明々白々


 春の終わりに習得したのは、期待通りにいかない現実を平穏にやり過ごす方法だった。
 三井寿が宮城リョータに特別な気持ちを向けていることは疑いようがなかった。少なくとも、流川の中ではそうだった。当然、本人の口から聞き出したことではないし、そんな噂が立ったこともない。にも関わらず流川にはそれに対する確信があった。自分の中にしばしば生まれる形容しがたい敗北感がその根拠だ。本能のようなものが知らせてくるとしか云いようがない。見張っているつもりなどないが、三井をずっと観察するように見ていれば、彼の関心がどこに向かっているのかは嫌でも察してしまう。
 何度敗北してもなおそうして流川が二人の動向に意識を向け続けていること自体もまた、他人に心惹かれていることの明白な証だった。自分の中で育ちつつある恋心がこのやっかいな構造を生んでいることも、流川は理解している。
 どれだけ相手に意識を向けても同じだけのものが得られない。ほろ苦いものばかりを味わわされるのに、それでも止められないのは、腹の中を羽でくすぐられるような感覚が消えないせいだ。
 これまで他人へ特別な気持ちを向けたことなどなく、少なからず流川は戸惑っていた。生まれて初めて、心に制約を受けているよう感じている。自分の力ではどうにもならない壁の存在が、鬱陶しく思えるほどだった。
 だがそれでも、立ち止まっている暇はなかった。高校生活はあっという間に過ぎて行く。
 この恋を上手に乗りこなせるほど豊富な経験が十五歳の流川にあるわけもなく、想いを育てようと思うほどの積極性も持てないまま、行き場のない気持ちはひたすらバスケットに打ち込むことで発散させた。
 そうして、ただ流れに身を任せるようにしているうちに惜しむような春が過ぎ、流川は本格的な夏の中にいた。


「あちィ」
 土曜日の午後。思わず漏れた流川の呟きを聞いた人間はいない。
 教室で弁当を一緒に食べた部活の仲間はとっくに体育館へ行ってしまったので彼は一人だった。十五分ほど食後の昼寝をし、そばで昼飯を食べていた吹奏楽部の女子たちに起こされて教室から送り出され、昇降口から外に出て照りつける日光を頭上から浴びた第一声が『あちィ』だった。
 流川はうんざりしながら、眩しい日射しに寝起きの目を細めた。遅めの梅雨明け宣言から一週間、昼間の気温は毎日のように三十度を超えている。校舎内も蒸してはいたが、日差しが防げるだけでもマシだった。教室の窓はどこも開いていたから、吹き抜けていく風は心地よく、屋外よりはまだ救われていた。
 だが、おそらく校内で最も蒸し暑いのはこれから向かう体育館だ。その前に、まずは部室棟へ寄る必要がある。各部の部室や合宿に使える宿泊用の部屋などが集まっている二階建ての建物で、流川の足ならば二分で着く。容赦も慈悲も持ち合わせていないと云わんばかりに降り注ぐ太陽光の下では足取りも自然と重くなるが、それでも、部活をすること自体は嫌ではない。ボールとリングが揃っていて、なおかつ、会いたい人間に自然に会える場所だ。喜びが勝る。
 棟への道すがら、前方からやってきた見知らぬ女が流川の目を引いた。生徒ではないだろう、校内では見かけない顔だ。生徒でない証拠に制服を着ていない。それに、どう見ても十代ではなかった。かといって教師という雰囲気でもなく、妙に華やかで綺麗な女だったので思わず横目で追ってしまった。躰のラインに沿うように作られた薄いグレーのノースリーブに、黒のパンツスタイル。長身だが、全体的にやたらと細かった。緩く背中に流れた茶髪は日差しのせいか赤味が強いが、肌は透けるように白かった。
 極めつけに、黒いサングラスだ。嫌でも人目を引く。明らかに浮いている。ここは日本で、学校で、夏のビーチや都会の街中ではない。
 少し距離はあったものの、向こうも流川に目を留めたようで、すれ違いざまに軽い会釈をしてきた。それに釣られて流川が同じくらいの深さで頭を下げると、今度は左手をぶんぶんと振ってきた。
(……どうしろと?)
 不快ではなく、愛嬌があって好ましいとも感じたが、それにはさすがに釣られない。応じることは出来なかったものの、流川は振り返ったまま彼女の後ろ姿から目が離せなくなった。
 対照的に、向こうは流川の反応を特に期待してはいなかったようで、モデルのように姿勢良く歩きながら、そのまま校舎の裏へと消えた。
(……ナンカ、どっかで見たことがあるような気が……?)
