屋上へ続く扉を開く前になんだかイヤな予感が頭を掠めたのは確かだった。それは理屈ではなく勘のようなもので、流川は窮屈なジャージのファスナーを胸の下まで下ろして寛げながら少しだけ逡巡した。それでも、後ろを振り返ればもう後がないと知り、他に道も無く、嵩張る画材の入った手提げ袋を抱えて重い扉を開いた。
最初に目に飛び込んできたのは、青と白の絵具を水でたくさん薄めて塗りつぶしたような六月の空と、まばらに浮かぶ綿雲だった。それから広い屋上に視線を巡らせると、地べたにだらしなく座り込んだ人物が目に留まった。踏み出しかけていた足が自然と止まる。自分が選択ミスをしたのだと知ったからだ。
(……やっちまった)
直感を信じるべきだった。あまりにも付き纏われて、苛立って判断力が鈍っていたのだ。流川は静かに深い深い溜め息を吐く。誰のせいでもなく、これは自分のミスだ。こんな風に晴れた気持ちの良い午前中、すぐに授業をサボりたがる素行不良の上級生が屋上に居るかもしれないと想定するべきだった。
「おっ、流川じゃん」
「おー、来たか」
一年生と同じく二年も三年も分け隔てなく今は授業中のはずだが、屋上で寛いでいたのはバスケ部の上級生の二人だった。ピアスをした目立つ二年生は、コンクリートの地面に後ろ手をついて流川を振り返っている。そしてもう一人は、フェンスの支柱に寄り掛かって座り込み、長い脚を持て余し気味に放り出した三年生だ。
宮城と三井──過去、この二人は険悪な仲だった。そう聞いている。喧嘩を売られた方と売った方であり、歯を折った方と折られた方でもある。それが今や、何故かすっかり意気投合している。
せめて、居るのがどちらか一人だったならまだ良かったのに、二人揃うとタチが悪くて、メンドクサイことこの上ない。
ニヤニヤと笑いながら手招きする上級生を前に、流川は扉を背にして足を止めたまま躊躇った。今更引き返そうにも、扉の後ろにはどこかのクラスの女子が居るので戻りたくない。手招きを無視して隅の方へ移動しようか、と流川は奥の方へ視線を移す。そちらには同じ一年生が数人陣取っているようだ。屋上に行くと云っていたクラスメイトの石井もどこかに居るはずだが、一体どうやって扱いの難しいこの二人から上手く逃れたのだろうか。それとも、彼らより先にここへ到着していて未だに気づかれていないのか。どちらにしても、石井は運が良い。
「ウソ、まさか俺らをシカトしよーとしてる? こっち来て座れって流川」
宮城が命令口調で云った。やっぱり、ここで逃げたら部活の時間にそれ相応の報復があるのだろうか。呼ばれるままに行くのは癪だが、行っても行かなくても、どちらにしてもメンドクサイことになりそうだ。
迷っている内に、背後で扉がゆっくりと細く開き、流川は溜息を吐いた。あれこれと考えたところでどう考えても後の祭りだ。少しでもマシな方を選ぶしか道はないので、仕方なく三井たちの方へ足を向ける。
扉を開けたのは女子生徒だった。背中に強い視線を感じるが、流川は無視して振り返らなかった。扉が閉まる音がしないので、女子生徒は扉を開けたまま流川を見つめるにとどまり、屋上には出てきていないようだ。
「聞いたぜ流川。一年はシャセーしまくりだって?」
いつにも増して滑舌良く宮城が云った。
「いーよな、授業中にシャセーだもんなぁ。おまえはここ座って俺らの前でカイて見せてくれんだろ?」
今度は三井が、良く通る声で流川をからかった。
彼らの云う通り、湘北高校一年生は写生大会の真っ最中である。
しかし、品性をどこかに置いてきたらしい二人組はそんな清々しさとはかけ離れていた。流川の仏頂面に、拍車がかかる。
「ア、後ろの女子は流川のトモダチ? ねえ、一緒にここ座ってく?」
宮城が女子生徒に目を留めたようだ。友達なんかじゃねーと思いながら釣られて振り返ると、シャセイシャセイと連発する二人に彼女は怯えた様子で、ふるふると首を横に振って拒絶した。
