取り扱いにご注意ください

 誰よりも早く来たつもりでいたのに、体育館の扉はすでに解錠されていた。
 中は静かで誰も居ないのだと思った。念のために扉に耳を添えてみたけれど、ボールの音も話し声も聴こえてこなかった。それでもそっと扉に手をかけたのは、自分が部外者のような気がするからだ。心臓が、まだ少し速い。ここに来る前に部室に入って、着替えをした。その時から、ずっとこんな感じだ。
 部室ではどこに荷物を入れようかと悩むこともなく、すでに三井の名札が付けられたロッカーがあったのでそこに荷物を入れた。名札の文字は綺麗だったから、木暮かマネージャーの女子が用意してくれたのかもしれない。
 部室のある棟から廊下を通って体育館に移動する間は、なるべく何も考えないようにした。電車の中ではくだらないことをあれこれと考えて気分が悪くなったから、学校に着いてからは考えることを出来る限りやめた。考えたってもう後戻りはできないし、どうせろくでもないことばかり思いつく。
 気分が悪くなったのには、たぶん睡眠不足も影響している。調子は万全とは云い難いけれど、バッシュを履いたら気持ちが切り替わった。もうやるしかねえよな、と三井は思う。体育館に入ってしまえば、ボールを手にすれば、後はきっとなるようになる。
 扉の前でいよいよ覚悟を決めた。耳を当てて誰も居ない事をもう一度だけ確認して、三井は中に入った。

 昨夜の空気が閉じ込められた体育館はやはりしんとしていた。早朝の体育館が少し寒いことを思い出し、懐かしさが湧いた。フローリングを踏み締めたら、バッシュのソールがキュッと鳴った。三井は奥まで歩いて行って、バスケットリングを見上げた。その角度からリングを見上げるのは久しぶりだった。
 ボールに触りたくなって、体育倉庫の扉へ目をやった。しかし思いがけず別のモノも目に入ったので心臓が大きく跳ねた。不審なモノが、フロアの端に落ちているのだ。
 誰も居ないと思って油断していたのでひどく動揺した。声もなく三井はしばらく立ち尽くしていたが、確認のためにそっとソレに近づいた。
 ぴくりとも動かず横たわるソレは、遠目に見てもヒト科のオスだった。冷たい床の上に横たわり、自分の腕を枕代わりにして固く目を瞑っている。ナイキのジャージ姿で、履いているバッシュもエアジョーダンだ。きっと拘りがあるのだろう。傍らには、バスケットボールがひとつ転がっている。
 そばに寄り上から見下ろして、三井はコレが誰なのか分かった。三井が体育館に乗り込んで行った時に一番最初に反撃してきた我慢の利かない男だ。新入生のクセに生意気に突っかかってきたが、実際やたらと強かった。彼に殴られたり髪を掴まれたりした顔を顰めたくなるような記憶が脳裏に蘇る。
 三井は眠る後輩をしげしげと観察した。顔には絆創膏が貼ってあるが、これは三井のせいだ。あの時はそれどころじゃなかったけれど、よく見れば顔のパーツがどれも整っていて、それが絶妙に組み合わさっている。要するに、絶対に女に黄色い声を貰うタイプだ。一年生なのに身長はすでに三井くらいあるし、どことなく大物感が漂っていた。そいつが何故か床で寝ている。倒れているわけじゃないのは、すうすうと聞こえてくる穏かな寝息から明らかだ。
(んだよ……なにしてんだ、コイツは)
 確か名前は……ルから始まった。だいぶエンジンがかかってきた朝一の脳みそから三井は記憶を色々と引っ張り出した。そう、確か名前は『ルカワ』だった。実際には名乗られたわけじゃなくて、そう呼ばれていたのを聞いただけだ。どんな字を書くのかは分からないけれど、横たわるコレがルカワであるのは間違いない。
 そういえば、つい最近この名を耳にしたばかりだ。昨晩、話を聞いて貰いたくて呼び出した堀田徳男が云っていたような気がする。
(あれ……?)
 ルカワだけは起こしてはならない、とか云ってなかったっけ?
 三井は連鎖的に他にも色々と思い出した。前に屋上で堀田たちを瞬殺したというバスケ部の部員、あれがルカワだったんじゃなかったか。なんでも、起こしただけで半殺しの目に遭ったと堀田は云っていた。三井はだらしないと彼を責めたのだが、体育館での竜とルカワのタイマン勝負を思い返せば、堀田を責めたのは間違いだったと思う。喧嘩慣れしている竜ですらああだったのだから、堀田たちでは力不足に決まってる。
(もしかして、ここでボールをついてその音でコイツが起きたら、それは俺が起こしたってコトになんのか……?)
 せっかくこんなに朝早く出て来たのに、どうしてくれる──そう思い三井は不機嫌に眉根を寄せた。床に一度もボールをつかないような練習をするためにわざわざ早く出てきたわけじゃない。かといって、もうこれ以上顔の絆創膏の数を増やすつもりもない。これ以上問題を起こしたら、安西に顔向けできない。つまるところそれは、ルカワを無闇に起こしてはならないからボールを使って練習出来ない、ということだ。
「くそ……なんなんだよ」
 大体、何故ルカワは体育館で寝ているのか。朝練の時間にはまだ早い。三井は始発で出て来たのに、何故こんなに早くルカワが居るのか。
 自主トレ? それなら何故寝ているのか。まったくもって意味が分からないし、迷惑なことこの上ない。
 蹴り飛ばして起こしたい衝動をなんとか抑え、三井はルカワから離れてとりあえず準備運動をすることにした。今出来ることはそれぐらいだ。その内、ルカワも自然に起きるかもしれない。
 とにかく堀田のアドバイス通り、ルカワの扱いには注意しよう。

