Special Feeling

『七夕だからどんだけラブホが埋まってるか見に行こーぜ』というワケワカンナイ誘いについ乗ってしまったのは、三日前にアヤちゃんに振られたばかりだったからだ。
 つまり、なんの予定もなくてヒマだった。
 それと、云った人間が布製粘着テープ並みに執念深く、尚且つ上級生の威光を振りかざして権力を欲しいままにしていたからだ。

 休日だと云うのに、朝から男ばっかりで汗だくで部活をした。
 バレー部と入れ代わりで体育館を出て、部室でだらだらと無駄話をしながら着替えを終えると、すでに他のみんなは帰った後だった。昼メシ時なのでどこかで何か食べて帰らないかと誘った俺に、暑さでどうかしていたのか三井サンは云った。
「おまえ知ってる? 今日、七夕だって。駅前の商店街に飾りがあったろ」
「知ってますよ、そんなの」
「てめーエラそうに。七夕の内容まで知ってんのか?」
「織姫と彦星でしょ。知ってるって」
「七夕って、メシ屋混んでねえ?」
「混まないでしょ、七夕ぐらいで」
 混んでいるとしたら、今がランチタイムだからだ。
「そっか、じゃあ寄ってくか。今日混むとしたら……ラブホぐらいか?」
「ちょ──三井サン、なんでそこでラブホが出てくるワケ?」
「混むだろ、それは。七夕だから」
「カンケーなくない!?」
「あるだろ。やっぱ、ガキだなあ、おまえは」
 いきなり暴言を吐いて、三井サンは意味深な笑みを浮かべた。
 この人の暴言には慣れてるけど、高い所から俺を見下ろして、チビだのガキだのと云われることだけはやっぱり腹が立つ。一コしか学年違わないクセに。
「納得できないっすよ。七夕って、バレンタインとかクリスマスほどのインパクトないっしょ」
「インパクト? うーん、まあそりゃ、そんなのと比べたらそーだろうけどな」
 三井サンは考え事をするように上目で天井を見上げた。俺は勝ったと思った。心の中で、ガッツポーズ。三井サンを云い負かした。
「じゃあ混まないよ、絶対」
 一年に一度だけデートが出来るっていう七夕のストーリーは、確かになんかロマンティックだけど。
 だからって、カップルがみんな盛るのか。
「云い切んのかよ? なら、どんだけ部屋埋まってるか見に行こーぜ」
「はあ?」
「満室だったら、おまえの負けだ。なんか奢れよ」
 えええ、どんな展開よ?
 やると云い出したら聞かない人が、また変なことを思いついた。
「んじゃ行こーぜ」
「えー、ちょっと! マジなの三井サン!」
 自己中のこの人が動き出したら、もう安西先生ぐらいにしか止められない。バッグを掴み、長い脚でさっさと部室を出る三井サンに、仕方なく俺は従った。

 学校から駅までの道を途中で外れ、普段使わない住宅街を通った。
 だんだんひと気のなくなっていく道を、しかもこの蒸し暑い中を、空腹の俺と三井サンは並んで歩く。
 正直この賭けがあまりにも馬鹿馬鹿しくて、奢ってあげるから引き返してメシを食いに行こうという言葉が何度か頭を過った。
 暑くて汗は止まらないし、三井サンのくだらない話も止まらない。まあ、くだらないながらも結構聞いてるとオモシロイんだけど、それでもやっぱり、ガンガンに冷房の効いた涼しいファミレスへの切なる思いが俺の足取りを重くした。
 もう、七夕はラブホが混んでるってことでいいよ──そう云おうかと考えた時、目的地に着いた。

 街外れのラブホテルは、塀に囲われていた。