彼女は、写生大会が始まった時からずっと流川の後を付いてくるどこかのクラスの女子二人組の片割れだった。もう一人の大人しそうな方はあまり前に出るタイプではないらしく、顔を出さずに階段の方に居るようだ。
最初、流川は石井を含む何人かのクラスメイトと一緒に絵を描く場所を探していた。けれど、自分が彼女たちに付き纏われている事に気づいたので、石井たちと行動を別にした。付き纏う女子に戸惑った彼らが流川に気を使い出したのが分かったし、一人で行動した方が身軽でいいと思ったからだった。
落ち着ける場所を探して校内を歩く流川の後をしつこく追い続ける割に話しかけてくるわけでもない二人を、どうやってまけばいいかと鬱陶しく思っていた。あちこち行ってみたものの、良さそうな場所はすでにどこも他の一年生で埋まっていたので、結局流川は石井たちの後を追うように屋上を選んだ。広くて見通しが良く隠れる場所も少ない屋上は、他よりマシかもしれないと考えたのだ。
しかしまさか、もっと鬱陶しい二人組がここに居るだなんて予想していなかった。
「いいじゃん、おいでよ。こー見えてこの三年生怖くないよ」
「あ? 俺かよ」
三井を揶揄いながら重ねて誘う宮城から逃げるように、扉は重い音を立てて内側から閉じられた。彼女たちは屋上に足を踏み入れることもなく、流川はあっさり解放された。あまりに早い展開に驚いて、流川は扉を数秒凝視してしまった。今まで校舎を歩き回っていた苦労はなんだったんだろう、そう思った。
「ああなんだ、もうイッちゃうの。残念」
「てめぇは、ほんっとに最低なスケベヤロウだな。そんなだから振られんだぞ彩子に」
口の悪い言葉を浴びせながらも三井は目を細めて楽し気だ。それに対して宮城は慌てた様子を見せた。
「アヤちゃんの前で下ネタは云わねえすよ! 今のは冗談なんだからさあ、たまの下ネタくらい内緒にして見逃してよ」
「いちいち彩子におまえの下ネタ伝えねえよ。でもまあ彩子はおまえのスケベ心に気づいてると思うぜ。おまえの緩んだ顔を常に見てんだからよ」
「んなことねえよ、俺はアヤちゃんにはいつも真っ白な気持ちで接してんだから」
「ケツばっか見てんときあるじゃん」
「ねえよ! そんなことすんのはあんただろ!」
「俺はケツより胸派だし」
「は? あんたやっぱスケベな目でアヤちゃん見てんの?」
「彩子じゃなくて、女全般の話だよバカ」
「じゃあアヤちゃん入ってんじゃん……!」
下品な会話になるほど話が弾む二人を知っている流川が心底呆れつつ横に立って見下ろすと、彼らは口を噤んだ。なにも云わないが、“座らないつもりか?”と、無言の圧力をかけられているようだ。
見上げてくる四つの目に応える形で、流川は画材を地面に放り出すようにして座り込んだ。
「あんたら、ンなことばっか云ってっから、ここだけ人が居ねえんすか」
屋上の奥の方には他にも一年生がちらほらと座り込んで絵を描いているようなのに、バスケ部の凸凹コンビの周りだけはひとけがない。明らかに授業をサボっている上に見た目にも近寄りがたい雰囲気の二人なので当然と云えば当然だが、あからさまに避けられているようだ。つまりものすごく屋上内の人の分布が偏っている。この先も、これ以上この辺りに人が増える事はきっとないだろう。思いがけず快適な空間となっていたので、流川はここに落ち着くことにした。
「おまえなぁ、俺はおまえより二年も先輩でえれーんだぞ。あんたっつうな」
「俺も先輩だぞコラ、口の利き方に気をつけろよ。俺たちずっとここで日本の未来について語り合ってただけだぞ」
「ホントは彩子の話しかこいつしねえんだよ。退屈してたとこだから、いいとこに来たな流川」
「なんだよヒデエ、流川が居たってどうせ喋んねえすよこいつ」
実際宮城の云う通り流川は積極的に喋るタイプではないが、目の前で断定されると気に入らない。流川は宮城を軽く睨み無言の抗議をしたが、彼はへらりと笑ってそれを受け流した。