 無のところから意識が浮上した。バッシュの音がする。良い音──そう感じた途端に目が開いて、即座に上半身を起こした。そして、一瞬の間に今の自分の状況を流川は理解した。自主トレで暗いうちから学校に来て、一通り動いたら眠くなり、体育館の隅で横になってみたらもう起き上がるのは不可能で、少しだけ……と自分に言い訳をして目を瞑った。そして今、目が覚めた。どのくらい眠ったのかはわからないけれど、眠りが浅かったせいか、流川はそれらの自分の行動を目覚めてすぐに思い出すことが出来た。
 けれど、起きてみたらスウェットにTシャツ姿の見知らぬ男が体育館の中に居た。今日はバスケ部が体育館を使える日だ。それなのに、いつの間にか入り込んで流川に背中を向け柔軟をやっている。
 見たことのない後姿だったので、無言のまましばらく観察した。相手は流川が目覚めたことに気づいていない。床の上に開脚しながら細い身体を真ん中から折って限界まで上体を倒している。身体が柔らかくてしなやかだ。時折床と触れ合った綺麗なバッシュが、キュッと音を出している。たぶん新しいバッシュだ。バッシュを履いているのだから、この男は男バレの奴でも男バドの奴でもない。
(ああ、そーいえば、キャプテンが)
 三井が戻ることになった、と昨日キャプテンの赤木が云っていたのを思い出した。ミーティングは静かに行われ、誰も口を開かなかった。流川も特に云いたいことはなかった。自分とは関係ない話のように思われた。今更三年生が一人増えようと、自分に波及することなんてなにもない。いつだって流川は黙々と自分のやりたい事をこなすだけだった。先日のように練習の邪魔さえされなければ、それで良かった。
 いつ戻るとは赤木は云わなかったが、この新しいバッシュの男が三井なのだろう。髪型が違うけれど、たぶん彼だ。
「先輩」
 背中ばかり向けられていて誰だかきっちり確認出来ないことをもどかしく思い、流川は呼びかけた。
 ふっと動きを止めて首だけで流川を振り返ったのは、やっぱり三井だった。いくつもの絆創膏が顔に貼り付けてあるのが、その証拠。
「──ルカワ」
「MVP」
 ほとんど声が被るようにして、お互いに口を開いた。先日の体育館での出来事を思い返して、流川の口をついて出てきた単語はソレだった。この言葉は三井の機嫌を損ねるものだったらしく、ムッとした顔を流川に一瞬見せた彼はまた背を向けた。それきり動かなくなったので、電池が切れた人形のように見えた。もう動かないのかと流川が見ていると、深呼吸をするように二つの肩が上下した。中学時代、本当にこの男が全国にチームを引っ張った原動力だったのかと疑いたくなるほど細く華奢な背中だ。
 それきりまた微動だにしなくなったので、視界から外そうとした途端、三井が振り返った。笑ってはいないけれど、不機嫌さは表情から消えている。彼は流川を真っ直ぐに見た。それはまるで睨みつけてくるかのようではあったけれど真剣そのものだったので、流川は顎を引いて同じような視線で返した。
 抑揚をあまりつけない口調で三井は云った。
「今日から、俺もバスケ部だ。あと、このあいだは悪かった」
 云い終えた三井は、また背中を向けて立ち上がった。流川は視線を三井の後頭部へ固定した。拍子抜けするほど真っ当な事を彼が云ったので驚いていた。初対面の時はあんなに頑なだったのに。
 自分とは違うタイプだ、と流川は改めて思う。
「ごめんじゃ済まねえけど、ごめん」
 更に重ねて三井が謝ってきた。
 流川は少しの間考えたけれど、ごめんと云われた時に返す言葉がどうしても思いつかなかった。
「俺、ボール取ってくるわ」
 思いつかない間に、三井は流川の返事を待たずに倉庫に向かい始めた。
 自分の云いたいコトだけ云ってさっさと行くなよと思い、流川は腰を上げた。エアジョーダンが床を擦り、控えめに音を鳴らした。
「これ使えば」
 眠る前まで使っていたボールを叩いて起こし、三井が振り返ったので、何かを云われる前に彼にそれをパスをした。
 いったい三井が、いつ以来まともにバスケをやっていないのかなんて正確には知らない。ただ、バスケをすることを彼が切望しているのは、流川にも分かる。
 三井の顔つきが変わる瞬間を、流川は見た。突然の流川のパスを胸の前で受けた三井はしばらくボールを持ったまま躊躇うようにしていたが、その場で何度かボールをついた後にドリブルでコートを移動して、ミドルレンジからのシュートを打った。
(綺麗なフォーム持ってんじゃねーかMVP)
 ボールがネットを揺らすのを見届けて、流川は思う。身体の軸はぶれなかったし、スナップはしなやかで、シュートモーションも速かった。それに加えて、リングを見上げる三井の会心の笑顔があった。どれもが、流川の目に焼き付いた。まるでなにか羽毛のような柔らかい毛先で腹の中をくすぐられたような、不思議な感覚が湧き起こる。
「お、入るもんだな」
 意外とのんびりした三井の声。ここには自分と、三井しか居ない。貴重な瞬間に居合わせたのかもしれないと思った。言葉にすれば、良いものを見た、という感じだ。
「俺の腕、そんな鈍ってねえな」
 独り言なのか、自分に向けられたものなのか、よく分からない呟きだった。だから流川は黙ったまま、別のことを考えていた。馬鹿な三年生が費やした無駄な時間について。
 もしも自分が三井の立場だったら、足が治ったらすぐにバスケットを再開しただろう。こんなふうに自分でややこしくした人生を送ることなんて絶対にないと思う。
 だけど、馬鹿だからって彼にバスケをやらせない権利なんて誰にもないし、遠回りしたからって世界が終わるわけでもない。

