「行きたくねえなあ」
本来ならばこんな言葉を吐いていい立場じゃなかった。自分を取り巻く状況を本当に理解していれば、そんな言葉が口から出てくる筈もなかった。
けれど、本気で行く気がないわけではなかった。だから問題はなかった。彼の口から出てくる言葉が本心ばかりではない事を、当人も、周囲の人間も、すでに承知していた。前向きとは云い難い情けない台詞を聴いているのは、どうせこの世でたった一人だけ。明日になったら、もうこんな事を口にするつもりはない。だから三井は、横に座って自分を窺うように見下ろしている堀田に、もう一度同じ事を云った。
「行きたくねえ」
「どうしてだよ、三っちゃん」
本来ならば三井の台詞に一番キレてもいい立場の堀田が、ようやく問い返してきた。それを待っていた三井は安堵して話を続ける。
「だって、どの面下げてって感じだろ。あんだけめちゃくちゃやっといて」
「三っちゃんはさ、そのままの顔下げていけばいいと思うぜ」
「簡単に云うなよ……まあ、どうにもなんねえけどさあ」
絆創膏だらけの顔を背けて、空になった小さなスチール缶を三井は手の中で弄んだ。
小さな公園の片隅。闇の中で息を潜めて明日を待っている遊具の傍に三井と堀田は座っていた。植え込みの塀を背にして、三井は姿勢悪く地べたに座り込んでいる。近くに立っている外灯が、低い唸り音を上げ続けながら三井たちを見下ろしていた。以前からこれはこんな音を出している。きっと蛍光灯が古くなっている。
(もしもこれが割れて頭の上に落ちてきたらヤベーだろうなあ)
そんなに簡単に壊れたりしないと理解しつつ、頭の中を不安が掠める。今は怪我をするわけにはいかない。困るのだ。だって、もう今までのように身体を粗末に扱うわけにはいかない。明日から、またバスケ部に戻ってバスケをする身の上なのだから。
明日の事を想像すると胃が痛くなりそうだった。何度目か分からない溜息が出る。
「どうせ歓迎されねえのに、戻るなんてバカみてえだよな?」
「そんなこと云っても、戻るんだろ三っちゃんは」
「……おまえさ、体育館まで付いてきてくんない?」
「ウン、いいよ」
あんまりあっさりと堀田がOKしたので、三井は反射的に鼻で笑ってしまった。それで逆に、一人で行く決意をしっかりと固めた。
「バーカ。謹慎中に学校行って、見つかったらどうすんだ」
「放課後だろ? 体育館だけ行くよ。バイクだから別に面倒じゃねえよ」
「そういう問題じゃねーよ。ダメに決まってるだろうが」
「じゃあ、どうするか……あ、木暮に頼んで一緒に行って貰えばいいんじゃねえか?」
「いらねぇ。ちゃんと一人で行けんだよ。こんなの自虐的な冗談だろ。云ってみただけなのに、真に受けてんなよ」
「まあ、そうだと思ったけど。でも、時々三っちゃん本当のこと混ぜるから」
そうだ──自分だって知っている。
三井の口から出るのは確かに本心ばかりではないが、つまりそれは、本当のことだって云うという事だ。
(だから……これは)
もうどちらが本音なのか、自分でもよく分からない時がある。三井はちゃんと明日体育館に行くつもりだ。そのための用意はしっかり出来ているし、早くこの手でバスケをしたいけれど、それでも明日の事を考えると溜息が出るのだった。そして、眠れないくらいに緊張している。
だから真夜中に堀田を電話で呼び出した。三井が自宅に近いいつもの公園で待っていると、いつもの顔で堀田が現れた。彼は謹慎処分を受けて今日から学校に出ていない。それは三井のせいだったが、堀田はまだ一度も三井を責めていない。喋っているのは三井ばかりだ。
「行きてーけど、行きたくねえ」
どちらも本音だった。三井の中では嘘じゃない。