 前に会った記憶などない。けれど何故か沸き起こった既視感に、流川は首を捻った。



 練習着に着替えるだけで汗だくになった流川が温室のように蒸した体育館に入ると、そこにはいつもと少しだけ違う光景があった。いつもならば準備が整った各自がストレッチやウォームアップを始めているところだが、部員たちは一箇所に集まって和やかに騒いでいた。なにかを囲むような人垣を不思議に思い流川が近寄って覗くと、中心にいたのは彩子だった。
「はいはい、順番に自分で選んで持ってって〜。何種類かあるわよう、好きなもの早い者勝ち!」
トレードマークのキャップを被った彩子が、自分の横に置いた青いクーラーボックスの縁をポンと叩いてからその場を離れた。空いた場所に他の部員が移動して、クーラーボックスに群がる。一番前に張り付いたのは二年生で、宮城や安田たちが屈みこんで物色を始めた。
「お〜、よく一人で起きられたじゃない」
 流川に目を留めた彩子がそばに寄ってきて、流川は挨拶代わりに軽く頭を下げた。昼寝してきたことが彩子に筒抜けなのは石井たちのせいだろう。もしくは寝ぐせでもついているのかもしれないが、鏡を見ていないから自分では判らない。
「あんたもありがたく好きなの貰いなさい。ソーダとバニラとチョコ」
 矢印のような指を下に向けて彩子がクーラーボックスを指差すので、流川も視線を送る。
「ありがたーい差し入れのアイスよ。頂いたの」
 なるほど、と流川は納得した。差し入れは珍しいことではない。OBや部員の父母が飲み物や菓子などを届けてくれるのはよくあることだった。夏場は特に、そういった頻度が高い。
 宮城と安田が手際よく仕切り出して、まずは年長からと赤木と木暮にアイスを手渡している。三年生の姿はその二人しか見当たらない。監督の安西もまだ来ていないようだが、これはいつものことだ。
「こう暑いとホント助かるわね」
 誰からの差し入れなのか、流川は特に聞かなかった。並んで立っていた流川と彩子にも石井が気を利かせてアイスを配ってくれた。ところどころにカラフルなラムネ菓子が散っているソーダ味の棒アイスを手に入れて、流川はその場で包装を破り噛り付く。クーラーボックスから出したアイスは早く食べなければこの熱気の中ではいくらも持たずすぐに溶けてしまうだろう。
 甘酸っぱい水色のアイスを咥えながら流川はもう一人いるはずの三年生である三井の姿を探したが、彼はまだ来ていないようだった。特に用事はなくとも、どこにいてもまず彼の姿を探してしまうのが流川の習性になっている。
「余った分は休憩の時にして、そろそろ始めるぞ」
 赤木が指示すると、そばにいた桑田がクーラーボックスに蓋をする。今にも片付けられようとしたところに「ちゅーす」と挨拶しながら三井が遅れてやって来た。
「おせーよ三井サン」
 宮城がすかさず突っ込みを入れた。
「まだ始まってねえだろ」
 云い返しながら三井はきょろきょろと体育館の中を見回している。まるで誰かを探している様子だ。流川は明らかに三井の視界に一瞬は入ったものの、残念なことに気にも留められず視線は通り過ぎた。
 彩子が三井に近づいて軽く頭を下げる。
「先輩、アイスごちそうさまでっす。先輩からもお礼伝えておいて下さいね」
 彩子が云うと部員たちも続くように三井に向かって口々に「あざーす!」と云い始める。流川は一瞬不思議に思ったが、差し入れが三井の父母からだということを遅れて理解した。
「げ、やっぱなんかコソコソ持ってきてたか……寄らずに真っ直ぐ帰るとか云ってたくせによー」
 三井は肩にかけているタオルの端を握り締めて、大仰に溜息を吐いた。その様子を見ながら流川は食べ終えたアイスの棒を最後にひとなめして、誰かが移動させたゴミ箱に捨てた。
「三井先輩はどれいきますか?」
 運ばれかけていたクーラーボックスが三井のために再び床に下ろされた。
「くそ、どうせならダッツぐらい持って来いっつうの。息子の好きなアイスくれー知ってんだろうにな」
 三井は身体を折って中を覗き込みながらガサガサとアイスをかき回す。無防備な後姿に、流川の視線は自然と惹きつけられていた。汗に濡れた赤いTシャツが張り付いた背中。肩甲骨に沿った独特の皺の形。膝丈パンツの下の膝裏の窪み。視線はふくらはぎの膨らみへと下っていったが、ソックスの中に仕舞われている足首まで見たいと願ってしまう邪心は、無表情の下に隠した。
 いくら三井の体格がスポーツマンにしては細身で、赤木や桜木の猛牛のような頑丈な身体とは対照的だからといって、男の身体に興味を持ってしまう自分が自分で少し嫌になる。だが、どうしても三井に限っては流川の中での取り扱いが別なのだ。沸き起こる欲求は自然に生じるもので自分ではどうすることも出来ないし、真っ白とは云えない心で勝手にじろじろとチームメイトを観察するのは問題だ、と頭では分かっていても、女に対するそれとは違って咎められることがない分、踏み留まるのが難しい時もある。
「先輩、ハーゲンダッツの値段知ってます? 部員全員分買ったら大変なんだから」
 彩子が窘めると、バツの悪そうな顔で三井が振り向いた。値段を知らないと顔に書いてある。
「わーったよ。じゃあこれで我慢してやるか」
 三井はぶつぶつと文句を云いながらも、ミルク味のアイスを選んで雑に包装を剥がした。
「これシャトレーゼですよ、私は好きだな。なんとなく優しい味がして」
 三井がこちら側を向いてアイスを食べ始め、密かに眺めることが出来なくなったので、二人の会話が耳に届く場所に腰を下ろして、流川はストレッチの準備をする。
(しゃとれーぜ?)
