「頭なんぞ使っとらんだろーが。いつ使った? ん? まったく気がつかなかったな」
「そりゃあ筋肉バカのおまえにはわかんねえだろ?」
「ストップストップ! なにやってるんだもう……赤木も三井も、そんなんじゃ桜木と流川のことを怒れないだろ」
木暮が口を挟んだので、二人は黙り込んだ。
流川が思うに、多分二人とも内心は誰かにそろそろ止めて貰いたいと思っていたのではないか。
「もーいいよ。チェンジな」
グラスの中のスプーンを上下させながら、三井がぽつりと云った。
一瞬、その場の誰もが言葉の意図を掴みかねた。
「—なんだって?」
赤木が訊き返す。
「おまえと流川、場所替われ。流川、俺の前来いよ」
突然名指しされたので、流川は目を見張った。
「なにを勝手云っとるんだ、今更」
「あっちの二人だって向かい合ってっと喧嘩になるだろーが。こっちも同じだし。あんまウルセェと追い出されんぞ。だから席替え」
「あっ、それはいいかもなぁ。別に席なんて決まっているわけじゃないし……なあ?」
何事も平穏であることを優先する木暮が、その場を収めようとして三井に同意した。チェンジという言葉の意味が解けてあからさまに不満げな顔をした赤木も、渋々といった態度で立ち上がる。あまり店で騒ぐと、学校に報告されて生徒が出禁になったりする可能性がある。
「仕方ない、流川、俺と場所を替われ」
「……うす」
流川にとっては願ってもないことだった。誰が決めたわけでもないが、自然と一年生同士で向かい合うように座らされて、すぐに絡んでくる桜木に辟易していた。向かい合って一分も持たず、云い争いになった。
流川が席を立つと何故か桜木が不満そうな顔をしたが、しかし赤木が前に座ったため、さすがの桜木も大人しくなった。
「疲れた後は甘いものが必要なんだよ……脳が欲しくなんだろ?」
向かいに座ると、小さな声で三井が呟いた。その言葉は流川に向けられているらしい。アイスクリームをスプーンで突つきながら返事を待つように上目遣いでこちらを見る表情が何故か若干寂しげに見えたので、流川は少し動揺したが、一応返事をすることにした。
「俺は……ねーかも」
頭を使った後も、疲れた後も、特に甘い物を欲しいと思ったことがない。事実なので、そう答えた。
「マジかあ、おまえ。頭ん中に甘いのが、じわじわ広がんの気持ちいーぜ」
三井があんまりうっとりとグラスの液体を眺めているので、流川は可笑しくなった。
「そもそも、クリームソーダ飲んだことないっす」
「……ウソだろ?」
流川の告白に三井が驚いた声を出したところでミックスサンドとポテトが運ばれてきた。それを機に赤木が主体となってミーティングが始まったが、流川の前で三井は再び熱心にクリームソーダに見入っていた。赤木の話などまるで聞いていない様子で、やたらアイスを沈めていたと思ったら、浮かんできたそれを掬って少し舐める。そして今度はストローを咥えて、嬉しそうにソーダを飲む。クリームソーダを飲むということは意外と忙しくやることが多いのだ、と流川は知った。
ミーティングのテーマは決勝リーグの対戦校の予想に移ったが、チームメイトたちの声は流川の耳を右から左に通過するばかりだ。ストローを咥えた三井の口元や、グラスへ向けられた伏し目勝ちな目から視線が外せなくて、流川はミーティングに集中出来なかった。
(その甘ったるそーなヤツ、そんなに好きなのか)
三井が執着するモノに、流川は興味が湧いた。
もしかすると三井は他の部員達より疲れているのかもしれないと、ふと思った。二年のブランクがある彼に、今の練習は相当キツイはずだ。この季節、体育館は蒸し風呂状態だし、目標を全国出場と定めた湘北バスケ部の練習はかなり厳しいものになってきた。その疲れから甘い物を欲し、更にその疲れが彼のちょっとした表情を時折切なく見せるのではないか、と流川は分析した。
そして、そういう流川自身も少し疲れているのかもしれないなと自己分析した。三井の飲んでいる緑色の液体が、とても美味しそうに見えてきたからだ。
「先輩、ソレそんなにうまいんすか」
赤木たちが今後の練習方法について語っているのを邪魔しないように、流川は大きな体躯を屈めると、向かいの三井に顔を近付けて小声で尋ねた。
「飲みてえの? 流川」
「……まー、少し」
誘うように問われて流川は軽く頷いたが、即答するのを躊躇した。糖分を補給して落ち着いたらしい三井の声が、どこか耳に優しく、甘く響いたせいだ。甘い声に対して必要以上に躊躇ってしまったのは何故なのか、それは流川自身にもよく分からない。
