一時間目の授業の後、「廊下で三年生がおまえを呼んでるよ」とクラスメイトに耳打ちされて宮城の頭にはいつかの記憶が蘇った。懐かしく思えるほどこの嫌な記憶は古くはないから、自然と半眼になり険しい顔で宮城は廊下に向かった。
初めての時は、どこかのクラスの女子が告白のひとつでもしに来たのかと勘違いした。クラスメイトがまだ何か云いかけているのを無視して浮かれた足取りで廊下に出たら、待っていたのはごつい身体の三年生三人組だった。最近生意気だとか、挨拶がなっていないだとか、屋上へ連れて行かれ一通りの云いがかりをつけられた。面倒だったので適当に下手に出て、今すぐ部活に行かないとキャプテンが探しに来て面倒なことになると理由をでっちあげ、その時は無傷で逃げ切ることに成功した。
二回目の時は、宮城を囲む人数が前回の倍に増えていた。芸もなく連れて行かれた屋上では前回居なかったボスらしき男がやたらと憎悪の籠った目で宮城を見ていた。
向けられたあの憎悪の出所を、今は知っている。生意気で挨拶がなってなくて見逃せないくらいイケている下級生だから目をつけられたわけではなかったのだ。バスケ部で活躍して目立っていた、それが理由だ。そんなこととは知らずに、宮城はボスだけを病院送りにした。自分も入院したから結果的には相打ちみたいなものだったが、ただやられるばかりではなかったことに満足はしている。
そして仲間を連れて仕返しに来て体育館で暴れ回った、あの時の「ボス」であり「主犯」が、宮城を今また廊下で待っていた。
もう浮かれた足取りなんかにはならず、重りを付けているような歩調で廊下に出てボスこと三井の前に立つと、彼は絆創膏だらけの顔で無言のまま宮城を見下ろしてきた。先日対峙した時とは打って変わり、今日は勝気な顔をしていなかった。沈黙が深い。気まずい空気が二人の間に漂っているのは、これまでに起こった出来事を思えば仕方がないことだろう。
「三井サン……髪」
「ああ……。なげえと、邪魔だし」
自分で呼び出したくせに三井が黙っているので、仕方なく宮城が先に口を開いた。
彼が髪を切ったことは知っていた。チームメイトの安田にさっき会った時に教えて貰ったのだ。それでも、違和感は拭えない。
「今日……」
「ハイ?」
「朝練、来なかったろ……おまえ。どうした……?」
「えっ、ああ、朝練ね……ええっと」
妙にさわやかな頭になった三井が、あろうことか宮城を気遣うような事を云ったので困惑して口篭った。
三井は今日の朝からバスケ部に戻っているらしい。らしいというのは安田から聞かされた話であって、自分の目では見ていないから。実は入院している間に行われた英語の小テストを朝からやらされていた。それで、今日は朝練を休んだ。
「俺のせいか……?」
「え?」
「俺が部にいるから、来ないのかよ……?」
「え、ちょっと待って──」
三井は勘違いしているのだと、宮城は理解した。宮城が朝練に行けなかった理由の根本は確かに三井にあるが、気持ちの部分はまったく関係がない。
三井がずいぶんと殊勝な台詞を吐くので、宮城はますます困惑していた。これが、この間まで自分を目の敵にしていた男だろうか。水戸に殴られ過ぎて頭がおかしくなったんじゃないのかと、思わず本気で疑ってしまいそうになる。
「あのー、今日はちょっと野暮用で休んだだけっすよ」
「野暮用って?」
「いや、それはあんたとは関係ねえから」
「関係ないこと、ないだろ」
「入院してたせいで」なんて真実を説明するのも少し気がひけたので適当にごまかそうと思ったら、三井はわりとしつこいタイプなのか食い下がってきた。そこは納得して引けよと宮城は思う。
「だって、違うんだって」
「……俺、おまえに謝んねえと」
「それは……もう、いいって」
「今は、土下座するくらいしか出来ねえから。これで勘弁して欲しい。勝手なのは、分かってんけど……」
「エッ、ちょっ、なにやってんすかあんた」
三井が廊下に片膝をつくのを目の当たりにし、宮城は素早い動きで腕を掴みそれを止めた。