 彩子の口から知らない言葉が出てきて疑問に思ったが、会話を聞いていることを知られるのに抵抗があり、尋ねることはしなかった。身体を伸ばしながら、見咎められない程度のさりげない角度で三井の様子を盗み見る。流川の視線は、早くも溶け始めたアイスが三井の手を伝っていく瞬間をちょうど捉え、あ、と思った刹那、よく磨かれた体育館の床の上に乳白色の雫が落ちた。
「溶けてんじゃん三井サン、ほらァ」
 いつの間にか近づいていた宮城が、三井にウェットティッシュのケースを差し出した。わりー、と云いながら受け取って笑う三井と宮城に、流川は背を向ける。自分も見ていたのに、ここからでは何も手出しできない。見ていたのが自分だけではないことも面白くはなかった。
「で、三井サン、結局なんで呼ばれたんすか。職員室行ってたんでしょ?」
 アイスを咥える三井の横にポジションをとった宮城が尋ねた。流川にとっては初耳だ。
「なんで、おめーがソレ知ってんだよ宮城」
 三井の口調は動揺しているように揺らいだが、宮城の質問を否定はしなかった。職員室に用事だなんて大体はろくな用ではないだろうが、そういった場合のきまりが悪い態度とは違い、三井は落ち着かない様子でどこかそわそわとしている。
「さっき、おばさんに挨拶したとき聞いたんすよ。親子で呼び出しだったのよ〜って笑ってたけど。つまり恐怖の三者面談でしょ? 詳しくはさすがに訊けなかったけど」
「あーもう口が軽くてやんなるぜ……くそ、恥だ」
「今更、三井サンに恥の概念あります? もう楽になっちゃいましょーよ、捨てるもんないでしょ。で、面談でなに云われたんです?」
「それは、だな……」
 そこで、三井は口籠る。
「それは?」
 じれったそうに宮城が促した。
(それは……?)
 バッシュの先を握って身体を倒しながら、流川も心の中で尋ねた。ゴシップの類も含め大概のことに無関心である流川だが、三井のことになると好奇心は尽きない。三井が落ち着かない理由が知りたかった。
「なんかよ……インハイと選抜の結果と俺のこれからの生活次第で、もしかすっとバスケで大学の推薦が貰えるかも、とかゆー話された。あっちから話が来たんだと」
「え? え? ウソ、それマジ?」
 宮城が大きな声を発したのと同時に、流川も思わず振り返って三井を凝視した。思いもよらない内容だったため目を目いっぱい見開くというレアな流川だったが、それに気づく者はいなかった。
「ちょっと、それってすごい話じゃないすかセンパァイ! 進学したらいいのにって、思ってたんですよ私」
 彩子までが大きな声を出すので、各々ウォームアップを始めた部員たちの注目を引いている。
「進学するのか? 大学ってどこなんだ三井?」
「すごいじゃないか三井!」
 木暮と赤木も初めて聞いた話のようで驚いている。三井は現在のところ関東大学バスケットボール連盟三部だという私大の名を答えた。
「そんな騒ぐような大学じゃねえんだよな」
「おまえは何を云っとるんだ、もっと喜べ」
「そうだぞ、もっと威張って偉そうにしろよ三井」
「……つっても、インハイは出れるけど選抜はどうなるか読めねえし……まだわかんねえ」
 三井本人はすました顔をして喜んでいるようには見えないが、流川は大きな喜びに胸が躍った。まるで、自分に起きた出来事のように嬉しかった。三井がこれから大学でバスケを続ければ、いつかはまたどこかで一緒にバスケットをする機会があるかもしれない。卒業と同時につくかと思われた『終わり』の文字が『続く』に変わるかもしれないのだ。
 軽い興奮に、滅多に出ない笑みを浮かべた流川だが、全員が三井を見ているのでやはり誰も気が付かなかった。
「つうか、まだなんも決まっちゃねえんだ。八月の終わりにある選考会みたいなもんに出る権利を貰ったってとこだから、まずはそれに受からなきゃならねえし、それと、これから足りないとこ埋めねーとならないってことをクドクドお説教されたってだけだ。インハイでなるべく良いとこまでいって、真面目に部活やって、補習出て、学校も休まず……授業もサボらず……ア? なんか、ハードルたけーな……無理じゃねえかオイ?」
「ダメよ先輩! 諦め早すぎじゃない」
 彩子がすかさず窘める。彼女が今ハリセンを持っていたら叩いていたかもしれない。
「彩ちゃんの云う通りすよ、それって無理とか云ってる場合なわけ? 大チャンスじゃん」
 宮城の正しい援護に、流川も心の中で頷いて同意する。
「そうだぞ三井、チャンスを貰ったんだからものにしないと」
「そーよ、つまりこれからの頑張りを全部きちんと見ていてくれてるってことでしょう? 選考会なんてササっと受かってくればいいだけじゃない!」
「三井サンの悪運の強さでなんとかなるっしょ?」
 口々に云い、みんな自分のことのように熱くなっているが、当の本人はそうでもない様子でこれ見よがしな溜息を吐いている。
「おまえらみんなでプレッシャーかけんなよな……」
 揃って力強く説かれ怯んだのか、自信なさげな声を出しながら、バッシュのソールをキュッと鳴らして三井は立ち上がった。ゴミ箱まで移動する彼を流川はしっかりと横目で視界に入れている。アイスの棒を捨てた三井は、その場で動かずこれ見よがしな溜息第二弾を吐きつつ項垂れている。