今日から部活に戻る事も出来たけれど、また作ってしまった顔の怪我の治療で病院へ行ったり、親と一緒にほうぼうへ出向いたりと、やる事が多くて忙しかった。学校で行われた話し合いの中で知った事実だが、退部届は一度も出していなかったから三井は今でもバスケット部に在籍していた。明日から、正式にバスケ部員として三井は体育館に戻る事になる。
土足で入った体育館で、自分が目を逸らしてきた物の形がようやく分かった。あとはもう、前に進むだけだ。それなのに、まだ足を踏み出す事を躊躇している自分がいる。いっそまた逃げてしまえば、こんな風に不安に思う事もなくなって楽になれるのだという誘惑が三井を唆し、それでもなんとか踏み止まっている。
「こえーんだよ」
闇に忍びこませるように呟いて、三井は顔を俯ける。真夜中だけの戯言。聴いているのは堀田だけだ。
以前のようにバスケが出来る自分なのかどうか、まだ分からない。もしも期待を裏切ったらという思いが頭を離れない。一番状態が最悪の時にバスケを離れたから、最後の記憶はろくでもない光景だった。安西の目の前で自信を持ってバスケ出来るのか。身体がちゃんと動くのか。何も分からない状態で、あそこに戻る事が不安でたまらない。
「でも、戻れない方がもっと怖いんだろう? そうじゃねえの?」
堀田は大きな体躯をぴくりとも動かさずに云った。彼は植え込みの塀の上に座って前を向いている。手を入れられた花壇の中では終わりかけのコデマリが白い花をまだ残していたけれど、三井も堀田もそんなものに興味はない。
三井は、なんでいつものように堀田が煙草を吸わないのかとふと気になって、その理由に勘づいた。屋外なのだから別に気を遣わなくていいのにと思いながら、湿気を含んだ夜の空気を深く肺の奥まで吸い込んだ。そして肩を上下させて息を吐いた直後に、三井は自分自身にとって重要な事を言明する。
「……そうだよ。選ぶ方がどっちかは、もう分かってんだ」
堀田たちや、会ったばかりの一年生まで巻き込んで、そうまでしても戻りたいと思った場所はただひとつだけ。怖くて弱音を吐いてはみても、自分はそこに絶対に戻るともう決めている。
「明日、安西先生にもっかい謝る。それと……宮城に土下座する。部活の前、部員にも謝って、あとはひたすら練習だけする。……そう考えてる」
「ウン。それがいいんじゃねえかな」
堀田が座り直した気配がしたので、三井は堀田の顔を見上げた。タバコが吸えなくて手持無沙汰だろうなと、見上げながら思った。
「三っちゃんあんま知らねえだろうけど……バスケ部の連中、なんか変なヤツばっかなんだよ。宮城はチャラくてどう見てもスポーツやってる感じじゃねえし、桜木は中学時代から超有名なヤバいヤツだったんだ。流川は見た目はヤンキーじゃないけど、本当に異様に喧嘩が強くてなんか妙にコワイんだよアイツ。一応云っとくけど、寝てるところは絶対起こさない方がイイぜ。俺はバスケの事はよく知らねえけど、聞いた話じゃバスケもすげえヤツらしい。だからさ……三っちゃんのやったコトなんてすぐに埋もれるくらい、あそこは変わった部なんだ。きっと、三っちゃんが一人増えたって大したことじゃねえ。安心して戻ったらいいんだ、三っちゃんは」
堀田が色々と並べ立て、それがどれも可笑しく思えたので三井は喉を震わせて笑った。大したことじゃない筈はないが、今は堀田の言葉をいちいち否定するような後ろ向きな気分とはいえなかった。
三井はジーンズに付いた砂を手で払いながら立ち上がった。
「まあ確かに、部の雰囲気はずいぶん変わってたな」