「目ぇ怖いっての。冗談だぞ?」
流川は返事をせず、不満な気持ちは溜息にして身体から追い出した。不思議なもので、酷い云われようでも彼らに対する憤りは長く続かない。慣れの問題なのか、毎日のように一緒にバスケの練習をしているせいなのか、はっきりとは分からない。
「なあ、絵なんておまえ描けるのかよ? すげえ下手くそっぽいよな、なんとなく」
場所探しだけで時間を費やしてしまったので、流川が床に放り出した画板に挟んである画用紙はまだ真っ白だ。手提げ袋の中には試し塗りに使うためのスケッチブックや水を入れたペットボトル、水彩絵の具セットが入っていた。
三井が勝手にスケッチブックを抜き取って中を開いた。
最近まで授業で描いていたのは、隣の席のクラスメイトだ。向かい合ってお互いを描くという苦痛な授業だった。その絵がまだ一ページ目に残っている。絵を描くのは嫌いだったし、云われるまでもなく下手くそだという自覚はあった。
「あー? 誰これ」
「……隣の席のヤツす」
「ふうん。似てんのかこれ? とりあえず、思ったよりは下手じゃねえな。でも上手くもねえか……中途半端なパターン。やっぱな」
「どれ? 見して見して」
三井のそばに宮城が這うように移動した。ピアスのある耳を三井の肩に寄せて、膝の上に開かれたスケッチブックを覗き込む。
(……近ぇ。ヘンな二人)
自分の絵が品定めされているというのに、流川の頭に浮かんだのはまったく別の事だった。
並んだ二人の上級生を、流川は観察した。身体の一部を密着させて、誰から見ても二人の関係は良好だ。
宮城は、もっと三井に対して強気な姿勢で接しても良さそうなものだ。そのくらい理不尽な目に遭わされただろうにと流川は思う。見た目に似合わず人が良すぎる、というのが入部以降確立された宮城に対する流川の評価だ。
当然ながら、宮城も三井も同じチームで戦っていくのだから妙な蟠りはない方が良い。二人の間だけで済む問題ではなく、チーム全体に影響は及ぶ。予選が始まっていくつかの試合をこなしているけれど、もしも彼らが険悪なままだったらとっくに敗退していた可能性もある。
ともあれ、宮城は三井に甘すぎる。それは確かだ。きっと涙を見てしまったからなのだろう、と見当は付く。あれが宮城の心を刺激したのだ。あの日、体育館で三井が泣き崩れなかったら、彼らの関係も湘北バスケット部の運命も大きく違っていたかもしれない。
後がなくなった三井が崖っぷちでようやく云った本心を笑うような人間はあの場に居なかった。それがすべてだ。流川だって宮城が三井を許してしまう気持ちがまったく解からないわけではない。三井が中学時代にどれだけのプレイヤーだったのかは、どうでも良かった。そんなにバスケを捨てられないのなら、やればいい。もう一度バスケをするだけで全部解決することなら、そうしたらいい。流川だってそう思ったから、何も云わず三井の復帰を受け入れた。
流川自身もあの時はひどい怪我を負ったが、復帰初日に謝られてしまったから、怒る権利は早々に放棄してしまった。
けれど、三井に対して自分がわだかまりを持っていない理由はそればかりではないようだった。謝罪も泣き顔も忘れてはいないが、流川は三井の笑顔を見てしまった。髪を切って体育館に戻ってきたあの日の朝、偶然居合わせた体育館で、バスケをするために久しぶりにボールを手にとった彼を見た。放ったボールが美しくリングに吸い込まれるのを見た。そして、自分だけが彼の会心の笑顔を見た。涙の後の笑顔が、流川の心を掴んだ。すべてはあの瞬間に居合わせた偶然のせいだ。
あの時、久しぶりに流川の感情が大きく振れた。知らない感覚が確かに腹の中に湧いて、体育館の中の空気が一変したような気がした。
「ところでさっきの女子さあ、おまえの親衛隊の一人だろ? 体育館によく来てるよな?」