「三井サン……勘弁してよ」
この人はなんてずるいんだろうかと内心で思った。土下座するなら、何も云わずにさっさとやってくれたらいいものを、今から土下座するだなんて宣言されたら。
(止めるしかねえじゃん)
「こんなとこでそんなことされたら俺、血も涙もないひでえ奴ってみんなに思われんだよね。だからやめてくれ」
幾人かの生徒が廊下のあちこちに固まっている。素知らぬ顔をしているけれど、三井と宮城という因縁のある組み合わせをきっとみんな内心では気にして、注目している。
三井は苦痛を感じているような表情をして膝をつけたまま動かなくなった。
自分からは立ちそうもないので、宮城は力を入れて腕を引き上げ、三井を立たせた。
(でも、たぶん、この人のコレって無意識なんだろーなァ)
三井はずるい。けれど、きっと三井は意識せずにこんな甘えを見せてくるのだ。性質なのだと宮城は思う。何故そう思うのかと云えば、連れてきた仲間たちが三井に甘いように見えたというだけのことだ。あの集団の中で三井は下っ端ではなく常に偉そうだった。けれど尊敬されて慕われているというふうでもなく、今思えば、三井の子供っぽいわがままを許容できる懐の深い幾人かの人間が付き合わされていただけという感じだ。それ以外の面子は、面白そうだからと付いてきたオマケだろう。
きっとこの人これからバスケ部内でもわがまま云うんだろーな、と宮城は先行きを案じた。
「ちゃんと謝んねえと、俺の気が済まねえんだよ」
三井は引き下がらない。それならもっと別の方法で謝罪の気持ちを態度に示せと宮城は思った。
「これから俺たちチームメイトなんで、土下座とか無意味っすよね。そんなことよりもっと、あんたにはして欲しいことがあるし」
「俺にして欲しいことって、なんだ……?」
三井は、不可解だという顔をした。勝気な表情を今日はまだ一度も見せてこないので、なんだか調子が狂う。三井に対する違和感が消えない。ずいぶんと神妙な態度で心許ない声を出すので、宮城は自分が悪いことをしているような気になってきた。
「それは、もちろん──」
云いかけて、宮城は口を噤んだ。
三井に覚えるこの違和感の出所は、短い髪や殊勝な態度以外にもあると気づいた。
それを見つけ出した宮城は「ああ!」と思わず声に出して叫んだ。
「三井サン、歯が!!」
「え?」
「歯だよ。え、ソレ差し歯? え、昨日入れたんすか? 急に入れられんの歯って?」
「……ああ、いや、これは」
「え、この間はなかったじゃないすか」
体育館に乗り込んできた時、三井の前歯は折れたままだった。それを折ったのは宮城だ。
「……歯医者で型採ってあったから、昨日入れて……。あー、少し前に、出来上がってたんだけど……」
背中を少し丸めるようにして、自分の後頭部を忙しなく触りながら、三井はそう答えた。きまりが悪いのかもしれないと宮城は思う。三井の視線は斜め下に固定されて、宮城の方を見ようとはしない。
「えー、すげえな、本物と全然変わんねえじゃん。ねえ、よく見ていい? イーッてやってくれます?」
「ハ? ふ、ざけんな宮城」
宮城はふざけているつもりはなかったが、三井が素直にそんなことをするとも別に思ってはいなかった。ただ、友達にするようないつものノリが自然に出てしまったのだ。
一度緩めてしまった警戒は、どんどん緩くなる。三井にはまだ戸惑いが見えるが、なんだかんだで会話にはなっている。もう好きにやっちまおうかな、と宮城は思い始めた。土下座だとか、謝罪だとか、そういうことは今更どうでも良いことだった。どれもひたすら面倒くさいのに、三井は型通りのことをしなければ気が済まないらしい。
こうなったら自分のペースに巻き込んでしまったほうが、話が早い気がする。
「あ、そーだ。俺がソレ折っちまったんだからさ、金払わなくて良いんすかね?」
「バ──なんで、てめえが払うんだよ」
「ソレって、保険とか利いた?」
「ほ、保険は利く、ぜ。……けど、これは保険外ってやつ」