 門の閉まっていない入り口から覗くと、そこは、ホテルというよりも小さな家が並んでいるガレージタイプというかコテージタイプというか、とにかく一軒一軒が独立したホテルだった。ガレージの上が部屋になっているらしい。見た感じそんなに派手な建物ではなく、落ち着いた雰囲気を醸し出してはいる。それでも、やっぱりラブホはラブホ。どことなく普通とは違う。何がどう違うのかと問われたら答えられないけど、何かが違うのだ。入り口に結界でも張ってあるかのようで、敷居が高い。
「ねえほら、車なんて全然止まってないじゃん」
 空室ありの表示が表にあり、外から覗ける範囲のガレージは大体空いていた。車が駐車しているところもぽつぽつとあったけど、これでは満室とはとても云えないハズだ。つまり、俺の勝ち。
 そもそも、真昼間に見に来た時点でこの人の負けだ。“七夕ラブホ混む説”が百歩譲ってあながち間違ってないとしたって、夜に見に来ないとホントの実態はわかんないだろーに。
「俺の勝ちだね」
「ちゃんと確かめようぜ」
 はあ? なんて往生際の悪い人なんだろう。確かめるって、これ以上ナニをどーやって確かめるのか。
 空腹なのも手伝って、この諦めの悪さに腹が立ってきた。振り回される方の身にもなって欲しい。
 ハイ、もうキレた。文句云ってやる。そう思って口を開きかけた時、三井サンが俺の腕を掴んだ。そして、俺を引っ張って、大胆にも結界の中に足を踏み入れた。
「ちょっ──三井サン!?」
 ズンズンと敷地内を歩く三井サンに俺は腕を引かれ、成す術もない。悔しいけど、足の長さにハンデがある。力の強さは五分だと思うけど、三井サンのよくわからない行動力の前に俺は無力な人形も同然だった。
「おまえ、もっと堂々としてろよ。監視カメラとかで、見られてんだからな」
 えええ。だったら余計に放してくれ。この状況をカメラでどう見られてるのか、不安しか感じない。
 時々、すごく繊細なくせに、三井サンはこんな時だけ無駄に大胆だ。颯爽と敷地を横切って、さっさと空いているガレージに俺を連れ込んだ。階段を引っ張られるようにして上る。
 制服着てるのに何考えてんだこの人、とか。
 なんで入っちゃうんだよ誰が金払うんだコレ、とか。
 男同士なのに入れんの? などという疑問が、頭に次々と浮かんでは消える。
 ガチャリと目の前で茶色い扉が開いた。開けたのは三井サン。俺の思考はそこで一旦停止した。足も止まったけれど、肩に手を回されて軽く押されたから、うっかり足を建物の中へ踏み入れた。
 ドアが閉まると鍵のかかる音がして、閉じ込められたように感じた。
 靴を四足も置いたらいっぱいになるような狭い三和土に入ると、停止した思考がまた動き始めた。後ろに立った三井サンが靴を脱ごうとするのを押し止めて、俺は抗議した。
「あのねえアンタ、なんで中まで入っちゃうわけ!?」
「だってホントに空いてる部屋なのか、確かめないとわかんねえじゃん。車で来てるとは限んないだろーが」
「空いてたよね! 空室のランプ点いてたっしょ!? どーすんのこれ、今すぐ出たら金払わずに済む?」
「あー、それは無理だろ」
 嗚呼。
 一体全体、なんでこんなことになったんだろう。
 振られたばかりでまだ全然心の傷が癒えていない俺にこの仕打ちはなんだ。
 俺は恋愛の神様に見放された男なんだ。その上、先輩運まで悪い。振られたことだって、三井サンには話したけど、あんま慰めてもくれなかったし。
「どーしてくれんの!?」
 色々と思い出して、その分の怒りやら悲しみを声にして三井サンにぶつけた。
「まあ、いーじゃん。俺さあ、風呂入りたかったんだよ。今日暑かっただろ、すげえ汗かいてて」
 馬耳東風って、こういうことを云うんじゃね?
