早朝エール

 夕べは友達との電話が盛り上がり、夜更かしをしたから、起きるのに気合が必要だった。
 おまけに、今日はいつも以上に朝が早い。それでも、学校に家が近いからまだよかった。これで電車通学だったなら、暗い内から家を出なければならないだろう。
 彩子が今日、朝練の時間より三十分早く着くよう家を出てきたのは、やり残した雑用があったからだ。昨日の部活中に部室やボールの汚れが気になり始め、部員の相手を晴子に任せて掃除を始めたのだが、データのまとめなど余計なことにまで手を付けて、結局最後まで終わらずに帰宅しなければならなかった。キリの良いところまでは終わらせてあるので、朝練の前に残りを片付けてしまおうと彼女は考えていた。近い内に他校を迎えての練習試合も控えているので、出来るだけ粗が目立たないようにしておきたい。
 朝練に出てくる連中のためにまずは先に体育館を開けておこうかと思い、職員室に体育館の鍵を取りに行ったら空振りだった。ある筈の鍵はどこにも見当たらない。前日の放課後に体育館を使用したのはバスケ部で、まさか昨日最後に使った人間が失くしたのかと一瞬焦ったものの、体育館まで行って扉に手をかけたら開いていた。中からはボールが跳ねる音が聞こえてきたから、先を越されただけだと悟った彩子は安心して重い扉を開けた。
「よっ! ずいぶん早いじゃない?」
 彩子の想像通り、中に居たのは流川だった。ボールを構えていた手を止めた流川が、突然の彩子の登場に驚いたのか珍しく目を丸くして彼女を見た。学校に家が一番近いのは彩子で、次が流川だ。こんなに早くから練習を始める部員は、家が近くてバスケ馬鹿の流川ぐらいしか思い当たらなかった。
「……ども」
「おはよう! どーもじゃないわよ、なんなのその挨拶ぅ。覇気がないのよねえ」
 靴を脱いで靴下のまま体育館に上がり、彩子は流川に近づいた。フローリングの床は靴下越しに少し冷たい。彩子は身震いしそうになったが、根性でそれを押し留める。
「先輩が朝から元気すぎ」
 いつもの練習着姿の流川はさっきまでの驚きを顔から消して、そっけなく云った。若干眠そうだ。
「それが私の取り柄なのよ! アンタねえ、こんな早くに来るほど学校好きになったの?」
「チガウ。そっちこそ、早いすね。なんで?」
「私は雑用があるのよ」
「何やんの」
「色々よ」
 適当な構えでボールを弄っていた流川は納得出来ないという顔をした。が、すぐにいつもの無表情に戻った。どうせ流川はマネージャーのやる事に興味などないだろう。練習をすぐに再開すると踏んだが、まだ彼はこちらを見ている。
「ここでやんの?」
「え?」
「雑用ってやつ」
 流川の声に付随する感情を彩子は読んだ。何故かは知らないが、彼はどこか不服そうだ。元々いつも愛想がない流川の事なので非常に分かりにくいけれど、普段のそれとは少し違う微かな声の変化を感じた。彩子にとって、その違いの判断はそれほど苦ではない。
「ここでは今はやんないわよ。とりあえず体育館開けようと思って来ただけ。部室に行くから」
「そーすか」
 一転して、流川の声の調子が和らいだ。今、彼は何かに安堵した。多分、本人は気づかないくらいの些細な変化ではあったものの。
 もしかして、ここに自分が居座ると練習の邪魔だということなのか。相変わらず我儘な奴よねと思う一方で、流川ならばたとえ誰が体育館に居ようとも、気にすることなく自分の世界に入り込める筈だろうにと彩子は疑問に思う。流川の気が散るほどの邪魔が出来るのは桜木花道くらいだろう。
 しかし、そういうことならもはや関心はないと云わんばかりに流川は彩子から視線を外し、手持無沙汰に弄っていたボールをバウンドさせてリングを狙う構えをとった。膝を使ってふわりと飛び、ジャンプシュートを放つ。
