五月の抵抗

 五月の終わりの土曜日。
 陽を遮るものがない晴天の屋外コートでの練習を終えて流川が水道に辿り着いた時、一足先に水道に立っていた三井がちょうど頭から水をかぶっていた。
 短い毛束の先を伝う雫に、流川はほんの数秒の間だけ目を奪われた。水滴が西日を透過させて、サンキャッチャーのように光っていたせいかもしれない。
 頭を上げられない三井が、タオルの場所を探し求めて蛇口の上のコンクリートを手で探っていたから、流川は代わりにタオルを取って、彼に渡してやった。
「おお、サンキュー流川」
 タオルで頭を大雑把に掻き乱しながら、顔も上げずに三井が云った。水の飛沫が、流川にもかかる距離。
 彼には見えないけれど流川は一応頷いてから、隣の蛇口を捻った。まずは喉が苦しくなるまで、大量に水を飲んだ。

 他の部に体育館をとられたこの日、五月の直射日光の下で練習はいつもと同じように行われた。
 県大会予選期間の真っ最中で、試合を明後日の月曜日に控えている。
 この季節は紫外線が強くて、肌に刺さる日差しの苛烈さには部員全員が閉口した。
 ただ、不快指数は高くない。湿気がなくて、風でも吹けば心地良い。けれど、直射日光ときつい練習が重なれば、どれだけ心地よい風が吹こうとも単なる気休めでしかない。それに加えて、屋外コートでは身体も髪も乾燥して、身体中が砂っぽくなる欠点もあった。
 休憩や練習後は水道に直行して、水を頭からかぶるのが部員たちの間の最近の流行りだった。プールサイドのシャワー室でもせめて使えればいいが、残念ながら夏以外使用不可で、いつでも鍵がかかっている。
 隣の三井が頭を拭きながら水道を離れると、流川の後から来た桑田が空いた水道を代わりに使い始めた。
 三井と同じように頭から水をかぶった流川は、肩から掛けていたタオルを使って頭の水分を拭き取る。強い日差しに晒されて頭に蓄積された熱が、水で冷やされて気持ちが良かった。どこかボーっとしていた頭の中も、だいぶスッキリした。
 頭を拭きながら流川はコンクリートに凭れて、戻っていく上級生の後ろ姿を視界に入れた。まだバスケ部に復帰してからひと月も経っていないのに、すでに部内のムードメーカーでもある彼の後ろ姿が小さくなるまで頭を拭いていたら、後から来た桑田に追い抜かれた。
 一人になると、さっきの三井の姿が頭に蘇る。髪の先を細らせて、こぼれ落ちていく雫。それは朝露が滴る植物を連想させた。生命力に溢れる緑の葉に、弾かれて光る水の粒。
 流川が思う彼にまつわるイメージは、どちらかというと動物的だけれど。
 タオルを外して、流川は大きく頭を振った。繰り返し頭の中で再生されかけた色鮮やかな映像を、髪に残った水分と共に吹き飛ばすように。

 日曜日の今日も、朝から昼まで外練だった。
 準備のため、早くから一年生部員は学校に出てきていた。それはスタメンの流川も例外ではなかった。誰かが気遣って免除してくれたりはしない。
 定められたローテーションによって、今日もバスケ部は体育館が使えない。
 明日に試合を控えているのにと赤木が抗議を入れたが、まだ実績のないバスケ部の評価は高くない。県大会予選ぐらいでは押し通すことも出来ず、他の部との兼ね合いもあり、抗議は却下された。普段は市民体育館を借りたりもするが、使えない日もある。
 部室には、桜木以外の一年生四人が揃っていた。
 桜木は時間ギリギリに来るか、もしくは何故か見当違いな早い時間からすでにコートに立っているかのどちらかが多くて、彼が居ないことは特別不思議なことではなかった。誰も気に留めない。
「思ったんだけどさ。流川と三井先輩って、仲良いんだね」
 まだ上級生が来ていない部室に四番目に入って挨拶を済ませた流川は、桑田に不意打ちで言葉のボディブローを食らい、飲んでいたポカリを気管に入れかけてむせた。