「保険外?」
「高ぇけど、その方が綺麗な歯だから、って……親、が」
「へえ、どのくらい高くなんすかね?」
「一本十万ぐらい……だったか」
「ハ? じゅうまんっ!?」
想像よりもデカイ金額に思わず大声を出した。教室の扉から数人が顔を覗かせこっちを窺っている。一本十万ということは、三本折ったのだから単純に計算して三十万円ということで。
この人がわがままで甘ちゃんなのは金持ちの家の子だからだ──宮城はそう確信した。
「三井サン……俺それは払えないや」
「だから、要らねえよ。大体、こっちがおまえに払う方だろ。おまえの歯も、綺麗になってんじゃん。どうしたそれ?」
三井が連れてきた一番強いのに、不覚にも前歯を折られた。けれど、今はもう跡形もなく綺麗なものだった。宮城は笑った。
「これはね、俺の歯は先がちょっと欠けただけだったんで。昨日、歯医者で補修みてえのして貰ったから。一回で綺麗になったんすよ」
歯を抜かれたら泣くかもしれないどうしよう、と思っていたけれど、歯医者は実に丁寧に歯の修復をしてくれた。痛くもなかったし、じっくり見ても分からないくらい自然な歯だ。それを鏡で見た時は心底ホッとした。
「それと、俺の方は入院した時も今回の病院代も、あんたんちに全部払って貰ってるんすよ。三井サンのおばさん、ウチに来て謝ってくれたし。入院中も、見舞い来てくれたし。すげえ綺麗なおばさんだよね。でもね、親に頭下げさせるのって、どうかと思うんすよ、俺」
「……わかってるよ」
「まあ、そーだとは思うんだけどね。ここに謝りに来ただけで、あんたにしたらありえないことって気ぃするし」
「しつけーな、わかってるっつうの。もう部活戻ったし……大人しくしてるよ」
だんだん、宮城は三井と話すことが苦ではなくなってきた。いつの間にかクラスの友人と話しているような気分になっていた。意外と三井はちゃんと反応して、まともに答えが返ってくる。前は話が通じる相手とは到底思えなかったのに。
たぶん、こっちが本来の三井なのだ。そして、少しでも隙間を作ってしまえばあとはもうすんなりと入り口が開く。そういう構造の人なのかもしれないなと宮城は思った。
「まあ、土下座はホント勘弁して。あんたにして貰いてえのは、こんな汚ねえ廊下に膝をつくことじゃねえんだよ」
「だから、ソレ話が途中だったろ。俺はなにすりゃいーんだよ」
「身体で払ってよ」
「オイ……」
三井が眉間に深い皺を刻んだ。緊張したように息を詰めている。
「あのねえ。バスケのことに決まってんでしょーが」
厭そうな顔で高いところから見下ろす三井を、宮城は見上げる。
「俺も行きたいんすよ、全国に。アヤちゃんを連れてってあげてえんだよね」
「……アヤちゃんて、誰だよ」
「ウチのすっげえカッコ良くて美人のマネージャーだよ。この間、見たでしょ。ちょっと、こっち来て」
宮城は三井の腕をとって引っ張りながら、教室の後ろ側の出入り口に向かう。
「おい、なんだよ」
慌てた三井に振り払われそうになったが、宮城は強引に連れていく。
教卓の前に彩子の後姿があった。一緒に居た友達が宮城に気づき、こちらを指差したので、彩子が振り返る。振り返った彩子は宮城と三井の姿を認めて一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに目を細め、口角を上げて女神のように微笑んだ。
「ほら、今日もアヤちゃんはイイなあ」
「あいつなら、もう朝練で会ったよ。謝ったし。俺、おまえのことカッコつけたヤツだと思ってたけど……ただのすげえバカだったんだな」
彩子を確認した三井が出入り口から離れて廊下に戻る。
「人のこと云えんすか」
後ろからついて歩き三井の背中に向けて反射的に云い返したが、宮城が考えていたのは別のことだった。「謝ったし」という三井の言葉を頭の中で反芻して、あの時のことを思い返していた。