宮城の頭を肩で受け止めたままスケッチブックから顔を上げた三井が、流川に向けて思い出したように口を開いた。
「え、そーなんだ? あんたよくそんな事覚えてるよね、女子にチェック入れてんの? 人のコト云えんすか」
(そんなの、知らねー)
三井は明らかに流川に云ったのだが、それに答えたのは宮城だ。だから、流川は心の中で言葉を返した。
「俺は人の顔覚えるの得意なんだよ。流川ぁ、感謝しろよ宮城に。こいつのエロい心が、おまえをストーカーから救ってやったんだぜ」
下ネタで女子を追い払ったと云いたいのだろうか。
「冗談でしょ、エロい気持ちなんか持ってねえよ。入学したての一年なんて、まだ中学生にしか見えねえじゃん」
「そりゃあ、まあな」
三井は同意し、流川は首を傾げた。流川を置き去りで二人の会話が進んだが、ストーカーという言葉が少し引っかかっていた。何も云っていないのに、あの場面を見てそこまで考えが及ぶだろうかと、不思議に思った。親衛隊とやらに属しているだけでは、ストーカーとも云い切れない筈だ。
そんな彼の疑問を読み取ったような顔で、三井が笑う。
「さっきさ、石井が云ってたんだわ」
「……なんて?」
やはり石井はこの二人の検問を突破済みなのかと、流川は要領の良い坊主頭を思い浮かべた。屋上の端で呑気に他のクラスメイトたちと絵を描いているに違いない。
「おまえが女子から逃げ回ってるって。どこのアイドルだおまえ」
「別に……逃げてはいねー」
「でも、ずいぶんしつこくされてたみてえじゃん」
「たぶん、あれでもう来ないんじゃない? 俺らのおかげで」
上級生二人は自分の境遇を憐れんでくれたのかもしれないと理解して、流川は驚いた。
ストーカー女子をからかって追い払うなんて、流川には絶対に思い付かない手法だったし、やれと云われても無理だ。
「女をドン引きさせんの、超うめーよな宮城は。新たな才能の発見だな」
「なんでそうヒデーことばっか云うわけ。俺は流川のために一肌脱いでやっただけなの! 素じゃねえの!」
自分のためにと云われて、流川は困惑した。頼んだわけでもない。けれど、結果的には助かっている。
「……どーも」
流川にしては珍しい言葉が出た。
フッと三井が鼻で笑った。
「やっと先輩を立てる気になったか。まあ、おまえもいろいろあって大変だな」
流川にしてみればそんなつもりはなく、先輩を立てようなどと思ったことはない。しかし、あえて否定する程の事でもなかった。
「どうよ、俺たち使える先輩ダロ? 後輩が困ってたって聞いちまったからなー」
「宮城のことは好きなだけ頼っていいぜ。俺はダメだけど」
「あんたってなんで急に裏切んの? いっつもズルイんだよね」
勝手な事を云う三井を宮城は上目遣いに見上げる。怒っている口調だが、目元は笑っている。スケッチブックは三井がすでに閉じたというのに、あれきり宮城はいつまでも三井に寄りかかったままだ。
流川はコンクリートの上に視線を落とし、フェンスの影が陽炎のようにゆらりと揺れる様子を、目でなぞった。菱形に並ぶ細い金網。これを絵に描いたらとても面倒だろうから、フェンスに関するものは構図から外そうと頭の隅に刻んだ。
「三年だからいいんだよ俺は。とにかく、困ったら宮城に頼れ」
「いやいや、そもそも流川が俺になにを頼むのよ。こいつが困る事なんてそうそうねえだろうし」
なくもないなと、流川は思った。
「……そー云うなら、じゃあ、ひとつ頼んでいーすか」
二人の言葉の応酬に流川は割って入った。
「あのな流川、三井サンの云うことはなあ」
「お、さっそくか」
「真に受けんなってば」
「いいだろ。云ってみ?」
「一時限目終わったら、起こして欲しいんすけど」
二人の上級生は云うべき言葉を見失ったらしく、黙った。
しばらくここで眠ろうと流川は思った。鬱陶しい付き纏いもなくなったし、写生大会なんて自由時間みたいなものだから何をしたっていい筈だ。