「え、ナニナニなんで?」
 返事が出来ない流川の代わりに、着替え中の佐々岡と石井が、脱ぎかけのシャツを腕に絡ませたまま桑田を急かした。早朝とは思えないほど、二人の目には活力がみなぎっていた。
「昨日さ、水道で、三井先輩にタオル取ってあげてたろ?」
 脱いだシャツをロッカーに仕舞いながら、桑田が云う。
(……それがドーシタ)
 見られていたのか、と流川は思う。確かにあの時、後ろから桑田が来た。
 けれどタオルを渡してやることぐらい一般的なやり取りの範疇であって、それぐらいで仲が良いと云われても困惑する。
「思ったんだよね、俺。三井先輩さ、声や顔見なくても、すぐ流川だって分かるんだなぁ、って」
(──は? なんだソレ)
「え、それどーいうこと?」
 昨日あの場に居なかった佐々岡が、首を傾げる。
「だからさ、外の水道で先輩は水かぶってて、顔上げられない状態だったんだよ。んで、自分のタオルの場所がわかんなくなってて。目も瞑ってるだろ。……こーいう状態でさあ」
 ゼスチャー付きで桑田が解説する。三井の真似をしているが、佐々岡も石井もあまりピンと来ていない様子だ。
 しばらくむせていた流川はようやく喉の調子が少し落ち着いたので、改めてポカリをひとくち飲み直す。
「だけど先輩、流川が無言で渡したタオルを誰が取ってくれたか分かったみたいでさ。──え、よくわかんない? まあつまり、以心伝心? あうんの呼吸? つうか、息ぴったり? みたいなやつを、俺は昨日見たんだよ!」
 桑田は部室の机を掌で叩きながら何故か力説した。
「しかも、あのチョット怖い三井先輩とだよ! すごいよなぁ」
「つまり、相手を見なくてもバシッとパスが通るような感じだったってこと?」
「おお、近い。パス出す方と受ける方と、二人の息が合ってないと無理だからなー」
「あー、なんか分かってきたかも。やっぱ、すごいなぁ流川は。羨ましいなー」
(ナニが──?)
 石井と佐々岡に羨望の眼差しを向けられて、流川は激しく困惑する。意味が分からない。
「ソンナの……気配でフツーわかる」
 黙っていると勝手に話が盛られていくような気がしたから、流川は一応弁解した。桑田が云うのは大げさで、たとえば理由は他にも考えられる。三井は下を向いていたけど目は開いていて、流川の足元が見えたのかもしれない。バッシュを見れば、誰だか大抵は分かる。
 もっと簡単に考えれば、三井は後から流川が来るのを知っていたのかもしれない。
(それだけじゃねーか)
「いやいや、フツーわかんないよ気配なんて」
 真顔で三人にあっさりと否定されたので、流川はほんの少し心を挫かれた気分になった。
「……なら、靴が見えたか、後ろから俺が来るのを知ってたんだろーが」
 ついムキになってしまう。
「そーなのかなぁ?」
「あ、そーいえば前に──」
 なにか思いついたのか、脱ぎかけのシャツをようやく脱いだ石井が、流川に向き直って口を開く。
 窓から射し込む陽の光が彼のメガネに反射して、きらりと光った。
「見たことあるんだけどさ。流川って、三井先輩とたまに一緒に帰ってない?」
「それは……」
 突然話が思わぬ方へ転がって、流川は本格的に動揺した。
 一度なりゆきで三井を自転車で送ってやった。石井の云う通り、それ以来ときどき三井を自転車の後ろに乗せて駅まで送ることがある。それは事実だ。
(あんなの、たまたまそーなっただけだ。最初、横を通り過ぎる時に一回捕まって、乗り遅れるから駅まで乗せろって無理やり。先輩の頼みがドーシタとか云いだすし。そっからときどき乗せて──つっても、一週間に二回とかのレベルだ。それだけのこと)
「それ、俺も石井と一緒に見たことある。ねえ、あれって駅まで行くの? 家まで送ってんの?」