先生は見たところ変わりなさそうだったし、話し合いでも、彼は三井に対して前と変わらない対応をしてくれた。それがあれば十分だ。赤木は相変わらずかもしれないし、後輩たちはどうも生意気そうなヤツばかりだったが、大人しいヤツばかりよりは少しマシかと思える。やるからには、絶対にインターハイに出場したい。自分が入っても何も変わらなかったなんて先生にだけは思われたくない。そのためには、他の部員たちが腑抜けたヤツばかりでは困る。
「帰る?」
「そろそろ、寝れっかも。悪かったな、遅くに」
「別にいいよ。夜食にさ、ラーメン行くつもりだったからこのまま行くよ」
「ふーん……いいなあ。あれだろ、どうせまたあの子の店行くんだろ」
深夜までやっているラーメンチェーン店で、堀田の気に入っているバイトの子が毎週同じ曜日に深夜勤務で入っているのを三井は知っている。
「や、それだけじゃないぜ、本当に俺は、ラーメン食いたかっただけだ」
「とか云いつつ、いつも行くの同じ曜日だよな? おまえ、いい加減に声かければ」
「いいんだよ、俺なんかはさ」
「バイト終わる頃行って、危ないから送るとかつって誘えよ」
「……あの子さ、フリーターかな?」
「そーじゃねえの? とりあえず年上っぽい雰囲気してるよな」
「あ、三っちゃんも行く?」
「んー、いいや。しばらくは」
深夜ラーメンの誘惑に駆られつつ、断った。部活を再開したら、きっと夜遅くに遊ぶ気力も体力も残らなくなるだろう。けれどきっと、そんな事を天秤にかけたりする暇もないほどにバスケに集中する生活を送るようになる。今はそれを、心から望んでいる。
二人で公園の駐車場へ向かった。舗装された駐車場の隅に停めてある堀田のバイクが、ぽつんと一台闇に溶けていた。
「なあ俺ってさぁ、プライドねえか?」
「えっ、そんな事ないよ。三っちゃんはさ、うーんと──」
駐車場の途中に飲み物を買った自販機があり、備え付けのゴミ箱に二人分の缶を捨てた。堀田が考えるそぶりで眉を寄せ、厚みのある唇を開く。
「プライドがないわけじゃなくて……プライドも見境もないように見えるところに逆にプライドを感じるっていうか」
「……無理やり褒めなくていーよ、バーカ」
「いや、これは嘘じゃないんだぜ」と堀田が捲し立てる。よく分からなくなった三井は「もういいよ」と返し、そして笑った。
変な姿勢でずっと座っていたので、少しばかり身体が痛む。三井は長身を持て余すような仕草で伸びをした。そのついでに、欠伸が出た。今なら本当にすぐにでも眠れそうだった。
「じゃあ帰るわ。つまんねえ事ばっか云ったけど……ちゃんと、バスケやるから。おまえらに、後悔させないぐらいの気持ちでやるから」
バイクまで辿り着き、エンジンをかける堀田に三井は背を向けた。首謀者でもない堀田たちを停学処分にまでしておいて、中途半端は通らない。
「だから徳男──あんがとな。おやすみ」
どこかのタイミングで云わなければと思っていた一言をようやく云えた事に三井はホッとした。
返事は待たず、来た時とは違う足取りで駐車場を横切り三井は出口へ向かう。
「あ、三っちゃん」
「……なに?」
背後で自分を呼ぶ声に、三井は足を止めずに顔だけを向けた。ヘルメットを手にした堀田が三井を見ていた。
「その髪型さ、結構似合ってるよ」
エンジン音と張り合った堀田の声が、真夜中の駐車場に響いた。
涼しくなったうなじを隠すように手で押さえながら、そういう言葉をあの子に云って来いと、三井は云い返した。
堀田先輩、みっちーに甘。
彼の気持ちは別にラブじゃないのだろうけど、なんか知らないけど、ずっとこんな風にみっちーを甘やかしていくのだろう。
それにしても原作の堀田先輩の口調がおっさんすぎて、あのままの感じでは書けなかったです! ちょっと見返したら、洋平に対して「よかろう」とか云ってたよ。いくつなんだよ堀田先輩。
でも、みっちーと喋る時はちゃんと友達同士っぽくなって妙に可愛くなるんだよね。