シトラスイエローの警告

「やる気ねえのな、おまえ」
 不意に背後から声をかけられて、眠気でぼんやりしていた流川の頭は一気にクリアになった。賑やかな声援が飛び交う中、雑音と判定して聞き流せない声だった。この声の持ち主は知っている。乾いた土の上にしゃがみ込んだまま首だけで振り返ってみると、予想通りの人物がゴールネットの背後に立って流川を見下ろしていた。
「……なにしてんすか?」
 Tシャツの胸の前で腕を組んで眉間に皺を寄せている三井を、流川は長すぎる前髪の隙間から見上げて尋ねた。突然現れた部活の先輩に驚いていないと云えば嘘になる。けれど、声のトーンも態度も、普段の流川と変わらない。
 変わらないように、あえて気を配った成果だ。
「ヒマしてんだよ。おまえほどじゃねえけど。つうかよぉ、なんでおまえ座ってんの? ちゃんと立って、前見とけ」
 7.32m×2.44mのゴールの前で、流川は出戻りの上級生の指導を無視してしゃがんだまま前を向いた。どうやら自分のチームの連中は守りが堅いらしく、流川がゴールを守っていても対戦相手は時々しか攻めてこない。三井の云う通り、実際のところ暇を持て余し、あまりにも仕事がないのでもう何度も欠伸を噛み殺している。サッカーの試合中とは思えない緊張感の無さだった。
 だけどこんなものは元々大した試合じゃない。
 流川は確かに、やる気がなかった。


 湘北高校クラス対抗球技大会は年に一度、五月の終わりに行われる。全学年混合で対戦するため、どの種目も大体優勝するのは三年生のクラスだ。お互いのフルネームすら未だ覚えきれていない入学したての一年生がこの行事で優勝出来る可能性はかなり低い。参加する意義は、クラスメイトと連帯感を深め結束を固めることに尽きる。だから、みんな真剣にやっているわけではない。
 所属する部活の種目には出られないので、流川はバスケに出られなかった。他に選べる種目は卓球とサッカーで、選択権は無いに等しかった。サッカーにはなんの興味も持たない流川を揺すっても脅しても、やる気なんてモノが出てくるはずもない。試合は十二分ハーフで、そのほとんどの時間を流川は相手チームではなく眠気と戦っていた。
「なんでキーパーなんかやってんだよ? おまえはフォワードだと思ったわ」
 ネットのすぐ後ろに三井がしゃがんだので、シトラスの香りが空気に乗って流川の鼻をくすぐった。部活の時に三井がいつもロッカーに入れている制汗剤だ。練習前や後にスプレーしているので、匂いを覚えてしまった。
「……ソッチもサッカーすか?」
「そう。うちのチームはおまえらの次の次」
 三井が不敵な笑みを浮かべた。試合を楽しみにしているらしい。
「手が使えるから」
「は?」
 流川は唐突に話を戻したが、三井には通じなかったらしい。彼は大きな目を更に大きく見開いて、問うように流川を見つめてきた。
「なんでキーパーか。手が使えるから」
 キーパーを選んだ理由はそれに尽きる。ボールを足で蹴るのは得意じゃないが、手でキャッチしたり弾くのなら自信がある。
 三井は納得したようにあ〜と声を上げたが、その声は大きくなった声援にかき消された。
「って、おい! んなこと云ってる場合じゃねえ、立て立て」
 云われなくてもそうするつもりでいたので、流川はすぐに立ち上がった。背後の三井を気にしつつ、ちゃんとボールの行方も追っていた。相手チームの背の高い生徒が猛然とゴールに向かってドリブルで攻めてくる。
 現在のところ得点は0対0。流川のチームの守備は固いが、どれだけシュートを放っても得点には結びついていない。相手チームの二年三組もあまり上手くないようで、数少ないチャンスにも大したシュートは打ってこない。退屈な試合だ。
 流川は少し前に出て、飛んでくるボールに備えた。