「それは駅まで──いや、そんなの、別に深い意味ねーから」
 あらぬ誤解をかけられることは全力で避けなければいけないと流川は思った。そうしなければ、三井にも迷惑をかける。
 だが、説得力のある説明が思い浮かばない。喋るのは苦手なのだ。流川はとりあえずまたポカリを飲むことに逃げた。喉が渇いて仕方がなかった。
「なんか流川と先輩は、夫婦とかカップルみたいだなあ」
 桑田がそう呟いて、流川はせっかく口に入れたポカリの大半を気管に入れて、呼吸困難に陥った。
「あ、大丈夫か、流川?」
「──ブジャ、ナイ……」
(なんでそーなるんだ、どあほう)
 むせながら、涙まで出てきた。
「水飲んできたら? ヤバくね?」
「──イイ。それより……なんでそんなふうに思うんだ」
 流川は苦しくて咳こみながら、むせる原因をたびたび作る桑田を睨みつけた。しかし涙目で威力が弱いせいか、桑田が気にする様子はない。
「えー、だって一緒に帰るぐらい仲良いし、以心伝心だし。深く付き合ってようやく、そういうのが出来るようになるんだろ。それはもう熟年夫婦とか、カップル的なカンケーじゃないかなって」
「そーだよなー。早く俺らも、先輩たちとそーいう関係を築きたいよ……」
(深く付き合ってねーし、そーいう関係ってどーいう関係だ)
 落ち着かない気分で、流川は口の周りをタオルで拭って息を吐いた。ポカリごときであやうく死ぬところだったし、彼らと話していると調子が狂う。普段、問題児ばかりと接する機会が多い弊害か、一見まともそうな人間との接し方が良く分からない。
(これ以上会話していると、練習よりも疲れる……)
 手早く着替えを済ませて早くコートに出よう──流川は強く思った。
 流川の気持ちなどおかまいなしで、一年生の会話は続く。
「やっぱさあ、同じコートに立っているとそういう関係が自然と出来てくるモンなんだろーね」
「逆に、立ってないとそれは絶対にムリだな」
「俺らも来年は頑張って、レギュラーになりたい!」
「そうそう、今年はもう絶対無理だから、来年な!」
「うちの先輩たちってさ、マジでカッコ良いよな」
「うん、もっと深い信頼関係を築きたいなあ」
「バシッとノールックパス通せるようになりたいです!」
「誰に祈ってんだよ石井」
「それはバスケの神様だろ!」
 話の矛先がまた変わってきた。おかしな勘ぐりをされていじられるのかと流川は想像して身構えていたのに、深い意味を持った会話をしていたわけではなかったらしい。
(どあほうって、増殖する……)
 何故か願掛けを始めた三人を横目で見ながら、流川は溜め込んだ息を静かに吐き出した。
 あやうく自分を見失って、しなくても良い弁解をして傷口を広くするところだった。

「流川」
 炎天下での練習を終えて水道に向かう流川に、後から追いついてきた三井が並んだ。
「なあ、今日この後って家帰って昼食う予定か? その前に、公園で軽くワンオンとかどうだ?」
 意外な誘いに流川は一瞬返事に詰まる。
 三井とワンオンワンはまだしたことがなかった。
(ワンオン──してえ)
「……やる」
 どっちみちまだ身体を動かし足りないと思っていたところだった。本当は、試合に備えて早く家に帰って身体を休めろと赤木に云われたのだが。
 一人で身体を動かすよりも、二人の方が身になるに決まっている。三井と自分なら、互角の勝負が出来るはず。
(好都合。単に、それだけ)
 桑田たちに知れたらまたなにか云われるだろうなと思ったが、気にしないことにする。
返事に対するレスポンスのつもりなのか、朝からずっと照り付けていた太陽の熱を貯め込んだ流川の後頭部を、三井の掌が風のような速さでポンと叩いた。そして流川は完全に追い抜かされる。
(──イマの、なに?)