「ところで、おまえなんで寝てたの?」
「眠かったから」
「そういうことじゃねえよ……いや、そういうことなのか?」
「朝早かったから」
「ああ、もういいや。あとさ、ルカワって字、どう書くんだよ」
「流れる川」
「そういや、ロッカーにそんな名前あったな、あれナガレカワじゃなかったのか。下の名前は?」
「……楓」
「あ? あっ、どこ投げてんだよォ」
「手がすべった」
「で、なんつった名前」
「別に下は、いーんじゃねーすか」
「なんだよ、気になんだけどそう云われると」
「……それより。ソッチの歯の方が気になるんすけど」
「ああ……これ差し歯だよ。悪かったなあ、笑いたきゃ笑えよ」
「別におかしくはねえ」
 二人でしばらくパス練習や2メンをやった。三井はよく喋る男だった。それに合わせて流川もいつもよりは口を開いた。近くで見たら、三井の前歯は綺麗に揃っていた。可笑しいことなんて何もない。むしろ、歯が揃った三井は女子に好かれそうな甘い整った容姿をしていた。先日はそれどころじゃなかったから、顔の造形のことなんてあまり印象に残らなかった。それに、最後は血と涙と髪の毛で顔もくしゃくしゃだったし、前歯なんて三本も無かったので、ひどい有様だったと記憶している。
 朝の時間は過ぎるのが早く、一年生が三人、緊張した面持ちで挨拶をしながら体育館に入ってきたので練習を中断した。桜木以外の一年生が体育館に揃った。
 流川にしたのと同じように、三井は彼らにも声をかけに行った。三井の声が、遠くに聞こえた。しばらくすると誰かが笑っているのが聞こえた。誰でも良いけれど、笑う奴が居て良かったと流川は安堵した。腫れ物に触るような扱いは、きっとどんな扱いより残酷だ。
 笑い声を聞き届けて、ひとり残された流川は自分だけの練習を再開した。
 いつもそうしている。流川はひとりで居るのが好きだった。
 けれど今日はどうも集中力に欠けているようで、手応えはいまいちだ。それでもシュートを打とうとリングを見上げたら、さっき見た三井の会心の笑顔が頭の中に浮かんだ。
(……泣いた顔より、ずっとマシ)
 柔らかな羽が、また流川の腹の中を掠めていった

おわり
★ちょこっと一言
差し歯は、少し前にすでに型取ってたっていう設定です〜(超どうでもいい)