「何ソレ? 風呂入りたいってんならさ、スーパー銭湯行ったら良かったのに!」
 駅前のビルに入ってるスーパー銭湯なら、時間を気にせず千二百円で好きなだけ館内に居られる。
 ああ、絶対そっちの方が良かった。安くメシも食える。岩盤浴もある。涼しい館内で、マッサージ機も使える。漫画も読み放題。
「大体、ここいくらよ!?」
「看板に書いてあったろ? 百二十分で三千円だって。昼間は安いよなー。半額ずつ出したら千五百円じゃん。スーパー銭湯と大して変わらねえだろ」
「俺は別に風呂入りたかったわけじゃないんすよ!!」
 ただひたすら、腹が減ってるだけなのに。
 あんたの風呂入りたいっていう希望のためになんで俺が千五百円払わなきゃいけないんだ。
「もうどうしようもないから、時間いっぱい寛ごーぜ」
 三井サンは俺を避けながら靴を脱いだ。スリッパに履き替えると、さっさと室内に入って、部屋の隅の床にスポーツバッグを放り投げる。
「あのね、俺、腹減ってるんすよ!」
「あ、注文も出来るってよ。なんか食おうぜ」
 茶色い革製のソファに座り、小さなテーブルに置いてあるメニュー表らしきものをひらひらさせて、三井サンは笑った。
 完全に三井サンのペースに乗っかってしまった。たった一コの学年の差や経験値の違いがこーいう時に響いてくる。そこから降りる術なんて知らない俺は深く深く溜め息を吐き、諦めて室内を見回した。
 部屋の中はいかにもな感じに派手ではなく、普通のビジネスホテルのような雰囲気だった。照明だけは、やたらと暗い。
 仕方なく靴を脱いで、俺も室内に入った。入ってみると、玄関から死角になっていた場所ででかいベッドが存在感を放っていた。
 うわあ──ありえない。
 あのベッドを今日誰かが使ったかもしれないのに、よくこんなところでこの人寛げるよな。
「俺、ピザにする。おまえ何食う?」
「ええ〜っと……何あんの?」
 これ以上足掻いてもしょうがない。空腹に負けた俺は、三井サンからメニューを受け取った。
 ソファに座って上から順に眺めて熟考する。写真も載っていた。
「あ、ふわとろオムライスがあるじゃん!」
「それ選ぶと思ったぜ」
 三井サンは電話の受話器を取った。
 ファミレスでもよく食べているので、この人、俺の好みを覚えているらしい。なんだかオムライスってガキっぽくて恥ずかしい気もするけど、好きなものは好きなんだからしょうがない。
 三井サンが電話で注文している間、俺はもう一度部屋の中を見回した。小さな冷蔵庫と、テレビ。視界から外していたけど、やっぱりベッドを見てしまう。茶色いベッドフレームと、真っ白なシーツと掛け布団。ベッドメイクと云うのだろうか、きちんと整えられていて、清潔感はある。
「俺、先に入るからな」
 注文を終えた三井サンが、バスルームらしき部屋の扉を開けた。俺も、どんな風呂なのかが気になって後をついていった。
 脱衣所から中を覗いてみると、白いジャグジーがあった。長身の三井サンでも身体を伸ばせそうに広い。おお、結構風呂はいいじゃんと思った。ラブホの風呂って云ったら、ガラス張りの壁に囲まれてるもんだと思ってたのに、そういうことはなかった。
「あ、おまえ湯船使う? 俺、暑いからシャワーだけでいいんだけど。溜まるまで待つのヤダし」
「あー、まあ、俺も別にいいっす。シャワー浴びれたら」
 結構良い風呂を、使わない俺達ってなんなのだろう。
 シャワーのために千五百円。すげえ馬鹿馬鹿しい。
 また怒りが湧きかけて、何か一言嫌味を云ってやろうかと振り返ったら、三井サンが腕をクロスしてTシャツの裾をまくっていたので、息が止まって言葉を飲み込んだ。
 三井サンは躊躇なく一息にシャツを脱いだ。休日練習なので、下は制服だけど上はTシャツ一枚しか着ていない。上半身裸の三井サンに背を向けて、俺は慌てて脱衣所を出た。