 時間にしたらほんの数秒の、たった一瞬の出来事だった。
 そんな一瞬ほど、心の隙間に入り込む。
「校門前でいーのかよ?」
 少しだけ振り返った三井は、何事も起きていないかのように冷静だ。
「──いや、アッチで」
 待ち合わせ場所を振られて、大股で先を歩く後姿に慌てて言葉を投げる。流川が云いたかったのは駐輪場のことだ。
 頭に残された手の感触に、流川はまだ気を取られていた。空気にくすぐられたみたいだった。
「あー裏ね。分かった」
 ときどき自転車の後ろに乗っているせいか、三井には通じたらしい。裏門横の駐輪場で落ち合おうと。
──まるで夫婦か、恋人同士だよね。
 桑田の言葉が頭につい蘇ったので、別のことで打ち消す。
(……そうだ、公園。どこにする。空いてるトコ)
 流川の歩みが遅くなって、三井の後ろ姿が少し遠くなる。
 頭に浮かんだのは、駅とは反対方向にある小さな公園。地元なのでリングのある公園は全部頭に入っている。そこは比較的寂れた公園だし、真昼間のこの炎天下にリングを使うモノ好きなんて自分たちしか居ないだろうという確信がある。
 流川よりも一足先に水道に辿り着いた三井が「あちい死ぬ」と云いながら先に居た宮城と並ぶのを後ろから眺める。
 着くなりいきなり頭から水をかぶって、宮城が水飛沫の餌食になった。どうやら宮城にわざと水を飛ばして遊んでいるらしい。
 やる気に火が点いたのか、今度は宮城が同じように水をかぶり始めた。放っておけばその内、水の掛け合いでも始まりそうだ。
 二人の後姿を眺めながら流川は数歩離れた場所で足を止め、子供っぽいやり取りが終わるのを待った。
(たのしそーだ……ガキみてー)
 流川が、三井に初めて体育館で出会った日。
 あの時の三井は、ただの捻くれた三年生だった。まだあれから、すべての傷が塞がっていないくらい、少ししか時が経っていない。
 それでも、自分で作った居場所から結局抜け出した今の三井は、流川にはとても自由に見えた。
(先輩の周りは、キラキラしてる)
 五月の乾燥した空気の中で、満たされている三井は瑞々しくて潤って見えた。水分を帯びてどこまでも涼しげだ。
(──今の考えは……やっぱナシ)
 深いと分かっている水溜りに足を突っ込むような真似はやめようと流川は目を伏せる。
「あ、そーだ流川、ボール一個確保すんの忘れんなよ」
 今日はしっかりと首からかけていたタオルで頭を拭きながら、思い出したように三井が流川を振り返った。水の掛け合いには発展しなかったようだ。
「うす」
 公園に持っていくボールのことを頭に入れる。学校からひとつ借りていって、また返しに来ればいい。
「ボールって? まさか二人でまだ練習するつもりじゃないよね? アホでしょ、帰ろーよ」
 宮城が聞き咎めて反応した。
「つもりじゃ悪いかよ。毎日死ぬほどバスケやんねーと、物足りねーんだよ」
 笑いながら云って、三井が流川に場所を空けた。
 それなら、この二年間この人はどれだけ足りていない人生だったんだろうと流川は考える。そして今は、どのくらい足りているのか。
 三井の顔を見れば、答えは明白だった。すれ違いざま、三井と視線が交わる。その顔にまだ笑みを残した彼を見て、流川は目を細めた。それは五月の日差しが強烈すぎて世界が眩しく光って見えたせいだろうか。
(眩しい理由なんて……それだけ。他に、理由なんてない)
 最近いつも、流川は呪文のように(ただそれだけ)と、唱えている。
 都合の悪い考えはその呪文一つで打ち消せた。
 その効力が、どれだけ持続するのかは知らなかったが。

おわり
★ちょこっと一言