 プレッシャーを重荷に感じているか、不安の方が先に立っている状態なのかもしれない。だがそれでも、三者面談の内容はもちろん三井も前向きに考えているだろうと流川は思う。話があったばかりでまだ実感が伴っていないとしても、流川が見たところ頭は決して悪くないのだから、三井がきちんと向き合わないはずがない。少し前までアメリカ留学の道を模索していた流川には理解できる。高校三年生の夏の三井は大きな分岐点にいて、バスケットに繋がる道と繋がらない道を前に選定の必要に迫られているはず。
 具体的になにが決まったというわけではないにしろ、その道を照らす明かりがひとつ灯ったのは確かだ。親を交えて面談をしたということは、教師側にも三井の将来を良い方へ導こうという確かな熱意が見て取れる。みんなが真剣なのに、当事者の三井が真剣にならないわけがない。
 三井が選ぶ道がどちらなのか、流川には分かっている。三井がこの体育館で久しぶりにバスケットボールをリングに放った時の姿を見ているから、誰よりも余計にそう確信できるのかもしれなかった。朝の体育館で見た、腹の奥をくすぐるような感覚を呼び起こした貴重な光景。
 忘れ難い、特別な瞬間。
 小さなことだが、流川にとってはあれもひとつの分岐点となる出来事だった。習性のようにどこにいても三井の姿を探してしまう道と、そうではない道の。道を踏み外した、と云い換えてもいいが。
「先輩ったら、きっと三者面談の時はおばさまの隣で神妙におとな〜しく可愛くしてたのかもね」
 小声で呟いた彩子がムフフと笑う。彩子の「三者面談」という言葉で流川はふと、先程見かけたサングラスの謎の女を思い出した。そして、彼女は体育館から来たところだったのではないか、と思い至る。まさかあれが三井の──という思考の途中で、彩子が「おっと、そうだ忘れてた」となにか思いついたように呟く。
「センパーイ、アイスが入ってるそのクーラーボックス、帰り持って帰ってくださいね」
 「……は?」と三井が振り向いて怪訝な顔をする。
「先輩のおばさまが『寿に渡してくれればいいから』って。よろしくお願いします」
 きっぱりと云う彩子に、もう一度三井は「は?」と云い返した。
「ってか、そのクーラーボックス俺んちの?」
「そうですよ」
 彩子はニコニコしている。三井は眉間に皺を寄せて一瞬口をつぐんだが、しばしなんらかの思考をしたかのような間の後、再び口を開く。
「……俺、電車だし」
「でしたね」
 電車に乗るのにこんな邪魔で重たいものは持ち帰りたくない、と暗に主張したらしい三井だが、彩子は殊更にニコニコしただけだった。クーラーボックスは三十リットルは入りそうな大きさだ。ショルダーベルトが付いていて肩にかけられそうだが、邪魔で嵩張るのは間違いない。
「冗談じゃねえぞ、絶対イヤだからな」
「だって、おばさまはもう車で帰っちゃいましたよ?」
「だからって、なんで俺が。いいから部室の隅に置いとけよ。クーラーボックスなんてそう使わねえし」
「明日使うって云ってましたよ。ご親戚が集まって河原でバーベキューするって。羨ましいなあ」
「ハァ? ナニ云ってんだ、そんな話ねえぞ」
「寿が部活の間にやっちゃうの〜、って笑って云ってたわね」
「三井サンは抜きみたいっすよ、家族に嫌われてるとか? 迷惑かけたっすもんね」
 彩子と宮城が次々に追い打ちをかけ、三井は両手で顔を覆って言葉にならない呻き声をあげる。
「まあ結局、もう三井サンが持って帰るしかねえってこと。あ、俺はヤスたちと離れたとこに乗ってクーラーボックスの似合う三井サンを遠くから見守ってるから」
 云いながら、宮城は笑いを堪えているようだ。
「似合ってたまるかよ。おめー他人事だと思ってそんな冷てえことを──」
「質問す」
 居てもたってもいられず、上級生たちの会話に流川は割り込んだ。
 宮城や彩子の笑い声がぴたりと止まり、彼らは驚いた顔で一様に流川を凝視する。
 クーラーボックスのことよりも、サングラスの謎の女のことで流川の頭はいっぱいだった。若く見えたが、流川には女の年齢なんて見分けられない。"あれが三井の──?”というところで完全に思考は止まっていて、いまだクエスチョンマークが付いてくる。気になって仕方がなく、三人の会話を遮ってでも、疑問は晴らしたかった。
「あぁ? なんだ?」と三井が返した。苗字は呼んでいないが、流川がじっと見つめているので三井は正しく自分宛と受け取ったらしい。
「かけてる人すか?」
「あ? なにが」
 言葉が足りずに三井に聞き返され、流川は「サングラス」と付け足した。
「あら、流川も会ったの? そうよ、すごく綺麗な人だったでしょ」
 流川の疑問が伝わったのか、三井に代わって答えたのは彩子だ。
「すれ違った」
 流川は彩子に頷いて見せる。人の美醜にあまり関心を持っていない流川の目から見ても、確かに綺麗だったと思う。サングラスをしていたから目元は分からないものの、頭の先から足の先まで姿かたちがとにかくサマになっているという感じがした。息子である三井とはやはり共通点があり、今にして思えば、具体的にどこがとは云えないが少し雰囲気が似ていた。息子が母に似たのだろうが、流川にとっては息子の方が特別なので母親が三井に似ているような気がしてしまう。
「あ〜っもうマジで最悪だあの女、荷物は押し付けるし、人の学校まで来てやたら目立つし……」