三井の仲間が彩子にしたことは今でも許せないし、この先も絶対に許さない。けれど、三井がああしろと仲間に命じたわけじゃない。それでも彼が、彩子に謝ったと云い、彩子自身がそれを許すのなら、宮城だってそれを受け入れるつもりだ。
そういえば──と宮城はついでに思い出す。体育館で三井は彩子のことを好みのタイプだと云っていたような気がする。由々しき問題だ。
「一応云っとくけど、俺のアヤちゃんなんで」
廊下の片隅で、宮城は堂々と宣言した。
「別に聞いてねえよ。付き合ってんのか」
「ちっ──違うけど……今はダメでも、これからそうなるんだよ」
三井に痛いところを突かれて宮城は口籠った。何度か振られてはいるけれど、まだ全然諦めてはいない。
「なんだ、すでに振られてんのか? まあ、そーいうのは、諦めたら即終わりだかんな。粘ってると、相手が疲れて案外うまくいったりする」
「──そう! そうなんだよね!」
我が意を得たりという気持ちで、宮城は顔を上げた。心強い言葉を聞いた単純な脳がそれに反応して、神経細胞が幸せな物質を送りだし、心も身体も軽くなる。諦めるのはまだ早いと云って貰えたようで嬉しかった。この先、運命がどう転ぶのかなんて誰にも分からない。
「三井サンも、意外と良いこと云うじゃん」
「俺が云ったわけじゃねえよ。安西先生が──」
廊下の壁に寄り掛かった三井は下を向いて、そこで黙った。向かいに立った宮城は、木暮が云っていた昔の三井の話を思い出した。三井は、まるでそうは見えないけれどたったひとつの言葉を忘れられずに今日まで来た夢見る男だ。
そう思ったら、殴られて痛かったことも入院したことも欠けた歯もなにもかもが本当にどうでもいいことのような気がした。口元が緩んで、宮城はニヤニヤと笑ってしまった。
「なにニヤついてんだよ、てめえは」
見咎めた三井が、先輩の威厳を振りかざすように威嚇してきたけれど、少しも怖くはない。
予鈴が鳴って、三井が舌打ちした。周囲は一瞬ひと際ざわつき、そしてすぐにみんな無口になって、自分の教室に戻っていく足音と、椅子を引く不快な音ばかりになった。
三井が階段に向かい、その背中に宮城は云う。
「安西先生にさあ、これから恩返しすんでしょ、三井サン」
「は? それは……おまえに云われなくても」
足を止めて振り返った三井が答えた。
「うん、でもまあ、期待してるんで。中学の時すごかったんでしょ。俺、絶対インターハイ行くつもりだからね」
三井の恩返しは、部員全員の利益になる。去年はインターハイを狙うようなレベルのチームは作れなかったが、今年はそうじゃない。新入生にもひとり、すごいのがいる。だから三井が本気で部に復帰するつもりなら、狙うところは全国だ。
「……当たり前だろ」
ポケットに手を突っ込んだ三井が真っ直ぐに宮城を見ていた。
「おまえ、放課後……部活、ちゃんと来いよ」
「行くよ。あんたもね」
極端に動かすとまだ痛む顔を宮城は限界まで笑顔にして見せた。自分的には決め顔のつもりだったけれど、三井は一瞬引いたように眉を寄せて、すぐに階段を上っていってしまった。
(くっそー。引くなよ。あとで覚えてな)
どうせ二年もブランクがある三井の身体はなまっているに違いないので、厳しい現実を思い知らせてやろうと宮城は密かに決心した。話に聞いたところでは三井は相当バスケが上手いらしいが、実際にこの目で見なければ信じられない。
教室に戻ったら、彩子が何か云いたげな視線を送ってきた。
自分の机に戻りながら、宮城は三井のことを思う。初めから、部活の先輩後輩として出会っていたらもっと違った関係を持てたのかもしれない。今更どう思ったところで、仕方がないけれど。
(まあ、少し遠回りをしたところで行く先が一緒なら同じことだからいーか)
思い直して、宮城は彩子にピースをして見せた。
みっちーの家、金持ち。
でも、出来ればみっちーの歯は本物と遜色ない良い歯を入れていて頂きたいですよね。
差し歯は別に一生ものではないけど、何年かは使い続けるものと思えば、あの値段も出せるんじゃないかなあ。金持ちならば、きっと出す。