 あの人の裸なんて、部室で着替える時にしょっちゅう見ているのだ。だけど、場所が悪い。ここがラブホだという意識が、俺の脳の神経回路をどうも狂わせたらしい。
──ドキっとしちゃったじゃん、今。
 部活の先輩、しかもオトコの上半身を見てドキッとしたら、それはもう健全な男子高校生とは云えないと思う。
 俺は振られたからって男に走ったりはしない。ありえない。しかも相手があの人なんて。
 よっぽど溜まってんのかなあと情けない気分で、室内に戻った。バスルームからは、ざあざあと水の音。
 ふうと二・三度深呼吸して、気持ちを落ち着かせる。深呼吸はちょっとした儀式だ。これは成功して、俺は今見た光景と、ドキッとした心臓のことを頭から追い出した。
 さて、オムライスが来るまで、俺は何しよう。
 せっかく来たんだし、色々と興味はある。何か面白いものはないかとまた部屋を見回したら、部屋の隅に自販機があった。だけど、軽い気持ちで商品を見て俺はすぐに後悔した。あまりにも生々しいものが並んでいたからだ。
 ああいうのは嫌いだ。買う奴の気がしれない。妙に高いし。
 自販機の存在は無視しよう。心に誓って、部屋をうろついた。暇でしょうがない。
 テレビでも点けようかと、ようやく思いついた。退屈しのぎにはテレビが一番だ。
 日曜の昼間、お笑い番組でもやってればいいのだけど。テーブルの上にあったリモコンで、テレビの電源を入れる。
 けれど数秒で電源は切った。いきなり画面に裸の女と男が映って、佳境に入った声を上げていたので、すぐに電源を消したのだ。
 こわい。不意打ちで、殴られたみたいな気分になった。
 フツウの番組は見られないんすかコレ?
 こんなの見てる時に三井サンが出てきたら、なんて云われるか分からない。
 何がしかの操作をすればNHKだって見られるんだろうケド、テレビを見たかった俺はすでにどこかへ走り去ってしまったので、リモコンはテーブルに放り出した。
 なんだか、とても疲れてしまった。エサをやってない腹の虫が時々鳴いている。今日は朝から体育館でがっつり練習したのだ。インターハイが始まるまでまだまだ猶予があるけど、流川も、ダンナも、三井サンも、花道でさえ、気合が入っている。
「ハア」
 疲労を感じて、さっきまで視界に入れるまいと目をそむけていたベッドに一も二もなくうつ伏せに倒れ込んだ。硬いスプリングが身体を跳ね返して、軋んだ音を立てた。もう、誰が使った後でもいい。
 横になると、身体がベッドに沈み込む感覚がじわじわと全身を侵した。気持ちイイ。オムライスが来るまでは、もう立てないかもしれない。白いカバーはクリーニングの臭いがして、アヤちゃんの顔が思い浮かんだ。彼女を喜ばせたい一心で、俺は頑張ってる。でも、疲れた。
 インターハイに出られると決まったから、アヤちゃんには何度目かの告白をした。今度はイケルと思ってたんだよ、その時は。でも、ダメだった。
 結果はそんなふうだけど、俺に接するアヤちゃんは以前と同じ。強気で、優しくて、そして美人。
 一応、付き合っているオトコはいないらしい。まだ、そういう気分になれない、みたいなことを遠回しに云われたような気がする。遠回しすぎて、そして俺の願望が入って、もしかしたら歪曲してるかもしれないけど、大体そういう感じだった。
 いつかはそういう気分になるかもしれないという余地はあるのだ。その筈だ。
 出来るだけ、ポジティブに考える。俺のこと嫌いだとか、絶対ムリだとか、そういうふうには云われてない。
『諦めたらそこで試合終了』ってやつだ。これは安西先生の言葉だそうだ。三井サンはその言葉を今も信じているらしい。あの三井サンが、そんな言葉をずっと心の支えにしているなんて不思議だ。でも、実際に諦めなかったからあの人は神奈川で優勝した。優しい気持ちが少しだけ湧いてくる、チョットイイ話。