「なんか俺、相手が可哀想になってきた。座ってるよーなやる気のねえヤツにこうも止められんとムカつくだろうなぁ」
 流川が三度ほど相手の攻撃を凌いだ後、三井は云った。シュートを阻止する度に流川は女子生徒から黄色い声援を受けたが、三井がゴールネットの後ろでヤンキー座りをしているせいか、誰ひとり近くには寄ってこない。
「ラクショーす」
 流川は再びゴールの前でしゃがみ込んだ。
「あ〜腹立つな! おまえからゴール獲りてえ! ぜってー負けんなよ、俺んとこと当たるまで、ちゃんと真面目にやれ」
 正直に云うと早いところ敗退してしまったほうが楽でいいと思っていた流川だ。それを見透かしたように三井がそんなことを云うので、しばし考え込んだ。
「んじゃあ、あとでな」
 三井が立ち上がった気配に流川が振り返ると、三井は両手を頭上に伸ばして身体を解していた。しゃがんでいたから身体が固まったのだろう。Tシャツの袖から伸びた三井の腕の内側は日に焼けずやたらと白い。彼に屋外スポーツは向いてなさそうだと流川は思った。
「もー行くんすか?」
「あんだよ、話し相手がいなくなると寂しいか? ずっとおまえに付き合うほどヒマじゃねえぞ」
 話し相手が必要と思ったことは生きてきた中で一度もないし、寂しいことはなかったが、三井がそこに居ることを迷惑とは思っていなかった。もう少しそこに居ても別にかまわないのにと、流川は口にはせずに思う。
「さっきヒマだっつったでしょ」
「もー偵察は済んだんだよ」
 偵察だったのかと流川は呆れた。三井がそこまで真剣にこの種目に参加するつもりでいることが少し意外だった。
「球技大会に本気出してんじゃねえよって思ったろ、今」
「……別に」
 三井はすぐに流川の心を読んでくるので、度々流川は意表を突かれる。自然と、慎重に言葉を選んでしまう。
「やる時はちゃんとやるんだよ俺は。やりたくねえ気分のときは、最初から出ねえもん」
「……結局、気分次第?」
「いいだろ別にぃ。今日は、頑張んだから」
 要は三井の気まぐれなのだ。威張るようなことではないが、それならと流川は納得した。
「おまえも次の試合はちゃんと立ってろよ。味方が座ってんと、走ってる奴らの士気が下がんだろうが」
 あんたにそんな説教じみたことが云えるのかと、流川は若干の反発を覚えた。言葉では反論しなかったものの、背中は強張って反抗的な態度を示した。
 三井の指摘は的外れとは云い難くて、それがまた余計に流川を苛立たせた。
「ま、俺は別におまえのクラスのことなんかどっちだっていいんだけどよ。やる気ねえおまえらと当たっても、本気出したおまえらと当たっても、余裕で勝てっからな。一年が三年に勝つなんて有り得ねえし」
 三井の挑発的な台詞に流川の眉がぴくりと動いた。聞き捨てならない。
「んなの、やってみなけりゃわかんねー」
「そーか? まあ頑張れよ、楓ちゃん」
 馬鹿にしたように名前を口にされて、流川はいよいよ本格的に腹を立て、振り返って三井を見上げ睨んだ。自分の名前は決して嫌いではないが、揶揄に使われ易い名だということは理解している。三井が部活に復帰した日の朝、聞き逃した名前を再度聞かれて教えるのを躊躇したのは、三井に自分の弱点を教えるようで躊躇ったからだ。
(……あれ?)
 教えていないのになんで名前を知ってるんだと今更気づいて、流川は力の入っていた表情を解して首を傾げた。
「名前、ホントは知ってたんすか?」
「あー? おまえの下の名前なら、別に知りたくもねえのに勝手に耳に入ってくんだよ。おまえ有名人だな」
 なんだそーかと納得しかけた一呼吸の間に「じゃあな」と短く云った三井は、スクールジャージのパンツのポケットに手を突っ込んで校舎の方へ歩いて行ってしまった。云いたいことを散々云うだけ云って、偵察が終わったらさっさと離れていく長身の後ろ姿を未練がましく横目に映して舌打ちし、一体これはなんのための舌打ちなのかと自問しながら、流川は立ち上がった。
(絶対、あんたと当たるまで、負けねー)
 三井の姿は他の生徒に紛れてあっという間に見えなくなったけれど、残されたシトラスの香りが流川を奮い立たせた。

おわり
★ちょこっと一言