 目の前で軽やかに飛んだ後輩の姿に彩子は目を奪われて、今考えた事を一時的に忘れた。
 ──こんなに大きな身体に育ったっていうのに、なんでこうも柔らかく飛ぶのよこの子は。
 彩子も流川も同じクラブチームでミニバスをやっていたので、彼のことは小学生の頃から知っている。
 あっさりとゴールネットを揺らしたボールを拾って、流川は足を止めず再びシュートを打つ。彩子は自分でバスケをやるより人のプレイを見ている方が好きだが、こんな風に飛べたら気持ちが良いだろうなと、羨望の思いで眺める。
 やらなければならない用を忘れて、ついつい足を止めたまま流川が何本かのシュートを打つところを眺めていたら、体育館の扉が勢いよく開いたので、彩子は一瞬飛び上がりそうなほど驚いて振り返った。
「ワリィ!」
 入り口に立っていたのは、三年生で唯一引退をしていない三井だった。
「あら、三井先輩!」
「あれっ、彩子じゃん。外のあの靴おまえのか。ずいぶん早いな。うーす」
「ちわーす! 先輩こそ、だいぶ早いじゃないですかあ、まだ五時半すぎたばかりなのに」
「そんでも遅刻だ! おまえこそなんで居るんだよ」
「なんでと云われても。雑用です」
「雑用? 大変だなおまえも」
「好きでやってるんで。それより先輩、遅刻って?」
「……先輩」
「ああ、遅れてワリィな流川、一本電車乗りそこなったわ。すぐ着替えてくっから。あとでなっ」
 途中で流川が会話に割り込んで、三井はそちらに向けて笑いかけた後、返事も待たずにすぐに扉を閉めて消えてしまった。朝から忙しない人だ。
 三井の言葉に流川がこくりと頷いたのを、彩子は見逃さなかった。さっき、違和感を覚えた流川の態度を思い返す。なんだそういうことだったのかと、彩子は少ない事象から最短で結論に辿り着いてしまった。彼女の胸に残されていた小さな疑問はいきなり解消した。
 この答えが正解なのかどうか、彩子は流川の様子を見て決めることにした。
「フーン、そっかそっかあ。なるほどねえ」
 にっこりと笑って彼女は云った。流川は彼女を一瞥したが、何も云わずすぐに目を逸らしてリングの方を向いてしまった。
 彩子は胸の前で腕を組み、流川の後ろに立つ。腕を組んだら、自然と背筋が伸びた。勝ち誇ったように胸を張って、彼女は全力で何かを拒んでいる無言の背中に言葉を投げた。
「三井先輩と、自主練習の約束してたのね?」
 朝練の一時間近く前に二人は待ち合わせていたのだ。三井の言葉から、それは明白だ。彩子はあえてそれを口にして、流川の反応を待つ。
「……そーだけど?」
 それの何が問題なのかと云いたげな口調で、流川がそっけなく答えた。ハリネズミが針を尖らせるように近寄りがたさを全身から醸し出し始めた後輩の様子に、彩子はついつい楽しくなってきてにんまりと微笑んだ。バスケ以外での流川の守備力なんて大したことはない。少なくとも、彩子にはまったく通用しない。可愛いなこいつは、と抱き締めてやりたい気分だ。
「ねえねえ、どっちから誘ったのよう」
「なんでそんなこと知りてーの」
「興味があるのよ」
「……忘れた」
 嘘つきねえ。彩子は心中で呟いた。これでは答えを聞いたも同然だ。
 流川が自分の方から誰かを練習に誘うだなんて、今までだったら有り得ない事態だ。少なくとも彩子の知ってる彼はそんなことをしなかったから、この事実の衝撃度は計り知れない。
 そして、なにより一番重要な事実は、どうやら流川が彩子を邪魔に思ったということだ。三井と二人きりで体育館にいたいと望んだのだとしたら、これは問題だ。後輩として先輩を慕っているだけだとは、とてもじゃないけれど思えない。
 流川は振り返らず、床に足を着けたままその場でミドルシュートを打ったが、それはあえなくリングから外れた。彩子は分かりやすく精彩を欠いている流川を見て感慨を覚え、ぽつりと漏らした。