 何がそんなに最悪なのか流川には分らなかったが、悪態を吐きながら三井は頭を抱えている。そこへ「しょうがないなぁ、じゃあこうしたら?」と両手を合わせて呟いたのは彩子だ。またなにか思いついたらしい口調で、何故か流川を振り返る。目力の強い彼女の視線が自分に向けられたことを流川は訝しむ。
「ねえ流川、帰りに三井先輩とクーラーボックスを自転車で家まで送ってあげたら? クーラーボックス持って電車に乗るのはカッコ悪くてどうしても先輩のプライドが許さないみたい」
 彩子の唐突な思い付きに一瞬面くらった流川だが、すぐに内心で彼女を称賛した。普通ならば面倒ごとを押し付けられたと思うところだろうが、流川にとっては有り難い提案でしかなく、多少は動揺もしているが、受け入れる気は充分に有り、気分は一気に高揚する。
 だが、彩子のちょっとした言葉が引っ掛かったらしい当の本人がすぐに喚き出した。
「あのな彩子、これはプライドがどーのっつう問題じゃねえんだよ」
「もー細かいわあ」
「想像してみろよ、あんな嵩張るもんをだなぁ──」
「いーすよ、送るくらい」
 流川は三井の主張を途中で遮った。彩子に答える形でありつつ、三井に対する宣言でもある。
 三井の云わんとすることも理解できるが、もはやそれはどうでも良く、彩子の提案に流川が首を縦に振ればすべてが解決するのだ。
「おめー、本当に分かってんのか?」
 だが、三井は後輩の即答を訝しんでいる様子で、眉間に皺を寄せて流川を見つめている。嫌がる態度を見せるフリをするのも忘れて即決してしまったことが拙かったのかもしれない。
「もしかして、押し付けられてんのが分かってねえとか?」
 三井が再三確認するまでもなく、もちろん流川は理解しているので「分かってるけど別にかまわねー」と答えた。今更後戻りも出来ない。
「……マジ?」
「ウソ、ホントにいいの?」
 三井も彩子も少し驚いたように返してくる。彩子のその態度については、自分で提案してきたくせに、と流川は思う。
「部活の後のくったくたの身体で俺を送れんのか? っていうか、おまえ俺んちが鎌倉だって知ってんの? 結構、坂あるぜ」
 送られる側の三井に至っては何故か偉そうだ。
 三井が鎌倉住みであることはなんとなく知ってはいた。だが、どこだろうと別に流川は構わなかった。
「坂は慣れてる。家は知らねーけど、指示してくれればいい。それか、自分が前に乗ったら」
 乗り気な素振りをあまり見せない方がいい。流川はそう判断し、怪しまれないよう、声のトーンを抑えながら云うと、何故か彩子が近寄ってきて背中をバンバンと勢いよく叩いた。
「偉いゾ、流川! 成長したな!」
 褒められたようだが、実際のところこちらから飛びつきたいような話だ。流川は彩子には今まで何度も世話になってきたが、今日ほど感謝したことはない。
 自転車と云えば二人乗り。
 それはつまり、二人きりの時間が約束されるということだ。
 だが、肝心の三井がまだ疑り深い顔でこちらを見ている。信用出来ないのかもしれないし、あまり接点を持たない後輩が突然殊勝なことを云い出したので戸惑っている可能性が高い。
「別に、先輩が帰宅ラッシュに邪魔くせーの抱えて電車で帰りてーっつうなら、俺はそれでいーけど」
 警戒心の強い三井を動かすために、流川は駄目押しを試みる。心のままに振舞えば口元が緩みそうになるので、いつも通りの表情は決して崩さないよう心掛けながら。
「うっ……俺を見捨てんなよ流川、頼む送ってくれ」
 電車に乗った時の具体的なイメージが湧いて限界を超えたのか、ようやく三井は素直に泣きついてきた。
 フェイクで誰かを引っかけてゴールを奪えた時のような感覚が、流川の中に蘇る。
 さっき三井の母親に振り返せなかった手を小さく握って喜びを噛み締めたあと、流川はいつもと同じようにバスケをした。



 午後十八時半の太陽はまだ沈み切っていない。昼間と比べれば幾らか涼しくなるが、ここのところは夜になっても蒸し暑さが引かないことが多くなった。湿度を含んだ空気に包まれながら明度の変わっていく空をふと見上げれば、頭のずっと上をカラスが何羽か飛んでいった。いつもそうであるように流川にとって当たり前に在り続けるありふれた夕方の光景だったが、視線を戻して横を向けば傍らにはいつもはいない三井が立っていた。流川の日常をありふれない光景に変えて、伸びをしたり首をぐるぐると回したりして、退屈そうに流川の準備を待っている。
 部活を終えた流川と三井は駐輪場にいた。流川はキーホルダーひとつないむき出しの鍵を差し込み、後輪に引っかけていたダイアル錠を外して通学用自転車の向きを変える。いつもの手順で自転車を出す流川の近くに佇む三井の足元には青いクーラーボックス。
 後ろに乗るのだろうとばかり思っていたら、「俺が前」と三井は主張した。三井にとっては「ダセー。持ちたくねえ」モノであるらしく、よって、流川は荷台に座り、空のクーラーボックスを肩から背負った。重くはないが、多少後ろに重心を引っ張られる感覚はある。
 流川の準備が整うのを見届けた三井が、ハンドルをふらつかせながらペダルを漕ぎ出した。
「うっわ、おまえ、重いんだよ」