 ポジティブに考えたら、少し身体が軽くなった。軽いので、転がして仰向けに寝転んだ。ベッドが広いので、二回転ぐらいは出来そうだ。これなら、三井サンと並んで寝ても余裕がある。……いやいや、そんなこと考えなくていいか。
 見上げた天井には、ペンダントライトが下がっていた。見た目はこじゃれているけれど、それにしても室内の照明が暗すぎる。確か、ベッドの上部にも色々なスイッチがあった。立ち上がるのが億劫で、また転がってうつ伏せの体勢に戻った。枕の方に肘で移動して、よくわからないスイッチの並んだパネルを眺める。
 おお、有線放送のスイッチがあるじゃん。
 操作してみようと手を伸ばしたら、ベッドのヘッドボードに置いてあるコンドームに気付いた。スイッチを押さず、思わずそっちを手に取る。
 ものすごくフツウの、シンプルなパッケージ。二個あった。それを裏表に返して眺めていたら、洗面所兼脱衣所のドアが開いたので、慌てて元に戻した。
「まだ注文来てねえの?」
「あー、そうなんすよね……ウン」
「じゃ、入ってくれば?」
「だね……そうそう」
 腰にタオルを巻いただけの三井サンの姿に、俺は戸惑っていた。
 やっぱり部活の時に見る裸とは何かが違う。
 見てはいけないモノを見ているのだと思わされる。直視することを、躊躇ってしまう。
 今まで水を浴びていた身体は、見るからに潤っていた。瑞々しいその肌は、暖色のライトの下でところどころ影を作って、なんだか妙に艶めかしい。
 首から下げたタオルで髪の毛の水分を拭き取りながら、三井サンはテレビを点けようというのかリモコンに手を伸ばした。
「だあーっ! それはダメっすよ!」
「あ? なんで?」
「いや、あの」
 さっきすでに佳境だったから、もう終わってるだろう、あの二人は。でもきっと、また別の男女が画面の中で何事か始めているに違いない。
 今ここであんな画面が大写しになったら、ちょっとマズイかもしれない。主に俺が、なんかもしかしてマズイことになるかもしれない。
 ワケが分からないという顔をした三井サンの横を俺は通り抜けて、とりあえず脱衣所に飛び込んだ。
「有線聴けますよ、ここ! テレビよりいいんじゃあない!?」
 ドアから顔を出して云うと、三井サンは「ああ」と頷いた。
「じゃあ、そうすっか」
「あと、来たら先に食べてていいからね!」
 ベッドの上に片膝を乗せてパネルを操作し始めた三井サンの後姿が、視界の隅に映った。腰巻きにしたタオルに、その内側の身体のラインがくっきりと浮かんでいたから──扉を閉める手にほんの少しだけ未練が残った。

 シャワーを浴びて戻ると、洋楽がかかる室内にふわとろオムライスが到着していた。
 ピザは二切れぐらい残っていて、隣には、やっぱり半分ぐらい減ったペットボトルのお茶が立っている。
 少し頭を冷やそうと思って、熱いシャワーと水のシャワーを何度も交互に浴びてきた。時間がかかったせいか、三井サンはベッドの上に半裸のままうつ伏せで寝ていた。
 そんな恰好で、ベッドで俺を待たないで欲しい。
 どうしよう、起こそうか。一人で黙々とオムライスを食べるのもなんだか寂しい気がした。せっかく二人の人間がいるのに。
 ベッドの隅に腰かける。マットが少し沈んだけど、三井サンは起きない。しばらくタオルで髪を拭いて、髪が少しでも立つように手櫛で整える。
 脱衣所にはクリーニングしたてという感じのタオルと、バスローブがあった。バスローブはなんだか親父臭い気がして迷わずタオルを巻いてきたけど、よく考えたらすごい無防備な格好だ。
 一息ついてから、眠っている三井サンを見下ろした。投げ出された長い腕。長い脚。細すぎる腰のライン。草原で倒れてる草食動物みたいだ。
 ここに、もしも肉食動物が居たらどうすんだよ?