「まさかアンタがねえ」
「なに……?」
 一向にこちらを向かない後輩に、彩子はしみじみと云った。
「流川もよーやく青春するようになったかあってことよ」
「意味わかんねーけど」
「わかってるクセに」
 ボールを拾い、一瞬彩子をちらりと振り返った流川の顔は彼女が想像していたような仏頂面ではなく、なんだかいつもよりも幼くて心許ない面持ちだった。
「やだ、アンタでもそんな顔になるのね。もしかして恋愛相談とかあるんなら、聞くわよ?」
「ホントに意味わかんねえ」
「あーはいはい」
「……先輩、ババくせえ」
「誰に云ってんの?」
 一瞬本気で苛立ったので、彩子はついつい尖った声を出した。
 もともと彩子は桜木花道の健気さを買っていて、彼こそ晴子に相応しい相手だと感じていた。
 晴子では、流川の相手は無理だ。彼の自分本位な態度に翻弄されず立ち向かえる程、彼女は強くない。きっと泣かされる。
 不屈の精神でも持っていなければ、流川の相手なんて務まらない。
 ──あら、三井先輩てば適任じゃないの。
 不屈の精神なら持っている。そして、彼は賑やかなタイプだから、極端に無口な流川とは丁度良いのでは。性格的にも、流川と対等以上に渡り合える。そしてなにより、三井もバスケ馬鹿の一人だ。
 もしも、流川の気持ちが彩子の想像通りだったなら、三井は流川の相手としてかなり良い線いっている。
 性別以外は完璧なのだ。惜しい。彩子は残念な気持ちになって、静かな溜め息を吐いた。
「そーなのよねえ。アンタってば、昔から難しいことにばっかり挑戦するのよね」
「今度はなんの話すか?」
 流川がまだ小さくて、もう少し愛想があった頃からの付き合いだ。上級生の他の子達でさえまだやっていない難しい技ばかりやろうとしては失敗していた流川を、彩子は覚えている。
 最初は上手く出来なくて、流川は悔しさを隠さなかった。かといって諦めて投げ出すわけでもなく、ただ淡々と出来るようになるまで練習していた。中学の頃も、部活中は滅多にチャレンジ出来ないダンクの練習をするために近所の公園や体育館に遅くまで残っているのを見た事がある。流川は努力をする天才だと、彩子は思っている。
 そうして、最後にはいつも必ず成し遂げるのだから嫌味な奴だ。それだからこそ、流川は流川なのだけれど。
「頑張れよ、流川」
「だからなにを」
 三井の流川に対する態度を見る限り、彼らの関係はまだただの先輩と後輩でしかないと彩子は分析した。あれだけ女にもてる癖に見向きもせずわざわざ難度の高い恋をしてしまう流川を彼女は不憫に思った。こっそりと応援してやりたいくらいに。ただ、三井が流川のことを嫌っていないのは彩子の目にも明らかだけれど、普通に考えれば流川と三井の気持ちは種類が違う可能性が高い。
 それでも、流川が手をこまねいてただ三井を見ているだけなんてことはあり得ないだろう。彩子の知っている流川は、そうじゃない。
「一回きりの高校生活なんだから、ちゃんと青春まっとうすんだぞ? あんたには、後悔なんていっちばん合わないんだからね」
 相手あってのことだから上手くいくとは限らないし、三井はそう遠くないうちに卒業してしまうけれど、そういう経験だって悪くないと彩子は思う。
 青春は甘いだけより甘酸っぱい方がそれらしいし。
 珍しく複雑な顔をした流川が何か云いたげに彩子を見たが、結局何も云わなかった。
「さー、お邪魔虫は消えようっと。私、部室行くから。あ、今行ったら、三井先輩まだ着替えてるかなあ〜」
 語尾を伸ばして彩子は流川に聞かせるように呟いたが、流川は彼女を相手にしないと決めたらしくスルーされた。

おわり
★ちょこっと一言
続きになるお話があります。