 そう云われても、と流川は肩をすくめる。ハンドルがうまく扱えないのか確かにノロノロと危なっかしいので、なんなら運転を代わってもいいのだが、当の本人がクーラーボックスを持ちたくないと頑ななのだから仕方がない。
「俺、自転車漕ぐのなんていつ以来だ……?」
 自問する三井の背中のワイシャツや後頭部に視線を動かしながら、流川は密かに深呼吸する。独り占めしたシトラスの香りを嗅いで、腹の奥がまたしてもくすぐったい。
 それでも、三井がそばにいることにまだ現実感はない。内心ソワソワした感覚はあるのだが、三井と一緒に帰ることにまだ頭がついていけていない。
 ふらつく自転車は正門を超えた。自分の自転車の荷台から見る風景が、妙に新鮮だった。夜へと手を伸ばし始めた夏の空気を切るように、少しずつ速度が上がっていく。
「おらおら、そこ邪魔だ、離れろ、不順異性交遊すんなよ」
「あっぶねーな三井サン! フラフラじゃん」
 行く手に障害物があった。先に校門を出ていた宮城と彩子だ。三井が繰り出したやる気のない足蹴りが空を切り、その反動でますますよたつきながら横をすり抜ける隙に、流川は横目で宮城の様子を窺い見た。流川にとっては、本当の意味での障害物そのものがこの男なのだが、いま三井のそばにいるのは自分だという優越感が余裕となって、ふざけ合う彼らを見ても心は平穏だ。
「いいじゃない流川」
 そう云って笑う彩子と宮城はこうしてみると付き合っているとしか思えなくて、お似合いに見えた。二人を見て三井はどう感じるのか、流川は気にかかる。三井の宮城に対する態度は、流川から見て特別だから。
──いつからその特別は始まったのだろう。
 当然ながら、流川にはなにも分からない。
 はっきりしていることは、学校の中で宮城といる時の三井を見ると流川の胸が少し痛むということだけだ。なにかに敗北したように歯がゆい気持ちに苛まれ、割り切れない気持ちが生じる。それらを飲み込むしかない理不尽さに、溜息が出そうになる。
 彩子と一緒にいる宮城を見る三井も、自分と同じように胸が苦しくなるのかどうかを知りたいと思ったが、三井の後ろに座っていては表情も見えず、まったく掴めない。知りたいことは他にも色々とあるが、現状では流川にその術はない。
「飛ばすからな」
 感情の読み取れない平坦な声を出す三井に流川は「ウス」と答えた。二人を追い越した後から速度が上がり、石井たちや安田たちは後ろからベルで驚かし、赤木と木暮とは軽い挨拶を交わして、あっという間に部員たち全員を追い越した。普段ならば三井は駅に向かうのでひたすら駅前通りを抜けていけばいいのだが、今日は別だ。三井は道を知っている風に迷わず左折して、細い路地に入った。この辺りは店もない住宅街で、途端に辺りは静かになった。
「こっからが長げえんだよな」
 まだ走り出したばかりなのに、三井はすでにうんざりといった口調だ。疲れたら交代すればいいし、流川にとっては長く時間がかかる方が嬉しい。
 人目がなくなったので、少しだけ流川は身体を前に倒してみた。もちろん運転手に触れることは許されないので、“疲れてチョット前に寄っただけ”とか、”クーラーボックスに引っ張られるから前に重心を置いただけ”と云い逃れられる微妙な距離を保つ。接触とまでは云えないこんなにも控え目な接近でさえ、自分の中に小さな喜びを齎すことがなんだか不思議だ。高校に上がるまで、そんな経験をしたことがない。
「なぁ、おまえんちの母親って、どんな感じ?」
 雑談する余裕が生まれたのか、三井が尋ねてきた。少し考えて、流川は首を捻る。
 今日見た三井の母親と比べてみると、普通としか云いようがなかった。母親は専業主婦で、流川はよく知らないが妙にヒラヒラした服で踊るダンスを習っているところが少し変わっているくらいか。それと、息子とは違ってお喋りが好きだ。料理が上手で、手作りの弁当を毎日作ってくれる。朝からボランティアの用で出かけていって時折は弁当作りを休んだりもするが、それらも含めて本当に普通の主婦といった感じで、誰かに詳しく説明するほどの特徴はない。少なくとも、サングラスは多分かけない。
「……フツウ、と思う。どこにでもいそう」
 感じたままに答えると、「へえ、いいよな」と云って三井が溜息を吐く。
「うちはあんな感じだしよー」
「……サングラス?」
 確かに見た目は派手だったが、溜息を吐くほどのことだろうかと流川は訝しむ。
「それもそうだけど、とにかく目立ちたがりで気持ちだけはやたら若くて、危なっかしいっつーか」
「……じゃあ、先輩と一緒」
 自己紹介かと思ったので、そのまま口にする。
「はあ!? 俺はあんなチャラチャラしてねんだよ。これからはもうバスケと、あと……仕方ねえから、ついでに勉強も頑張る気でいるし」
 この決意表明は推薦の話だ、と流川は気が付いた。
「推薦、オメデトーゴザイマス」
 お祝いの言葉がまだだったので、三井の背中に向けて少し畏まった言葉をかける。
「バーカ、まだなにも決まってねえ。これからが問題なんだよ」
 三井は浮かれてはいないようだ。彩子たちと話していた時もそうだが、少しばかり意外に感じられる。もっと得意げに大威張りしそうなのが三井だ。
「……先輩、嬉しくねーんすか?」