目を閉じて声だけ聞いていれば、今はとても平穏な平日の午前中そのものだ。
「来た早々寝る気か!」
「描けよ!」
「眠い」
二人に同時にツッコまれながら、流川はジャージを脱ぎ、それを丸めて枕代わりにして地面に横になった。真っ白な画用紙や水彩絵具の事は一時的に忘れることにして、頭を腕で抱え込んで落ち着く体勢を探る。今、自分に必要なのは睡眠だと思った。
「先輩を目覚まし代わりにするヤツもあんま居ねえよな」
半分呆れて半分笑っているらしい三井の声が、頭の上から降ってくる。
「だってこいつ流川だもん。まあ普通さ、せめて描いてから寝るって」
それでは遅い。自分は今すぐ眠りたいのだ。
写生大会は二限まである。残り少ない一限目はすべて睡眠に当て、起きてから本気を出しても十分間に合う。美術で良い成績を取ろうなんて思ってはいないから、適当に提出出来るものが描ければそれでいい。すでに一限の半分近くが経過しかけていてあまり寝られないが、この際少しでもいい。今の自分はとにかく睡眠を欲している。
「しょうがねえなあこいつ。ねえ、どうする?」
「ま、いいじゃん。俺、すっげえイイコト思いついた。俺が代わりにこれ描いといてやるよ」
(え?)
三井の思いがけない言葉に流川は目を開けた。すると、案外近い距離で三井が自分を見下ろしていたので息を呑んだ。地面に手を突いて這い寄った三井が、寝転んだ流川の上を四足歩行の動物のように跨ぎ、流川の視界を塞ぐ。空が見えなくなって、濃い影が流川の上に落ちた。
見上げた先の三井は流川を見てはいないため、逆に流川はまじまじと三井を見上げることが出来た。指一本どこにも触れてはいないが、下から見た三井の顔や、近い距離で感じ取った体温と息をする気配は、流川の体内を巡る血液の温度に影響を与えた。そうした外からは見えない変化に気づくこともなく、三井は身体を伸ばして画材道具を勝手に拾い上げた。
「俺って優しい先輩だろ? いつか恩返ししろよ。まあ、色くれーは自分で塗れ」
元の体勢に戻る途中、流川の目を見下ろしながら三井は笑った。
ほんの一瞬放心していた流川はすぐに立ち直り、とりあえず眉を寄せて顔を顰めた。取るべき反応の中で、きっとそれが一番自分らしく“見えるだろう”と選び取った結果の顔だ。
「三井サーン、絵なんてあんたこそ下手そう……」
「勝手に決めんな。結構うめーんだ俺は。それに、暇だしよ。どこらへん描くかなぁ」
ひどく楽しそうに三井は辺りを見回し始めた。構図を考えているのか。本気で提出出来る絵を描く気なのだろうか。
「安心しろ流川。ちょっと下手めに描いといてやるから疑われねえ」
もういいから好きにやらせればいいやと思えてきたので、流川は反論も口にせずまた目を閉じた。
どうせ──この先輩は変な絵を描いて自分を困らせるに決まっている。けれど断ったところで彼は描くと云ったら描くのだろう。機嫌を損ねてもメンドクサイ。三井の性格はだいぶ掴めてきた。
「どーせ三井サンあれでしょ、自分が一年の時に写生大会サボったから、参加したいんじゃねえの?」
「ちげーよ。俺が一年の時はこんなの無かったんだぜ?」
「ウソ、俺ん時はあったよ」
「マジで? 去年から? ってか無いのが普通だろー? 俺はこんなの小学生ん時やったぞ。まあ、絵はホント自信あるぜ、俺にちょっとやらしてみろっつうの」
「もー、マジで描いてやんの? じゃあ俺が暇になっちゃうじゃん。今から教室に戻れっての?」
画材の持ち主の意見を聞く気は二人にはないらしい。
体質的に、流川は目を瞑れば大概どこにいても眠れる。他人事みたいな内容の会話を聞きながら眠気に引き摺られてだんだんと頭の中がふわふわしてきたものの、二人のやりとりが意識を屋上に繋ぎ留めている。
「バカ、今から戻ったってしょうがねえだろ。おまえは俺の横でずっとなんか喋っとけ」