 半分ほど布団に埋まってる顔を覗き込む。意志の強そうな真っ直ぐな眉は、眠っていても下がらない。固く瞑った目は、起きている時よりも優しく見えた。睫毛が多い。口を開かなかったら、とても良い男だろうと思う。背も高いし、誰が見たって整った顔をしてる。実際にモテる。口さえ開かなきゃ、最強だろう。
「三井サン、出たよ」
 小さな声で呼びかけても、返事はない。必要最低限の、小さな呼吸を繰り返している。見下ろしていることに飽きて、俺は手を伸ばした。揺さぶって起こそう。そういうつもりだった。
 だけど、三井サンの冷たい腰に掌を置いたら、俺の身体に変化があった。
 身体の内側で、熱が集まる微かな前兆。ものすごく簡潔に云ってしまえば、興奮した。
 触っちゃいけないモノに触っているから。そういうことなんだろう。
 掌で、柔らかく背中の上を撫でた。
 滑らかな凹凸の上を滑らせる。背骨に沿った中央の窪みを通過した。肩甲骨の形を確かめながら包み込んで、爪の先で引っ掻くように、また下に下った。指の先が、もどかしく行き場を探す。もっと自由に触れてみたいけど、そんなことは俺に許されてない。
 無防備な背中は、少しも動かない。
 やけに三井サンの身体が隅々までよく見えるのは、照明が明るくなっているせいだと気付いた。きっとピザを食べるために三井サンが部屋を明かるくしたんだろう。
 パネルを操作するために、俺はベッドから飛び降りた。部屋の照明を半分以上落とす。薄暗い明かりに三井サンの身体が溶け込んで、白いベッドにぼんやりと浮かぶ。
「三井サン」
 なんでこの人、こんなに無駄にエロいんだろう。
 マットを沈ませて横に座る。声をかけたら、三井サンが少しだけ動いた。視線を一瞬だけ上げて、俺の顔を見つけた。
 三井サンの肩を手で包んで、指の平で肌を弄った。殴られてもしょうがないような、馴れ馴れしい触り方をしている自覚はある。
「──みやぎ」
「ええと……おまたせ」
 ちょっと。こんな場所でこんな会話、カップルそのものじゃないか?
 それでも、自分の理性と本能が正しくバランスよく機能することをこの時まではまだ疑ってなかった。ギリギリ大丈夫だと、俺は自分を信じてた。
「……俺のも食っていいぜ」
 上目遣いに、とろんと目を半分閉じている三井サンが云った。
 それはきっと、残ったピザのことを云ったのだ。もちろん、俺は分かってる。
 でも、俺にとってそれはスイッチだった。
 まるで誘いの言葉だ。
 食欲と性欲なんてほとんど似たような欲求じゃないか。
 脳内で同じモノとして処理されたって、不思議じゃないだろうが。
「ねえ……あんた俺を誘ってんでしょ?」
 前兆で止まってた身体の疼きが、人知れず復活する。
「なにが……?」
 うつ伏せのまま、三井サンが見上げてきた。意味ありげな視線。俺にはそう見える。きっと、意味は好きに解釈してもいいんだ。勝手に決めつけて、俺はベッドに上がって三井サンを包み込むように背中から抱きついた。
「ぜってー誘ってるよね? こんなトコまで連れてきてさ」
「誘ってねえよ、バカ」
「ウソだよそんなの。ねえ、俺いってもイイの?」
「どこに?」
「最後までってこと」
 自分の言葉が恥ずかしいと思った。今日だってフツウに一緒に部活をやったこの人に、そんな言葉を云う自分が恥ずかしかった。けれど恥ずかしさで頭の中が完全に占められる前に、三井サンの背中に頬を押しつけた。羞恥心ごときが、欲望に勝てるはずがない。
 三井サンの腕をやんわりと掴んでいた手は剥き出しの肌を勝手に滑り出して、冷たくなった肩を包んでいた。温めるように撫で擦る。三井サンは肩越しに少しこっちを振り返ったけど、俺を咎めたりはしなかった。