 それはないと思いながら、つい不安に駆られて流川が口にすると、急ブレーキの音と共に自転車が急停車した。そのせいで勢いよく背中に鼻をぶつけてしまったところに三井が振り向いた。流川を見下ろしながら、「嬉しいに決まってんだろ!」と声高に本音を打ち明けてくる。
 その血色の良い顔を見て、流川は不思議に思う。嬉しいのなら、嬉しいと喜びを表せば良かったのにずいぶんと紛らわしい。バスケを続けたい三井ならそうに決まっているのに、他人事のように落ち着いていることにずっと違和感がある。
 ぶつけた鼻を押さえながら、振り返った顔にとりあえず頷いて見せた。嬉しいけれど、と続く言葉があるのではないかと感じて、流川は無言で説明を求める。じっと見ていると三井は再び前に向き直った。漕ぎ出すのかと思ったら、そうはしなかった。
「俺は、だな──」
 ハンドルに向けて顔を伏せると、小さな声で云った。
「あんま、熱くなって突っ走ると、焦って躓くことがあるんだよ」
 どこか恥じ入るような口調の三井に、ナルホド──と流川の疑問が少し解けた。経験則というやつだろうか。この人は、焦って後先考えずただただバスケをやろうとして却ってバスケが出来なくなった“どあほう”なのだった。忘れていたわけではないのに、最近の様子からは遠い過去だったため、意識に上ることが少なくなっていたが。
 云いたいことを云って気が済んだのか、三井がそっとペダルのポジションを変え、再び自転車が動き出した。もうさっきのように出だしからフラつくことはなかった。
「……先輩は、大学に行ってバスケをした方がいい」
 近い背中に呟いてみる。
「そのつもりでいるぜ」
 前にのめり勝ちな溢れる熱意とはまた少し違った、芯が通るような意志を三井の声に感じて流川は嬉しくなった。心の奥底に灯した炎があるのなら、それで十分だと思った。
 路地に等間隔に立つ街灯に照らされて、三井の髪が時々オレンジ色に染まる。いつの間にか陽はほとんど沈んでいる。髪を切って短くなったらずいぶんと色素が薄く見えるようになった気がする。そういえば、母親の髪も赤かった。
「先輩の髪の色、おばさんの髪と似てる」
「染めてんだよ」
「どっちが?」
「どっちも」
 遺伝なのかと思い何気なく口にしたが、三井は笑い出した。


 アスファルトの些細な凹凸に自転車が上下する度に、流川の背負ったクーラーボックスが小さく揺れてカタカタと音を立てた。
「あっちーなぁ」
 三井のけだるげな声を耳が拾いながら、ハンドルを握る腕に流川の視線は囚われている。この腕は間違いなく汗ばんでいて、触れたらきっとぺたりと流川の手に吸い付いてくるだろう。
(触りてー)
 突然沸き起こった欲望は自分に正直すぎて、内に秘めている分、余計に切実だった。汗ばんだ男の身体がやたらと気になってしょうがないだなんて本当に心外なのだが、こんなに近くにいたら仕方がない、と自分で自分を納得させる。
「……先輩のおばさん、手振ってた」
 触りたい葛藤を無理やりにねじ伏せて、流川は口を開いた。不意に思い出した、部活前の出来事。
「はあ!? なにやってんだいい歳して……」
 三井はまたしても憤慨している。
「いい歳?」
 若く見えたが、幾つなのだろうか。だが、年齢を訊くのは失礼な気がする。
「いや……まあ、けっこう若い時に俺を生んだから、なんつうか、気が若いままなんだよなー。親父は年上なんだけど、これがまた面倒な性格してて──」
 なにか溜まっていたのか、三井は色々なエピソードを話し始めた。流川が知る機会のなかった三井の家族の話をされるのが妙に嬉しくて、心の距離が近づいたような気がした。だが、家族についての話を一段落させた三井は今度は宮城の話を始めて、流川は再び心を閉じた。
 宮城と一緒に行った駅前のゲームセンターの話。
 球技大会後に、サッカーで大活躍だった宮城が三井のクラスで密かに騒がれていた話。
 無視は出来ないので適当に相槌を打ったが、いつも以上に抑揚のない声しか出なかったのは仕方がない。
 自分が三井のことを考えている間に彼は宮城のことを思い浮かべている。面白くないが、それが流川の現実だ。
 宮城の何が三井の心を引いたのだろう。おそらくは、宮城が三井を許し受け入れたことと無関係ではないだろう。そんな三井の容易さに流川は憤りすら覚える。そんな容易な男に惹かれてしまった自分だってどうかと思うが、それはそれとして置いておく。
 出会う順番が違っていたら、なにか変わっていただろうか。それとも、別の世界線の自分は三井に惹かれなかっただろうか。その方が良かったのかもしれないが、現実では間違いなく自分は三井に惹かれている。
 かごに無理やり突っ込んだ二人分の鞄が、飛び出しそうな段差を超えて踏切を渡った。自転車は江ノ電のレールとしばらく並走していた。疲れたのか、それとも話すことがなくなったのか、三井は途中からほとんど喋らなくなった。過密気味に立ち並ぶ家や店が流川の視界の中を流れていく。時々、どこかの家の台所から漂う匂いが空っぽの胃を刺激して腹が減っていることを思い出させるが、流川はずっとこのまま三井が漕ぐ自転車に揺られていたかった。無理な願いだが、胸に秘めるくらいは許されるはずだ。だが、三井はそんな気持ちなど知りもせず、生活音まで聞こえてくるほど家屋が密集した狭い道を飛ばしていく。