宮城に答えた三井の声のトーンがほんのわずかに上がっているような気がした。流川は目を閉じているから彼がどんな顔をしているのかは見えなかった。宮城がなにかを小声で答えたが、それも流川には聴き取れなかった。弾けるような二人分の笑い声が、あとから聞こえた。
宮城はお人好しで、三井は勝手だ。そんなに上手く嵌って仲良くなれるなら、出会った時からそうしていれば良かっただろうに。
胸の奥がざわざわと音を立てるから早く眠ってしまおう。流川は暗闇に向かって手を伸ばすように、少しだけ、眠るための努力をした。いつもなら、そんな努力の必要はないのに。
耳も閉じることが出来たならここはもっと平和な場所なのにと、眠りに落ちる前に思った。
「──流川〜、頼むよ、起きろってば」
横たえた身体を揺さぶられた。
遠くへ飛ばしていた意識が硬いコンクリートの上まで無理やり引き戻されたので、流川はとても不愉快な気分で目覚めた。
まあまあ良い展開の夢を見ていたのだ。そこを起こされた上に起きたそばから夢の内容を忘れていく。せめてその断片だけでも取り戻したかったのに、坊主頭に眼鏡という見知った顔が自分を覗き込んでいる事に気づき、流川は仕方なく身体を起こした。
「……ここに居たうるせーのは?」
そばに居た筈の上級生たちが消えて、居たのは石井一人だ。まさかあれも夢だったのかと思うほど、屋上は静かだった。
「先輩たちはもう教室戻ったよ」
あれは夢ではなかったのか。三井が自分の代わりに絵を描くと云い張った出来事。
「おまえ、どこにいた?」
流川は石井に訊ねた。
「あっちの、奥」
「なんでここいる?」
「適当な時間に起こしてやれって先輩に云われたんだ。なんか、流川を起こすのは絶対に嫌だって云ってたよ。三井さんに、寝起きになんかしたことある?」
「……別にしてねーハズ」
なんかってなんだろうと思いつつ、身に覚えがないので流川は否定した。欠伸をひとつして辺りを見回す。見たところ石井の画材はここにはない。彼は手ぶらでしゃがんでいた。腕時計を見ると、二時限目が始まってから半分近く経っている。チャイムが鳴った事には全然気づかなかった。
「そろそろ起きて色塗ったほうが良いよ。先輩が流川の代わりに下書きしといたって。でもさ、ちょっとこれ、問題あるかも……」
地面に放り出してある画板はちょうど流川の正面を向いていた。見れば、そこにはよくある屋上風景が描かれていた。鉛筆描きの雲があり、フェンスがある。ちょっと遠くのマンションやビルが並んでいて……下手じゃないけれど、別に感心する程は上手くない絵がそこにあった。一年生みんなが描いた他の絵の中にきっと難なく埋もれる、ちょうど良い絵だった。教師の目を引かず、地味で、提出するのに本当にちょうど良い。
(……あのヒト、ちゃんと描いたのか)
意外にも、三井はふざけなかったらしい。本人の自己申告ほど飛びぬけて上手いわけではないけれど、あえてレベルを落とすと彼は云っていたから本当の実力の程は測れないが、短い時間によくここまで描いたなとは思う。B2で描かれた線のひとつひとつを目で追いながら、自分の画用紙にこれを描いたのがあの気まぐれで五月蠅い出戻りの先輩なのだと改めて思ったらなんだか不釣り合いで可笑しくなり、流川は口元だけでうっすらと笑った。
絵としては、悪くない。
ただ──提出するには石井の云うように少し問題がある。手は入れないといけないかもしれない。
「三井さん、さっきまで一人でこれ描いてたんだって」
「もう一人居たろ?」
石井の言葉に引っ掛かりを覚えて、流川は目線を上げた。
「宮城さんだろ? 一限終わって先に戻ったって。三井さんは書き終わるまでここにいたみたいで。サボりすぎたって慌てて教室戻ってったよ」
「……へえ」
画板に目を落としたまま流川は石井の言葉に薄い反応を返した。画用紙の上を何度も目でなぞる。空と、フェンスと、遠くのマンションとビルと屋根……そして、コンクリートに寝転んでいる自分の姿。それが、画用紙の上に描かれたすべてだった。