 許されている内にと、俺の手は二の腕の表面をゆっくりと下る。首筋に鼻を寄せて、動物のように匂いを確かめる。下った掌は薄い皮膚の白さに心を惹かれて腕の内側へ滑り込ませた。爪で刺激するように何度か擦ってみたら、俺の下でじっとしていた三井サンがほんの少し身じろいだ。
 やっぱり、普段隠れている場所が気持ち良いのだろうか。その辺りでもっと敏感そうなのは脇腹だった。触れるか触れないかの刺激を往復させたら、意識を取り戻した草食動物のように三井サンの身体がびくっと跳ねた。
 ヤバい。止められない。
 上擦る気持ちのまま、ぴたりと巻かれたタオルの上から遠慮なく尻を撫でて、太股に触った。呼吸が早くなって整わない。三井サンの後頭部の髪の間に顔を埋めて、ただただ熱い息を逃がした。
「……ねえ、返事は?」
 期待しかしていなかった。ここまできたら、もう訊く意味なんてないような気もするけれど。
「いちいち……そんなこと訊くなよ」
 喉から手が出るほど欲しい答えを貰った。俺は三井サンの腿に股間を強く押しつけた。とっくの昔に硬くなっているソレを、腰を使って擦りつけた。
「さっきから、当たってんだよソレ」
「しょーがないでしょ。当ててんだよ」
 三井サンは抵抗がないみたいで、ずっと俺に好きにさせてる。
 この人が今どんな顔をしてるのか、猛烈に確認したくなった。
 俺は跨るのをやめて、肩を掴んで三井サンを仰向けに返した。いつも下から見ていたから、三井サンをまじまじと見下ろしたのは初めてだ。細められた目。少し緩く閉じた唇。上向いた上唇が下唇と合わさったなだらかな窪みにさえ、色気を感じてしまう。見慣れてる顔なのに、まるで見たことのない顔。
 多分、この人は色々経験済みなんだろう。経験値のない俺にはすべてが思わせぶりに感じられた。
 俺をじっと見上げてくる潤んだ目。その目が何かを訴えていて、一瞬考える。
──もしかすると、キスして欲しいのかもしれない。俺も、キスがしたくなってきた。
 躊躇いなく、三井サンの唇に自分の唇を押しつける。男とキスするなんて、初めてだ。したいと思ったのだって、初めてのことだ。
 三井サンの腕が俺の首に回った。俺を求めてるみたいに感じて、嬉しさのあまり何度も激しいキスを繰り返した。柔らかい舌と舌の触れ合う感触に溶けそうになる。息継ぎの合間に唇を丹念に舐めてあげたら、三井サンはそれに気持ち良さそうに応じて、同じように舌を使ってきた。
 暑いから、こんなふうになったんだ。
 きっと、暑さで頭をやられたんだ俺たち。
 首筋や脇の下、乳首も舌で舐めてやった。そういう皮膚の薄い場所が感じるらしくて、三井サンは敏感に反応した。憎まれ口ばっかりきいている口から、吐息交じりの甘い声が漏れる。それが耳の奥を何度も震わせて、俺の興奮を限界まで引き出した。
 巻いたタオルの上から、三井サンのアレの形を撫でて確かめた。もうタオルは邪魔なだけだ。俺はそれを剥ぎ取るように外して、床の上に投げ落とした。


 終わった後、腹が鳴った。
 欲っていうのはいっぺんには来ないもんなのだろうか。最初は食欲が勝ってたのに、性欲が顔を出した途端に食欲はどこかで影を潜めた。今、その性欲が満たされたら、今度は食欲がまた顔を出した。でも、動くのが億劫だった。素っ裸の自分のすべてをベッドの上に投げ出したまま俺は目を瞑る。
 有線放送は聴いたことのある曲を流していた。英語だから歌詞は分からないけど、嫌いじゃない曲だった。
 音楽を聴いているのか、疲れて眠ったのか、隣で三井サンは背中を向けていた。俺は目を開けて、三井サンの後頭部を後ろから眺めた。
 幸せな時間のはずなのに、何故か不安に駆られた。やっている時は夢中だったのに、終わってみたら、あれで良かったのかと心配になってきたのだ。
「ねえ、あのさ」
 三井サンは、どう思ってるんだろう?