ただ、その声で呼ばれた自分の名前が、心地良く頭の中に響いたことだけは確かだった。
「……ひとくちやろっか」
三井がテーブルに身を乗り出して顔を寄せてきたので、流川は逆に、少し身を引いた。目の前に差し出されたグラスを凝視する。アイスとだいぶ混ざり合い、淡い緑色に近づいた甘い飲み物。
「アイス、あんま掻き混ぜすぎんなよ。コイツすぐ溶けっから」
飲みかけのグラスから伸びたストローを、流川は誘われるように指で摘まむ。そしてひとくち飲むと、期待通りに炭酸が甘く喉で弾けた。
「うまいだろ? 脳にきた?」
テーブルに肘を乗せ、頬を支えて返事を期待している三井に、流川はただ頷いた。小声でも三井の声は流川の頭の中に心地好く染み入るのに、同じテーブルで話しているはずの他の部員たちの存在はどんどん遠ざかる。まるで二人しかこの場に居ないみたいに、流川の意識は、正面にいる上級生にしか関心がない。
(そーいう顔を、簡単にコッチ向けんな)
即効性の甘い刺激が、流川の心に作用する。
練習で疲れた頭と身体では、この甘い誘惑には確かに抗い難い。
グラスの向こうの無防備な存在を、流川は愛おしいと思った。
「六名様ご案内しまーす」
通い慣れたファミレスの、一番奥のいつもの席。
湘北高校バスケ部一行は、口喧嘩の絶えない者同士の席は離すべきという基本的なテクニックを最近身に付けた。だから、流川の前には三井が、前回と同じように座っている。
「またおまえコーヒーかよ? 俺のソーダひとくちやるからさ、コーヒーひとくちくれ」
流川の注文は、またしてもアイスコーヒーだ。グラスを眺めて、三井が云う。
「あーっミッチーまでヒイキなのか!? 俺だって疲れているのに、なんだってそーやってキツネばかりを甘やかすんだ! ますます調子に乗って手がつけられなくなるぞソイツは!」
「ああ? 贔屓なんかしてねえよ。流川は俺の前にいるからだろ。大体おまえはオレンジジュース頼んでんじゃねーか。それで糖分足りんだろ」
「だから、それは、ミッチーがこのあいだ云っていたのを聞いてだな、俺だってトーブンを摂るべきかと! ミッチーと同じように、真似をして」
「だから、そのオレンジジュース飲めばいーだろ?」
「ぐう……そうなんだがそういうことではなくてだな」
「糖分が必要なほどそいつが頭使ってるわけがねー」
流川は口を挟んだ。
「てめーわ黙ってろッ! キツネの分際で長い日本語をボソボソ発するな!」
「おいおい、そんなに離れていてまで喧嘩するなよ……とりあえず、店の中で喧嘩をするのだけはやめてくれ。流川もほら、三井に早くソーダを貰って……」
「血の気だけは無駄に多いんだよなぁ一年って」
「いやだから、甘い物とりゃー少しは落ち着くんだよこいつらも。頭使って疲れてっときは、ホントコレ」
「もう分かったから、三井も混ぜ返すなよ」
「まったく、ここにいる全員頭なんて使っとらんだろーが」
「ジツはきょー特に疲れてて……糖分たっぷり欲しいす」
真摯に三井を見つめながら、流川は云った。
「しょうがねえな、じゃあ半分こな。甘いの頼めば良かったのによ」
三井が、まず自分でソーダをひとくち飲んだ。物欲しそうな顔の桜木を横目に見て、流川は優越に浸った。
(どあほうは、やっぱりバカ)
最近、流川は気がついたことがある。どうやら桜木花道は、バスケット以外のことでも流川に対抗意識を燃やしているらしいのだ。
(負け犬……)
流川が今日もアイスコーヒーを頼んだことには、もちろん意味がある。流川にはこの展開が正しく予想出来ていた。
「おまえも糖分の重要性が解ったみてーじゃん?」
満足げに云った三井が唇を離したばかりのストローを摘まんで、流川は口を付ける。上目で見ると、糖分補給を少し終えて上機嫌な上級生は流川のアイスコーヒーを引き寄せて勝手に飲み始めた。
今日もまた、甘く弾けたソーダの味が流川の脳を痺れさせる。これがないと生きていけない、そう思わせる何かがあった。この緑の闇は思いのほか深くて、この先もずっとこのひとくちを止められそうにない気がする。
(もう絶対、コーヒー以外頼まねー。あと、このポジションを死守)
緑の海に、自分は溺れかけている。
もういっそ足掻かずに、流れに身を任せてしまうのもいいかもしれない。
流川はいつかの三井の真似をして、アイスをスプーンで沈めた。
おわり