地味で目を引かない良い絵だけど、この絵を描いている筈の本人が丸めたジャージを枕にして目を閉じて眠っている。この部分だけは、どう考えても都合が悪い。
「……ソレ、明らかに流川だなってひと目で分かるくらい特徴捉えてるよね」
「……そーだな」
「もっと絵が下手だったら誰か分かんないだろーけど……やっぱ、そこの部分はマズイと思うよ? 先生につっこまれるかも」
「だろーな」
紙の上に描かれた自分の姿から、流川は目が離せない。
「三井さん、なんで流川も描いちゃうかなあ。それってワザとかなあ? このまま提出したら面白いだろうっていう……」
「……かもしんねーけど」
これをどう受け取ればいいのかと、流川も考えを巡らせる。
地味な嫌がらせなのだろうか。それとも天然なのか。けれど、考えたところで三井の行動が流川に分かるわけもなかった。宮城のように、三井のことをなんでも知っているというような顔で隣に座っていられる間柄ではない。相手は先輩だし、自分はただの後輩だ。
流川は目を伏せて、この状況に溜息が出そうになるのを堪えた。
考えたって分からない相手のことに何故こんなにも思いを巡らす羽目になるのかと、流川は不思議だったし、理不尽だとすら思えた。自分らしくないことが最近は多い。それは簡単に許容してはならない領域に触れている。流川にしては珍しい事態なのだった。
「まあ、流川の描いてある部分だけ、消しちゃえば?」
眼鏡のフレームを押し上げながら、石井が云う。それが一番手っ取り早いと、流川も思う。寝ている自分の部分だけ、消しゴムで消してしまえばいい。紙の上から流川の存在を消すのなんて一瞬だ。石井に云われるまでもなく、単純なこと。後は手早く適当に色を塗って仕上げるだけだ。
(……だよな)
三井が描いた自分は、画用紙の中でもよく寝ていた。
自分が知らないうちに、彼にどれほど観察されたのだろうと思う。この時流川が見ていた少しだけ楽しい夢に自分が出ているだなんて、三井は気づきもしなかっただろうけれど。
「……おまえ、もう自分トコ戻れば。助かった」
「あ、うん。俺もまだ色塗り始めたとこで。じゃ、後で」
石井が自分の居場所へ戻り、流川は一人になって絵を眺めた。気づかずこのまま提出すると教師に呼び出されるかもしれないこの絵は、もしかすると先週三井に借りた雑誌を雨に濡らしてシワシワにしてしまった仕返しのつもりなんだろうか。それとも、一昨日みんなでシュート練習をしていた時にうっかり三井の背中にボールをぶつけたのが自分だとバレていたのか。球技大会で三井のクラスに得点を許さず勝利したことはまさか未だに根に持ってはいないだろうが、そもそも優勝したのは宮城のクラスだったので恨まれる筋合いもない。
ともあれ、これが流川に対する嫌がらせのつもりなら、三井は完全に失敗している。
流川はスケッチブックを拾い、真新しい画用紙を一枚破り取って三井の描いた絵と付け換えた。三井の絵は、とりあえずスケッチブックの間に挟んでおく。これは提出しないと決めた。その理由は、自分を消しゴムで消すのが嫌だから、としか云いようがない。
三井が描いた世界から自分を消すだなんて面白くない。
そんな世界は納得がいかない。
必然的に、流川は短時間でいちから絵を一枚完成させなければならなくなった。出来るだけ簡単な構図を探す。
とにかくフェンスが入らない構図であることが絶対条件だと思い、流川は自然と上空を見上げた。いつの間にか増えた雲が、頭の上をゆっくりと流れていた。手を伸ばせば届きそうだと錯覚するが、それは叶わないと流川は知っている。近いようで遠い空の下で、焦がれるような胸の疼きを、やり過ごすしかないことも。
おわり
石井には流川のお守がとても似合う。
宮城はアヤちゃん命です。