「俺、どうだったの? ダメだった?」
 三井サンは起きていたみたいで、身体の向きを変えてきた。とても近い距離で俺たちは向き合った。他人とこんな距離で向き合うのは、初めてだ。もちろん、誰かとセックスしたこと自体が初めてだったんだけど。
「んなことねーよ、よかったよ」
 意地悪そうな目をしていない三井サンの表情に、優しさがほんの少し浸み出てる。まるで慰められているような気分になった。
「ああ、でもおまえさ。いきなりケツとか触る前に、とりあえずキスしろよ。女はそーいう細かいことうるさいんだぜ」
 結局ダメ出しが来た。
 確かにそれは云われてもしょうがない反省点なのかもしれない。若干、自覚があった。
「それは……ゴメン。なんか、夢中だったからつい」
 とりあえず謝るしかない。
「まあでも……俺たち、相性いいかもな」
「え、ウソ? そーなの?」
 なんか……嬉しいかも。
 相性までは初心者の俺には分からない。信じていいのか分からないけど、三井サンが云うならそれはそうだと信じたい。
 嬉しくて、嬉しい気分のまま溶けたアイスみたいにシーツに浸透して眠ってしまいそうになった。
 でも、すぐに三井サンに起こされて、早くオムライスを食えと怒られた。
「時間なくなんぞ」
「そーだよね……腹減ってたんだ」
 ベッドに沈み込んだ重い身体を頑張って起こした。ベッドから降りかけて、ヘッドボードに置いてある未開封のコンドームが目に入った。ひとつは今使ったけど、もう一個余ってる。
 視線に気づいたのか、三井サンがそれを取って俺に押し付けてきた。
「おまえ持って帰れよ」
「えええ!? いらないって」
「なんで? もしかしたら誰かと使うことあるかもしれないだろーが」
『料金に含まれてんだからもったいねーだろ』などと三井サンがしつこいので、俺はそれをバッグの表のポケットに仕舞った。
 これを使うような嬉しい場面なんてそうそうないよ、と思いつつ。
「そのうち、彩子と使えんかもしれないだろ」
 三井サンが人の心を読んだみたいに云った。その言葉は、俺の繊細な神経を抉る。
 それは無理だよ、と心の中でひそかに答えた。だって、アヤちゃんだもん。

 クーラーで冷え冷えになってしまったオムライスを食べながら、なんでこんなことになったんだろうと考えた。
 三井サンはシャワーを浴びている。その音をかき消すぐらい有線の音量を上げて、俺はひたすらオムライスを口に運ぶ。
 今までを振り返ってみても、三井サンは別に俺のことが特別好きだとか、付き合いたいといった感じでもなさそうだ。
 まさか──振られた俺を自分の身体で慰めようと思ったとかじゃあないよね?
 振られて悲しんでる奴がいたら、フツウそういう時って他の女の子を紹介してくれたりするもんだけど。
 気晴らしにどうかと自分自身を差し出したりはしないよね、フツウの人は。
 でも三井サンはおバカなところがあるから、あってもおかしくはない。そして、それにまんまと乗ってしまった俺も物凄いバカなのか。
 一番フツウじゃないのは、俺なのかもしれない。
 でも、あの人……なんか、エロいんだもん。
 だから、これは不可抗力なんだ。

 三井サンが自動精算機で料金を払い、二人で表に出た。
 太陽が出ていることを忘れていたから、あまりの眩しさと蒸し蒸しした暑さに、土から這い出たミミズの気持ちで思わずうわあと俺は呻いてしまった。ずっと土の中に居るべきだった。外は地獄だ。
 遅れて歩く三井サンが、財布を持ったままレシートらしきものを読みながら階段を下りてきた。
「あぶねぇよ、三井サン」
「なんか割引券が出た」
 指の先で紙をひらつかせて、三井サンは3Pシュートが入った時みたいに笑った。
 見せて貰った紙には、休憩なら五百円OFFと書いてあった。こういう物に釣られて、人はついつい同じ店を使ってしまう。
 サービスタイム三千円のところ、二千五百円で一回休憩出来るのだ。思わず考えてしまったその相手に、アヤちゃんの顔はどうしても浮かんでこない。
「なあ、七夕の織姫と彦星って、もしかして毎回こーいう券が出ちまうから会うのをやめられなくなってんじゃね?」
「ちょっと……やめてよ」
 くだらないと思いつつ、つい想像して笑った。あいつら、ラブホでデート繰り返してたのか。
 ロマンも何もあったもんじゃない話を聞かされながら、俺なら一年も待てないなぁと思った。

おわり
★ちょこっと一言
初めてのリョ三〜。このみっちーは、結構過去に遊んでたっぽい。軽い設定です。
どうも、あまり細かいことは考えていない模様。
みっちーはなんか無闇にえろいよね、ってことが私は云いたかった。