 なにか物足りない。せっかく二人きりになったのに、流川に対する三井の興味の度合いがなんとなく察せられてしまうことに、流川は少しだけ傷心していた。
 それならいっそ、と流川は景色から視線を外して、三井の背中に「宮城さん──」と呟く。
「ん?」と首を傾けた三井が、一瞬だけ流川を振り返る。その一瞬で車体が傾いだが、三井はすぐにハンドルを立て直した。
「──宮城さんと彩子先輩、付き合ってんすか?」
「なんだ急に。付き合ってねえぜ」
 三井は怪訝そうな声を出す。少しだけ、彼が興味を向ける枠内に自分が入り込んだ気がした。だが、まだ流川は満足していない。何を思いながら、どんな顔をしているのかはやはり見えなくて、つまらない。
「さっき二人で帰ってたし、休憩時間もよく一緒にいる」
「まあ、マネージャーだからな」
「……付き合えばいーのに」
「何回もフラれてるらしーぜ」
「いつまでもそうとは限んねー」
 人の気持ちは容易に変わる。嫌っていた相手を好きになったり、どうとも思わなかった相手に不意打ちで惹かれてしまうこともある。
(あんたも思い当たるだろ)
 三井はしばらく黙り込んでいたが、明るい声で答えた。
「ま、今はそれどころじゃねえだろ?」
 明るくあろうと努めているようだ、と裏を読み、思惑通りに反応する三井に、背中の内側が震えた。嫉妬よりも、喜びに近い感覚が上回っている。
「今だと、なにが問題?」
「バスケがあるだろ」
 湘北バスケ部はインターハイの切符をもぎ取った。今が一番大事な時なのは云うまでもない。だが、彩子はマネージャーだ。
「彩子先輩なら問題ないす」
 三井からは「そりゃあまあそーだな」と無難な言葉が返ってきた。その反応のなさに流川は空しくなる。
 自分の言葉に心を揺さぶられる三井の姿を見たいという欲求が、心の奥底からふつふつと湧いてくる。三井にとってのその他大勢の中から抜け出したい。頭の隅にちらつくもっと正しく健全な方法を押し退けて、目の前の欲求に流川は手を伸ばした。
「ホントはもう付き合ってて隠してるかもしんねー。先輩にも」
 少しずつ踏み込んでいくが、三井はほとんど動じる素振りを見せない。
「それはねえと思うぜ」
 自分は分かっている、と云いたげな淡々とした三井の声が我慢ならない。流川は自分を抑えきれなかった。
「もうヤッてるかも。先輩が知らないだけ」
「……おまえでも、やっぱそういうこと気になんのな」
 しばらくの沈黙のあとで、三井は云った。
 その辺に転がっている奴らと同じレベルだと云われた気がして、流川はすぐに後悔した。本当の興味は三井にしか向かわない。一向に振り向かない三井を傷つけようと躍起になったら、自分で自分を貶めただけだった。それに気付くと、途端にすべてが虚しさに変わる。
 三井は黙ってしまったし、流川もこれ以上云うべき言葉が見つからなかった。楽しいはずの時間は後悔に呑まれて、ゆっくりと残酷に流れていく。
 本当はもっと伝えたい言葉がある。だが、壊したくないものもある。今はまだ、三井の目に留まってすらいない。まだその時じゃないと、自分の心の防衛センサーが告げている。
 以前はこんな悩みを抱いたことがなかった。思うままに、流川はいつでも自由だった。努力すれば大抵のことはなんとかなったのだ。他人に期待するという経験がなかったし、愛おしいと思ったこともなかった。愛おしいのに傷つけてでもこちらを向かせたいだなんて、そんな大きな矛盾に直面したこともない。
「なあ」
 緩い坂道を下りながら、軽蔑されたかと落ち込んで沈黙を保っていれば、先に口を開いたのは三井だった。何度もしつこく宮城の話を繰り返したことを訝しまれて追及されるのか、それとも単純に小言を云われるのか、流川は身構えた。
「おまえ、胸とケツどっち派?」
 何を云われるのかと構えれば続く言葉がこれだったので、流川は守りに入った身体から力を抜いた。あまりにもくだらないが“意外と俗物の後輩”に合うような話を選んできたのかもしれないから、三井は悪くない。そういえば以前屋上で同じことを宮城にも訊ねていたような記憶がある。三井や宮城たちの間では下ネタなんて日常的に飛び交っている。三井と宮城に続いて流川も俗物の仲間入りをしただけだ。そう考えれば、凹んだ心も少し息を吹き返す。
「……俺は、胸もケツも興味ねー」
 正直に答えたら三井が怒り出した。
「ウソつけ!」
 健全な男子高校生にそんな答えはあり得ない、という口調で責められる。だが、嘘は云っていない。短い逡巡の後、夏服に包まれた目の前の身体を眺める。俺はコレ。
「……腰」
 前を向く三井にはバレないからと、目の前の腰を見ながら正直に答えた。コレが一番優先度が高い。部活の最中も何度も視線をとられた。引き寄せてみたいと思い、手が出そうになっても我慢しなければいけないことが辛かった。
「腰だあ? ……おまえ、なかなかマニアックなとこいくじゃん」
 マニアとそしりを受けても、あり得ないと引かれても、云い訳はしない。
「好きなもんは好きス」
 流川が含めた意味を三井はきっと理解しないが、口にせずにはいられない。
「俺、別にダメとは云ってねえぜ? 好みは自由だからな」
 深い意味など込められてはいない三井の言葉につい全部許されたような気がしてしまうのは、都合の良い解釈だと自分でも分かっていた。

おわり
★ちょこっと一言